吉野の山の方に行かずに降りて吉野川沿いに歩いていくと、道の右手上方に満開の桜が見えたので寄る。ここが本善寺で、浄土真宗本願寺派の寺院(別称飯貝御坊)、山号は六雄山(むつおざん)だった。文明8年(1476)に、蓮如が飯貝の地に創建。し蓮如の子実孝(兼継)が入寺し開基となる。従来、吉野一帯は金峯山寺の支配下にあったためたびたび衝突を繰り返し、背後の六雄山に砦を構えて僧兵同士の小競り合いが絶えなかった。

 その後、吉野地方の本願寺末86ヶ寺を束ねて隆盛を得たが、戦国時代に入り本願寺が織田信長と対立すると、本善寺も門徒を率いて石山本願寺攻めに応戦。信長は筒井順慶に本善寺破却の命を下し、天正6年(1578)、筒井軍により堂宇の大半が破壊された。この時、下市の願行寺も共に灰塵に帰している。

 江戸時代に入って寛文年間(1670年頃)に堂宇が復興され、別格本山(中本山)として大和地方一帯の崇敬寺院となった。現在、境内には本堂のほか、欅造の山門、太鼓楼、本堂裏に蓮如墓所がある。また、蓮如以降の歴代法主の遺骨が納まる納骨堂がある。2010年、本堂・蓮如堂・蓮如堂拝堂・経蔵・鐘楼・茶所・玄関・客殿・御成御殿・庫裏・山門が国の登録有形文化財に登録された。との記録がある。

 歴史のあるお寺だったが、吉野の花見はここで満足できたことになった。ピンクの花びらが視界一杯に広がり花びらが少しづつ落ちてきて、その風情に日本はいいなあと思ってしまう力があったのだが。写真で見るとあまり感動できる雰囲気がでていないのが残念なり・・・




 
 

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 吉野の花見に行ったが、いい写真もなくあまり人の行かない吉野神宮に寄る。
吉野神宮は、第九十六代後醍醐天皇を祭神とする。明治25年(1892)社殿が竣工、後村上天皇が御自ら刻まれたと伝えられる後醍醐天皇の尊像が吉水神社から移されて御神体とされた。

  従って、比較的新しい神社になるが、歴史的には古いということか。後醍醐天皇は南北朝頃の立役者で、独断で指示して、配下を裏切り、新田義貞や楠正成をも見放し、実子まで裏切って死に追いやる非情な人間として描かれている。明治になって、天皇制を維持するために風評を避けることもあり神格化して建てた神社ともいう。

  吉野神宮の境内は、史跡名勝「吉野山」丈六平に鎮座し、約2万7千坪もある。境内から西方に金剛・葛城山、東方に高見山を望む景勝地である。大正12年(1923)に規模が狭少のため、社域を拡張し、神庫・手水舎・井戸屋形・絵馬堂を残す他はすべて取り壊され、大規模な造成をしてその跡地に再建された。そのために明治造営の社殿配置構成の面影は現在まったく失われている。現在の社殿は昭和7年改築されたもので、北面する流造の本殿・入母屋造の拝殿・切妻造の神門などが総檜造で造営された。 

24年の花見 (中)   吉 野