食事後は恩智遺跡まで下り、ここから東高野街道に沿って、ひとつ裏手にあたる生活道路というべき住宅街の中を歩く。ここは車は地元の人が中心で比較的に少ないのだ。左の山の方は信貴山で信貴山へ上る道もある。風もなくてすっきりした気候の中を散策三昧になる。
* 道は柏原市になる ここで訪れる場所は青円印になる
(中)
やや疲れてきたかと思うが、歩く速度はそれほど変わらぬもの、元気な人ばかりだ。案内の担当も詳細な地図をグーグルの航空写真からコピーして利用している。曲がり角まで判るし、目印にできる建物なども確認できる。ただし、小さいものはダメだが。その点、神社仏閣は木が集まっているから、森林のあるところと判断しやすいのだ。
4.瑠璃光寺 (柏原市山ノ井町)
やがて、左に折れて急な坂道を上ることになる、次の目的地の瑠璃光寺だ。瑠璃光寺というのも各地にあるようで、山口県のお寺が一番大きいのか。ここ大阪柏原の瑠璃光寺(るりこうじ)は、曹洞宗永平寺の末寺で山号は「医王山」。 正式には「医王山薬師院瑠璃光禅寺」と称する。
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際に兵火に遇い、その後慶安四年(1651)に再建されるも境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂があるのみとなっている。
階段を上がってすぐ左手に小堂があり、内部に三体の石仏が安置されている。そのうち左と中央に石棺仏が安置されている。古墳時代後期の家形石棺の屋蓋部を転用したもので、横方向を切断して使用している。左が「菩薩形立像石棺仏」で頭部が欠損している。中央は「如来形坐像石棺仏」で頭部と上半身が深く彫りくぼめられている。いずれも平安時代後期の作とされる。何時頃から、どうしてここに来たのかは不明のようだ。
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3.恩智遺跡・恩智城址(八尾市恩智中町)
七五三参りが数組いた恩智神社の参道を下って、恩智遺跡の石碑を見る。”天王の杜”内に所在し、恩智神社のお旅所。出土遺構・遺物等から、約7.000~8.000年前には恩智縄文人が、現在の八尾市のほとんどが河内湾の海底であったと思われる当時の山麓台地で、定住を始めたと見られている。実際には石碑しかなくて遺跡とは気づかないのだ。
そして、近くの恩智城址にきて昼食場所とする。恩智城は中世、この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で堀をめぐらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかつては小島があったが、それはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。正平三年(1348)四条畷の戦いで、楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制頒布のとき、ここに小学校が新築されたが、これも今はない。
現在は堀も埋め立てられ、第一万葉植物園となり、二の丸は、城址公園として整備され、春には桜の名所として市民の憩いの場となっている。万葉植物園も小さいもので、これがと思いくらいに荒れ果てていた。食事はやや寒い中ながら日当たりのいい場所で、思い思いにしばし談笑する。