神は近づかず近づくべし 【31年7月号】 P10
惟神会委員長 川 俣 均
は し が き
河を渡るにも、いろいろな方法があります。多くの場合、常識的にもいちばん短い距離を選ぶのでありましよう。しかしながらいちばん短い距離が、必らずしも最も賢明な渡河方法ではないのです。
ということは、最短距離を選ぶ場合は、ただ距離の短いことだけに心を奪われて、渡河を阻むような急流とか溺れるような深みに気づかないために、折角選んだ最短距離も、実際は、最長距離となる場合があるからです。
そこでいちばん安全で且つ賢明な渡河方法は、最短距離ではなく、むしろ浅瀬を選ぶことです。
たとえ最短距離ではなくても、浅瀬を選んで渡れば、結果においてはかえって最短距離を渡河する以上の早さと安全さが得られるのです。
しかしながら浅瀬を探すために、あまりに多くの時間を費して河を渡る時機を失くしたり、また浅瀬が見つからないために渡河することを断念したりする人があるとしたならば、その人はうたがいもなく渡河する資格のない勇気に欠けた臆病ものです。
ですから渡河する以上は、できるだけ速やかに浅瀬を求めて渡河の時機を失ってはならないと同時に、浅瀬が探せないからとて中途で渡河をあきらあてはならないのです。
われわれの信仰生活におきましても、また同様のことがいえるのです。
われわれは、畏くも八意思兼大神さまの大みいつによって 氏神を奉斎し代々の祖霊を祀り、真の敬神崇祖、四魂具足の信仰にいそしんでおるのですから、つねに自からの信仰生活を充実させていかねばならないのです。
信仰生活の充実ということは、できるだけ速やかに神に近づくことです。
神に近づくということは、神のみいつを蒙ることにほかならないのであります。
神さまは、われわれ人間から見れば世界を異にした無限のかなたにおられるようですが、人間の心がけ次第では、いくらでも近づくことができるのです。
また信仰する以上は、つとめて近づかなければならないのです。神と人との間は、限りなく拡がっている河巾のようなものです。この無限とも見える河巾を渡って神に近づくためには、ただガムシャラに最短距離をとることなく、最も安全で最も賢明な浅瀬を選ぶことが大切です。
信仰生活において、性急のあまり最短距離を選ぼうとすると、往々とりかえしのつかない破綻を招くのです。
真 神 霊 の 本 質
われわれの奉斎している氏神は、まぎれもなく正真正銘の真神霊です。
一口に神といいましても、大小正邪いろいろあるのです。古事記のなかに出てくる神々は、荒ぶる神あり、疎ぶる(気味が悪い)神あり、媚び附く神あり、蒼蠅なす(騒ぐ)神あり、疫病の神あり、争う神あり、疑う神あり、泣き噪ぐ神あり、というように、種々の神があるのです。
何かあらたかな現象を示しますと、それが動物霊の所作でありましても、直ちにそれを神として畏敬し信仰するのが世のつねです。今日神信心と称するたぐいのものは、概ねこの動物霊を信仰の対象としているのです。ということは、神を判別する規格や標準が全く失われて、神に正邪の区別があることが全く忘れられているからです。
それならば何をもって神の正邪を区別するかと申せば、それはいうまでもなく四魂(奇魂、荒魂、和魂、幸魂)を円満に具足しているか否かによるのです。
この四魂が最も完全に且つ最も偉大に完備している神を最大の神霊としているのです。すなわち
天照大御神は、この至大至全の大真神霊に在わしますのです。
われわれの奉斎している氏神は、この大真神霊にまします天照大御神の御孫ニニギノ命の御子孫であられます。
ここにニニギノ命の御子孫ということは、ニニギノ命のみいつによってすなわち御意志によって世にお出ましになられた
みいつの神 ということです。
ですから、われわれが奉斎している氏神は四魂円満具足の大神霊にまします天照大御神の大みいつを蒙っている
みいつの神 です。
すなわち氏神は、四魂円満具足の真神霊です。
霊界というものは、その霊界を組織している霊の素質によって、いろいろの霊界に分れているのです。
霊というものは、一霊一魂、一霊二魂、一霊三魂、一霊四魂によって、それぞれの素質を異にするのです。
|霊一魂がいちばん下等の霊でして、|霊四魂が最上級の霊すなわち真神霊であります。
氏神は、この四魂を円満に具足している真神霊でして、霊界の最上級に位するのです。
ですから、氏神の行動範囲は、四魂具足のらち外へは一歩も出られないのです。換言すれば四魂具足だけが、氏神がみいつを発揮なさる条件です。
この点に関するかぎり、氏神はいわゆる人間味がないのです。
四魂具足という固い神おきてに規制されている氏神は、四魂不具足の人間にとってはいかにも人間味がないように思われるのです。
しかしながら、氏神は天照大御神の御神勅のまにまに八意思兼大神の御統制監督のもとに、大和民族の同化を司るために、すなわち人間が生れれば魂を入れられ、死んではその魂を引取って淨化をなされるために、かりそめにもその間に四魂不具足的な人間味を交えては、完全な民族同化は望めないのです。
このことは天照大御神の大みこころにたがうのはもちろん、氏神の総代表であられる八意思兼大神の御神意にも反するのです。
ですから、真神霊であられる氏神は、四魂円満具足という神格から申しても、また民族同化という本来の大使命から申しても、人間のオャ神ではあられますが、人間味はないのです。ここに人間味ということは、人間としての情味をいうのでありまして、必らずしも四魂円満具足を要求していないのです。
この点におきましては、まことに氏神はきびしい神さまです。
しかしながら、氏神のきびしさということは、ただきびしいがためのきびしさではないのです。
氏神はわれわれの魂のオヤ神でありまた民族同化の主神であられますので、本質的には四魂具足という筋を通されますが、その反面におきましてはオヤ神として広大無辺なみいつの翼をひろげて、慈愛深くわれわれ氏子を覆い守護して下さるのです。
しかもわれわれは、祖霊という人間味豊かな介在によって、氏神のみいつをいちだんと強く蒙ることができるのです。
氏神に人間味がないということは、人間の四魂不具足の状態から眺めただけのことでして、われわれが四魂具足を心がけて、それをめざして努力するならば、氏神は人間味がないなどという皮相な考え方はなくなってしまうのです。
氏神は、魂のオヤ神として氏子にみいつを蒙らせようとするオヤ心で一杯ですが、四魂具足という神おきてによって、大神さまのきびしい御監督を受けられているのです。また氏神御自身といたしましても、四魂具足の真神霊であるというお立場を、固く保っておられるのです。ですから、氏神の方から進んで人間である氏子に近づくということはないのです。
邪神はともかくとして、真神霊であるかぎりは、神の方から人間に足を運ばれることはないのです。われわれ氏子は人間であるから、われわれの方から氏神に近づくように努力しなければならないのです。
そこで信仰生活を河巾にたとえれば、われわれは神に近づくために最も安全であり最も賢明である浅瀬を求めて渡るべきです。
性急に河を渡ろうとして、ただ最短距離だけを選んで、深みに入ったり急流に押し流されたりして、折角の信仰生活に破綻や蹉跣(つまずき)をきたしてはならないのです。そうかといって、この浅瀬を探すためにあまりに多くの時間を費して、だいじな渡河の時機を失くしたり、また浅瀬が発見されないからとて、この信仰生活という河巾を渡ることを諦めたり断念したりしてはならないのです。
神 に 近 づ く に は
氏神は四魂具足の真神霊ですので、氏神の方から進んで人間である氏子に近づくものでないことは前述の通りです。
ですから、氏神に近づいてそのみいつを頂くためには、 なんとしても氏子の方から歩みを進めて近づくように努力しなければならないのです。
信仰生活という河巾を渡って、岸の彼方におられる氏神に近づくためには、まず何をおいても浅瀬を求めて渡ることが大切です。
どんなに距離が短くても、急流や深みであっては渡河は極めて困難です。そこでこの浅瀬を探す方法として、大略三つのことが挙げられるのです。
普通の河の浅瀬は、手や足で探ったり、また杖や竹竿などで確めたりして発見されますが、信仰生活という河の浅瀬は、次に述べます三つの事がらをつねに実行していけば必らず探すことができるのです。
その第一は、八意思兼大神さまに対する認識を深めることです。
毎々申し上げますように、氏神を奉斎し祖霊を祀って敬神崇祖の信仰に入って、氏神のみいつを頂き祖霊の守護を得られるのは、すべて大神さまの大みいつ大みはかりの賜です。換言すれば大神さまおわしましての氏神であり祖霊であります。氏神は大神さまの大みいつを蒙り、祖霊は氏神のみいつを頂いて、ここに氏神と祖霊は一体となって氏子を指導し
且つ守護されるのです。
すなわち敬神崇祖の信仰は、大神さま氏神祖霊と三者一体となってはじめて完全な姿となるのです。
敬神は崇祖に在り、というかぎりにおいては、氏神祖霊の奉斎だけをもって一応の形は整うのですが、こうして形において整った信仰体系が十二分に活動して、われわれの日常生活を直く正しく且つ豊かにするためには、大神さまの大みいつという絶大な活力を必要とするのです。
ものごとというものは、九分どおり果されても肝要の一事を欠いてはなんにもならないのです。
氏神祖霊の奉斎によって敬神崇祖の信仰は九分どおりは果されますが、最後の肝要な一事すなわち、この敬神崇祖の信仰を通して大神さまの大みいつを蒙るように心掛けませんと、折角の敬神崇祖の信仰も魂の入らない形だけのものとなってしまうのです。
第二は四魂具足です。
大神さまも氏神も四魂具足の真神霊です。また祖霊も四魂具足するために霊界において浄化の過程を辿っているのです。すなわち真の敬神崇祖の信仰を貫いているものは、ただ四魂の信条あるのみです。
ですから、氏神はつねに四魂具足をもって氏子の善悪をはかる規準としているのです。いわば四魂具足は、顯幽を一貫している絶対の道徳律です。したがって人間である氏子が、氏神に通じるただ一つの道は四魂具足あるのみです。
神は四魂不具足の願いには一顧もせず、という御神示は、われわれの記憶から失われてはならないのです。
もちろん人間はいろいろな慾望の塊のようなものです。最初から四魂具足を要求することは無理かもしれませんが、ありがたいことに、氏神は次のような寛容さをもって、氏子に四魂具足を求めておるのですから、われわれ氏子はつねに四魂具足に努めなければなりません。
すなわち御神示に『四魂具足の道に入ろうとする心をもって信仰すべきではなく、四魂具足することによって神は氏子の信仰を認める』とあるのです。
四魂とは奇荒和幸の四魂から成っておりまして、各魂それぞれの意義があり、これを円満具足することは決して容易ではないかもしれませんが、朝目がさめてから夜寝るまで、つねに四魂具足、四魂具足と唱えておれば、少なくとも四魂不具足するようなことはなくなり、自然と神人感合ができて神のみいつを頂くようになるのです。
すなわち四魂具足と発言することばの響きが、言霊(コトタマ)となって神との感合をもたらすようになるのです。
第三は祓です。
日本神道は、禊と祓から成り立っているのです。
天照大御神はじめ高貴の神々は、イザナギノ命が橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓いなされたときに成りましたのです。ですから祓なくして神道は考えられないほど、祓は日本神道固有の重大な行事です。
このように祓は日本神道に固有のものであり、また普遍的でありますが、本会の祓行事は大神さまや氏神のみいつのもとに行われますので、その効果はいちだんと顯著なものがあることは、皆さますでに御経験済みのことです。
邪神邪霊、殊にいちばん人間に災いする動物霊のようなものは、それ自身においては善悪の道徳観念はなく、ただ災難を与えて人間を苦しめること、それ自体がその使命であり本能ですから、これを退散させるには四魂具足の真神霊にまします大神さまや氏神のみいつのもとに祓をする以外に方法はないのです。
日本には現在はもとより古くから動物霊との交渉を多分に持っておりますので、大部分の人たちは多かれ少なかれこの動物霊の被害者でないものはないのです。
われわれが氏神信仰を進めようとしても、この邪神邪霊わけても動物霊との関係を清算しないかぎりは、まず労多くして効少いのです。
真神霊は極度に罪穢れを嫌いますので、この罪穢れの最たるものである邪神邪霊との関係のごときは、この祓によって完全に清算しなければなりません。
氏子が氏神に近づこうとしても、氏子に罪穢れがあるかぎりは、近づくことは容易でないのです。もちろんこの場合神は横を向いておられますので、氏子は神のみいつの圏外に立たされているわけです。
いうならば天線の外にあるのです。ですから、人間を苦しめることをもって本能とする邪神邪霊の抵抗や誘惑を排除するためには、勇敢に祓を執行しなければならないのです。
む す び
まことに信仰生活を進めていくことは、広い河巾を渡るようなものです。
そこには急流もあれば深みもありまた浅瀬もあるのです。渡河するのにその何れを選ぶかは各人の自由ではありますが、浅瀬を求めて渡るのが、いちばん安全であり且つ賢明な方法であることは、冒頭に申し述べたとおりです。
しかしながら、いずれにしましても信仰するからにはこの信仰生活という河を渡って真神霊のいます彼の岸に近づかなければならないのです。
ということは、真神霊は絶対に真神霊の方から人間に近づくために歩みを進めることはなく、必らず人間の方から近づくように努める必要があるからです。
申すも恐れ多いことですが、八意思兼大神さまは、千三百年という永い問、京都伏見の藤の尾の霊地にかくろいましておられましたが、たまたま岸先生の切なる懇願がありましたので
本会にお出ましになられたのです。
もしも岸先生にして請じ(要請)お迎えすることがなかったならば、大神さまは恐らく藤の尾の地にかくろいましたままでありましょう。
また氏神たちも、氏子が信仰するためわが家に奉斎しなければ、いつまでも元津磐境にとどまりましておられるでしょう。
真神霊はすべてこうした態度をとられる神さまですから、神に近づくためには、絶対に人間の方から足を運ばなければならないのです。
そこで信仰生活という河を渡りながら神に近づくためには、浅瀬を求めて渡ることの必要な次第は前述のとおりです。
しかもこの信仰生活という河の浅瀬を探すためには、それに相応した方法をとらなければなりません。
その方法がすなわち前述の 大神さまに対する認識、四魂具足の努力、祓の実行
です。
まず、この三つの実行を怠らなければ、信仰生活という河は、浅瀬を探し求めることにより、いちばん安全に且つ賢明に渡ることができて、神さまにますます近づくことができるのであります。
浅瀬は探せば必らずあるのですから、浅瀬が見付からないからとて諦めたり断念したりして神さまから遠ざかることのないように注意しなければなりません。
また浅瀬が探せないからとて、性急にやみくもに急流や深みに入って、折角の信仰生活に蹉跣をきたすようなことがあってはなりません。
たとえ河巾の距離は長くても、浅瀬を求めて渡るのが、いちばん安全であり賢明でありまた効果的であるのです。
神は神の方から人間に近づかないのでありますから、どこまでも人間の方から神に近づくようにしなければならないのです。
まことに 神は近づかず近づくべし であります。
(昭和三十一年六月十七日 八意思兼大神月次祭における委員長の講演要旨)
以 上