幸 福 に な る に は   【3411月号】 P09  

 

惟神会委員長 川    俣       

 

幸福は誰でも望むものですが、なかなかつかみにくいものです。

もちろん一口に幸福と申しましても、それぞれ幸福という意味の受け取り方によって千差万別でしよう。自分から見て、あの人は幸福だとか、あの人のようになれたら幸福だろうとか、またあの人に比べればまだまだ自分の方が幸福だとか、つまり主観的なものが多分に支配しているのです。

上を見ても下を見てもきりがないなどといわれるのも、幸福というものが一見つかみどころのないものだからと思います。

俗にいう、竹の柱に茅の屋根であっても幸福を感じるであろうし、また金殿玉楼に住んでも幸福と思わない人もあるでしょう。

ですから昔から幸福の扱い方について、幸福危険論と幸福空虚論とに分かれているのです。

幸福危険論の代表的なものとしては、貝原益軒の「万の事、十分に満ちて、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰、酒は微酔に飲み、花は半開に見る。此言むべなるかな」という一節です。さらに通俗的なものとしては、「好事魔多し」とか「()つれば()く」というたぐいの諺であります。

また幸福空虚論の代表的なものは、人の世のはかなさを説いている仏教から発している無常観です。

兼好法師は『徒然草』の中で、大邸宅といったところで「さてもやはながらへ住むべき。また時のま

(けむり)ともなりなんとぞ、うち見るよりおもはるる」といっており、また鴨長明は『方丈記』に、

この世は「かりのやどり、たが為にか心をなやまし、なにによりてか目をよるこばしむる。そのあるじとすみかと無常をあらそふさま いはばあさがほの露にことならず」と書いているのです。

兼好にしろ長明にせよ、いずれも世のはかなさを説き、幸福とて仮りの世の夢に過ぎないものと説いているのです。

しかしながら真の日本神道の在り方は、生成発展弥栄の道です。かりそめにもこの世の無常をかこって現世から逃避することを教えてはおりません。

私がかつて「逃避するなかれ乗越えよ」と申し上げましたのも、実にここのところを申したのです。乗越えるためには、自力はもちろんのこと、さらに大神さま氏神さま祖霊さまの恩頼を蒙ることにより、いわば神人一体となって現実生活を乗切らなければならないのです。

幸福危険論については、これを解決するただ一つの道は、反省ということであります。

もちろん不幸災難の場合、つまり赤信号の時は、原因結果の法則によって、何が原因かということを、まず信仰的に反省しなければなりません。ところが万事調子よくいって幸福感にひたっている時は、とかく反省ということを忘れるのです。

ここに幸福危険論が台頭してくるのです。反省ということは、不幸災難の場合ばかりでなく、自分自身が幸福を感じた時すなわち青信号の場合にこそ、最も強く要求されねばなりません。青信号の場合に、自分の不徳不敏四魂不具足にも拘らずどうしてこんなに都合よく運んだのだろうと反省すれば、そこにおのずから御神恩に対する敬けんな気持が湧いてくるのです。幸福危険論に対する心配もなくなってくるのです。

ですからこの場合には、御神恩に対して反省すると同時に、御神恩感謝のまことを実行すべきです。折角手にした幸福が跡かたもなく消え失せて、幸福危険論や幸福無常観の好餌となり終わるのは、すべて心からなる反省が足りないからです。

反省ということは赤信号の場合はもちろん青信号の場合においても大切です

われわれは、畏くも八意思兼大神の大みいつのもとに、氏神を祀り祖霊を祀って敬神崇祖四魂具足の信仰にいそしんでおるのですから、このかぎりにおいては、世にも恵まれた幸福者でなければならないはずです。

ところが残念なことには、しばしば不幸を訴えられるのは、どうしたことでしょうか。もちろんわれわれは、ただ自分だけが幸福になればよいことを念願して氏神信仰をしているわけではないのです。他人を幸福に導くことにより結局自分も幸福になるのでして、ここに大神さまの大いなる御神業の意義が厳として存在しているのです。

そこでまず考えたいことは、人間はいつでも不幸になり得る、幸福にはそうやすやすとなれないが、不幸にはすぐにもなってしまうということです。自分が幸福だと思ったときには、その幸福だという事実は、すでに過去のものとなっているのです。幸福を手にしたと思った途端にその幸福は消えてなくなっているものです。

ですから前述した兼好法師の幸福空虚論などが人の心を打って、処世哲学のようになっているのです。

しからば人間はとうてい幸福などは望むべくもないかということです。

敬神崇祖四魂具足の信仰にいそしみ、大神さまの大みいつに抱かれているからには、当然幸福が招来されなければならない道理です。

世の中には、さまざまの幸福論がいろいろの書物となって現われております。そしてこれらの本は、どうしたら幸福になれるかということは書いてありますが、幸福の裏側にある不幸についてはいつこうに触れていないのです。

ところが、こうした幸福論を読んでも、なかなか幸福にならないばかりか、反対に多くの場合不幸に陥っていくのです。

ということは、幸福というものを、何か夢のような光り輝がやいている美しいものであるかのような錯覚を抱かせるのが、こうした世上の幸福論であるからです。

自分が幸福だと思って心にゆるみが生じた時には、その幸福はすでに過去のものとなっているのです。すでに早く不幸という暗い影が忍びよっているのです。(こういう場合こそ、前述した神恩感謝…青信号に対す

る反省が必要となってくる)

このように幸福は、僅かの間に消えてなくなっても、不幸はいつも間近に忍びよって来て、なかなか去りがたいのです。幸福は容易に手にすることができませんが、不幸は簡単にやってきて離れないのです。否な、不幸は自分で手にしなくても、不幸の方から勝手にやってくるものなのです。

幸福を経験したことのない人でも、不幸ならいくらでも味わっているでありましょう。

逆説的に申せば幸福になりたいと、われひと(自分と他人)共に念願しているということは、不幸があまりにも恐ろしいからではないでしょうか。

人間は誰でも不幸から逃げ出したいのです。不幸が先さまからやってくるのが判ったならば、全速力で逃げ出したいのが人情でしょう。われわれは、いつ飛びつかれるか判らない不幸に、取り囲まれているとしたならば、できるだけこれらの不幸を寄せつけないようにしたいと思うでありましょう。或いはまた不幸から逃がれたいと思うでしょう。

しかしながら不幸から逃げ出したいという考え方は、日本神道本来の生成発展弥栄の思想ではないのです。不幸に対しては、どこまでも逃避することなく乗越えてゆかなければならないのです。

不幸は恐ろしいものであり、いやなものですが、逃げ腰にならないで、不幸に向きあって対決する気構えになるべきです。不幸というものは、幸福と違って、現実的であり具体的なものですから、面と向い合いさえすれば、不幸の正体を見きわめることができるのです。

不幸の正体が判ってみれば、不幸も、そんなに恐ろしいものではないかもしれないのです。

そう覚悟をきめれば、自分にしがみついてる不幸の手を解き放なして、不幸を向うへ追いやる方法が見つかるのです。

すなわち不幸から逃避することでなく、不幸を乗越えることができるのです。

そこで幸福ということを、 現実的に解釈すれば、 それは不幸でない状態ということでありましょう。

幸福というものを、 不幸でない状態とするならば、 これを永く続かせることも可能なわけです。

すなわち毎日毎日の現実の生活として、その中に幸福を経験することができるのです。

自分たちの足もとに無数にころがっている不幸の原因や事実を直視しないで、あてどもなく、どこか遠くにありそうな気のする夢のような幸福をさがし求めて歩いておるから、いつのまにか足が大地から離れて、必らず不幸というものに足をすくわれて倒れてしまうのです。

不幸にならないこと、或いは少なくともできるだけ不幸にならないことが、幸福なことだとしたならば、幸福になる方法も自然と見つかるのです。

積極的に夢のような幸福を求めることよりもできるだけ不幸にならないことできるだけ不幸から逃げないで不幸を乗越えてゆくことが一見甚だ消極的ではありますが現実に幸福になることではないでしょうか

そこで大切なことは、まず不幸に陥らないように気をつけることです。われわれは、毎日毎日、うかつにしておれば、いつ見舞われるかもしれない沢山の不幸と対面しながら生活しているようなものです。

そして万一、不幸にとりつかれたならば、そのときこそ逃避するなかれ、乗越えよという生成発展弥栄の不退転の信念をもって、これを乗り切って進むべきです。そうすれば、おのずから、毎日毎日が幸福になってくるのです。

不幸を取り除けば、いやがおうでも、残るものは幸福です。不幸でなければ幸福、幸福でなければ不幸でありまして、不幸と幸福との中間的なあいまいの存在などというものは、このきびしい現実の生活には存在し得ないのです。

要約すれば幸福とは不幸でない状態であります

ですから、夢のような遠い世界の幸福などにあこがれないで、消極的のように見えても、不幸にならないように努力することによって、もたらされるのが現実の幸福です。

幸福というものをこのように考えるならば、どうすれば幸福になれるかという命題はおのずから解決されるのです。

病気になることが不幸だと思ったら、病気にかからないように気をつけることです。家庭不和が不幸だとしたならば、家庭の和合一致を考えるべきです。また商売がうまくゆかないのが不幸だと知ったならば、商売が栄えるように工夫し努力すべきです。まことに自分を不幸にする原因は、身近に無数にころがっているのです。

この不幸の原因を取除こうともしないで一足飛びに夢のような幸福だけを望もうとしますから幸福になるどころかかえって不幸は増すばかりです

われわれは、ありがたいことには、畏くも八意思兼大神の大みいつを頂いて、氏神祖霊を祀り、敬神崇祖四魂具足のまことのかむながらの信仰にいそしんでいるのです。したがいまして大神さまの大みいつ、氏神の御神助、祖霊の御守護のもとに、われわれの身辺に蝟集(いしゅう)(寄り集まる)している不幸の原因を取除くことができるのです。

それにはまず、何が自分を不幸にしているかを、信仰的に反省してみることが肝要です。

四魂具足に努力しているか否や、罪けがれに対する自覚反省とその懺悔による祓をしているか否や、御神業に努力しているか否や、抱え込み信仰に陥って御神恩感謝のまことを実行しているか否や、その他沢山の事柄が挙げられるのです。

約言すれば、敬神崇祖四魂具足のまことのかむながらの信仰のために、毎日毎日を努力して送っているか否やということです。不幸にさせるのは他人がさせるのではなく、自分自身で自分を不幸にさせるのです。毎日毎日を信仰的に努力しないからこそ、夢のような幸福にあこがれるのではないでしょうか。

幸福を願うのではなく、不幸にならないように、信仰的にも人間的にも努力を怠らないならば、幸福は毎日毎日の生活のなかに見出されるのです。

真の幸福というものは、現実的に毎日の生活のなかに見出され、しかも誰れの手にもとどくところにあり、いったんこれを手にして手を開いてみても、そこから消え去るものであってはならないのです。

まことに自然は飛躍しないといいますが、現実もまた飛躍しないのです。

われわれの求める幸福は、現実から飛躍したものであってはなりません。現実から飛躍した幸福というものは、それこそ光り輝がやいて美しいものに見えるでしょうが、そうした幸福は、所詮手のとどきそうもない遠いかなたにある夢のようなものです。飛躍しない現実は、みみっちくけち臭いものでありましょう。

しかしながら幸福になろうと願うならば、このけち臭くもみみっちい現実と取組んで、不幸をもたらす要因を刻明に、一つ一つ、解決して乗越えて行く以外に方法はないのです。

こうした行き方は、見る人によっては、幸福という人世の美しい夢を、無惨に打ちくだいてしまうことになるかもしれませんが、われわれにとって大切なことは、夢ではなく現実でなければならないのです。

不幸にならないためには、夢のような幸福にあこがれることよりも、毎日の現実の生活を堅実にまじめに、しかも素直な謙虚な気持ちをもって御神恩を感謝しながら、一歩一歩、克明に四魂具足の神掟のまにまに送らなければならないのです。

幸福を望むことによって幸福が得られず、不幸を乗越えて行くことによって幸福がもたらされるのが、このきびしい現実の姿です。

神に言なし 四魂具足すれば神人感合して恩頼を蒙ることにより幸福になることができるのです。

ですから積極的に四魂具足に努力することは、もちろん大切ですが、一歩退いて、何が自分をして、四魂不具足たらしめ、自分を不幸に陥れているかを深く再思反省してみることが、ゆるがせにできない肝要事であります。

幸福になるには、まず不幸を自分の身辺からなくさなければならないのです。それはやさしいようで、むつかしいのです。

しかしながら、敬神崇祖四魂具足という真の氏神信仰は、われわれの身辺に漂っている不幸の原因をなくすことが結局、自分自身が真に幸福になる所以であることを教えているのです。

ところが毎日の生活において、着実にこれを実行しないでただ夢のような幸福ばかりを望んでいるから、かえって不幸に陥るような仕儀となってしまうのです。

夢は飛躍しますが、現実は飛躍しないのですから、大地にしっかり足をふみしめて、信仰的にも人間的にも、まず身辺から不幸の原因を取除き不幸を乗越えてゆかねばなりません。

きびしい現実の生活において、幸福になるには、消極的ではありますが、こうした着実な方法によるほか他に方法はないのです。

畏くも八意思兼大神の大みいつによって氏神がはたらかれ、また氏神のみいつによって祖霊がはたらかれるのですから、氏子たちは人間的に四魂具足の神掟を信条として辛抱強く努力するならば、不幸をもたらす原因は次ぎ次ぎに解消して自然と幸福になるのです。

ですから幸福になるには、この氏神信仰をしっかりと離すことなく、この信仰の力によって身辺に蝟集して不幸をもたらす数々の原因を取除くことでなければならないのです。

 

(昭和三十四年十月四日 八意思兼大神月次祭における委員長の講演要旨)

 

                                         以 上

戻る