■「学園コメディ」と「バトル」の同居へ(1)/少年の成長物語
主人公、ネギ・スプリングフィールドは英雄的な魔法使いを父親に持つ天才少年。魔法学校を首席で卒業した後に課せられた修業の内容は「日本で先生をやること」──。「立派な魔法使い」を目指す為に女子校の先生を頑張る一方で、魔法使いとしてのパートナー候補と出会い、生死不明の父親を探す手掛かりを求め、やがて魔法使い同士の戦いに巻き込まれ……、というのが『魔法先生ネギま!』の大筋だ。
そのネギが担任するクラスの女生徒達が「31人のヒロイン」なのである。
さて、ネギまという作品のドラマ展開を単純化してみると、それは「学園コメディ」と「魔法バトル」の2パートに分けることができる。バトルといっても直接的な戦闘とは限らず「非日常的な大イベント」と言い換えても良い。つまりは「活劇」の類のことだ。逆に学園コメディというのは、ラブコメを含んだ「日常的な小エピソード」を表している。
このふたつが車の両輪のように連携しながら前に進んでいくことに面白さがあるわけだが、無論、ただ両パートを律儀に入れ替えながら展開しているだけではない。具体的にどういう技巧でもって展開されているのかを見ていこう。
その為にはまず、今作が「学園コメディ」と「バトル」の2パートに分離していった過程から追う必要がある。ネギまは当初(単行本2巻相当まで)、表面上は美少女キャラクターの魅力を前面に押し出した美少女ラブコメでしかなく、その間は学園コメディのパートのみでドラマが進められていたと言える。
初期のネギまはラブコメ漫画と銘打たれていながら、主人公であるネギが性的に未成熟な少年キャラクターである為、恋愛ドラマを物語の主軸(=大目的)に据えて進めにくいという一面が残されていた。よって、最初から「大目的」へと直線的に向かうことは避けられ、いくつもの寄り道(=小目的)を繰り返しながら主人公とヒロイン達を絡ませていくドラマ展開になっている。それはラブコメというよりも、先生として生徒達に信頼されていき、クラスに溶け込んでいくという「学園コメディ」の形式だった。
では、ネギまの「大目的」は何だったのか。それは「ネギの成長」であり、ネギ自身の言葉で「父親と同じような立派な魔法使いになりたい」という目標が掲げられている。
つまり「父親探し」を通じた「少年の成長物語」こそがネギまのメインテーマなのだが、初期においては「隠しテーマ」程度の扱いでしかなかった。
その隠しテーマを前面に押し出す上で、有効活用されたのが「ファンタジーの要素」だった。当初はパンチラの理由付けや魔法のホレ薬を切っ掛けにしたドタバタコメディ程度でしかなかったものが、2巻の「図書館島編」(7〜11時間目)に入った途端、RPG風味のダンジョン世界を作り出すことになる。そして3巻では単行本一冊を使用して「エヴァンジェリン編」(16〜25時間目)が展開されるのだが、ここで魔法使い同士の魔法バトルが、学園コメディの空間に突如出現するのである。
前作『ラブひな』も現代劇でありながら随所に超常的な要素(武術の達人やハイテクメカなど)が散りばめられていたが、ネギまは最初からファンタジーを題材にしており、その中での冒険やバトルを主軸にできるよう設計されている。特に「修学旅行編」(26〜53時間目)を経た後ではその色が更に増し、以降は魔法バトルのシステム解説、修業シーンの描写などが堂々と演出されていく。初期は「学園コメディ」が「主」で「バトル」が「従」であったのに対し、それ以降は同等の比重で展開されるようになったのである。
ちなみに、単行本2巻相当までは学園コメディのみでドラマが進められていた……とは先程述べたが、実は1巻の最後で唐突に始まるスポーツ路線「ドッヂボール編」(5、6時間目)が、バトル路線へと向かう為の周到な布石として作用していることが見逃せない。作品全体から見るとこのドッヂボール編は一見浮いているように映るのだが、あえてスポーツ対戦(小規模なバトル)をこのタイミングで行うことによって、その後バトルパートが始まった時の、唐突な印象や齟齬感を軽減させることができたからだ。
そして何故、「バトル」を物語に組み込まなければならなかったのかと言えば、それが少年漫画において「キャラクターの成長」を表現する上で最も効率の良い題材であるからだ。バトルを主人公に行わせることで、初めて「少年の成長物語」という本来の大目的へと物語を向かわせることが可能になったのである。
ネギの年齢が10歳であるという設定も、ここで有効に働いてくる。ラブコメの主人公としては感情移入しにくい年齢ではあったが、バトル漫画の主人公としてなら別であって、小学校高学年程度のこの歳は、子供の読者も大人の読者も感情移入して、応援しやすいものだからだ。
■「学園コメディ」と「バトル」の同居へ(2)/「串団子方式」の応用
このようにして作品のパートを二分化させていったネギまだが、ではどういった技巧的な意味がそこにあるのだろうか。それは、学園コメディパートにはバトルパートに対する役割が、バトルパートには学園コメディパートに対する役割があり、それらを互いに干渉させあうことで新たな効果を生んでいるという所にある。
再び『サルでも描けるまんが教室』からの引用だが、バトル漫画の基本は「戦いの串団子」であると竹熊は述べる。一つの大きなバトルイベント(=団子)を乗り越えた直後に再び大イベントが発生し、それを乗り越えればまた再び大イベントが……という連なった展開が延々と続く形式のことだ。この「串団子方式」は主に80年代黄金期の『週刊少年ジャンプ』誌上において発達したもので、『魁!!男塾』(85年〜91年)などを参照して頂ければ具体的に理解しやすいと思われる。
では、串団子方式において「バトル」が果たす役割とは何か? それはキャラクターが勝利に至る過程と勝利後の結果を描くことで、その成長の度合いや状況の変化を表現できる、という点にこそある。実力的な成長だけでなく、キャラクターの信念の歩みや戦う姿の格好良さ、キャラクター同士の絆の深まりなども表現可能であり、それらは「串団子」の数を重ねれば重ねる程に強化されていくものだ。
また、「キャラクター同士の絆」というのは大抵「友情」や「ライバル関係」を指すものだが、これはヒロインとの絆、つまり恋愛要素を含む場合もある。格好良く戦い、強い信念を見せるキャラクターにヒロインは次第と惹かれていくのだ。つまり、バトルは恋愛ドラマの燃料でもある。
現に、大抵のバトル漫画にはヒロインが存在するのだが、そこでわざわざ主人公がラブコメを演じる必要は無い。バトルイベントだけでもヒロインと結ばれることは可能なのである。例えば、現在ジャンプで連載中の『武装錬金』(03年〜)はヒロインとの恋愛要素も含んだ作品だが、基本的にバトルの連続だけでそれを表現していることが解るだろう。
だからネギまも、バトルパート(=ネギの成長物語)だけで恋愛ドラマを進めることは一応可能なのである。しかしネギまは学園コメディ漫画として始まり、美少女ラブコメという名目で連載されている以上、学園コメディパートを欠かすことはできなかった。
さて、「大イベントの連続」である串団子方式はジャンプ系の漫画に顕著な形式だが、マガジン系では「バトル的な大イベントと大イベントの間に、バトルとまるで無関係な日常エピソードを数話挟む」という応用形が定番化している。これは、マガジン最長連載作品でもある『コータローまかりとおる!』シリーズ(82年〜)が実際に確立している形式なので参考になるだろう。
その「日常エピソード」の役割についてだが、バトルと無関係な、とは言っても、ストーリー展開からすれば重要な意味がある。
第一に、大イベントで加わった新キャラや新要素を日常空間に溶け込ませる、という役割がある。例えば主人公の立ち位置をイベント前と微妙に変化させたり、周囲の人間関係を深めたりすることで、主人公の人間的成長や恋愛ドラマの進展などを、普段の生活空間に反映させるのである。
第二に、次の大イベントで活躍する予定のキャラクターやガジェットを事前に登場させておき、読者に印象付ける役割がある。それによって、次の大イベントへスムーズに突入することができる。
また、大イベントが絶え間なく続く串団子方式では、バトル描写が際限なくエスカレートしていく「インフレ化」と呼ばれる現象がつきまとうのだが、このマガジン系の手法はその間にワンクッション置くことでエスカレートを避けている、という側面もある(ちなみに他誌においても、ストーリーを計算しながら描くタイプの作家は合間にワンクッション置く場合が多い。荒木飛呂彦や冨樫義博などがそうだ)。
学園コメディパートとバトルパートに二分化した後のネギまは、このマガジン系の手法を堅実かつ丁寧に実践している。ネギまの場合、大イベントの中でバトルが描かれ、日常エピソードが学園コメディに相当する。
では実際に、大イベントを含む「修学旅行編」の前後を見てみよう。修学旅行編の最初には学園コメディが3話分挟まれているのだが、そこで
・直前のバトルで倒したエヴァンジェリンと和解した上で、修学旅行編における目的地を聞き出す
・直前のバトルで協力したメインヒロイン、神楽坂明日菜との関係を再確認し、絆を強化する
・次のバトルで活躍することになるゲストヒロイン、桜咲刹那を登場させてネギ達と絡ませる
……などが順番に行われている。そして、修学旅行という大イベントをクリアすることでネギは仲間を増やし、アイテムや情報を手に入れ、魔法使いとして成長するのだが、その「主人公の変化」自体が直後の日常空間(=学園コメディ)に反映されるのだ。「ヒロイン達との絆の再確認と強化」を積み重ねた上で、「バトルキャラの日常生活描写」「人物相関図の書き換えと関係性の追加」「大イベントで手に入れたアイテムによる次の小目的の提示」などが、修学旅行から間を置かずにすかさず行われている。
ネギまはこのような事前準備と事後処理の手間を、バトルの合間に必ず費やしているのだ。整理すると、
1.学園コメディパートの開始。日常エピソードによってキャラクターや設定を追加する
2.バトルパートの開始。「1.」の要素を利用した大イベントが発生
3.大イベントによって主人公の成長、更なるキャラクターやガジェットの追加、絆の強化などを描く
4.学園コメディパートの再開。「3.」で追加された諸々の要素を日常空間にフィードバックさせる
5.再び日常エピソードによってキャラクターや設定を追加する。以下繰り返し
というドラマのパターン構築を重ねていることが解る。
ネギまの学園コメディパートとバトルパートは、互いが互いの世界を広げあい、干渉を繰り返し、細かな相互作用を及ぼしながら展開していくのである。「車の両輪のように連携しながら前に進んでいく」と評したのは、このような仕組みが発見できるからだ。
このパターン構築の中で投入されるキャラクター達の中に「31人のヒロイン」であるクラスメイト達が含まれているのだが、こういった堅実なストーリーテリングこそが、読者に自然と「モブのゲストヒロイン化」と「フィーチャリング」を受け入れさせてしまえる秘訣なのだろう。そして、ここまでの手間を費やして初めて、「活気のあるキャラクター・ドラマ」を支える用意が作品内に整うのである。
またクラスメイトの多くに「戦友」や「師匠」、「保護者」、「パートナー候補」などのバトルパートに即した役割を振り分けることで、彼女達の出番が減少したり、両パートのドラマが乖離してしまうといった副作用が起こらないよう、予防策が張られているという配慮も発見できる。
更に言えば、今作の主軸、即ち主人公の大目的はバトルパートの中にあり、学園コメディパートは寄り道、小目的に属するのだが、寄り道している間も常に大目的を見据えながら進められていることもまた、両パートの乖離を避ける上で重要な配慮だろう。ネギはヒロイン個人だけを見るということをしない、必ず先生の仕事や魔法使いの修業を意識しながらラブコメに巻き込まれるタイプの主人公なのだ。
こういった手法が作品に定着したのは、長丁場でもあった修学旅行編の最中だと思われるが、形式として完成しきったのは「修業&ジョブ選択編」(54〜71時間目)が終了して「学祭準備編」(72〜80時間目)へ突入した瞬間からだと思われる。この手法の成立過程は、漫画家としての赤松健の力量を探る上で興味深い部分である。というのも、赤松健が最初からここまで完成させる力量を備えていたというより、バトル描写をこなしながら力量を伸ばし、漫画家として成長していったようにも映るからだ。
ところで、この「串団子方式」の応用系ともいえる形式にこれといった名称は付けられていない。
そこで不意に連想するのは、『魔法先生ネギま!』のタイトルに含まれる「ネギま」であって、ねぎまとは即ち葱間、「ねぎま串(野菜の葱と肉を交互に刺した串焼の一種)」を示唆するということだ。
大イベント(=肉)を重ねた隙間にクッションとしての小エピソード(=葱)が挟まれ、それが一本の軸(=串)で貫かれているのだから──これはバトルの串刺しである「串団子方式」の発展概念として、「ねぎま串方式」と名付けてもいいのではないだろうか? そういう言葉遊びの誘惑に駆られてしまう。
これが後からのこじつけに過ぎないことは明らかだし、『魔法先生ネギま!』のタイトルの由来としてはおそらく外れた推測だろう。しかしだからこそ「ネギま」というタイトルなのだ……、と考えてみると、何故か納得しかねない説得力を持った説でもある。なんとも意味深いではないか。
同じ「串」同士で語呂も悪くはない。そこで以降からは、「戦いの串団子」の合間に日常エピソードを挟んだ少年漫画の形式を、便宜上「ねぎま串方式」と呼称してみたいと思う。
といっても、別にネギまがこの形式を生み出したのだ、という含意は無い。ジャンプが串団子方式を完成させたのと同様、マガジンという雑誌が完成させたのだ、と捉えるのが正しいだろう。
そして、その形式を利用したマガジン漫画の最先端として、『魔法先生ネギま!』はあるのだろう。
→少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ネギま!編(3/4)
←少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ネギま!編(1/4)
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