八意思兼大神の御性格   P12 

 

    惟神会委員長            均

 

 本日すなわちいまから三十六年前の昭和三年の二月四日は、畏くも八意思兼大神さまをこの本部の磐境に御奉斎申し上げたのであります。

かくて千数百年来閉ざされていた真神霊界の扉が開かれ、ここに真の氏之祖ノ神奉斎という大御神業が事始めさせられるに至ったのであります。

また氏神奉斎に先立ち神人交通という開びやく以来の神事が開かれて神界の諸事相が明らかにされたのも、実にこの時からであります。

 もともと故岸先生は大神さまをお探しして御奉斎申し上げて、大神さまを国民一般に信仰させたならば、大神さまの御神格、御性格からして、当時の思想国難、政治国難、経済国難を解消できるだろうとお考えになられ、平田先生に大神さまの御所在をお探し願ったのでありましたが、平田先生は、霊界には八意思兼大神という神はましまさぬ、恐らく天児屋命(あめのこやにのみこと)のことならん、とて岸先生の希望をとりあげなさりませんでした。

後日、本会の神人交通によりますと、八意思兼大神さまはどこまでも八意思兼大神さまであられまして、天児屋命などとは全然別個の御存在であります。

岸先生は、御神格、御性格から拝察申し上げてこれだけ立派な神さまは、かならずや

神国日本に神鎮まりますに相違ないことを確信されて、再度、霊界の平田先生に大神さまをお探し下さるようお願い申し上げたのであります。

 そこで平田先生は『岸がそれほど確信して望むならもう一度お探し申し上げよう、しばらく猶予せよ』といわれて御調査になられた結果、遂に霊界で大神さまにお目にかかることができたのであります。

まさに昭和三年一月五日のことであります。いろいろいきさつはありますが、大神さまは越えてその年の二月四日本会に氏神の総代表としてお鎮まり下さることとなったのであります。

 八意思兼大神さまは(以下大神さまと申し上げる)御神格は、もちろん四魂円満大具足にましますのであります。この点は四魂具足の氏神の総代表の神として絶対の条件を具えられているのであります。また四魂円満大具足にまします天照大御神のかつての相殿の神としての条件をも十二分に充たされることと拝察申し上げるのであります。

 次に本文命題の大神さまの御性格であります。大神さまの御性格とは、大神さまに特別に(そな)わっておられるおはたらきとか、おちからとでも申し上げるべきものでありまして、御性格というふうに人間並みの或いは人間的のことばを使うのは恐懼に堪えない次第でありますが、他に適当な語が見当りませんのでお許しを願う次第でございます。

 さて大神さまは第一に政治の神さまであられます。政治とは政(まっりごと)であります。天孫降臨の御神勅に『思兼神は(みまえ)の事を取り持って(まつりごと)を為せ』 とありますように、大神さまは神代の天孫降臨以来政治の神として、換言すれば天照大御神のみこともちとして天照大御神の大御心を御心として、すなわち四魂具足の清き明かき直き正しき誠の心、ただひとすじに真の祭政一致を行わせられたのであります。

祭政一致を意図して行われたのでなく、まつりごとするところ、おのずから祭政一致となったのであります。祭政一致とはあらかじめ企図すべきものでなく、おのずから結果としてかく招来さるべきものであります。

 大神さまは真の(まつりごと)は、制度や法律にもとづく権力や威圧による政治でなく、心と心、魂と魂との触れ合う政治でなければならないとされ、それには天孫降臨当時の先住民族を天孫系の民族にまで同化して魂と魂との政治を行わなければならないとして、かくて民族同化という大事業に取り組まれたのであります。

この民族同化作業に当たられたのがニニギノ命第一世の御子神たち、すなわち一六八柱の氏神さまたちであります。

 ここに大神さまの 奇 荒 和 幸の四魂が円満に発揮されると同時に大神さまの政治力が大いに伊照り輝く(いてりかがやく)(威光が増す)に至ったのであります。

 また第二に、大神さまは、政治の神さまであられると同時に経済の神さまでもあられるのであります。

政治と経済とは別個のように考えられますが、政治あっての経済であります。

近年経済学は一個の独立した学問になってまいりましたが、本来は政治学の中に含まれていた経済学であったのであります。

経済学は結局経済政策につながることによってその使命を果たし、また経済政策は政治或いは一般政策によって左右されていることを忘れてはならないのであります。

でありますから、大神さまが、本来政治の神さまであられるということは、同時にまた経済の神さまであられるということであります。

 かつて戦前の御啓示に『日本の経済は長足の進歩発展をとげたがそれは出雲系の三魂的、神仙的経済である』という意味のことがありました。

戦後経済の高度成長の状態を観察すると、まさに三魂的、神仙的経済の感しきりなるものがあるのであります。換言すれば、物質文化に精神文化が追いつけないのであります。

 宗教の貧困、教育の貧困、政治の貧困等原因は挙げて数うべくもありませんが、要は、生産のみ重視して分配を顧慮しない資本主義経済の偏重か、或いは分配のみ固執して生産を怠る社会主義経済一辺倒の二魂若しくは三魂経済以外の何物でもないからであります。

 右にも左にも片寄らない中道を行く四魂主義経済の神さまにまします大神さまのまご(・・)ころ(・・)経済の一日も早い実現こそ望まれて止まない次第であります。

 第三に、大神さまは学芸の神さまであられます。すなわち学問芸術の神さまであられます。八意(やごころ)(たた)え上げ、思兼(おもいかね)と申し上げてその御名(みな)称揚(しょうよう)(褒めたたえる)しまつるところに、学問芸術思想等の深い大きな分野が、大神さまの大いなる息吹(いぶ)(み力)のもとに広々とそして深々と展開されてくるのであります。

全国十二万の神社がありますが、八意思兼大神という学問芸術思想にふさわしい御名の神は他にはこれを絶対に見出し得ないのであります。

 第四に、大神さまは、思慮の神さまであられます。思慮とは、申すまでもなく考え思うことであり、おもんばかることであります。

 大神さまが、いかにすぐれた思慮の神であられるかということは、これを『古事記』の上にて明確に知ることができるのであります。その一、二を挙げれば、高天原において

須佐之男命の乱暴止まず、天照大御神はこれを見て天岩屋戸を閉ざしてさしこもりませしために高天原も葦原中津国も共に暗闇となり、万神の声はさばえなす(蒼蝿=騒ぐ)に至り、またよろず(あやし)きもの(ことごと)(たくさん)発せしため、八百万神たちは天安之河原に神集いに集いて高御産巣日神の御子、思兼神をして、思慮(おもわ)しめて(考えて)種々なる方策を講じて、

ついに天照大御神をして再び天岩屋戸からお出まし願ったのであります。

 この場合において、天安之河原に八百万の神たちの神集いに集われたのは命令的でなく、事態が容易でなかったので八百万の神たちが自発的に集合して、高御座巣日神の御子であられる八意思兼大神さまをして、いかにこの場合を処置すべきやの手段方法を講ぜしめられたのであります。

すなわち大神さまは、天照大御神の突然の岩戸隠れの大事変が発生した場合に、群神の一致推薦によってこれを解決すべき方策を考慮せられ、その手段方法がよろしきを得て成功を見たのであります。

すなわち大神さまが偉大なるすぐれた思慮の神さまであられるということは、すでに早く、高御座巣日神の御子として、八百万の神たちから認識推薦済みであったのであります。

 この天岩屋戸の変のほか大神さまの思慮の神さまとしてのすぐれたおはたらきは、大国主命の国土奉還にいたるまでの経緯(けいい)(いきさつ)にこれをつぶさに拝することができるのであります。これらのことは、いずれも「古事記」に明記されてあることがらであります。

 第五に、大神さまは、分別(ぶんべつ)の神さまであられます。分別ということは、識別(しきべつ)(みわける)弁別(べんべつ)(わきまえる)に通じるのであります。分別ということは、ものの道理をわきまえることでありますから思慮と結び付いて思慮分別ともなります。よく世間(せけん)で分別ざかりといいますがそれは思慮を忘れない人のことを申すのであります。したがって分別ということは、知恵というものに通じるのであります。

 知恵は知識とは異なるのであります。知識とは、知っている物の内容であります。御啓示によれば、神も経験によって知識を得る、と仰せられております。

 大神さまは、分別の神であられると同時に知恵の神さまであられます。

知恵とは物ごとの道理をさとり、是非善悪を弁別する心の作用であり、また、物ごとを思慮し、計画し、処理する力であります。

つまりものの是非善悪を四魂具足の神則で判断し、物ごとを思慮し計画し処理するのに、まごころという力をもってするのが、知恵というもののほんとうのはたらきであります。

 以上申し上げましたように、大神さまは、政治・経済・学芸・思慮・分別・知恵の神さまであられます。

御神格はもちろん四魂円満大具足にましますが、御性格においてこのように人間生活のすべての部門に亙って兼ね具えておられる神さまは、他にこれを見出し得ないのであります。

 大神さまが、人間の魂の祖神(おやがみ)にまします氏神の総代表として本会にお鎮まりになられ、その大稜威をば、氏神を通して各氏子の家々に伊照り輝かし給われつつある、まことにこよなきありがたきさまが、まつぶさに感得される所以であります。

また御参考までに申し上げますが、故折口信夫博士(学士院恩賜賞受賞者)によれば、

八意思兼大神さまは、唱えごとの神さまであって、思兼というのは、色々な意味を兼ねて考える、という意味であるといっております。

 四魂具足ということばを神のことばとして、つまり唱えことばとして唱えまつることは、折口博士に従えば、唱えことばの神さまであられる 八意思兼大神さまの御心に叶う所以

かとも考えられるのであります。

 また昭和三年七月四日の御啓示には

思兼大神は八意思兼大神と称すべし

常世思金神と称するは非なり

 また昭和七年三月五日の御啓示には

問 今朝岸がお願ひ致しました氏神様がもう少し氏子を憐れんで下さる事は、

大神様はお聞き届け下さいますでせうか

答 よろしいです

 

 昭和七年三月六日御啓示

問 昨日氏神様達は氏子を一層憐れみ助け給うと云われましたが岸は今晩これを公にしてよろしゅうございますか

答 よろしくあります                

以上の御啓示にうかがわれるように、大神さまの氏子に対する思いやりのほどは、まさに思慮の神、分別の神、知恵の神としての大みいつをくまなく伊照り輝かされ給うのでありまして、まことに恐れ多いきわみでございます。

 信仰の対象はもちろん氏神でありますが、大神おわしての氏神であることをよく肝に銘じて忘れず、かりそめにも抱えこみ信仰に陥ってはなりません。

大神さまの御性格を拝すれば拝するほど、大神さまは高貴なそして高性能におわします容易ならざる大神にましますことが、身にしみて、ひしひしと感得できるのであります。

 昭和五年六月二十八日の御啓示には、

今、日本の国は八意思兼大神の下に真の神がお集りになったわけであるが、将来は必らず

日本人の全部が真の神を信ずる時代が来ると信ずるが、本会はその時期を早めるための運

動を示すものと考へてよろしい

とありますように、この偉大なる御神格、この偉大なる御性格をもたれる 大神さまを、

氏神の総代表として信仰の中心と仰ぎ,まつることは、これにまさる幸せはないのです。

でありますからこの上はたとえ微力なりとも、立ち場 立ち場、持ち場 持ち場において

御神業におつくししなければなりません。

 一つの小石が沈めば、全海洋の水位はそれだけ高まるのであります。また、一滴の朱がおちれば、全海洋の水の色がそれだけ赤くなるのであります。一人の徳が、全人類の社会に及ぼす影響もまた同様といえるのであります。微力は決して無ではないのであります。

まことに人間は誰でも生きる権利をもっております。しかしそれは、個人の主張を通すためのものではありません。

 換言すれば全体の中に個人たる自己の存在を見出すことであります。

約言すれば他を愛し救うことによって自己も愛され救われるということであります。

すなわち四魂の信条の各個条を文字通り実行すればよいのであります。

然らば文字通り実行するには如何したらよいか、と申せば、一言にしていえば我慾我執と去れということであります。

 大神さまや氏神さまの見守りのうちに、我慾我執を去ることが、結局、我慾我執以上の好結果をもたらすこととなるのであります。このことは、八意思兼大神さまの御性格をよく理解した上で、氏神の稜威信じて疑わずという固い信念のもとに、水火も敢えて辞せずという信仰の息吹きをたぎらせれば、かならずや実現されるのであります。

なんとなれば神界のおきてとして氏神は大神さまに絶対服従であり、氏子は氏神さまに絶対服従でありますので、大神さまの大みいつは氏神さまを通して氏子に伊照り輝くからであります、もちろんこの場合氏子は、氏神さまの総代表にまします大神さまをば、氏神さまのみいつ、祖霊の守護の力の源泉と仰ぎまつって、心からなる御神恩感謝のまことを捧げることを忘れてはなりません。

『神は人間を信用しない』と仰せられたほど人間はあまりにも人間(くさ)くありますので、容易に神さまに近づけないのであります。

でありますからできるだけ我執我慾を去り、むしろ公慾を心がけ、私事を後に神事を先にして、もう少し人間(ぐさ)みから脱け出そうではありませんか。そして、この八意思兼大神さまの偉大 且つ 高貴な御性格の千万分の一にでもあやかるように信仰を進めようではありませんか。                            以 上

               (昭和三十九年二月四日 八意思兼大神奉斎記念祭における講演要旨)

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