川俣 均委員長講演(34年号)17演題概要 34年担当【K・Y
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神嘗祭とわれわれの覚悟 十月・神嘗祭祝祭 一月号・324号
神嘗祭は、天皇がその年の新穀を伊勢の皇大神宮に奉るお祭で、今から1237年前から始まり今日にいたるまでずっと続いています。八意思兼大神さまは、伊勢の皇大神宮の相殿を去られてからは、この神嘗のお祭りをお受けになっておられなかったのですが、昭和3年2月4日に京都藤の尾の地から本会にお迎え申し上げ、私的ではありますがこの神嘗のお祭りを行っています。
我々本会会員は、一日も早く伊勢の皇大神宮にお帰り頂くためにも、真の敬神崇祖の氏神信仰である国教を確立する必要があります。この国教確立のために勇往邁進していただきたくお願いします。
遠 祓 十一月・秋季大祭 一月号・324号
「祓」は日本神道にとっては、祓に始まって祓に終ると言えるほどの大切な行事です。
氏神や祓戸の神は、時間や空間を超越した存在であられるので、遠祓の願出があると、本部では御神前において何々神社氏子何某の遠祓を執り行う旨奏上して、祓戸四柱の大神たちを招ぎ奉って遠祓の由を奏上し、氏子の罪穢れを祓い清めます。
遠祓の大きな効果を得るためには、心構えが重要です。自分が犯した罪穢れを心から反省懺悔して、氏神に対し深くお詫び申し上げるのです。
克 己 心 十二月・月次祭 二月号・325号
克己心とは、読んで字のごとく、己に克つ心です。己に克つというのは、自由気ままな自分の心をある程度制限し抑えることです。信仰生活を直く正しく送って神の御心に叶うようにするには、神の掟をよく守って、勝手気ままになろうとする信仰生活の自由をある程度制限しなければなりません。
すなわち克己心が要求される所以です。
家庭信仰の一致 一月・月次祭 三月号・326号
本会の信仰は、八意思兼大神さまのもとに統一された家庭信仰ですから、決して家長一人だけの信仰であってはいけません。家長を主軸として、一家揃っての信仰でなければなりません。
また家長一代きりではなく、子々孫々に伝えるべき大和民族本来の民俗信仰ですから、この信仰を後のものに渡すためには、家庭の信仰が一致しなければならないのです。
祖 霊 二月・月次祭 三月・326号
日本人は、農耕民族である上に、日本独特の気候や風土のもとで、昔から崇祖の概念が強かったのです。そして先祖を遠くさかのぼっていけば、当然遠い先祖に魂を授けてくださった氏之祖ノ神に到達し、さらに氏之祖ノ神の総代表であられる八意思兼大神さまがおられます。
祖霊は、人間味をもって家族たちを守護してくださるので、はっきり声を出して祈願するとよろしい。ただ祖霊が氏神と交通するには、八意思兼大神の稜威が無くてはできません。
八 意 思 兼 大 神 二月・大神奉斎記念祭 四月号・327号
昭和3年2月4日、八意思兼大神さまを本会に御奉斎申し上げましたが、ここに真神霊界の扉が開かれ、われわれは、大神さまの大みいつのもとに、氏神さまおよび祖霊さまを家庭に奉斎できるようになりました。
本日は、八意思兼大神さまのご功績について、天孫降臨前と降臨後とに分けてご説明します。
氏神信仰の絶対性 【原文で掲載】A型式 三月・氏神奉斎記念祭 四月・327号
日本民族は、いつでも四魂具足し得る霊性を具えている民族ですから、この霊性が常に発揮されるようになれば、四魂を円満に具足されている氏神との感合が成り立ち、その御守護がいただけることになるので、すべて神のまにまにという安心立命の境地が開け、真の幸福が得られるようになります。
真の氏神は、ニギギノ命第一世の168柱の御子神で、四魂を円満に具足され、人間が生まれれば魂を授け、死ねば魂を引き取ってくださる、眞神霊界に鎮まられる絶対の神です。
絶対の氏神に絶対の信仰を捧げるためには、まず迷いを去り、迷いを去るためには、祓いを執行し、祓執行後は、祓執行以前より一段と信仰が向上するよう努力しなければなりません。
理 外 の 理 三月・月次祭 五月号・328号
世の中には、いわゆる理屈だけではどうにも割り切れない場合がたくさんあります。いわゆる普通の道理では推定することができない神秘的な道理、これを理外の理といいます。
現実の人間世界では理外の理として不思議なことであっても、氏神様の世界では、道理にかなったことであり、また必然のことなのです。
案ずる、ということは取越苦労することであって、取越苦労するということは、結局神さまの御稜威を信じないことであり、神さまは、取越苦労するなと仰せられているのです。
魂 を 捧 げ る 四月・春季大祭 五月号・328号
信仰とは魂を捧げることです。魂を捧げることによって氏神は御神徳(みたまのふゆ)を下さるのです。絶対の氏神に絶対の信仰を捧げよと厳しく言われていますが、この絶対の信仰を捧げるということは、魂を捧げるということです。
われわれは、いたずらにみたまのふゆを望むことばかりに急であって肝心の魂を捧げることを忘れてはいないでしょうか。
人 を 憎 ま ず 五月・月次祭 六月号・329号
人間は、成長するに従って、その人の魂は経験霊(第三霊・第四霊といって、現実にこの世のさまざまな生活を経験済みの霊)と複合(結び付き)することにより、ここにはじめて人間としての考えを持つようになるのですが、邪悪な第三霊・第四霊が憑いておれば、その人の言動は邪悪になり、反対に善良な第三霊・第四霊を経験霊として持てば、その人の言うこと行うことは言行一致立派なものとなります。
仮に他人を憎むような心が起きた場合、これは相手に憑いている、邪悪な第三霊・第四霊の仕業であると悟るならば、人を憎むような心は起こらなくなります。人を憎み、人を怨む前に、先ずおのが心の姿を心の鏡に写してみることが大切です。
極め手を求めて 五月・創立記念祭 七月号・330号
極め手とはききどころ(極所)のことで、それ一つをもってもののかたがつき、極まりがつくことです。本会の信仰においては、ただ一つだけの極め手によって神に近づき御神徳を頂けるという分にはいきません。
祓いは一つの有力な極め手です。四魂具足することも大切な極め手です。また、御神恩感謝も肝要な極め手です。御神業のために努力することも立派な極め手です。
このように本会信仰の極め手は、ただ一つだけに局限されていません。沢山の極め手が綜合累積された場合に、始めて氏神さまは惜しみなく御神徳を下さるのです。
中 身 と 容 れ 物 六月・月次祭 八月号・331号
本会の信仰は、真の敬神崇祖、四魂具足の教えです。崇祖をさかのぼれば、当然、魂の授け祖(おや)である氏神さまに到達する、そして氏神さまは四魂具足の絶対の神さま故、氏神信仰に入って四魂具足につとめるならば、ここに神人感合が成り立って、偉大なみたまのふゆを蒙ることができるのです。
このように、本会の信仰は、立派な中身を持っています。
容れ物は、この信仰を奉ずる氏子自身です。氏子自身がこの信仰の中身に相応しい容れ物とならなければならないということです。それは四魂具足の人に近づくことです。一歩一歩四魂具足に近づくことにより、その人の人柄は、立派な中身に相応しい容れ物になっていくのです。
今まいり二十日 七月・月次祭 九月号・332号
「今まいり二十日」ということは、古くからあった諺で、新参の奉公人が忠実に働くのは、奉公にまいった当座のほんの二十日くらいで、まもなく怠けるようになる、という意味です。
本会においても、「今まいり二十日」というような態度のために、せっかく頂ける御神徳をみすみす取り落としている方々が見受けられるので、よく心していただきたいのです。
青森・北海道巡講所感 八月・月次祭 九月号・332号
青森、函館、小樽、空知、札幌などの各支部を歴訪したので、そのとき感じたことを、二、三申し述べます。
期 待 す る 心 九月・月次祭 十月号・333号
期待するということは、先様の都合を斟酌せず、自分だけで独り決めしてその結果だけを心待ちに待ち構えていることです。
一方、こうありたいという希望は、われわれに努力を要求します。希望は努力なくしては達成されないのです。
御神徳は希望すべきもので期待すべきものではありません。
期待に対しては失望が待っています。これに反し、希望に対しては光明が光り輝いています。
幸福になるには 【一部現代文で掲載】B型式 十月・月次祭 十一月号・334号
幸福とは不幸でない状態です。夢のような遠い世界の幸福などにあこがれないで、消極的のように見えても、不幸にならないように努力することによってもたらされるのが、現実の幸福です。
だから不幸の原因を取り除こうともしないで、幸福だけを望もうとするから、幸福になるどころか、かえって不幸は増すばかりです。
不幸の原因を取り除くには、信仰的に反省することが肝要です。
敬神崇祖、四魂具足のまことのかむながらの信仰のために、毎日毎日を努力して送っているか否やということです。
犠 牲 十月・神嘗祭祝祭 十一月号・334号
平田先生からの霊界からの御訓示です。
「今集まっている氏子達は、先覚者であると共に、この日本国家を救済するところの犠牲者であると認めるから事故のことばかり考えずに、明道会(本会の全身)において四魂具足の惟神の道を研究して、万民に教えを宣べ伝える心になって貰いたい。日に一分間でも良いからこの心になるよう希望するのである」。
以 上