八意思兼大神と氏神 【32年1月号】 P11
惟神会委員長 川 俣 均
は し が き
およそ宗教団体というからには、本部または本山とその信者から成り立っており、信者は本部または本山におまつりしてある祭神または本尊の分霊(わけみたま)を各自の家におまつりしているのが通常の例です。殊に新らしく興った宗教団体は、概ねこの形式をとっているようです。
ところが本会の在り方は、こうした形式とはいささか趣きを異にしているのです。申し上げるまでもなく、この本部には、主神(まはしら)として八意思兼大神を御奉斎申し上げ、会員であるみなさん方のお宅には、氏神が祭られているのです。
すなわち本部の主神と会員の祭神とは、ただ形の上から見ますと全く異った祭神です。この点において、本会は特異の宗教団体です。
しかしながら大神さまと氏神との関係は、単なる分霊関係以上(もちろん氏神は大神さまの分霊ではない)に密接不離なものがあるのです。
本会の敬神崇祖の信仰を進めて行きます上において、これに基いて信仰に励みませんと、いわゆる家庭信仰のための家庭信仰という、ひとりよがりの信仰に堕してしまって、折角お祭りした氏神さまもみいつの発揮しようもなければ、また折角ところを得た祖霊さまも御守護にこと欠くことになるおそれがあるのです。
かつて、ある著名な既成宗教の方が、本会において本部の祭神と会員の祭神とが異っている点を指摘して、敬神崇祖の信仰はまことに結構であるが、本部と会員の祭神の異なることは運営上一つの盲点である、というような批評をしたことを聞きましたが、ただ表面上だけを見れば、こうした批評も出てくるわけです。
しかしながら本部の主神であられる大神さまと会員の祭神である氏神との関係は、全く単なる分霊以上のものがあるのです。またこれあればこそ、本会の敬神崇祖の信仰に国民的あるいは民族的意義があるのです。
いろはかるたに 「よしの髄から天井のぞく」という文句がありますが、人間というものはとかく狭い自分だけの考え方にとらわれ、大局を見ることを忘れて、失敗し易いものです。
本会の敬神崇祖の信仰も、ただ表面上の家庭信仰という形の点だけに捉われて、その奥にひそむ真実を見失い、氏神さまを自分だけで抱えこんでしまうようになると、大神さま在わしての氏神という信仰上のいちばん大切な要点を看過して、折角頂けるみいつも頂くに由ない仕儀に陥るということは、まことに残念至極な次第です。
ここに、いまいちだんの御注意を喚起して、お互いの信仰向上に資したいと思うのです。
天孫降臨と八意思兼大神で
われわれ日本民族の発祥は、天孫降臨に始まるのです。
天孫降臨以前にも、日本の国土には、いわゆる先住民族がおりましたが、これは日本民族とは申されないのです。
申すまでもなく日本民族は日本民族魂を具えておるが故に日本民族であります。
民族を異にするということは、民族・魂を異にするということにほかならないのです。この日本民族魂は天孫降臨によってはじめて考えられるようになったのです。
終戦後国民思想や社会思想の極端的な改変が起りまして、われわれ日本民族発祥の経緯を雄大に物語っている天孫降臨に関するくだりを、単なるお伽ばなし程度に考えて、自から日本民族の誇りを抹殺して顧みない手合いがあります。まことに嘆かわしいかぎりです。
物質文明の極めて高度に発達した新興大国アメリカでは、かれらの祖先の文化のみなもとを、世界最大の文化が発生したといわれる地中海文化に求めて、新興のかれらアメリカ民族に対して大いに箔をつけようとしているそうです。
天孫降臨の次第については、いまさらこと新らしく申し上げるまでもありませんが、八意思兼大神の深い御神慮によって、葦原中国(日本の国土)が平定されましたので、天照大御神は、御孫のニニギノ命をこの国土に天降し給うて、この国土を
しろしめす(お治めになる)ことを命じられたのです。
しろしめすということは、民の心をわが心としてお治めになることでして、いわゆる武断(武力を以て)政治、独裁政治、封建政治とは全く異なるのです。武断、独裁、封建というような政治の在り方は、二魂または三魂の先住民族魂によってわざわいされたがためでして、真に民主的な四魂民族の政治の在り方ではないのです。
(この点におきましても、日本民族の全部が一日も早く四魂民族としての本領を発揮することができるために、氏神信仰の緊急不可欠の理由があるのです)
天照大御神は、このしろしめす政治が行われるために、八意思兼大神を天孫ニニギノ命に副えて賜ったのです。
この間の次第を古事記は次のように記しているのです。
是に其の(寄せ集へ給うた)八尺勾?・鏡・及草那芸劒(三種の神器)・亦常世思金神・手力男神・天石門別神を副へ賜ひて、詔りたまへらくは、此れの鏡は専ら我が御魂と為て、吾が前を拝くがごと、いつき奉れ。次に思金神前の事を取り持ちて、政為よ、とのりたまひき。
これによりますと、八意思兼大神は、政治の大神として ニニギノ命と共に天降りました
のです。
天孫降臨にいたるまで大神さまが政治の神、知恵の神としてお働きなられた数々の事蹟は、天石屋戸の変から大国主命の国土奉還に至るまで、その都度諸々の群神と相謀って事を行うという全く独断専制のない民主的な政治の在り方であったのです。まさにしろしめす政治にほかならなかったのです。
この故に、天照大御神は四魂具足に基くしろしめす政治が行われるために、この国土に大神さまをおつかわしになったのです。
天孫降臨に際しては、沢山の神々か天降りましたが、政治の大神としては、ただ八意思兼大神だけであります。従って大神さまの御責任は非常に重大でありましたので、天照大御神は、三種の神器と同一の意味で大神さまをニニギノ命に副い賜ったのであります。
八意思兼大神は、ニニギノ命に随伴して天降ったのではなく、むしろニニギノ命は、天照大御神の御神勅のまにまに、大神さまを三種の神器と同列におぼしめされて御一緒に天降ったといえるのです。
ですから、日本の政治はこのときから天照大御神の御意志を体し、しろしめす政治すなわち民の心をわが心とする政治でなければならなかったのですが、悲しいかな、天平九年聖武天皇の御代に大神さまが伊勢の皇大神宮の相殿から山城の藤の尾に遷されましたので、それから武断専制独裁封建の政治が行われて、これを境として日本の悲劇が後を絶たぬようになったのです。
天孫ニニギノ命の降臨に際して、天照大御神の命によって天孫と共に天降りました天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五柱の神々は、各々その専門の職の長(組長)としてニニギノ命の一行に加わり従って天降りましたのであって、国を治めることの資格のない神であったのです。
政をする神は、ただ八意思兼大神御一柱だけであったのです。
大神さまが伊勢を去られてから、この区別が全く乱れたために、国の政治も乱れるに至ったのです。
重ねて申しますが、八意思兼大神は、天照大御神の御意志を体して政治を行うために天降りましたのでして、その御資格は、三種の神器と同一の列にあったのです。すなわち大神さまは天孫ニニギノ命にお伴して天降ったのではなく、ニニギノ命の御相談相手の立場にあられたのです。
まず、この点を会員諸氏が強く認識されるように希望して止まないのです。
八?意?思?兼?大?神?と?氏?神
天孫降臨の天照大御神の御神勅に
「此れの鏡は専ら我が御魂と為て、吾が前を拝くがごと、いつき奉れ」
とありますのは、これによって敬神崇祖の意義が教えられたのです。すなわち天孫命等にとりまして、専ら我が御魂を斉き奉れとの御神意は、天照大御神を祖神として斉き奉れとの御神意にほかならないのです。この場合天照大御神はニニギノ命にとっては祖神であり祖先でして、敬神は崇祖に在りということが教えられたのです。敬神と崇祖とは可分のものではなく、崇祖をさかのぼれば当然敬神(祖神を敬う)に達するのです。
わが皇室におかれましては、この御神勅のまにまに賢所に天照大御神の御魂を奉安し、皇霊殿には代々の天皇の御魂をお祭りして敬神崇祖の御信仰を実行なされているのです。
わが皇室は皇室なるが故に皇統連綿たるのではなく、このように天照大御神の御神意を体して敬神崇祖の信仰をおごそかに実行なされているから皇統連綿であるのです。
ニニギノ命は天照大御神の御神勅のまにまに、みずから敬神崇祖の信仰の範を示されて、国民の充ち満たすべき道を教えられたのです。八意思兼大神は、天照大御神の御意志を体して政治をなさるべき使命を帯びておられたのです。天照大御神の御意志は、敬神崇祖の信仰を国民一般が実行することにあるのですから、大神さまは、この敬神崇祖の信仰を基盤として政治を行われることとなるのです。
そこで政治とは民の心を我が心としてしらしめることです。治める方も治められる方も共に同一素質の民族魂であることがいちばん理想的なものとして要求されるのです。民族魂を異にする場合には、政治はなかなかうまく行かないのです。
最近の実例では、ソ連とハンガリーの場合です。ソ連はスラヴ民族であり、ハンガリーは多分に東洋民族系のマジャール民族でして、一方が他方を統治しようとしてもなかなかうまく行かないのです。最近、中近東や東南アジヤの各地に民族の独立運動が盛んでありますのも、要するに民族魂の問題に起因しているのです。
さて天孫降臨当時のわが国土には、いわゆる大和民族以前の先住民族が存在していたのです。
大神さまが天照大御神の御意志を体して、ニニギノ命の御相談相手として政治を行うためには、まずこの先住民族の民族魂を天孫系の民族魂にまで同化(魂を入れ換えること)しなければならなかったのです。
こうして先住民族の同化に当られたのが、天降られました天孫ニニギノ命の御子神たちでありまして、すなわちわれわれ大和民族の魂の祖神です。この神々を氏之祖ノ神と申し上げるのです。
前節に申し述べましたように、八意思兼大神は、天照大御神の特別の思召しによって三種の神器と同一の意味で天降られましたので、政治を円滑に行うため先住民族の同化に当られたニニギノ命の御子神たちすなわち氏神たちは、当然大神さまの御指導や御監督を受けなければならない立場にあったのです。
氏神たちが大神さまの御指導御監督を受けられるということは、換言すれば、氏神たちは大神さまの大みいつを蒙ることによって、氏神としての機能を発揮することができるということであります。
すなわち大神さまが、氏神の総代表として本会にお鎮まりになっておられる所以です。
八意思兼大神と氏神との密接不離な関係は、大神さまが本会にお鎮まりになって氏神奉斎ができるようになってからのことはもちろんでありますが、さらに遠く古く、天孫降臨のときからの関係であります。
この点を深く認識して頂きたいのです。
まことに大神さまの御出現によってはじめて真神霊界の扉が開らかれ、ここに氏神を祭り祖霊を祭ることができて、敬神崇祖四魂具足という日本民族本来の姿に帰ることができるようになったのです。
本会の運営が委員組織によって行われているように、神界においても、大神さまの思召しによって、
委員の氏神たちが選定され、また、この委員の氏神たちの中から委員長の神、副委員長の神が選ばれて
大神さまの相殿の神として祭られているのです。(昭和九年一月二十四日御神示)
そして氏神たちは毎日、委員長の神のお?に集って頂くことになっているのです。
こうしてつねに大神さまの御指導御監督のもとに、氏神委員会が開かれるのです。また毎日お集りになる氏神たちは、氏子の信仰状態等につき、大神さまに御報告なさるのです。
大神さまの御神示のなかに、氏子が勝手な願いをするので氏神たちは困っている。氏神たちは集会のつど、この点について評議している。というような恐れ多いお言葉がありますが、氏子たちは、つねに大神さまの大前で神庭会議をなされる氏神たちのお立場を拝察して、かりそめにも自分の氏神が大神さまに対して肩身の狭いような思いをされることのないように心がけるべきです。
再言いたしますように、大神さまと氏神との固い関係は、すでにはやく天孫降臨のときに始っておりますが、この固い関係は、大神さまが氏神の総代表として本会にお鎮まりになられてから、さらにいちだんと強固さを加えるようになったのであります。
ということは、大神さまは敬神崇祖四魂具足の民族信仰確立のためにお出ましになられ、しかもこの御神業達成のために氏神たちをわれわれに祭らせて下さるのですから、大神さまと氏神とのつながりは、雑然たる宗教界の実状や混乱せる思想界の現状やまた腐敗堕落せる政界の実態にかんがみまして、舶来宗教や外来思想などに惑乱されなかった天孫降臨当時とは比較にならぬほどの強固さを加えざるを得ないからです。
すなわち大神さまと氏神との強固なつながりによって、大神さまの大みいつが氏神に及び、さらにまたこの大みいつは氏神のみいつとなって祖霊に及び、かくて氏子は大神さまから発する一貫したみいつの流れに浴することになり、心を安んじて御神業のために専心努力することができるのです。
む す び
ドイツの哲学者のシュペングラーという人は、西欧の没落を予言したのです。
ところが先般来朝したイギリスの有名な歴史家であり文明批評家であるアーノルド・トインビー教授は「西欧は没落しない。しかし西欧の没落を救うためには、東洋思想を吸引しなければならない」といったような意味のことをいっているのです。
この東洋思想というものを、だんだん絞って行くと、いささか自画自賛のようですが、四魂具足という絶対善の教えになってくるのです。
四魂具足は、真神霊の神格でありまして、敬神崇祖という民族信仰とうらはらの関係にあるのです。われわれ日本民族は、つねに四魂具足を生活の信條として敬神崇祖の信仰にいそしまなければならないという、いわば宿命的な民族性を魂の祖神である氏神から授かっているのです。
この民族性が十二分に発揮されれば、自分自身も幸福になり、したがって社会国家も幸福になるのです。
このことは、民の心をもってわが心とするという、しろしめす政治の大神であられる八意思兼大神が
この国土に天降りましたときから約束されておられたのです。
それにもかかわらず、おおかたの国民は、この天来の約束ごとに無関心であるということは、まことに残念至極です。
真神霊は、人間の方から近づくことによって、はじめて救いや導きの手を差し伸べられるのです。
大神さまが、千三百年という永いかくろいの身から本会にお出ましになられ、敬神崇祖四魂具足の信仰を教えられて、人間を救い社会国家を救済する恵みの手を差し伸べられているにもかかわらず、知ってか知らずか、この偉大な恵みの手にすがろうとしないでいるということは、民族の不幸これより大なるはないのです。
ただありがたいことには、皇室が、天照大御神の御神勅のまにまに、大御神の大みいつを蒙って敬神崇祖の信仰を実践なされておられるがために、時に国運の消長はあっても、生成発展の道を辿っているのです。
そこで氏神を祭り祖霊を祭って、一応は敬神崇祖の信仰の態はなしておりましても、ただそれだけでは不十分でして、なんといっても氏神の総代表であられるところの八意思兼大神とのつながりを強固にしなければならないのです。
折角氏神信仰に入ったが少しもみいつがないと、不平不満をかこつ前に、自分の信仰の在り方は大神さまにつながっているか否かを大いに反省すべきです。
すなわち神は近づかず近づくべしという真神霊の在り方をよく心に刻んで、果して自分の信仰態度は大神さまにつながっているかどうかを反省すべきです。
もし不覚にも、自分の信仰態度がいわゆる家庭信仰のための家庭信仰という我慾中心の抱え込み信仰であることに気付いたならば、はばかるところなく、ほん然と自からの非を悟って、一日も速やかに大神さまとのつながりに努力すべきであります。
氏子の不幸不幸せについては、自からの原因やら他人からの原因などそれぞれ数えられるものがあるではありましょうが、こうした自他何れの原因にせよ、根本は、大神さまとのつながりを絶ったがために折角の氏神信仰が孤立して知らず識らず自分中心の我慾信仰に陥っていることに起因している場合が多いのです。
まことに真の敬神崇祖四魂具足の信仰は、八意思兼大神に始まり、八意思兼大神に終っているのです。
氏子がみいつを頂くということは、外見上は氏神から頂くようでありますが、真実は、大神さまから頂いているのです。
氏神は大神さまとのつながりにおいてのみ、氏子にみいつを賜るのであります。
またこのみいつによって氏子はいちだんと利心(するどい心)を振り起して御神業に邁進すべきです。
こうすることによって氏子の氏神と大神さまとのつながりは、さらにいちだんと強固さを加えて、いよいよ高く広く、みいつを蒙るようになるのです。
最後にこのお話しを終るに当り、昭和五年六月二十八日における御神示の一節を申し上げて結びといたします。
問 今日本の国は八意思兼大神の下に真の神様がお集りになったわけですが、将来は必ず日本人の全部が真の神を信ずる時代が来ると信じますが、本会はその時期を早める為めの運動をするものと考へてよろしう御座いますか。
答 よろしい。
(昭和三十一年十一月十八日八意思兼大神秋季大祭における委員長の講演要旨)
以 上