■マガジンSpecial期(Program. 22〜41)
当時の『マガジンSpecial』(以下マガスペ)という雑誌は、AI止まのナンセンスさが問題にならないほど「ナンセンスなエロコメ漫画」で溢れていた。そのカラーはメジャー週刊誌であるマガジン本誌とは大違いで、エロコメというジャンルでいえば、AI止まは断然マガスペのカラーに「合って」いた。
その為か、ビリー・G編のような「少年漫画らしさ」は一度影をひそめ、再びヒューマンドラマやホームコメディが物語の中心になっていく。この路線は、
マガスペのカラーだからこそ可能だったものだろう。特にコメディ部分のノリは『星くずパラダイス』(90年〜92年)時代の克・亜樹
との類似性が多分に見られるもので、ここで
は「サンデー系ラブコメのテイスト」の取り込みも散見できる。
と同時に、学園などの外の世界へ出る機会が増やされていることが何より大きい。ゲストヒロインを適度に出演させてサーティと対比させたり、サーティに人間らしい情緒を 芽生えさせたりと、初期に見られた不自然さ(前述した、「プログラム通りに自分を愛してくれるヒロイン」という都合のいい設定からくる一種の気味の悪さ)
が随分和らげられていることも窺える。主人公のひとしもプログラマーとしての才能を外の世界で発揮していき、ただのダメ男ではない所を証明していく。
作者の「少年漫画ラブコメ」に対する理解と上達が少しずつ見られる過程であろう。またこの頃には、赤松スタジオ特有の「貼り込み技法」と呼ばれる作画分担システムがほぼ確立しており、次回作の『ラブひな』で見られるような作画水準が既に維持できるようになっている、などの進展も発見できる為、技巧的な面での見所が多い。しかしなんと言うべきか、この時点のAI止まはまだ「良くあるエッチなラブコメ」としか評しようの無い漫画でもある。
そのような中で、マニア層(当時のギャルゲーマーやパソ通ユーザーなど)の固定ファンも手に入れていたAI止まは、マガスペの看板作品として支持されるに至る。ちなみにマガスペ連載作品の中でヒット作と呼べるような作品は、『風使い』(91年〜98年)と『A・Iが止まらない!』の二作くらいだろう。
そして第42話になると、最重要ゲストヒロインであるシンディが登場する。
■シンディの役割
ところでこのシンディというキャラクターだが、この作品中で最も魅力的なキャラクターが彼女である、と主観的にも客観的にも言って差し支えないと思う。それはアンケート結果にも表れている他、作者やアシスタントにとっても同様で、「作者の愛を一身に受けた」「ブワーッと熱の出てるキャラ」という説明が後にされている。実際にシンディの作画コストは破格の待遇を受けたもので、アップやブチ抜きが多数であることは勿論、髪型変更や着せ替えが実に頻繁に行われている。
そのような「メインヒロイン級」に造形されたゲストヒロインを正ヒロインであるサーティにぶつけ、しかもいわば「負けキャラ」として扱ってしまうことで、AI止まという作品が爆発的に活性化すると共に、本誌連載時に冒していた「少年漫画的ミス」という負債を一気に返済していくのである。まさにシンディ登場後からがAI止まの本編だと言ってもいいかもしれない。シンディの登場前と登場後にはそれほどの落差があるのだ。
冗談のような話だが、古本屋でシンディ登場前の巻だけが売られており、シンディが登場した「後」の巻だけが売りに出されていない、という現象が実際に起こっていたりもする。
しかしシンディ登場以前の物語が不要かと言えばそうではない。AIであるサーティが人間らしい情緒を身に付けていく過程がシンディ編に必須だからだ。当初、イノセンスでエゴの希薄だったサーティは、シンディと出会う頃には既に「AIではない何か」に変貌している。ひとしに対して怒りもするし、嫉妬もするのだ。そのようなサーティに成長していなければ、物語上シンディと対峙することはできなかった筈だ。また、勿論ひとし自身のキャラクターの積み重ねも見逃せないだろう。
だから『A・Iが止まらない!』という作品は、漫画的に未熟な「シンディ登場以前」と、漫画的に成熟した「シンディ登場以後」とのセットで出来上がっている、と結論してもいい。
シンディについて言及することで、先に結論を述べることになってしまったが、次からはシンディ登場以後の流れを実際に見ていこう。
■シンディ登場と「人魚姫編」(Program. 42〜45)
シンディが物語にその姿を現した時、ひとしはそのパソコン知識とそれを教える手際の良さから彼女の信頼を得る。
シンディがパソコン音痴なキャラクターだとはいえ、このような「主人公が自分の特技を発揮してヒロインの好意を惹く」ということ自体が初期のAI止までは殆ど描かれなかったもので、この時点のひとしは随分「少年漫画的な」主人公として描かれるように変化している。
その後、舞台はシンディの編入と同時に学園コメディの場へと移り、劇中劇を描いた「人魚姫編」が始まるのだが、ここでもひとしは主演に抜擢され、「学園という外の世界の中で」それなりの活躍をして周囲に認められていく。
これも、「家庭の外」へ殆ど向かおうとしなかった初期とは全く異なるテイストのものだ。ひとしを強引に主演に選んだのはシンディなのだが、文字通り彼女はひとしを学園コメディの世界へと連れ出す「現実との接点の役割」を果たしているのである。
──ここで読者も否応なしに気付かされるのが、サーティとシンディのどちらがひとしの恋人として優れているのか? という問題である。
筆者としては『ドラえもん』のドラえもんと、のび太のおばあちゃんのどちらがのび太の保護者として優れていたかという問いを思い出す。生前のおばあちゃんはのび太の良き教師であり、心優しい理想的母であり、暴力からも守ってくれる守護者だった。また、ドラえもんのように危険なひみつ道具を不用意に与え、のび太を暴走させたり現実離れさせる心配も無い。おばあちゃんがずっと生きたままでいれば、のび太にドラえもんは必要無かったかもしれない──。そう考える『ドラえもん』読者は少なくない筈だ。
可愛く優秀かつ裕福で、自分を愛してくれる「生身の人間」であり、そして、パソコンマニアであるひとしを現実世界へと連れ出してくれるシンディは、理想的な彼女として読者の目には映る。
「人魚姫編」では、アンデルセンの『人魚姫』と物語を重ねつつ、「人間の恋人が現れた以上、自分が恋人としてプログラムしたAIなんか要らないんじゃないか?」「所詮サーティは現実の彼女の代換品に過ぎないんじゃないか?」という、この作品最大の問題点が、作者自身の手で露わにされ、そして修繕されていくのである。この「修繕」に達する過程は実にドラスティックなものとして読者の目には映る。
シンディが登場していなければ、AI止まは問題点を抱えたままの作品になっていたと言い切ってもいいだろう。
さて、最終的にサーティは自分自身のプログラムを自ら書き換えることで「限りなく人間に近い存在」「AIを超えた何か別のもの」へと成長(ある意味では退行でもあろう)していく様子が描かれる。そして主人公はサーティのその必死の想いに気付き、シンディ=リアル彼女の誘惑を振り切ってサーティを選ぶことを決断する。この「決断」を彼自身が行っていることも少年漫画的に重要だ。そうして前述した問題点は克服されるに至る。
サーティとシンディの三角関係にも後腐れの無い決着がつけられ、ここでAI止まはラブコメ漫画としての大団円を迎えることになる。
■連載終了まで(Program. 46〜55)
しかし、この頃のAI止まはマガスペの看板作品として既に高い支持を受けており、「人魚姫編」で最終回を迎えることは無かった。サブヒロインのトゥエニーとフォーティの補完的エピソードを1話ずつ挟んだ後、二度目のクライマックスとも言える「ゼロ編」(「弥生編」とも。敵の名前がゼロ、新キャラであるひとしの妹の名前が弥生である)が更に追加されることになる。
これが本誌連載期の締めくくりとなった「ビリー・G編」をスケール拡大させたような大規模ネットワーク・バトルが基軸になっており、主人公は世界とサーティ達を守るために戦う。物語は再びバトル漫画の様相を呈し、「少年漫画らしさ」を取り戻すのだ。本誌連載を下ろされたことの面目躍如とも言えるだろう(といっても実際活躍しているのは殆どサーティやフォーティ、まーくんなどのAI達であって、主人公は最後のシメを任される程度なのが残念な所だが。それでもAI達やまーくんが使った武器などはひとしが作ったものなのだから、少年漫画的にはギリギリオッケーだろう)。
バトルに決着が着いた頃には、かつてモテないただの高校生だった主人公は天才プログラマーとしての才能を開花させ、周囲の世界もそれを認めるまでに成長を遂げている。ひとしはサーティの存在価値を再確認し、そして物語はひとしがMITに留学する所で幕を下ろす──。
余談だが、この最終回が後を濁さない完結編であったと同時に、「やろうと思えば『AI止ま2』を続けることも可能な最終回」になっているという、演出の手際の良さも評価したい所だ。これは次回作『ラブひな』のラストを綺麗に締めくくった作者の、「終わらせ力」に対する評価にも繋がってくる。
■総論
以上が、『A・Iが止まらない!』という作品が「少年漫画」としての体裁を獲得していくまでの大雑把な過程である。
繰り返しになるが、総論として「初期は少年誌というものを殆ど理解していなかった赤松健が、次第に少年誌らしさを学んで作品内に吸収し、最終的には少年漫画の形式で完結させた」という客観的評価が与えられるのではないかと思う。
では、最初に「少年漫画として致命的な欠陥」と述べた、主要な問題点を整理して終わりにしよう。
1.恋人関係(相思相愛であり、自他共に認められている関係)が最初から成立している
2.主人公が外の世界で戦わない(ヒロイン以外を見ようとしない)
3.ヒロインは人工的な恋人であるが、それに対して主人公や周囲が疑問や抵抗感を持続させない
この三点を念頭に置きながら最初から最後まで読み直してみることをお勧めしたい。「少年漫画という視点から」また違ったものが見えてくる筈だ。
そして、AI止まを少年漫画として成立させた経験が次回作である『ラブひな』にどう活かされるのか。それも併せて考えることもできるだろう。
≪少年漫画という視点から見た赤松作品の変遷:ラブひな編≫に続く
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