「……あの……先輩?」
「……汚くて狭いけど…上がってくれ」
私はそれにただ、頷いた。さっきのどうしようもない気恥ずかしさは、宮田先輩の急な行動にほんの少し薄らいだものの、根本的に解決したわけでもなく、しかも、今現在いる場所は、なんと宮田先輩の家。
私の心臓は、再び緊張と不安で早くなり、体は硬くなった。
……けれど、ずっと玄関の前に立っているわけにもいかず、私は、ゆっくりと始めて彼の匂いのする場所に足を踏み入れたのだった。
……時々、話で聞いていた彼の家は、実際に来て見てみても彼が言っていた通り、古いこじんまりとしたアパートで外観の古ぼけた印象はどうしても拭えない。
木の階段を上って二階の一番奥の部屋にある彼の部屋に入ると一番最初に目に付いたのが料理をする人には不向きっであろう、あまり材料の入らなそうな2ドアの小さな冷蔵庫。…だって、玄関の扉を開けて真正面にあったものだったから。…次は入る時にちらっと見た玄関の左手にある小さな台所。水場は狭く、コンロも小さいのが二つ。その上と下には、お鍋や食器をしまう場所。一人暮らしなら十分なのだろうけれど機能的とは言い難い…かもしれない。そして、きっと台所のすぐ近くにあるあの扉はトイレと簡易バスに繋がっているはずだ。…彼の話が本当なら。
中に入って、目を向けると小さな折り畳み式のテーブルと黒色の小型テレビ。そのまた奥には…パイプベッドと物を掛けたり置いたりしている棚。
私は、そのテーブルの前に座った。緊張しながらもやっぱり知りたいという欲求に負けて周りを見渡していたら、なんだか不思議な気持ちになってきた。……小さな。とても小さな事だけれど……彼を知れたような気分になったのだ。
…彼はお湯を沸かしてコーヒーを入れてくれた。私がお礼を言うと、「インスタントだけどな」と笑った。
彼が座って、静かにコーヒーを一口飲む。それを肌で感じながら私は、自分の分のコーヒーを両の手で持ちながら彼の言葉を待った。
彼は、ゆっくりとした口調で話を始めたけれど……その間も彼の目が、ずっと私を見ているのは知っていた。
「……今日はどうしたんだ?……それに最近…少し、様子が可笑しいようだし…」
何かあったか?と優しい声で聞かれて、私は首を振る。手の中の暖かなコップを強く持って。
「…何も…。何もないんです」
「…………そうか」
「……」
「………なら…俺をまっすぐ見れるか?」
彼は、今だ下を向いたままの私に、責めるような口調でもなく、優しくそう言った。けれど、それに私は言葉に詰まり、結局、首を振る。怒られているわけでもなく、責められてもいないのにちゃんと答えられない自分に情けなさが募って、眉を知らずに寄せてしまった。
「……なぜ、見れない?」
彼がそう言ってから、しばらく時間が経った。……私が答えられなかったから。
「……菱谷?」
じっと…変わる事ない彼の視線。ジワジワと焼かれるような感覚が最高潮に達した時…
「――せっ、先輩ッ!?」
一瞬にして目線がグラリと動いて…背中に当たる畳の感覚と真上にある彼の瞳。
「……なぜだ?菱谷?」
……絡まった視線はほんの数秒。けれど、私はそれを遮った。……自分の顔を手で覆い隠すという手段で。
……彼の声は先ほどと変わってなどいない。表情も。けれど、彼の体温が触れた足から伝わってきて私を逃げられない所まで追いつめた。…私は、上擦った、か細い声を奮い立たせて言った。
「……さ、最近…一人でなんだか……っ……とにかく私がダメなんですっ…」
焦っていて言葉は纏まらず、顔も見せられない状態だったけれど。……隠したかったのだ。緊張と情けなさと恥ずかしさに涙目になっている自分を。けれど、彼はそれでは私を逃がしてはくれなかった。
ゆっくりと大きな熱い手で髪を撫でて、耳元で囁くように問い掛けた。
「……どうして?…菱谷が駄目な理由を教えてくれよ……」
「……っ…」
ピクリと体が反応して腕が揺れた。……その腕を力を感じさせないようにして徐々に崩されていく。私が嫌がろうと力を加えるのを許さないくらいに彼の行動は優しかった。
…縫い止められた腕を伝って彼の手の平が私の手の平と合わさって…指を絡めて彼の熱さを直に感じて……赤く染まった頬と震える事を止められない瞼を彼に見られてしまう事になる。
彼は、そのままの状態で次の言葉を待っている。ずっと。……一滴の涙がポタリと床に伝った時…私は、口を開いた。
「…じ、自分が、情けなくて……恥ずかしくて堪らないんです……」
震える声。止まらない涙。それでも…そんな私でも…彼が待っていてくれているから。
「……宮田先輩の力になりたいのにっ…自分には何にも出来なくて…。それ所か迷惑ばっかり掛けて…考えても考えても、焦ってばかりで……ダメ…なんですっ…」
「……菱谷」
「……宮田先輩に…喜んで欲しいんです…」
想いを吐き出して…息を付けば、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。先輩はそれを指で拭ってくれながら「泣くな」と「大丈夫だから」と……暖かくて優しい声で何度も囁いたのだった。