反 省 に つ い て   【39年3月号】  P07

 

惟神会委員長 川    俣       

 

 反省ということは、自分の行いや心の在り方を自らかえりみることです。反省が自覚を前提とするのは当然でして、自覚とは、自分の現在の状態を自分自身でよく覚り知ることです。

 人間は動物と異なり、自覚し反省することによって自分の生き方を向上させて行くのです。

まして信仰生活を続けて行くからには、反省が伴わなければ信仰の向上は期すべくもないのです。

しばしば申し上げておりますように『神は近づかず近づくべし』ですから、一方においては素直に自覚反省すると同時に、他方においては矯正すべき点はいさぎよく是正して神の御心に叶うように努力しなければなりません。

そこで考えられることは、反省を求められて素直に反省することはまことに結構ですが、ただ、人にいわれたからとて、無自覚に、何もかも自分が悪いのだとひとりぎめして、いちずに思いこむだけであるならば、それは反省ではなくむしろ無反省でさえあるのです。

反省ということは、冒頭申し上げたように必ず自覚が伴うものでなければなりません。どこまでも自主的なかぎりにおいてのみ反省といえるのです。自主的ということは、他からの干渉などを受けないで、自分で決定して事を行うことです。

この意味においてまず反省の仕方から反省して頂きたいと思うのです。

自主的反省、自覚に基づいた反省にしてはじめて真の反省といえるのであり、まことに自分をほんとうに知るものは、自分だけです。また、自分をいちばん知らないのも自分です。この矛盾を解決する方法はただ一つしか残されていないのです。それは極めてむずかしい道ですが、謙虚と素直ということです。

 独り坐して自己を反省するのも自分を知る一方法ですが、実際の仕事や他人との接触の中に絶えず謙虚な気持ちで自己を見つめて行くと、そこに真実の自分の姿というものを発見できるのです。

仕事はもちろん心のあらわれですが、仕事に対する自分の仕振りを反省することによっても、自分というものを見つめることができるのです。他人にいわれるまでもなく、進んで自分から自覚して悪かったと反省するたびに、その人は進歩向上して行くのです。

つまり悪かった点を自主的に反省することです。もちろんこの場合素直、謙虚が伴うべきことは前述のとおりです。これを消極的反省とでも呼びましょう。

これと反対に積極的反省ということも考えられるのです。

 消極的反省は自分の悪い点に対する反省ですが、積極的反省とは、自分の長所や美点を反省することです。悪い面をかえりみることはむろん反省ですが、よい面をかえりみることもまた反省といえるのです。ここでは長所や美点を反省するというよりもむしろ自覚認識するといった方が適当かもしれませんが、一種の反省である点にはかわりないのです。

つまり自分のよいところ、よい面を強調する、認識する、そして自信をつける、自信をもつことです。したがいましてかくあるためには、自己に対するいささかの過当評価(Over estimate)があってはならないのです。

 それこそ謙虚に自己の美点や長所を反省し評価して、自信をつけなければなりません。自意識過剰であってはならないのです。自己の欠点を矯正する反面、長所や美点を伸ばして行くところに人生行路の安全と幸福がもたらされるのです。

ですからかくあるためには、素直にそして謙虚に且つ自主的に、消極及び積極の両面から自己反省をする必要があるのです。だがとかしかしとかいうことばは人間界に通用しますが、真神霊界には、こうしたいいわけめいたことばはいささかも通用しないことを忘れてはなりません。

 人間は神に対し、神掟(かみおきて)によって、絶対服従です。

それほど神は絶対的であり四魂具足であられるにかかわらず、人間は相対的であり四魂不具足な存在であるのです。

失敗は成功の母』といわれてますが、このことは失敗は反省することによって償われてあまりあることをいっているのです。かつて第二次大戦終結直後、アメリカ軍はまっさきにドイツの科学研究所を襲い、その厖大な研究資料を米本国に送って検討調査したところ、実験材料一万件中成功していたのは僅か一件程度だったそうです。

 科学の国ドイツにして然り。世の発明発見のいかに難事たるかが想像されるでありましょう。このように科学の世界においても、失敗に次ぐ失敗に対し何回となく反省を繰り返すことによってはじめてその成果が得られるのです。われわれは求めて罪けがれや過ちを犯すものではありませんが、人間たるものの浅間しさ、ゆくりなくも過ち犯す場合が往々あるのです。そういうときにこそ、()()とか()かし(・・)とかの自己弁解はしないで素直に謙虚にそして勇敢に且つ自主的に反省して頂きたいのです。

かくして必要ならば、祓いも行って頂きたいのです。また祓(遠祓も含む)をして祓の効果がなかった場合は、その祓の不成功の事由を自覚反省してさらに祓をして頂きたいのです。

こうしてだんだん神に近づいてゆく機会に恵まれるのです。神は、人間の心からなる反省懺悔に対しては、おおらかにお許し下さるのです。もちろん犯した罪科の程度に応じて、償いをすべきことは、神代におけるスサノオノ命の故事に俟つまでもなく止むを得ないことでありますが、神は、人間のこの償いの気持ちに対しては、それこそ、おおらかなおおみこころをもって許され且つ守護し給うのです。

ですから、自覚反省するからには、罪科に対する償いを恐れたりこばんだりしてはなりません。いさぎよく償いを償いとして甘んじて受けようとするところに、真の反省というものが成り立つと同時に、稜威信じて疑わずという不屈の信念がみのって、神の御心に叶うところとなり、償いは禍転じて福となるのです。

そこで自覚反省し償いを償いとして甘んじて受けるためには、いささかも我というものがあってはならないのです。

 動物の世界には意識的には進歩向上ということがありませんが、人間生活にはつねに進歩向上がもたらされるのは、自覚と反省とが繰り返えされているからです。

大きく永い目で見ましても、どんな革命でも最初の激しい革命の炎を永久に吹き上げ続けることはできないのです。勢いよく吹き上げられた炎は、年月の経つと共にやがて衰えて行くものです。

フランス革命しかり、東欧州の社会主義革命もこの例外ではないのです。このことは、ソ連の共産主義革命についてもいえるのです。

しからば革命運動は全く停止したのかといえば、革命運動は停止したのでなく反省期に入ったのだといえるのです。つまり革命の理論だけでは現実には十分に対処していけなくなったのです。

換言すれば理論が現実に先立った時代は過ぎつつあるように思われるのです。

 以上は某大新聞の海外特派員の見方ですが、人間の行為というものは、個人的でもまた集団的でもかならず一度は反省期を通過せざるを得ないのです。否な、一度ならず数次の反省期をすら迎えざるを得ないのです。そこに人間生活、人間社会の進歩と向上が見出されるのです。

 人生に波があるように、信仰生活にも波は避けられないのです。この信仰生活の波をいかに乗り切るかについては、それぞれ工夫やら努力が求められますが、なんといってもいちばん大切なのは、反省ということです。つまり永い信仰生活においては一つの反省期という時期に見舞われるのです。

換言すれば自分の信仰生活をば、大きな目で且つ永い目で見て、その中に反省すべき何ものかを見出すことが大切です。毎日の反省、これももちろん大切です。例えば他人と競争する場合にも、たとえそれが善事を競争する場合でも、ともすると悪の芽が生えやすいのが人の世の常です。ところが、昨日の自分と今日の自分とを競う心には、そうした心配は少しも起らないのです。このように昨日の自分と今日の自分とを比較し競うためには、そこに心からなる自覚反省が必須の条件とされるのです。

 かくて毎日毎日の反省が積み重なって、永い信仰生活の進歩向上をもたらして、幸福の芽生えとなるのですが、人間はともすると多忙にまぎれ、或いは心ならずも毎日毎日の反省を怠り易いものですから、ここに、永い目で見て、また大きく見て、反省の時期というものをとらえて、ゆっくりとしずかに過ぎ来し方の信仰生活を反省する必要があるのです。

 前述の革命運動の例ではありませんが、われわれの入会当時の情熱というものは、そういつまでも入会当初のままで燃えつづけるものではないのです。生理学的にもまた惟神科学的にも緊張という同じ状態をいつまでも持続できないのです、信仰生活とてこの例外ではなく、入会当時の情熱の炎はいつか衰える時期があるのです。これが信仰生活における一つの波でありまして、換言すれば一つの反省期に突入したわけであり、この波、この反省期をいかに乗り切るかが、極めて大切です。それには、再言するとおり、素直なそして謙虚な自覚反省以外に方法はないのです。現在の自分は、過去につながった自分であり、また将来に通じる自分であることに思いをいたせば、この信仰生活の波を乗り切るためには、過去を反省して、未来に対する自己を建て直すよりほかに道はないのです。

四魂具足の氏神信仰にいそしむところの真のかむながらの信仰におきましても、永い間には波の起伏は避けがたいものがあるのです。

例えば、入信当時は誰でもその人相応に情熱の炎を燃えあがらせるものですが、入信後年月を経るにつれてこの情熱の炎が衰えてくるのは、生理的にも心理的にも自然の教えとも考えられるのです。

この時期は、他のことばで申せば信仰上の波であり危機 (ピンチ) です。この波、このピンチを切り抜けるためには、素直なそして謙虚な心をもって反省しなければならないのです。

 この場合の反省は、過去をかえりみて現在を建て直すと共に将来に備えるところとなるのです。

すなわち真の反省が、過去、現在、将来につながっている所以です。

氏神は四魂具足の真神霊にまします。ですから、氏子が神の御心に叶って御稜威を蒙るためには、氏子自身がまず四魂具足につとめることが先決問題です。

ところが四魂具足ということは、口先きでいうほど容易なものではないように思われますが、しかしかく思いこませるのは、その人の本心ではなくその人に憑いている邪悪な第三霊、第四霊、換言すれば四魂不具足を好む邪悪な霊たちの仕わざであることを、それこそ自覚し反省しなければなりません。

 四魂具足と反省……このことについて前古川委員長先生は『惟神科学、生命に関する研究』の中で次のように述べておられます。

『よく四魂具足の教えはむずかしい実行不可能なことだという人があるが、それは考え誤りであって、よく理解されればこの教えほど、やさしく践みやすいものはない。氏神・祖霊を神ながらに奉斎し、心から信仰を捧げるならば、きわめて平々坦々の日常生活のうちに実行できるのである。

即ちその時その時において昨日を反省(・・)しつつ四魂具足であると信じたことを実行に移していけば、四魂はだんだんと拡大され軌道に乗ってゆく。たとえ振り返ってみて、昨日の心持ち方が悪るかったと気付くことがあっても、昨日の行為はやはり善であり、その時においては絶対であったので、それ以上のことは如何に望んでも不可能であったのである。

昨日を反省(・・)して今日を改めるということは、昨日の行為を悪とするのではなく、今日は一歩進んだ心境で善を行わんとするのである。かくて人格はだんだんと向上してゆく。このような道程にある人は、どのようなむずかしい問題に直面しても決して思い迷うことなく最善の処置をとることができる。それは心に四魂具足すなわち真心が確立しているからである。この道こそ今日人類の最も渇望しているところのものである。これをわれわれは古代からもっていたことに今日ようやく自覚させていただいたのである』 (古川清治著「惟神科学 生命に関する研究」惟神会発行 33絶対的道徳律の項)

以上申し述べたように、四魂具足と反省は不可分でありまして、反省を忘れてわれわれの信仰の向上はあり得ないのです。

しかも反省には、過去の過ちを正して改めるための消極的反省と、自分自身の長所美点を反省して自信と信念を高める積極的反省とがあるのです。

しかしながらそのいずれにしましても、反省するからには、謙虚な素直な態度を失わず、そして過少反省でもなければ過大反省でもなく、いわば中道を行く自主的な自覚反省でなければならないのです。

さらにまた自分の反省を妨げるものは、(かたく)なな()であることを忘れてはならないのであります。

()は反省を妨害するばかりでなく、四魂具足をも阻害するものです。

 

                      (昭和三十九年一月十九日 八意思兼大神における講演要旨)

 

以 上

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