− 第6回 −
第二章 光の河 2
「先生、さようなら」
「さようなら、あんまり夜遅くまで本読んでちゃだめよ」
 井沢先生は颯爽(さっそう)と自転車に乗って駅の方へと走り去った。それを見送ってタケルも自転車にまたがった。
 タケルの家は駅とは反対の方角にある。山すそを切り開いて、造成してできた住宅地だ。学校から家まで上り坂が続くので、変速機のないタケルの自転車では立ち漕ぎを続けることになる。かなりしんどい。
 二、三分も走ると汗が噴き出してきた。蝉時雨(せみしぐれ)がここかしこの木立(こだち)からしきりに降ってくる。北で育ったタケルには関西の気候がまだなじめない。Tシャツがまるで蝉の声のようにベタベタと体にまとわりついてくる。
 今日は、夏休み中にもかかわらず、図書室が開いてる日だったので、昼食後に出かけたのだ。当然授業はなかったので、一日中読書ができたタケルは大満足だった。
 最後の坂道を上りきって、墓場の横を抜けると桜が丘団地だ。タケルの家はその真ん中辺にある。
「やあおかえり」と庭に水をやっていた祖父(じい)ちゃんが出迎えてくれた。
「ただいま。あ、このにおい…」
「天ぷららしいぞ、今夜は」
「やった!」とタケルはガッツポーズを作りながら家の中へ駆け込んだ。
 靴を脱ぐと、いいにおいが鼻をくすぐった。誘われるように台所の暖簾(のれん)をくぐった。
「あらぁ、おかえりぃ」と祖母(ばあ)ちゃんが明るい声と笑(え)みで迎えてくれた。「もうすぐよぉ」
「ただいま! もう空腹全開だよ」
「あらまぁ、それじゃ早くご挨拶して、カバン置いていらっしゃい」
「うん」
 家の中は暗い。築三十年のこの家はあちこちに綻びが生じていて、毎年いたるところが補修の必要に迫られている。
 でも家を暗くしてるのはそのせいじゃないとタケルは気づいていた。母さんだ。
 タケルは廊下を突き抜けて、奥の間の扉を叩いた。
「母さん、ただいま」
「──おかえり」
 母さんとは、たいてい扉越しにしか話さない。食も細いからいっしょに夕餉(ゆうげ)を囲むことも最近は少なくなった。
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