川俣 均委員長講演(31年号)15演題概要 31年担当【S・K】P06
わ れ ら の 使 命 【原文で掲載】A型式
十一月・秋季大祭 一月号・291号
日本人の誰もが、一六八座の氏之祖ノ神より日本民族魂を授けられるのです。
国民の全てがお互いの魂のふるさとである氏之祖ノ神に信仰を捧げるようになれば、八意思兼大神は、伊勢の皇大神宮の相殿にお帰りになられ、大神さまの御本質たる思慮の神、政治の神として公のお立場に戻られるのです。
み い つ の 流 れ 十二月・月次祭 二月号・292号
みいつのみなもとを、氏神だけに求めようとしますと、御利益一点張りの似て非なる家族信仰になってしまうのです。それは、自己本位の信仰であり、極言すれば我欲信仰にさえ陥ってしまう危険があります。信仰の対象が氏神であるために、ともすると、みいつのみなもとは氏神であるという錯覚に陥り易いのですが、みいつの真のみなもとは八意思兼大神であります。
大神さまは氏神の総代表として、氏神たちを御監督なされるお立場にあるのです。かようなわけですから、大神さまの大みいつなしには、氏神たちもみいつの発揮のしようがないのです。
われわれの頂くみいつは、大神さまという大きなみなもとから発して、氏神を通り、祖霊を通って、氏子に達しているのです。ですから、大神さまあっての氏神であり、祖霊であるという根本の認識を欠いてはならないのであります。
神 罰 は あ る の か 一月・月次祭 二月号・292号
四魂円満具足の真神霊(本会の神々)は、人間を罰することはないのです。氏神は、もちろん四魂円満具足の真神霊ですから、氏子の罪穢れや四魂不具足に対して、これを罰する事は無いのです。
氏子が四魂不具足であったり、罪穢れを犯した場合には、氏神のみいつは氏子の四魂不具足、罪穢れの程度に応じて、減少してくれるのです。つまり、氏神と氏子との連絡である天線は細くなるか、或いは消えてなくなるのです。このときに、いろいろな禍事が起きるのです。
禍事があるということは、それだけのみいつが離れたことを意味するのでありまして、これを巷でいう神罰とは違い、本会では神罰とはいえないのです。
信仰生活における遠心と求心 二月・大神奉斎記 三月号・293号
信仰の中心を求めてこれに近づこうとする事が、すなわち信仰生活における求心作用です。ところが、遠心ということは、中心から遠ざかることでまして、求心の反対です。
われわれの信仰生活においては、信仰の中心である大神さまから遠ざかってはならないのです。
すなわち信仰の中心である大神さまと氏子とを分離させるような遠心力は絶対必要としないのです。
艱 難 汝 を 玉 に す 二月・月次祭 三月号・293号
艱難(つらいこと)を乗り切るには、まず健全な精神がなければなりません。
しかも、この精神が健全であるためには、魂すなわち精神の授けオヤであるところの氏之祖ノ神とのつながりを、信仰によって確保しなければならないのです。
氏神信仰が大神さまを中心として確固たるものになれば、氏神のみいつによって、人生の艱難も、これを乗り切る事ができるのです。
信仰ということは、神の神格を仰ぎ奉ると同時に、そのみいつを信じきることです。また、信仰には、謙虚と感謝がなければなりません。
大神さまや氏神のみいつのもとに、艱難を乗り越えねばならないのでして、また、そうすることによって、信仰の向上はもちろん、人間としてもますます磨かれるのです。
氏神信仰の国民的意義 三月・氏神奉斎記 四月号・294号
大神さまは伊勢の相殿におかえりになられれば、御機能を発揮遊ばされます。
氏神信仰とは、個人の幸福もさりながら、国家全体のためという国民的意義をもっています。
信仰生活を規整するもの 三月・月次祭 四月号・294号
規整とは、正しくととのえる ことです。信仰生活の規整とは反省と神恩感謝です。
反省とは、経験霊( )である第三霊の行う間違いを、理性である意識霊( )が抑制することであります。
反省には必ず第三霊の問題がつきまとうので、つねに反省を繰り返し、邪悪な第三霊と交代するように心がけることであります。
大神さまの大みいつによって氏神を祀らせていただき、その大みいつを氏神や祖霊を通して、つねに身辺にあまねく頂けるということに対して、御神恩を感謝しなければならないのです。
八意思兼大神の御経綸 四月・春季大祭 五月号・295号
経綸とは、治国済民の方策、すなわち、国を治め、民の困苦を救うことです。
八意思兼大神の御経綸とは、氏神信仰によって日本民族の霊性( )を四魂具足の状態にまで上昇させて、日本国を根本からお救いなさるというものであります。
捧 げ て 恵 ま れ る 五月・月次祭 六月号・296号
神のみいつは、どこまでも 捧げて恵まれるものでなければならないのです。
神に 捧げるとは、物質的に ものを奉ることのみでなく、各人が、立ち場 立ち場、持ち場 持ち場において、御神業に役立つことができるということです。
恵まれるとは、神のみいつを蒙ることです。恵まれるためには、御神業のために?捧げまつる ことが
必要です。捧げることによって恵まれるという生活と御神業とが一体となる信仰生活を送らねばならないのです。
第 二 の 岩 戸 開 き 五月・創立記念祭 六月号・296号
八意思兼大神さまは岸一太先生の切なるお願いを容れられ、昭和三年二月四日本会の神床をいづのいわさかとして御出現賜り、本会の発足をもって第二の真神霊界の岩戸開きと称する所以です。
誌名変更『惟神道』六月号まで・七月号より『国教』へ
神は近づかず近づくべし 【一部現代文で掲載】B型式
六月・月次祭 七月号・297号
氏神の行動範囲は四魂具足のらち外へは一歩も出られないのです。この点に関するかぎり、氏神はいわゆる人間味がないのです。これは、人間の四魂不具足の状態から眺めただけのことであります。
人間が四魂具足を心がけ、それをめざして努力すれば氏神は人間味がないという皮相な考え方(真相を究めない判断)はなくなってしまいます。
神 が 経 営 す る 七月・月次祭 八月号・298号
大神さまは氏子の信仰向上に対して、氏神を通じて御神徳を下さると同時に、氏子は御神恩感謝のまことを発露実現することによって本会の経営が成り立ちます。
知 識 と 知 恵 八月・月次祭 九月号・299号
人間の知識も知恵も結局は人間の魂のはたらきにまつものであり、しかもこの魂こそは、氏神から授かったものでありますから、人間の知識を人間のために役立たせるには、知識の根源であるところの魂の授けオヤの氏神を信仰することによって、四魂具足の信仰のもとに、物事の理非曲直(良い事、悪い事)を判別するところの知恵を育ててゆくより他にないのです。
崇祖の意味するもの 九月・月次祭 十月号・300号
祖先崇拝とは、第一に先祖の恩を感謝してその霊たちを慰めて、ところを得させるため。
第二には、家を永世に亘り続かせるため。さらにまた、第三には、祖霊にはたらいてもらうため。
これらを実現させるためには、なんとしても真の氏神信仰による正しい祖先祭祀しかないのです。
神さまは見通し 十月・月次祭 十一月号・301号
真神霊にまします氏神さまは、絶対的に人間に欺(だます)かれないのです。
また「神さまは見通し」ということは、ひとり氏子の四魂不具足の行いの面ばかりでなく、氏子の四魂に叶った行いをも、よく裏の裏まで見通しておられるのです。
以 上