川俣 均委員長講演32年号)17演題概要  32年担当【A・T】 P12   

 

 

                          十月・神嘗祭祝祭   一月号・302号

大神さまが氏神の総代表であられるということは、現界において人間が氏神の御意志を体して人間の手による文化や文明の創造を営むのにも、また霊界において祖霊たちが氏神のみいつのもとに浄化という霊界生活における創造をつづけるのにも、すべて大神さまの大みいつを蒙らなければ不可能であることを意味するのです。

御利益とか御神徳とかいうものは、われわれが氏神の御意志を体し、また八意思兼大神の御意志を体し、さらにまた天照大御神の御意志を体して、永遠の創造を営みつづけて行くところにもたらされる恩頼(みたまのふゆ)であります。

   宗教はなぜ必要か の命題に解決を与えるものは、神の意を体して人間の手による創造をして過ちなからしめんとするにあるのです。

 

八意思兼大神と氏神  【一部現代文で掲載】B型式           十一月・秋季大祭   一月号・302号

本会の運営が委員組織によって行われているように、神界においても、大神さまの思召しによって委員の氏神たちが選定され、またこの委員の氏神たちの中から 委員長の神、副委員長の神が選ばれて

大神さまの相殿の神として祭られているのです。そして氏神たちは毎日、委員長の神のお?に集まって頂くことになっているのです。(昭和九年一月二十四日 御神示)

こうしてつねに大神さまの御指導、御監督のもとに、氏神委員会が開かれるのです。また毎日お集まりになる氏神たちは、氏子の信仰状態等につき、大神さまに御報告なさるのです。

大神さまの御神示のなかに、氏子が勝手な願いをするので氏神達は困っている。氏神達は集会のつど、この点について評議している。というような恐れ多いお言葉がありますが、氏子たちは、つねに大神さまの大前で神庭会議をなされる氏神たちのお立場を拝察して、かりそめにも自分の氏神が大神さまに対して肩身の狭いような思いをなさらぬように心がけるべきです。

 

天    線  【原文で掲載】A型式                    十二月・月次祭  二月号・303号

天線(てんせん)とは、人間が真神霊であられる氏之祖ノ神を信仰するとき、その家について神界から真神霊が交通感合されるために、或る特殊の光が、黄金色または紫色の霊線となって現れるのをいうのです。この線は、一家の信仰の程度に従って、その太さも濃さも異なるのです。

一家のものが、一致して信仰するときには、この天線は太く且つ濃くなって、家族たちは邪神や邪霊などから迫害を受けるようなことは全くなくなり、病人のようなものもだんだん発生しなくなるのです。

また天線が太くなり濃くなれば、一家が完全に天線の中に包容されますから、悪魔のごときものは絶対に侵入できなくなるのです。

すなわち真に家内安全となりて、家業は繁盛し、物質にも恵まれ、子孫にいたるまで安泰となるのです。

 

幸 福 へ の 道                                 一月・月次祭  二月号・303号

資本主義の社会では幸福になれない、社会主義、共産主義の世の中になれば幸福になれるなどとさまざまの議論が闘わされて居りますが、かりにどんな社会制度になっても、各人が自分だけの幸福を独り楽しんで、隣人を幸福にするように努力しないかぎり、幸福な社会生活というものは実現されないのです。

個人が人に尽くし得る限度は知れたものですが、それを知れたものと軽視したりしないで、それぞれの分に応じて隣人の幸福を考えなければなりません。それが人間のつとめでして、世のため人のためという四魂具足の教えであります。

八意思兼大神さまは、氏子だけが幸福を独り楽しむために、氏神祖霊を奉斎させて下さったのではないのです。

大神さまは、惟神会員の大神さまであられると同時に、九千万の日本民族の大神さまです。

ですから、われわれは氏神信仰によって得られる真の幸福を、他の隣人に対してもお裾分けする義務があるのです。

これがすなわち御神業です。

 

                          二月・大神奉斎記念祭  三月号・304号

また氏神は、いわゆる人間味のない四魂具足のきびしい神さまですので、氏神と氏子との仲とりもち役として、人間味のある祖霊(祖霊はどこまでも祖霊で、神にはなれない)が介在して、敬神崇祖の信仰が円満に進められるような仕組みになっていますが、祖霊界と人間界とのいろいろな問題については、

思慮の神・分別の神・知恵の神・調和の神であられる大神さまのお計らいによって、円満に解決されているのです。

会員のなかには、本部に参拝もしなければ、また大神さまに対する御神恩感謝もしないで、ただ自分の家に氏神を抱え込んでいても、結構御神恩があるようなことをいっている人もないわけではありませんが、そういう人たちの御神徳というのは、ただ私欲に基づく金銭的なもの以外にないのでして、これではいつまで経っても、真の信仰の軌道に乗って、物心両面に亘って幸せとなることができないのです。

金は儲かったが家庭は不和であり健康がすぐれないでは、本当の御神徳とは申されないのでして、四魂具足の氏神の下さる御神徳は、やはり四魂具足の御神徳であることを忘れてはならないのです。

 

四魂具足の一つの行き方                            二月・月次祭  3月号・304号

まず四魂具足の一つの行き方として、身辺にいちばん関係の深い 各々の家庭や職場などで、幸魂を中心とする四魂具足に努力することが、比較的容易に四魂具足の行き方を体得する所以と存じまして、いろいりと申し上げた次第です。

道は近きにあり、まず日常身辺のことから始めて頂きたいのです。

   四魂具足すれば金も儲かります。病気も治ります、家庭も平和になります。他人との交際もうまくいきます。そして八意思兼大神さまの大みいつにより、また祖霊の守護によって、ますますよい運命が開かれて行くのです。

 

人生の折り目と氏神                        三月・氏神奉斎記念祭  四月号・305号

御承知のように氏神は、こどもが生まれ出た瞬間に 魂を入れて下さいますから、われわれが 真の

氏神を信仰しておれば、出生に際して入れられる魂は、それこそ氏神のみいつによって浄化された、

真澄みの珠のような魂であります。しかもこの授けられた清らかな魂は両親や家族が一致してますます信仰に励むならば、氏神のみいつのもとに、いよいよますますりっぱな魂となって成長を遂げることができるのです。

しかしながらどんなに清浄な魂を入れられましても、魂ひとりでは活動できず、かならず第三霊、第四霊という経験霊との複合作用を必要としますので、出生後において両親や家族の信仰が四魂不具足である場合には、好ましからざる邪悪な経験霊がその清浄な魂と複合して、その子供は好ましからざる成長振りを示すのです。

それ故に出生後において両親や家族の信仰がいちだんと向上するように努力しなければ、立派な跡取りが得られないのです。

 

神さまは一視同仁(いっしどうじん)(全ての人を平等に見て仁愛を施す)             三月・月次祭  五月号・306号

とかく人間というものは勝手なものでして、自分に罪がないと思ったときほど、人間が汚れているときはないのであります。

また自分はこんなに人のためにつくしていると思ったときほど、真実はつくしていないのです。

反対に、自分の罪の深さを自覚したときほど、人間が清まっているときはないのであります。

また自分はまだ人のためにつくし足りないと思った人ほど、その人は不言実行世のため人のためにつくしているのです。

四魂具足に努力することも、また御神業のためにつくすこともこの例外ではないのですから、つねに謙虚にそして素直に反省するところがなければなりません。

神様は一視同仁』ですから、御神徳の不足をかこつ前に、まず自覚反省して静かに既往をかえりみるならば、その原因の多くは 四魂具足しているか否か 御神業に熱心であるか否かの二つに要約されるのです。

 

                             四月・春季大祭  五月号・306号

大神さまがお出ましになられて、われわれに氏神や祖霊を祭らせて下さいますのは、われわれ個人だけを救おうということばかりでなく、広くこの教えを世に弘めて、この日本の国をお救いなさろうとする大神業(おおみわざ)を完成なさらんとする大御心に存するのであります。

ですから、われわれ会員は面氏子として自己の信仰を高めると同時にもう面惟神会員としてこの大いなる御神業に献身すべき義務があるのです

   神の御心に叶うということは、ここのところをいうのです。そこで四魂は、申すまでもなく、奇魂 荒魂 和魂 幸魂の四魂をいうのでして、この四つの魂が一丸となって発露されるところに、四魂具足が成り立つのです。

 

文 明 と 病 気                                 五月・月次祭  六月号・307号

   かむながらのまにまにあるということは、生も死もすべて神任せにする、現界での死は霊界での生である、という顕幽一貫した死生観に立つことであります。

   この死生観に立てば、死も怖るるに足らずという安心立命の境地が開けてくるのでして、おのずから自分の生命力に対する自信が湧いてくるのです。

そこでかむながらのまにまにあるためには、四魂具足に心がけることはもちろんですが、この敬神崇祖の信仰をわれわれにお教え下さった八意思兼大神の大みいつに対して、感謝と報恩のまことをつくすことにより、大神さまの大みいつがわれわれの氏神信仰の上に伊照り輝きわたるようにつとめなければなりません。大神さまを忘れた我欲一点張りの氏神信仰だけでは(自分だけの抱え込み信仰)かむながらのまにまにという境地は得られないのです。

なんとしましても、氏神信仰の上に、大神さまの大みいつが及ばなくては、真のかむながらのまにまにというわけにはまいりません。

 

                             五月・創立記念祭  七月号・308号

日本の神道は、祓いに始まって祓いに終わっている といっても過言ではないのです。

しかも本会の祓いの行事は、畏くも八意思兼大神の大みいつを蒙ることによってその効果はいちだんと顕著なものがあるのです。

自分のことを申し上げて恐縮ですが、私は日供に献める水玉の蓋は毎日きれいに洗っておるのですが、いつの間にかその蓋の裏側に水垢がたまっているのに気付き、塩で磨いてきれいにしたときに、ふとわれとわが心に思ったのであります。

   それは 自分の身も心も、この水玉の蓋の水垢のように、いつの間にか 汚れているのではないかと

自問自答と共に深く反省しまして、その翌日早速本部に遠祓いをお願いしたのです。

たまたま私は祭服の持ち合わせがありましたので、祭服を着し妻と共に御神前にひれ伏し、遠祓いをうけまして、非常に清々しくなったのです。

清く あるためには、心の反省が大切なことは勿論ですが、この反省を形に現して神に誓うためには、清祓いの神事が必要です。

   しかも信仰が進めば進むほど、僅かの罪穢であっても、神さまは決してお許しになりませんから罪穢を犯さないように気を付けることはもちろんですが、万一過ち犯した場合は、それらを素直な心になって、祓い清めなければならないのです。

 

                                    六月・月次祭  八月号・309号

氏神信仰を根本的に基礎的に理由づけるものは、おや孝行 の原理です。孝は百行の本といわれるように、現代では親と子の関係がうまくいっていないために諸悪がこれに伴って発生しているのです。

   そこで 孝行 という意味ですが、説苑(ぜいえん)(平安時代に我が国に将来された漢の道徳を説いた書物)によれば、

親によく仕えること とあるのです。

   ところが支那の思想は、非常に現実的でして、孝行といっても、生きている親によく仕えることに終始しているのです。霊魂や神霊の実在を信じて、つねに死生一貫の世界観を持っているわれわれ日本人の本当のおや孝行は、生きている親は勿論、死んだ親やその先祖にまで及ばざるを得ないのです。

   さらにまた、先祖の霊によく仕えるという孝行の念は、先祖のそのまえ、遠い大先祖をしてあらしめたところの魂の授けおやであられる氏神に対しても、よく仕え奉るということにならなければならないのです。

   すなわち敬神崇祖の氏神信仰が顕幽一貫した真のおや孝行ですが、私をしていわしめるならば、これだけでは、おやによく仕えるという孝行の意義を全くいい現したものとは申されないのです。

ということは、われわれが、この敬神崇祖という氏神信仰によって、顕幽一貫した真のおや孝行を実践することができるのも、ひとえに畏くも八意思兼大神の大御教(おおみおしえ)の賜であります。

   ですから、祖先や氏神によく仕え奉る以上は、当然大神さまに対しましてもよく仕え奉らなければならないのです。

 

陰 徳 の 精 神  [附 或る会員の話                      七月・月次祭  九月号・310号

   申上げるまでもなく、四魂の道は、充ち満たすべき道であり、またまごころ一筋の道であるだけに、わざわざ人に知れぬように行わなければならないとか、またわざわざ人に認めてもらうように行う必要もないのです。

   ところが、ともすると、この道を行うのに、これ見よがしに、或いは他人から認めてもらいたいような気持ちでいる人がないわけではないようです。

   これではすでに四魂の道の本質であるところの まごころ から遠く離れておるので、お世辞にも四魂に叶っているとは申されないのです。

   そこで 陰徳の精神 ということが必要とされるのです。人が見ていようが見ていまいが、また人が認めてくれようがくれまいが、ひとり四魂のわが道を往くのが陰徳の精神 です。

   私はかって 神様は見通し ということを申し上げたことがありますが、われわれが徳を行い徳を積むということは、人間相手ではなく神さま相手です。

   われわれがほんとうに神さま相手に徳を行い徳を積むならば、必ず神さまは報いて下さるのです。

 

四魂具足を唱えましょう                           八月・月次祭  十月号・311号

   神の御心に叶うということは、自分が神の御心に近づく心境になるということです。

神の御心に近づくためには、神の御心である四魂具足ということを、わが心に固く植え付けておかねばなりません。

そうするためには、神の言葉である四魂具足という言葉を、唱え言葉として、常住(じょうじゅう)座臥(ざが)(常に)唱えることです。

   昭和四年四月二十八日 春季大祭 第一日において、平田先生は御訓示の中で

  次に会員全体に願うことは、氏神様に祈願する場合には四魂具足の神則を離れないように心懸けて頂きたい。たとへぱ 仏教信者が、眼が醒めれば直に 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と云うように、会員たる者は、朝眼が醒めたら直に 四魂具足 四魂具足という心が真先におこるように 四魂具足 四魂具足と心懸けて貰いたいのであります。

と仰せられて、四魂具足のいちばん容易な実行方法を教えられているのです。

   心懸けるということは、常に心にとどめる、常に用意する、忘れずに思う、ということです。

常に用意し心にとどめて忘れずに思うためには、常に口ぐせに唱えることがいちばん効果的であり、

またこれに越した方法はないと思います。

 

 

 

平田霊示と四魂具足                              九月・月次祭  十月号・311号

   平田篤胤大人命が、その御霊示において、四魂具足 四魂具足と心懸けて貰いたい というまことにありがたい指導を賜ると同時に、四魂具足に心懸けることによって、神人感合の状態になり得る という非常に希望に満ちたお約束をなされたことに対しては、ただただ、感激のほかはないのです。

どうかみなさん「四魂具足は神のことばなり。反復これを唱えまつれば神人感合おのずから成る。

稜威信じて疑わず四魂具足を唱えまつるべし」という文句によって、四魂具足奉唱の利心と信念を振り起こし、つねに 四魂具足 四魂具足と繰り返し 繰り返し唱え抜こうではありませんか。そして、

平田先生のきびしいなかにも、恩情溢れるこのありがたい御霊示に応え奉ろうではありませんか。

 

神恩に()れる(馴れてあなどる)                         十月・月次祭  十一月号・312号

   真の神は、神罰を与えないからとて、四魂不具足のままいい気持ちになってますと、たちどころに天線というみいつのきづなが切れて、邪神邪霊のとりことなり、やがては悲惨な境遇に陥るのです。

   その場合神さまは、冷然と氏子の反省をいつまでもお待ちになっておられるようです。

御神恩に狎れて氏子としての義務を果たさないような場合には、神さまは決して神罰は与えられませんが、ただ天線というみいつのきづなが切れて、氏子は不幸の境遇に陥るばかりです。

氏神さまが氏子に感合なさるただ一つの条件は四魂具足だけですので、御神恩に狎れて感謝のまことを怠るような氏子の四魂不具足に対しては、いささかの神人感合も生じ得ないものと、つねに肝に銘じておくべきです。ですから、われわれは御神恩に狎れるということを、つねに戒めていなければならないのです。

 

わ れ ら の 責 務                            十月・神嘗祭祝祭  十一月号・312号

 真の信仰生活は、どこまでも捧げて恵まれることでなければなりません。

   御神業に心身を捧げることがなければ、恵まれることもないのです。

   神は近づかず近づくべしということは、まず御神業のための心身を捧げることから出発すべきです。

   まことにわれわれは、選ばれたる光栄ある犠牲者です。

   しかも大神さま、氏神さま、祖霊さまというみいつの天線の御守護のもとに、心おきなく御神業に努力できる態勢にあるのです。さらにそのうえ、神さまはわれわれの御神業のための犠牲に対しては、かならずそれ以上のことを恵まれるのです。

   ですから、われわれは、つねに安心して、そして心強く、光栄ある御神業の荷い手として喜んで御神業のために犠牲とならなければならないのです。

 

以 上

講演目次へ戻る