川俣 均委員長講演(37年号)16演題概要 37年担当【I・K @】 P07
みこともちての信仰 十一月・秋季大祭 一月号・356号
昔から宮廷政治の中心は勅語や宣命(天皇の命令を国語で書いた文書)を伝達する、すなわち みこともち の信仰にあったのです。
「みこともちて」ということは「神のお言葉を伝達して 宣(の)ることかくの如し」という意味です。
なお、みこともちて ということは、神の御意志、神のお言葉を単に伝達するだけでは意味がないので、神の御意志、神のお言葉の内容が実現されて、はじめてその伝達の意義が全うされるのです。
潔 斎 に つ い て 十二月・月次祭 二月号・357号
「禊ぎ祓い」と、いうことは二つに分けて考えられるのです。
「祓い」とは、いままでに犯した罪けがれや不浄を清々しく祓い除けることです。
また「禊」とは、神事に対する準備行事であります。
神事を行うことによって、吉いことが訪れ、吉いことを迎えるためには、あらかじめ、心身を穢れから遠ざけて清々しくしておかねばならないのです。この禊がすなわち潔斎です。
「神は近づかず近づくべし」神は絶対に人間に使われないのですから、進んで神に近づくように心がけて頂きたいのです。
真 実 一 路
一月・月次祭 三月号・359号
真実一路―四魂具足―まごころ一筋に生き抜くことが、結局、何ものにも変え難い幸福なのです。
手練手管は、求めて邪霊の陥穽(おとしあな)に落ち込むようなものです。ですから神の御心に叶う四魂具足の真実をもって、一路、この世の荒波を乗り越え乗り切るためには、一時的には妨げられ、阻まれ、或いは相容れないものがあるかもしれません。
しかしながら、正は邪に勝っのたとえのように、四魂具足に根ざした真実一路の人生の旅路は、かならずや氏神さまのみいつ、祖霊さまの守護と指導とによって、有終の美を成しとげることができるのです。
わ が 道 を ゆ く 二月・大神奉斎記念祭 三月号・359号
わが道をゆく と いうことは、敬神崇祖、四魂具足の道を、神道としてただひとすじに、まっしぐらにゆくことです。さらにまた惟神の大道は、中道をゆく ことの教えです。
霊界において祖霊は、四魂具足の道をわが道としてゆき、現界において氏子は、敬神崇祖、四魂具足の道をわが道としてゆくことによって、顕幽一貫の真の惟神の道が成就されるのです。
幸魂の発露について 二月・月次祭 四月号・360号
利用厚生ということは、生活を便利に且つゆたかにするために、物をはたらかして役に立つようにもちいて、衣食住を豊富にし、生計に不足なからしめることです。
利用厚生の術を研くためには、なんとしても人智の開発を図らなければならないのです。
人智を開発するためには、正しい神との感合を必要とせざるを得ないのでして、ここに奇魂のはたらきが必要となってくるのです。
この術は、いわば神さまからの授かりものの術ですから、かりそめにも、わたくしすべきものでなく、これを広く国家の利益や国民一般の幸福に役立つように心がけなければ、結局、自分自身だけのために神を使うこととなり、神の御心に叶わざるも甚だしいものといわねばなりません。
この研かれた利用厚生の術を、広く国利民福のために使用するためには、ここにまた、和魂と荒魂という二つの大きな魂のはたらきを必要とするのです。
和魂の精神や荒魂の精神の欠けるところに、国利民福が成立するいわれはないのです。
幸魂の発露のためには、他の三魂すなわち奇魂、荒魂、和魂の各魂が幸魂と渾然一体となり相寄り相扶け合わねばならないのです。
魂の浄化と氏神 三月・氏神奉斎記念祭神 四月号・360号
本社の御分霊は、大神さまの大みいつを蒙ることによって、始めて家庭の氏神として各家に鎮まり守護神となられるのです。
出生と同時に氏神さまから入れられた魂は、人間の成長すなわち体霊の成長につれ、魂も大きく成長を遂げて、やがては魂が体霊を支配するようになるのです。
人間は、知識や概念をもつようになって、はじめて人間と称し得るのでして、この知識や概念というものは、第三霊、第四霊という経験霊がもたらすものを、第二霊が限定(対象物の力を弱くする)することによって成立するのです。この複合作用は、人間として宿命的に不可欠な条件ですから、第三霊、第四霊の正邪善悪によって、その心というものは、善ともなれば悪ともなるのです。
玉磨かざれば光なし「玉」は「たま」であり、また「魂」に通じるのです。この魂を磨く作用が氏神信仰であり、第二霊を磨いて、つねに健全な限定力を養っておかねばならないのです。
克 己 と 忍 耐 【原文で掲載】A型式 三月・月次祭 五月・361号
克己とは、おのれにかつことであり、忍耐とは、辛抱強いことです。
克己も忍耐も、処世上きわめて大切なことです。どんなに好運に見舞われても、正直一方で、克己心と忍耐力をもってしなければ、折角の好運も実を結ばないことになってしまうのです。
信仰生活を送る上にも、きわめて大切なことです。
真の氏神信仰にいそしむからには、克己心と忍耐を度外視しては、決して有終の美となすことはできないのです。
民族神及家庭神としての氏神 四月・春季大祭 五月号・361号
われわれは、遠っ祖(みおや)の神として氏神さまを奉斎しています。
この氏神さまは、民族同化の神としては民族神であり、また家庭守護の神としては家庭神です。
民族神としての みうちの神は、その領域内の氏子たち全体の みうちの神であり、さらに敷衍(のべひろげること)すれば、大和民族全体にとっての みうちの神でありまして、それらは「全」を表示しているのです。
また家庭神としての みうちの神は、その家庭だけを守護するのですから、それは「個」を意味しているのです。人間の価値は、全体の内に個を認識するところに存するのです。
「全」を意味する民族神としての氏神のなかに「個」を意味する家庭神としての氏神を認識するところに、氏神信仰の根本的在り方があるのです。
迂回生産と信仰 五月・月次祭 六月号・362号
手から口へという直接生産方式よりも、さまざまの生産手段を必要とする迂回生産が、よりよい経済生活をさませるように、信仰生活においても、ただ、御利益だけを目当てとする直接手から口へという直接方法よりも、御神徳を離れ、信仰そのものに対してさまざまな手段方法を必要とする迂回方法によって、よりよい信仰の成果を収めることができるのです。
御 神 業 五月・創立記念祭 六月号・362号
大神さまは、わが国の政治や経済や思想がつねに乱れて不安定であるのは、信仰の中心と国家の中心とが一致している敬神崇祖、四魂具足のまことのかむながらの信仰が地を追われて、邪心邪霊の禍津神信仰が跳梁(のさばる)しているためであって、この邪神信仰を排除して真の敬神崇祖の信仰である氏神信仰の確立をはからなければならないとして、この大目的達成のために本会にお出ましになられたのであります。
われわれ会員はすべて国民各戸に氏神を奉斎させ、真に国教が確立されることによって、一日も早く大神さまが再び伊勢の相殿におかえりできるるよう努力しなければならないのです。
見 え ざ る 手 六月・月次祭 七月号・363号
われわれは、つねに、第二霊と第三霊との複合作用によって成立している「心」という「見えざる手」によって導かれているのです。
人間は、宿命的に見えざる手として、第三霊の存在を無視し排除することはできないのです。
そのために、まず何を措いても反省を忘れないで第三霊という経験霊の正邪善悪をよく識別して、つねに正しくて且つ善である第三霊を第二霊の限定選択の複合(複合によって心が成立する)の相手として持たなければならないのです。
生 涯 の 仕 事 七月・月次祭 八月号・364号
生涯の仕事として、この氏神信仰を自分のためはもとより世のため人のために倦まずたゆまず堅く続けてゆくことです。
自分の生業をば四魂具足の神則から外れないで営々として努力するならば、必ず恩頼を蒙ることによって物心共にその人相応の幸福にひたれるのですが、真の惟神の道を奉じるからには、この幸福をば、ひとりわたくししないで、広く隣人にまで及ぼすように努めなければならないのです。
すなわち敬神崇祖・四魂具足の氏神信仰によって自分を救い他人を救うことを、生涯の仕事として持たなければならないのです。
足 の 裏 八月・月次祭 九月号・365号
顔であり頭である家長は、敢えて足の裏になることが要求されるのです。家長は、家族たちと共に遊び共に語り、心から家族の中に溶け込んでゆくことによって、家族と手を携えて信仰の一致向上をはかるという興味ある時期がくるのです。
家長は、家族の信仰を、家長の線にまで引き上げるのではなく、家長は、家族の線にまで下りていって、家族たちと手をとりあっていっしょに信仰的に這い上がることです。
すなわち信仰的に敢えて足の裏になることです。
家長が、敢えて足の裏の立場をとる事は、相手の気持ちになって考えるという真の和魂の発露です。
祓いの効果について 【一部現代文で掲載】B型式 九月・月次祭 十月号・366号
祓いの根本は、イザナギノ命の橘の小門の阿波岐原における禊祓にあることは、御神示のとおりでありますから、祓をするからには、どこまでもイザナギノ命の禊祓の心をわが心として行わなければならないのです。
われわれは、氏子として、自分の犯した罪穢れを素直に反省懺悔して心から氏神さまにお詫び申し上げ、ただひたすらに、八意思兼大神さまの大稜威、氏神さまの稜威を蒙ることにより、罪穢れを祓い清めて自分自身が清々しくならなければならないのです。
御神徳を期待しての祓では、ほんとうの罪けがれの祓とはならないのは、イザナギノ命の古事に見えているとおりです。
人 造 り 十月・月次祭 十一月号・367号
氏神信仰という民族信仰にいそしむことによって、氏神という祖神を同じくしている「みうち」として民族を愛し、過去も現在も未来も大和民族居住の地たるこの国土を愛し、さらに四魂具足という真神霊の氏神の神格に近づくための徳性が涵養(徐々に育てる)されるようになり、ここにはじめて本当の「人造り」が育成されるのです。
御 初 穂 十月・神嘗祭祝祭 十月号・367号
宮中では、昔から祈年祭(としごいのまつり)といって、毎年旧暦2月4日、その年の五穀豊穣を祈る御祭が行われているのです。
無事に稲の収穫ができますれば、天皇は、天照大御神に対しまつり、おかげをもってこのように立派に稲穂が実りましたということを御報告なさると共に御神恩感謝のまごころをもって、お初穂を献るのです。
われわれは、この宮中のお手本にならって、お初穂という御神恩感謝のまごころを、われわれの信仰生活の中に生かさなければならないのです。
以 上