少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ラブひな編(2/2)

 

■連載中における主人公の変動

 実際はもっと細かく分割することも可能だが、景太郎の扱いのみに注目してストーリーを見ていこう。

1.第1話から東大合格決定までの「受験編」(HINATA.1〜70) ※1〜9巻収録
2.サブヒロイン達を主役にした「住人編」(HINATA.71〜84) ※9、10巻収録
3.景太郎がアメリカへ去る「留学編」(HINATA.85〜88)  ※10、11巻収録
4.成瀬川が主人公の「可奈子編」(HINATA.89〜105) ※11、12巻収録
5.住人編の延長である「素子編」と「モルモル王国編」(HINATA.106〜114) ※13巻収録
6.最終エピソード「約束の女の子編」(HINATA.115〜HINATA.118) ※14巻収録
7.絵馬が主役の「エピローグ」(EPILOGUE I〜II) ※14巻収録

 「受験編」における主人公の目的は言うまでもなく東大合格であり、ヒロイン(=成瀬川なる)に好かれることにある。このふたつの目的は物語上同一であり、景太郎がそれらを叶えるまでの活躍や成長が描かれている。ここまでは特に問題はない。
 「住人編」が始まると、その回メインとなるサブヒロインが主役を演じる気配があり、景太郎の陰はやや薄くなっている。ただ各ヒロインは常に景太郎の方向を向いている為、主人公の立場は継続している。
 大きな変化は「留学編」の直後からだ。「可奈子編」は始終成瀬川視点で進行するのだが、作者自身も第88話について「景太郎が去るシーンですが、この瞬間から主人公がなるに変わるんですね」(『ラブひな∞』p445)とコメントしているように、これ以降の景太郎は内面描写が殆どされず、むしろ対象化した人物として描写される。その景太郎を相手にした、成瀬川の恋愛ドラマへと物語はシフトするのだ。
 その後の「素子編」から「約束の女の子編」にかけても成瀬川の視点が混在している。エピローグに至っては新キャラである真枝絵馬が主人公だ。このように「留学編」以降の景太郎は、主人公を半ば「降りた」形になっている。
 しかしそれでも、留学後に再登場した時や、エピローグの時点で成長した姿さえ描ききれれば、物語を景太郎自身に集約させることができる筈だ。彼に関わったヒロイン達の成長を通して、彼女達を成長させえた景太郎自身の「ヒーロー像」を間接的に表現できるからである。


■景太郎の成長と「瀬田化」/師匠→主人公→読者へと受け継がれる「ヒーロー像」の流れ

 では再登場した時やエピローグにおいて描かれた景太郎がどのような姿だったかというと、読者の間では「瀬田化」と呼ばれている現象なのだが──景太郎の師匠的存在である瀬田記康と、行動パターンから格好、喋り方、自分の夢、進路、特技に至るまでがそっくりになってしまっているのだ。

 この「師匠と同一化して終わる」というのは、一人のヒーロー像を描かんとする少年漫画において重大な禁止事項だと言って差し支えない。例えば『ダイの大冒険』の場合、ポップが師匠であるマトリフと同じ「大魔導師」に成長しつつも師匠そっくりにはならなかったように、『うしおととら』の蒼月潮がとらのような姿に変貌しなかったようにだ。『ドラゴンボール』のような世代交代を描いた作品でもそうで、孫悟飯はピッコロや父親の形の模倣から入りながらも、最終的には別の姿に成長したのではなかったか。

 なぜ主人公が「師匠のレプリカ」になってはいけないのか。それは「個性が消されている」「よりにもよってヘタレキャラな瀬田を目指してどうする」といった単純な作劇作法や感情論の話でもあるのだが、それ以前に、少年漫画の読まれ方という、根源的な問題が関与してくるのである。
 詳しく説明しよう。主人公が読者にとってのヒーロー像であるように、師匠もまた主人公にとってのヒーロー像として登場する。ヒーローの活躍する姿やその成長の過程に憧れ、「ああなりたい」、近付きたいと願う意識がどちらにも共通して発生するのだ。ゆえに少年漫画では「少年がヒーローに憧れ、自分自身がヒーローに成長する」テーマが幾度も繰り返されて描かれるのである。それは読者の夢の具現化でもあり、そして「成長する意志」の見本でもあるのだ。
 しかし、物語の中で主人公が師匠に追いつく(乗り越える)のは容易い反面、読者と主人公の間には「現実とフィクション」という落差がある以上、完全な形で追いつくことは絶対に不可能なのだ。読者は、フィクションと同じ世界観に生き、同じ師匠を得、同じ経験を積むことができないからだ(=かめはめ波はいくら練習しても撃てない。しかし、フィクションのヒーロー像にはやはり憧れるのである)。
 では現実の読者の、主人公に対する憧れはどのようにして結実するのだろうか? それは、「現実に即した、主人公とは違う道を辿って(探して)ヒーロー像を目指さなければならない」ということを自覚することで始まる。そして、結果的に現実における成長と、憧れるヒーロー像が違うものになったとしても構わないのである。むしろ、違った結果になることこそが重要だろう。──「主人公が師匠と同じになってしまう」ことで「読者が主人公と同じになった気になってしまう」ことを防がなければならないのだ。
 だからこそ少年漫画の主人公は「師匠とは異なる道を辿ってヒーローを目指す」必然性がある。師匠とは異なる才能を活かすなり、異なる手段で努力するなり、キャラクターとしての本質が異なることをはっきり読者に示すことで初めて、主人公は読者にとってのヒーローとして共感されうるのである。「主人公が師匠と違う道を辿る結果になったように、自分も主人公とは違う道を辿って努力すればいいんだ」という、自らを主人公に重ねた発想が可能になるからだ。そこで初めて、読者は現実世界に帰還できるのだ。
 もしそういった違いを描かずに終わったのなら、読者は「ヒーロー像と現実の自分との同一化」という幻想を抱えたまま、自分の夢を空回りさせることになってしまうだろう。「師匠→主人公」の関係が物語の中で閉じてしまい、「主人公→読者」へと受け継がれることが無くなるのである。

 景太郎の成長の結果は、まるで「師匠のレプリカ」のように描かれる(実際は違いがあるかもしれないが、ここで問うているのは「表面上そう見えてしまう」という表現レベルの問題だ)。では、その景太郎(=主人公)に憧れんとする「読者」からすればどうだろうか? 物語の中の景太郎は、瀬田と似たような性格の人間であり、殆ど同じ過程を辿って成長する。それならば、瀬田とそっくりになってしまうのは当然の帰結だろう。しかし読者は瀬田や景太郎と同じ過程を辿ることはできないのである。
 つまり、主人公としての景太郎は、最後まで読者に対して「成長する意志(=師匠とは違う存在になるのだと決意する意志)」の見本を提示していないし、瀬田もそのベクトルを与えようとしていなかったのだ。景太郎が経験した「成長」は、少年漫画の言葉でいう「成長」と完全にその内実を異にしている。

 景太郎も、部分的に瀬田と異なっている部分があるにはある。何より「好きな女に対して一途になれた」だけでも景太郎は瀬田を乗り越えたと言えるし、細かな性格の違いもストーリー全体を通して眺めれば随所に描かれているのだ。だが、いかんせん最終的な姿が「瀬田とそっくり」なのでは元も子も無い。
 付け加えれば、ヒロインである成瀬川が瀬田ではなく景太郎を選んだ理由も弱くなってしまうだろう。瀬田が景太郎と違って「好きな女に対して一途になれなかった」のは、「三角関係」と「親友の死」という、外部的な要因が大きかった。景太郎は運良く三角関係を経験しなかった為、一途でいられたのだが、もし瀬田と同じ境遇でも異なる答えを出せたかどうかは定かではない。
 そして一人物としての景太郎は確かに立派に成人しているのだが、どこか老成しきった所があって「少年の成長」をイメージさせないのだ(自分が瀬田そっくりになりつつあることを自覚して、「瀬田さんのかわり」に見られても別にいいよ、と成瀬川を許容することもある。HINATA.79参照)。それも含めて、後期の景太郎は「少年漫画の主人公らしからぬ」キャラクターとして描かれていたと言えるだろう。


■少年漫画の形式から始まり、少年漫画から外れて完結した作品

 しかし少年漫画という視点を離れて『ラブひな』の作品全体を眺めてみると、ひなた荘という舞台を中心にした、「全体的な輪廻性」「ループする幸福な世界」というサブテーマを発見することができる。前後編のエピローグは第1、2話や第29、30話の構成をなぞっており、物語の最初から最後までが多重化されて繋げられているのだ。景太郎が瀬田の行動をなぞることも、この「多重化」に役立っている。
 こういった演出の発想は、赤松健が映画研究会にも所属してた映画畑の人間であることが影響しているのかもしれない(ちなみに担当の大野氏も映画趣味が強い)。映画における作劇法においては、オープニングのカットとエンディングのカットに類似したシーンを置くことで作品の完成度を高めるという演出作法が普遍的であるからだ。『ラブひな』はその点においては、実に映画的な、完成度の高い締めくくり方をしていると評価していいだろう。この手際の良さはAI止まの結末よりも更に上達している。AI止まは「第一部・完」に過ぎない最終回だったことに対し、ラブひなは「恋愛ドラマと雑居ドラマの双方を同時に完結させつつ、なおかつ作品世界の時間は動き続けている」ように描いているからだ。
 そのような演出を、「約束の女の子編」で伏線を全て回収し、エピローグでヒロインとの結婚まで描ききった上で行っているのである。大抵のラブコメ漫画は、恋愛に決着をつけるだけでも精一杯か、恋愛と無関係なクライマックスを強引に接ぎ木してお茶を濁すことが多いのにだ。

 ただ、そのような映画的完成度と引き替えに失われているのが、「少年漫画の主人公」としての景太郎の「個性や成長」、つまりひとつのヒーロー像であったことは否めない事実であろう。景太郎の一時的な退場とその後の変化について、連載終了後の赤松健はこう語っている(『ラブひな∞』p131-132)。

「あれは景太郎を成長させるために一旦下げようということになったのです。ストーリーに間を持たす意味があったというか、この手法にドラマ性を感じたんですね。景太郎の成長というのは、最終回へ向けての重要なファクターになっています。だから瀬田に関しても単なる恋のライバルという設定ではなく、景太郎の目標となれるような存在なのです。(中略)そのうちにクルマも譲ってもらって最後には瀬田そっくりになっちゃう。でも後半部分の景太郎の瀬田化というのをあまりよく思っていないファンも中にはいるんですよ(笑)」

 ここで発言されている「景太郎の成長」「最終回へ向けての重要なファクター」というものが、少年漫画的な成長を指して述べられていないことが理解して頂けるだろうか。景太郎の成長(瀬田化)は、作品世界を完全に完結させるための布石としてのみ想定されていたことが読み取れるのである。

 ところでエピローグでは主役である絵馬が景太郎の行動を反復するのだが、彼女が「読者」と同じ地点に立っている人物だと言っていいかもしれない。景太郎が瀬田の行動パターンをなぞっているように、絵馬も景太郎の行動パターンをなぞるのだが、性格が異なる(もとより性別や立場が異なる)のだから景太郎のレプリカとなることも無いだろう。彼女は必ず瀬田や景太郎と違う道を辿る筈だ。
 この「景太郎→絵馬」の流れは少年漫画的に正常と言える。しかし、その絵馬(=読者)の手本となるべき「瀬田→景太郎」の関係だけが、やはり「少年漫画的に異常」なものとして浮き上がるのである。


■総論

 以上における「景太郎の瀬田化」が少年漫画の禁止事項に触れているとはいえ、それが問題として表れるかどうかは読み方の違いで差が現れる為、各人の判断に任せたい。『ラブひな』の真の主人公は成瀬川だから構わない、と評していいかもしれないし、少年漫画の枠を抜け出た作品だと考えるのも自由だろう。そういう視点で読めば、景太郎だって充分魅力的な主人公なのだ。
 『ラブひな』は少年漫画的な成長を避けることで「幻想を生み出し易い」構造にもなっているのだが、幻想へと誘導する作風を悪質だとは断じられない。それもまた表現の内だからだ。
 それよりも注目したいのは、現在連載中の次回作である『魔法先生ネギま!』では、この禁止事項に抵触しないよう細心の注意が払われているように思える、という点である。そこに我々読者はある種の信頼感を感じることができる。赤松健という作家が、同じ過失を二度と繰り返さないということはAI止まからラブひなへの過程で一度証明されているのだ。

 少年漫画史における『ラブひな』の功績を考えてみると、独力でマガジン本誌に「美少女ラブコメ」という新しい分野、新しい読者層を切り開いたという点が挙げられる。無論これは功罪併せ持つ問題でもあるのだが、その如何についての考察はまた次の機会に譲ることとする。
 その一方で、少年漫画としての欠陥は「景太郎を瀬田そっくりに描いてしまった」ことの一点に尽きてしまうのだ。この問題はなかなか奥の深い少年漫画論を内に宿している。他の少年漫画の主人公達と『ラブひな』の景太郎を比較することで、様々な発見が得られると思う。是非試してほしい。
 
 では最後に、少年漫画の主人公が師匠と向き合う(憧れ、乗り越えようとする)場合におけるキーワードを提示する試みをしてみよう。このような台詞回しが、その主人公と師匠の関係において当て嵌まるかどうか、が少年漫画としての分かれ目になるのだと思って頂きたい。

「僕は貴方のようになりたい、でも、僕は貴方のようになりはしない」

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