川俣 均委員長講演39年号)16演題概要  39年担当【O・T】  P11   

 

 

祖 先 祭 祀                              十一月・秋季大祭  一月号・397号

人間が動物と異なることは、人間は恩を知るということです。特に親の恩を知りこれに報いようとするのは人道の大本をなすもので、孝は百行の基といわれる所以です。現代の道徳のたいはいや世相の混乱は、この親孝行の観念が地におちているからです。

真のオヤ孝行は生きている親のみでなく、亡き親や先祖たちにまで及ばなければその意味は徹底しないのです。それでこそ祖先祭祀という顕幽一貫した報本(ほうほん)反始(はんし)(祖先の恩に報いる)の真のオヤ孝行が全うされるのです。

 

信    念                                  十二月・月次祭  二月号・380号

信念とは信じる心であります。先祖をまつり、また先祖の祖神たる氏神を祀って絶対の信仰を捧げるならば、氏子の魂は氏神や祖先のみたまと相通じ一体となるものがあり、そこに稜威信じて疑わずという信念が自然と涌いてくるのです。

四魂具足すれば、氏神は必要なときに、必要なもの、時間、人間を下さるのです。それもこれも、稜威信じて疑わずという固い信念があればこそです。

あるいは一歩ゆずって四魂具足に努力すれば氏神はかならず感合して稜威を下さるという確固たる信念がないとき、疑心、暗鬼、遅疑(ちぎ)逡巡(しゅんじゅん)(迷って決行しない)して四魂具足にふみきれず、自ら求めて

神から遠ざかるようになってしまうのです。

反 省 に つ い て   【一部現代文で掲載】B型式                  一月・月次祭  三月号・381号

反省ということは、自分の行いや心の在り方を自らかえりみることで、自分の反省を妨げるものは、

 ??(かたく)なな()(偏屈な本性)であることを忘れてはならないのです。

信仰生活を続けて行くからには、反省が伴わなければ信仰の向上は期すべくもないのです。

神は近づかず近づくべしでありますから、一方においては素直に自覚反省すると同時に、他方においては矯正すべき点はいさぎよく是正して神の御心に叶うように努力しなければなりません。   

だが」とか「しかし とかの自己弁解はしないで、素直に謙虚にそして勇敢に且つ自主的に反省して頂きたいのです。

 

八意思兼大神の御性格   【原文で掲載】A型                  二月・大神奉斎記念祭  三月号・381号

昭和三年二月四日に、畏くも八意思兼大神さまをこの本部の磐境に御奉斎申し上げたのです。

かくて千数百年来閉ざされていた真神霊界の扉が開かれ、ここに真の氏之祖ノ神奉斎という大御神業が事始めされるに至ったのです。

八意思兼大神さまは御神格は、もちろん四魂円満大具足にましますので、この点は四魂具足の氏神の総代表の神として絶対の条件を具えられているのです。

大神さまは、政治・経済・学芸・思慮・分別・知恵の神さまであられまして、人間生活のすべての部門に亙って兼ね具えておられ、このような神さまは、他にこれを見出し得ないのです。

 

誠  実  の  心                                 二月・月次祭  四月号・382号

誠実の心とは、「まごころ」であり、四魂具足の心であります。誠実であるためには、まず我欲我執

を去らなければなりません。

  誠実の心をば天照大御神は、()()き心と仰せられています。また文武天皇は(あか)(きよ)(なほ)(まこと)(こころ)、と仰せられています。また本居宣長先生は、まごころとは人の生れ付きたるままの心である、といっておられます。明治天皇の御製にも 目に見えぬ神に向かいて恥ざるは人の心のまことなりけり とあります。

   人間の誠実の心を妨げるものの第一は、欲望であり、誠実を助長するものは希望ですから、この欲望を希望に置き換えるのが真の四魂具足の惟神の信仰の在り方です。

神さまと人間との間柄は、誠実の心、すなわちまごころというただひとすじの線によって、しっかりと結ばれているのです。

 

氏 神 信 仰 十 講                           三月・氏神奉斎記念祭  四月号・382号

昭和三年三月一日に、はじめて氏神奉斎の神事が執り行われたのです。

氏神信仰に関する主なる十項目   

第一、氏神の本質を理解せよ

? 氏神はニニギノ命第一世の御子神である。     ? 氏神は四魂円満具足の真神霊である。

? 氏神の数は一六八柱でそれぞれ領域が神定されている。? 顕幽一貫して人間の魂を支配する。

第二、八意思兼大神と氏神の関係

八意思兼大神さまは、氏神の総代表として本会にお鎮まりになっておられる。

第三、??????

氏神は四魂具足の真神霊であり、氏子の四魂不具足に対しては一顧だにしないと仰せられるほど厳しいご存在である。

第四、氏神と祖霊との関係

祖霊は人霊として氏神と氏子との間に立たれ、その仲執りもちの役を果たされて、よく家のためまた 家族たちのために働いて下さる。

第五、氏 神 信 仰 と 祓

氏神はけがれを非常におきらいになるが、家の内外を清々しく祓い清めて、氏神のみいつが伊照り輝くようにすることが祓の根本精神である。

第六、神は近づかず近づくべし

罪けがれの多い現界の人間に対して氏神の方から足を運ばれる事はまず絶無と見なければなりません。これはどこまでも人間の方から氏神に近づくように、努力しなければなりません。

その努力とは一言にして申せば四魂具足のまごころに徹することです。

第七、御神業に奉仕せよ

八意思兼大神さまの大御神業とは、敬神崇祖・四魂具足というまことのかむながらの信仰によってこの日本の国を根本から建て直し、大祖神天照大御神の依さし給える真の祭政一致の

みこともち」の世の中になさんとするにあると拝されるのであります。

第八、邪神邪霊を恐れることなかれ

自分自身に罪けがれさえなければ邪神邪霊など憑依すべくもないのです。万が一、邪神邪霊の荒振るために災いを受けた場合は、原因結果の法則によって冷静にそして素直にその原因を反省懺悔して、邪神邪霊憑依の足がかりたる罪けがれを祓い清めればよいのです。

第九、日常の御奉仕について

真の和魂とは相手の気持ちになってみることともいわれてます。御奉仕に対して、真にまごころがあるならば、そのまごころは当然形の上にも現れるはずです。

第十、御神恩感謝を忘れるな

氏神は、大神さまの大みいつのまにまに氏子を守護する、御神徳を賜る、氏子は、氏神の守

護や大神さまの大みいつに対して心からなる御神恩感謝のまことを捧げる、こうして会は氏子の清らかな御神恩感謝によって経営されていくので、これがすなわち「神が経営する」ことです。

 

調 和 の 精 神                                 三月・月次祭  五月号・383号

四魂具足そのものが奇荒和幸各魂の 過不足のない調和(奇魂×荒魂×和魂×幸魂=四魂具足)から成り立っているのですから、四魂具足を(ぎょう)ずるには調和の精神を欠いては不可能です。

われわれは偉大なる調和の神、八意思兼大神さまの大みいつのまにまに、調和の信仰たる敬神崇祖の氏神信仰、絶対的道徳律たる四魂具足の神律にうかがわれる調和の真髄(威圧と憧憬の一体化)、みたまのふゆに顕現されたる調和感、みこともちの信仰と調和、禊と祓との不二一体化における、清浄調和感などを体得できる幸せを感謝しなければなりません。

 

神  人  感  合                               四月・春季大祭  五月号・383号

神人感合は、奇魂のはたらきによるもので、奇魂とは霊妙なはたらきを具えた神通力のことであって、神も人もこのはたらきをもっているのです。

われわれは神人感合によって、神の御意志のまにまに知らず識らず御神助を蒙ることができ、この神人感合には、間接感合と直接感合があり、間接感合ということは、ただ真の敬神崇祖の信仰にめざめて真神霊にまします氏神を奉斎することだけによって、蒙る御神徳のことです。

氏神さえおまつりすれば御神徳を頂けるのだ、などと氏神を軽々しく扱い信仰をたやすく考えて高慢になると、折角の氏神信仰も転落の氏神信仰となつてしまうのです。

直接感合ということは、このかむながらの大道を よく理解して 敬神崇祖の信仰を実践し、進んで

四魂具足という明き清き直き誠の心すなわち生得のまごころに徹するように努力することによって、神のみこころに叶い、神に祈願する場合に得られる感合で、この直接の感合は、四魂具足に努力している程度と、その祈願の筋が四魂の神掟(かみおきて)にどの程度叶っているかによって感合の度合が違うのです。

 

明 る い 生 活                                  五月・月次祭  六月号・384号

生活を明るくするためには、生活そのものを美しく正しくけがれのないものにして、お互いに気持ちよく日常を送ることが明るい生活をもたらす根本条件です。ここにいう明るいということは、ものにこだわらないで、自由にのびのびと、しかも相手の心にもなって思いやりのある明るさです。

故岸会長先生は、よく口ぐせのように、『朝起きたら鏡に写して自分の顔をよく見よ』といわれましたが、鏡ほど正直なものはないのです。心のくもりは顔かたちのくもりとなり、それはそのまま正直に鏡にうつるのです。

このように明るい心、暗い心は自然と顔かたちにも現れてくるのであり、幸福というものは、明るい生活を好んで訪れてくる『みたまのふゆ』であります。まことに明るい生活は氏神信仰という明るい信仰によらなければ、ほんとうの明るい生活は築き上げられないのです。

 

氏子と会員の同時原則                             五月・創立記念祭  七月号・385号

日本の神道をつらぬくものは、「みこともち」の信仰です。みこともち ということは上位の神のみこころを体して実行に移し、これを後のものに伝えて実行を促すことです。

したがって氏神奉斎をできるだけ多くの人に及ぼすことは、大神さまに対しそれだけ みこともちの信仰を果たすことであり、惟神会員としてなすべき当然の義務です。

氏子と会員の同時原則ということは、われわれは氏子として四魂具足に努力すると同時に、本会員としては御神業のために、すなわち氏神信仰宣布のために挺身御奉仕すべきことをいっているのです。       

神に二言なし、稜威信じて疑わず、まず何を措いてもこの同時原則の充足に努力すべきです。  

 昭和八年十一月十六日の御神告には

御神業は絶対服従にて神の御心と合致したる時御守護下さるものと決めてよろしいと仰せられているのです。

 

極小は()ではない                                  六月・月次祭  八月号・386号

四魂具足ということは決してむずかしいことでもなければ、また実行不可能なことでもないのです。四魂具足を不可能視したり、或いはむずかしくしてしまうのは、氏子たる人間自身です。

四魂具足という「まごころ」の充足に努めるならば、たとえ一人であっても世の中はそれだけ四魂具足的に()くなります。次にわれわれは惟神会員として、一人でも多くの氏神信仰者を殖やすことです。

この点について平田先生は

「会員たるものは、自己の私利私欲、即ち自分の欲を先に解決仕様と思う心では、会員たるの価値はないのである。茲に於て会員たる者は、モットモット心を広くもって、自分一個の考えを棄てて日本人を導くといふ強い心を常に有って居って頂きたいのであります」 氏神信仰者が一人でも殖えれば、それだけ世の中は清まって四魂具足的によくなるのです。まさに極小は無でもなければ零でもないのです。

 平田先生のお歌

「為せば成り為さねば成らず成る業を 成らずと棄る人のはかなさ」

祖 霊 の 浄 化                                七月・月次祭  九月号・387号

われわれの古代民族は、氏神信仰によって崇祖を完成し、祖霊はそれぞれ所を得ておったのですが、  第二十九代欽明天皇の御代に百済から仏教が渡来して、このかた崇祖ということが大いに乱れるに至ったのです。

氏神は大和民族の出生に際しては、その出生児に四魂民族としての素質を有する魂を授けられ、また、われわれの死に際してはその霊魂を霊界に引き取って浄化再生の道を講ぜられるのです。

いわば氏神は顕幽一貫して日本民族の魂を支配されるのです。祖霊がその家の守護霊としてはたらくためには、まず、祖霊が浄化しなければなりません。

祖霊の浄化を促進するものは、なんといっても氏子の信仰向上ですが、同時に大切なことは、家庭信仰の一致ということです。

また、祖霊の浄化は、氏神の総代表にまします八意思兼大神さまの大みいつのまにまに、氏神の指導監督を得て成し遂げられるということをつねに忘れてはならないのです。

心 眼 心 耳                                  八月・月次祭  九月号・387号

氏神信仰をする人は、自分の先入観にこだわらず、体験を通じて、氏神或いは祖霊が、われわれになにをささやいているか、謙虚に耳を傾くべきである 氏神や祖霊声を聞くためには、心眼(しんがん)心耳(しんじ)(物事を鋭く見極める力)によらなければならないのです。心の目で見、心の耳で聴くことは無限です。

言訳や理窟や先入観があっては、氏神や祖霊の声を聞くことはできないのです。

神さまはお見とおしであり、誰が見ていてもいなくても、神さまだけはちゃんと見ておられるのです。

自分は神さまと向い合って行動しているのだという確固たる信念があるところに、心眼心耳の境地が開けてくるのです。

 

 

さ ち の 信 仰  【古代人の信仰】                     九月・月次祭  十月号・388号

三河と遠江と信濃の国境に日本の古い習慣が残されている。その地方の猟師仲間では、弾丸(たま)について特殊な信仰をもっていて、習慣として弾丸の最後の一発は、必ず残して置かなければ成らないと信じている。これを撃ちきってしまうと、その者は猟をする力を失って獲物を獲られなくなるのだという。

 それを しやち が切れると称する。その しやち はまた 「さち」 に通じるのです。

四魂の信条における幸魂の信条に一脈相通じるものがあります。

本会の経営は神がする という御神示は、この さち の信仰に相通じるものがあると思うのです。

御神徳の全部をじぶんのために使い切らずに、その一部はかならず残しておき、これを御神恩感謝、

御神業奉仕(荒魂の行)という氏子としてまた会員として最も最高のことに使うならば、さち は切れずに幸福は多々ますます恵まれるに至るのです。    【本会の不滅物語にも通じる】

 

病気と祓いについて                                  十月・月次祭  十一月号・389号

本会の故岸会長先生は、病気ということについて

「人の生命というものは第一霊 体霊ともいって肉体の細胞の活動を促す霊と 第二霊意識霊とも称し

 出生と同時に氏の祖の神から付与され四魂具足し得素質をもっているとの?調和によって保持されるもので

第一霊と第二霊とが調和を欠けば病気となる。何人も病気になろうと思って不摂生をするものではない。

人間を不合理不摂生の行動に導くものは、その人に憑依している邪悪な第三霊 (経験霊) のしわざである」

このように第三霊の正邪善悪がその人の人生に至大の影響を及ぼすのです。

原因結果の法則により、病気という結果に対しては邪悪な第三霊の感合憑依という原因があることに深く思いをいたし、反省しなければならないのです。自覚反省すると共に懺悔のまごころを吐露してあますところがなければ、やがては善良な第三霊の交代が見られるのです。

しかしながら、頑固な第三霊はその感合の程度によっては、罪穢を祓い清めるという祓いの神事(かみわざ)

必要とするのです。この祓は、あくまでも自分の罪穢を自覚反省懺悔して、心からその罪を大神さま

あるいは氏之祖ノ神に侘びまつりその御稜威のもとに祓い清めるのです。

 

 

みこともちとかえりごと                            十月・神嘗祭祝祭  十一月号・389号

まことのかむながらの道とは、真の敬神崇祖の信仰のもとに四魂具足を充ち満たすべき道であります。この道をつらぬいている根本理念は、「みこともちかえりごと」 ということです。

「みこともち」 ということは、天津神のおことば、あるいはみこころを伝達(もち)つたえて実効すると同時

 に、これを次の代に承け伝えてこれが実効を促すことです。すなわちわれわれは、大神さまに対しまつりまさに みこともち であるのです。

かえりごと」ということは、天津神の仰せられたことを実行に移し、ことの経過や次第並びに結果などを御報告申し上げることです。お願いだけして、その結果につき成否を問わず御報告、すなわち、かえりごと もうさないのは、結局、神を使うことともなるのですから、お互いに注意しなければなりません。

日常の信仰生活において、氏神や祖霊にお願いしたその願いごとが叶えられた場合に、祈願成就の

次第を かえりごと して御報告申し上げるばかりでなく、神恩感謝のまごころが奉賽となって現われなければならないのです。

以 上

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