克 己 と 忍 耐 P7
惟神会委員長 川 俣 均
克巳とは、おのれにかつことであり、忍耐とは、辛抱強いことであります。
克巳も忍耐も、処世上きわめて大切なことであります。克己心もなく、また忍耐力もない人は、どんなに利口で才能がありましても、結局は大成しないのであります。
克巳も忍耐も、口で説き、文字で書くように決して生まやさしいことではないのであります。しかしながら、処世上きわめて大切であるということは、一面、世間には克己心のない人、忍耐力の弱い人が、いかに沢山いるかということの反面を物語っているわけであります。
よく成功の秘訣として、運・鈍・根ということがいわれていますが、運とは好運であり、鈍は愚直(正直一方のこと)根は根気であります。
換言すれば、どんなに好運に見舞われても、正直一方で、克己心と忍耐力をもってしなければ、折角の好運も実を結ばないこととなってしまうのであります。
このわかりきった道理が実行されないところに、人間の弱さがあるのであります。
この克己も忍耐も、決して別々のものではなく、互いに相関連しているのでありまして、克己心なくして忍耐強いわけにはいかないのであります。
「石の上にも三年」という諺があります。
その意味は、冷たくて不安定で住みにくい石の上にも、長く辛抱しておれば、いつか住めるようになるものだ、ということであります。
有名な江戸前期の作者井原西鶴のことばにも『商人職人によらず、住みなれたる所を替ゆる事なかれ。石の上にも三年と俗語に伝へし。世帯道具の鍋釜ぬくもりもさめぬに、又宿替の荷物程見ぐるしき事なし』とあるように、忍耐の足りないことを戒めているのであります。辛抱ができないということは、結局克己心が足りないからであります。
いま若い人たちの間に流行している或る下らない俗謡の中の一節に『わかっちゃいるけど、やめられない…』という文句がありまして、この文句が大いに若い人たちの心をとらえて、この俗謡の大流行をきたしているようであります。
この文句は、端的に、克己心の皆無を表明しておりまして、これが若い人たちに受けるということは、若い人たちが万事承知の上で、悪いこと、悪習、悪癖から逃れられない悪因縁にとらわれていることを示しているのであります。
これを惟神科学的に説明すれば、第二霊が、邪悪な第三霊のとりこになっているということであります。
またいまの世相は、すべてインスタント(即席)時代であります。インスタント・ラーメン、インスタント・コーヒー等々、いかにスピード時代とは申しながら、インスタント食品には人間の心のこもった情緒とか、手かずをかけたまごころがないばかりでなく、インスタント食品を要求する側にも、人間の心のこもった暖かい情緒とか手かずをかけた人のまごころを受けるという辛抱強さが欠けているのであります。
そこにはなんでも即席に用を足してしまうというその場かぎりの心だけでありまして、辛抱強く、よりよい結果を待とうというような心はみじんもないのであります。
ますます不良少年少女が増加していくということの原因の一は、「わかっちゃいるけど、やめられぬ」という克己心の皆無と、インスタント食品の横行によって示されている忍耐心の欠陥と暖い情緒が味われない点にあるといっても過言ではないと思います。
このように克己と忍耐とは、処世上きわめて大切でありますが、これはひとり処世上ばかりでなく信仰生活を送る上にも、きわめて大切なことであります。
ましてや敬神崇祖・四魂具足という真の氏神信仰にいそしむからには、克己心と忍耐を度外視しては、決して有終の美となすことはできないのであります。
克己心について 昭和九年三月十四日 の交通には、次のように見えております。
問 神界では人の克己心といふものをお認めになりますか。
答 認めて居ります。
問 克己心と信仰とは関係ありますか。
答 関係あります。
問 信仰上の克己心は信仰上の禁断(きんだん)と同一でありますか。
答 禁断の意味であります。
ここに禁断とは、絶ちものをすることであります。すなわちじぶんの好んでいるものを神さまに誓って絶つことであります。
この禁断について、昭和九年二月二十一日の交通には、次のように申されております。
問 祈願の時には、何時でも禁断を是非すべきですか。
答 すべきであります。
問 神はその禁断とその祈願を助けて下さるものと思ってよろしくありますか。
答 よろしくあります。
禁断するということは、非常な決心と努力を要するのでありまして、己れに克たねば、禁断はできないのであります。つまり、さまざまな誘惑に打ち克たねば、禁断ということは成就しないのであります。
神さまは、氏子のこの克己心を嘉みされて、御神威を下さるのであります。
克己心を妨げるのは、すべて邪悪な第三霊、第四霊のしわざでありますから、つねに、自分の第二霊を健全且つ清浄に磨き保って、第二霊の限定力を強化し、邪悪な第三霊第四霊を排除しなければ克己心を強めることはできないのであります。
次に忍耐については、昭和四年四月二十八日の春季大祭における平田篤胤先生の御訓示を引用させて頂きます。
「… 最後に氏神様が一番氏子にお困りになることは、神様に或る事柄をお願いして、辛抱が足らないといふことである。この事柄について氏神様は大神様に抗議を申し込まれるのである。氏神様は、人間は辛抱といふものは出来ないものだろうかと毎日云うて居られます。
自分が氏神様にお願いしたことは、その事が成就するまで辛抱して願って貰いたい。
事の成るのがおそいと直に、不服を云うようではいけない、一つの願いの完成せぬ間に、他の事柄をお願いするようではいけない。氏子の大部分が、こういう不心得者であることを氏神様はなげかれるのである」
氏神に心からお願いするからには、大いなる克己心をもって、禁断するくらいの決意がなければならないのであります。
氏神は決して、全智全能ではなく、智識は経験によって得る、と仰せられるほどでありますから、願いの筋についても、他の制約が絶無とは申されず、氏神は氏子の願いに対しては(もちろん四魂に叶った願いごと)たいへんな御苦労をなさっておられることを拝察されるのであります。
でありますから、祈願に対して辛抱が足りないということは、稜威信じて疑わずという信念がぐらついているからであります。
もちろん場合によっては、願いの筋が直ちに叶えられることもあるでありましょうが、そういう場合は稀れでありまして、多くの場合は、それ相当の時間を要するのであります。人間界には時間という観念はありますが、神界には時間という観念はない、と神さまは仰せられるのであります。
したがいまして、自分勝手に都合のよいように日限をきめたりしてお願いすることは、結局、神を使うことになるのであります。
申し上げるまでもなく、神は絶対に人間に使われないのであります。
本文前段で申し上げました 諺「石の上にも三年」のように、氏神信仰は、忍耐強く、
コツコツと、地味に堅実に、一歩一歩、今日の自分は、昨日の自分よりもいくらかでも進んでいるという反省と向上の心をもって、はじめて、暖かい、住み心地のよい家庭信仰の
醍醐味を味うことができるのであります。
しばしば申し上げますように、氏神さまは、決してはでな神さまではなく、地味に一歩一歩、四魂具足のまにまに、堅実を旨とせられる神さまであります。人聞が生れるとき魂を授けられ、人間が死ねばその霊魂を霊界に引取られるという、いわば、顕幽一貫して人間の魂を支配される神さまが氏神さまであられますから、この氏神さまの御性格をよくのみこんで辛抱強く信仰を進めて頂きたいのであります。
しかも氏神さまは、神掟(かみおきて)のまにまに、八意思兼大神さまの大みいつを蒙ることによって氏子を指導され守護して下さるのでありますから、一歩一歩、堅実に四魂具足を念頭から離すことなく信仰を進めて頂きたいのであります。
諺にも「桃栗三年柿八年」とあるように、種を蒔いた果樹が、芽を出してから実(み)がなるまで、桃と栗とは三年、柿は八年かかるといわれております。桃も栗も柿も、われわれ日本人にとってはなくてはならない果物ではありますが、われわれの口に入るまでには、このような年月を必要とするのであります。
「石の上にも三年」も「桃栗三年柿八年」もすべて人間に対して辛抱の大切なことをいい当てているのであります。
また「急がばまわれ」ともいわれております。急ぐ時には、近道をゆこうとするのが人情であり、多くの場合、その方法で無事に済むのであります。ところが近道にはとかく危険がありがちでありまして、急いで事を成そうとすれば、その急ぐことだけに気をとられ、とかく十分な思慮をめぐらすことを忘れ、思わぬ失敗をするものであります。
西洋の診にも「急げば急ぐほど遅くなる」とあり、わが国でも「急いては事を仕損じる」といわれております。
氏神信仰は、自分一代かぎりではない、天地のかぎりこれを子々孫々に、それこそ弥子孫の次々弥益々に栄えしめ給いて、後にくるものに伝うべき信仰でありますから、つねに稜威信じて疑わず、急かずに辛抱強く信仰向上をめざして、日日を四魂具足のまにまに送るべきであります。
それには、強い克己心をもって、さまざまの誘惑を排除しながら忍耐の心を養わなければならないのであります。
前条申し上げましたように、克己心がなければ忍耐の心も起こらないのでありますからこの道理をよく肝に銘じて、神さまから頂いた自分の第二霊をつねに磨きに磨き、第二霊の第三霊、第四霊に対する限定力を強力なものにしておかねばならないのであります。
氏神信仰を進めてゆく上において、いちばん大切であって、しかもいちばん忘れがちなのが、この克己と忍耐であることを心に銘記して頂きたいのであります。
われわれは、前掲の平田先生の御訓示を、つねに復誦して、われとわが心の戒めとしたいのであります。
(昭和三十七年三月十一日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)
以 上