【3710月号】 P08

 

惟神会委員長 川    俣       

 

 祓ということを除外して、日本神道を語ることはできないのです。

 殊に四魂具足の真神霊にまします真の氏神を信仰の対象としている敬神崇祖の信仰におきましては、祓の重大さは、慎重に考えられなければならないのです。

 祓には、単なる修祓(しゅうふつ)(大麻で神饌物や祭員や参拝者等を祓い清める)や清祓、遠祓(清祓の一種)や懺悔の祓がありますが、ここで申し上げたいのは、清祓や懺悔の祓を行うことによって自分の過ち犯した罪けがれを祓い清めて、その効果をあげようとするならば、どんな心がけが必要であるかということです。

 まことのかむながらの信仰は、祓に始まって祓に終っているといわれているほどで氏神信仰と祓とは密接不離の関係にあるのです。氏神信仰が進めば進むほど、祓に対しては慎重であり且つ重大関心を持たなければならないのです。

 そこで祓の起原について、昭和七年六月十七日の御神示には、

祓の行事は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小門のあはぎ原に黄泉(よみ)の国から帰って禊祓をされたことがその根本であり、祓ということは禊祓が本当の祓である

と見えているのです。

 われわれは、きびしい現実の中に生活しておりますので、いろいろの罪けがれを過ち犯しがちなのです。そしてその都度、邪神邪霊の感合を受けて、思わぬ災害に悩むこととなるのです。

 ですから、昭和七年六月十七日本会の創始者故岸先生は『この祓の行事を完全にすれば、邪神邪霊を完全に祓うことは本会で大神並びに氏神達の稜威を蒙って行うことができますか』と神さまに伺うと、神さまは

『祓うことができます』とお答えになり、そこで岸先生は重ねて

『私はこの祓の方法を完成して本会員が邪神邪霊によって蒙むる災害を救ってやりたいと思いますが、これは私の力でできますか』

 とお尋ねすると、神さまは

『できております』と明瞭にお答えになっておられるのです。

 神に二言なし、われわれ氏子は、それこそ稜威信じて疑わずこの祓というものを完全に行うことによって、邪神邪霊を祓い除かなければならないのです。

しからば邪神邪霊は何故にそしていかにして人間に感合するかということです。

 これは、いわずもがなわれわれ人間の罪けがれに対して感合するからであり、ここに罪けがれの罪とは神さまの教えたる敬神崇祖四魂具足に背くことであり、けがれとは汚ないものに触れることです。

 しかもこの罪けがれは、ほとんどの場合、氏子自身が犯したもの(作為と不作為とを問わず)ですから、この邪神邪霊を退散させるためには、まず、自分自身の罪けがれを祓い清めなければならないのです。

 邪神邪霊というものは、善とか悪とかの観念のない、いわば道徳以前の存在でして、人間に災害を及ぼすこと自体がかれらの使命であり本能でさえもあるのです。

 ですから、こういう邪神邪霊たちを祓い除けるためには、かれらの感合する足がかりであるところの罪けがれという汚いものを祓い清めるほかはないのです。

 邪神邪霊というものは、夏の蝿のようなもので、求めて汚いところに寄り集まるのです。クレゾールのような消毒薬で拭き清めた畳の上には、決して蝿などはたかることはないのです。

 さて清祓(遠祓も含む)や懺悔の祓をするからには、なにかそこに、祓の目的というようなものがあるのです。

 ところが目的にばかりとらわれますと、祓の根本精神を見失って、いわゆる邪神祓となり、一時は大麻の威力によって邪神は退散するかもしれませんが、また再び戻ってくるのです。

 そこで祓の目的でありますが、ただ表面に現われた現象の解決だけを目的とせず(このことは人情の上から一応は止むを得ないかも知れない)その現象をもたらした原因の解決すなわち罪けがれの解消ということを祓の目的とすべきです。『将を射んとすれば先ず馬を射よ』との格言のように、邪神邪霊の災害を祓除(ふつじょ)しようとするならば、その災害をもたらした邪神邪霊の感合の足がかりであり、足場であるところの罪けがれを祓い清めることが先決問題です。

 原因と結果の法則については昭和九年八月二日の神人交通に次のようにハッキリと見えています。

問 原因結果の定律は精神科学に於いても、物質科学に於けるが如く数学的でありますか、数学的ではないのですか。

答 数学的であります。

問 信仰に於いても原因結果は、規則正しく数学的に現はれるものでありますか。

答 数学的です。

問 今日まで信仰しても其の原因結果が不確実であったといふ事は、信仰する神と信仰の方法とが不完全であった為ですか。

答 不完全のためです。

問 敬神崇祖の真の信仰を実行するならば、信仰による原因結果は判然数学的になりますか。

答 判然となります。(原文のまま)

以上の御啓示のように、氏神信仰においては、原因結果の法則は判然としているのですから、仮りに、結果に対する原因がどうしても自分で見出せない場合であっても、なんらかの原因があるのです。それ故に原因が判らないからとて放任することなく、或いは自分自身で過ち犯したかも知れない罪けがれとか、或いは自分の不徳から他人の呪阻(じゅそ)(神仏に呪の祈願)を受けるとか、または宿命的に先祖の因縁を承継しているとか、なにか原因があるのですが、要は、多くの場合氏子自身にその原因があることを卒直に素直に認めて、心から反省懺悔のうえ、氏神さまにその罪をお詫び申し上げなければならないのです。

 敬神崇祖以外の信仰では、原因結果の法則は、判然数学的に作用しませんが、真の氏神信仰におきましては、この原因結果の法則は、判然と数学的に作用するのですから、災害という悪い結果に対しては、かならずや罪けがれという悪い原因があるということを深く反省して、その罪けがれの祓除のために祓を行うべきです。

 昭和九年四月三十日の神人交通には、

問 祓の効果は、信仰と比例するものといふことが出来ますか出来ませんか。

答 出来ます。(原文のまま)

 と見えておりますように、祓の効果は、その人の信仰の程度に比例するのです。

 ここに信仰の程度とはもちろん四魂具足、御神業奉仕、御神恩感謝等種々挙げられますが、この場合には、主として、祓をせざるを得なくならしめたところの災害という結果に対する原因であるところの罪けがれを心から反省懺悔して、氏神さまにお詑び申し上げるその反省懺悔の程度に至大の関係があるのです。

 祓の目的を、災害解消の一事に置かれるのは、正に人情の自然ではありましょうが、まごころそのものの御存在である四魂具足の真神霊氏神さまに対しましては、ただ、人情だけでは通じないものがあるのです。

 神の御心に叶い神の御心を動かすためには、ただ人情だけでは不十分でして、特にこのような災害の解消を目的とする祓の場合には、祓の目的をば、罪けがれの祓除というただ一点に絞らなければならないのです。

 本文冒頭の祓の部分に申し上げましたように祓というものは、イザナギノ命が橘の小門の阿波岐原において禊ぎ服われた古事に起原があるのです。

古事記によれば、黄泉(よみ)の国に行かれてけがれに触れられて『()はいましこめしこめき(きたな)き国に到りて在りけり。()()御力(おおみま)(はら)(いそ)な』と仰せになり、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にお出になって、禊ぎ祓われたのです。

命の投げ棄てられた御杖(みつえ)御帯(みおび)御裳(みも)御衣(みけし)御褌(みはかま)御冠(みかぶり)、左の御手(みて)手纒(たまき)(手にまいた玉を結んだ装飾品)右の御手の手纒に、それぞれ十二柱の神々が成りましたのです。         

すなわち身に着けるものを脱ぎ棄てられたことによって、十二柱の神々が成りましたのです。 

そこでイザナギノ命は、以上のように身に付けたものを投げ捨てただけでは禊ぎ祓いは不十分なりとして『上瀬(かみつせ)瀬速(せはや)し、下瀬(しもつせ)は瀬弱し』と仰せられて、初めて中瀬(なかつぜ)に降りて、水をくぐって御身(おからだ)を洗われたときに、いわゆる祓戸四柱の大神たちが成りましたのです。

 イザナギノ命は、それでもまだ禊ぎ祓いが不十分なりとして、或いは水底に或いは水の中に或いは水の上において、けがれを洗い落され、左の御目(みめ)を洗われた時に、天照大御神が成りましたのです。

 イザナギノ命は、天照大御神という高貴な神が成りましたことを、この上もなくお喜びになったのです。

 ここでわれわれが、大いに考えなければならないことは、イザナギノ命は、橘の小門の阿波岐原において、黄泉の国で受けた罪穢れを禊ぎに禊ぎ、祓いに祓うならば、天照大御神のような高貴な神さまが成りますだろうなどとは、いささかも期待もしなければ考えもしなかった。そしてこれでもまだ不十分なりとして、最後には水の中に入って、水をかぶって穢れを禊ぎ祓われたところ、たまたま、ゆくりなくも、天照大御神という高貴の神さまを得られるという一大御神徳を蒙ったことになるのです。

 一言にして申せば、イザナギノ命は、いささかも御神徳目当てに禊ぎ祓われたのではなく、ただ、黄泉の国で受けた罪穢れを心から反省懺悔されて、下世話(げせわ)で申せば、とことんまで反省懺悔の禊ぎ祓いをされたのです。

 ここのところが、大切でありまして、祓をする上においてお互いに注意しなければならないのです。

祓の根本は、イザナギノ命の橘の小門の阿波岐原における禊祓にあることは、前掲御神示のとおりでありますから、祓をするからには、どこまでもイザナギノ命の禊祓の心をわが心として行わなければならないのです。

 われわれは、氏子として、自分の犯した罪穢れを素直に反省懺悔して心から氏神さまにお詑び申し上げ、ただひたすらに、八意思兼大神さまの大稜威、氏神さまの稜威を蒙ることにより、罪穢れを祓い清めて自分自身が清々しくならなければならないのです。

 御神徳を期待しての祓では、ほんとうの罪けがれの祓とはならないのは、前記イザナノ命の古事に見えているとおりです。

 御神徳とは、恩頼(みたまのふゆ)ということです。恩頼とは、自分の魂を神さまに献げまつることによって、その献げた魂に、さらに神の稜威が加わり、威力の増大された魂となって自分に還ってくることです。

 「ふゆ」は「ふえる」であり増加することです。

 魂を神さまに献げるからには、罪穢れのために汚れた魂であっては、それこそ「神は非礼は受けず」でお受けになりませんから、なんとしても自分の魂を清々しい魂としなくてはならないのです。

 災害を解消しようという一事にとらわれて、御神徳期待、御神徳待望の祓であっては、真の祓とはならないのです。

 自分は氏子として、ただ、罪けがれを反省懺悔、心からお詫びしてその罪けがれを祓い清め、大神さまや氏神さまの御心に叶うようにつとめるのが先決問題であって、祓の結果、災害が解消しようがすまいが、それは、神さま任せです。

 自分は、罪けがれを心から反省懺悔お詑びして祓除するだけに止むべきであって、祓の結果、御神徳があるとかないとかは、神さまの世界のことであって、いわば、人間が神さまの世界にまで立ち入るという神権干犯(かんぱん)(神権を犯す)の大過を敢えてすることで、恐れ多いかぎりであるというような信念で祓を受けるべきです。そうした信念で祓をするならば、かならず災害は解消して、禍転して福となるのです。

 大神さま氏神さまは、氏子がこのような純真な気持ちで祓をするようになることを、お待ちになっておられることと拝察されるのです。

 「神任かせ」ということがいわれておりますが、このことばは、特に祓の場合に大切です。

 罪穢れを祓い清めるのは氏子の責任であり、氏子はこの責任を十分に果してあとのことは全部神任かせにすべきです。

 氏子がこの気持ちで祓をすれば、結果は当然よくなるわけです。

 「祓の効果は信仰に比例する」ということは、実にここのところをいっているのです。「苦しい時の神だのみ」とか「のどもとすぎれば熱さを忘れる」というような考え方では、邪神信仰はいざ知らず、四魂具足の真神霊にまします氏神信仰は成り立たないのであります。

 祓は結構でありまた当然行うべきものですから、祓をするからには、祓の起原たるイザナギノ命の古事を忘れずに、罪穢れそれ自体を祓い清めることに一意専念すべきであって、祓の結果を期待したり待望したりして行ってはならないのです。

 前言のように、災害を免かれたい、ということは、人情として当然のことではありますが、真の氏神たる四魂具足の真神霊は、人情だけでは動かされないのです。

 神を動かし、神の稜威が輝くためには、なんとしても四魂具足の神則はもちろん、自分自身の罪けがれを祓い清めて、われとわが魂を清々しい魂として氏神さまに献げまつることでなくてはなりません。

 祓を捧げるとは、換言すれば、神任かせということになるのです。

 祓の効果は、誰れしも望むところですが、効果を期待しての祓は、ともすると、期待どおりでない場合があるのです。何を措いても、効果ということを一応念頭から外ずして、ただ、自分自身の罪けがれを反省懺悔お詑びのうえ、清々しく祓い除けるという一事に徹するという純真そのものの祓をして頂きたいのです。

 イザナギノ命が橘の小門の阿波岐原において禊ぎ祓われた経過を見ますと、最初身につけたものを投げ棄てて禊ぎ祓われたときには、まず十二柱の神々が成りまし、次に上流は強い、下流は弱いとして中流にお出になって禊ぎ祓われたときに、祓戸四柱の神たちが成りましたのです。そして最後に前二段の禊祓いではなお不十分として、水中にくぐられて禊ぎに禊ぎ祓いに祓われたときに、たまたまゆくりなくも、天照大御神という高貴の神が成りましたのです。

 祓の効果が信仰に比例するということは、以上のイザナギノ命の禊祓の経過に徴しても歴然たるところがあるのです。

 しかも祓の起原が、イザナギノ命の禊祓の古事にあるのですから、祓の効果は信仰に比例するということは、動かすことのできない厳然たる事実です。

 原因によって生じた現象だけにとらわれて、原因たる罪けがれの祓除に重点を置かないような祓ばかりをしておりますと、結局、いわゆる邪神祓いに堕し、神を使うことになるのです。

 神は絶対に人間に使われないのです

 まことに祓の効果は信仰に比例するのであり、ここに真神霊信仰の絶対性があることを忘れてはならないのです。

                   (昭和三十七年九月九日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

                                         以 上

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