仏坂地蔵の怪

生駒市石造遺物調査報告書サイトの鹿畑の項で「仏坂地蔵」を見つけて喜んでいることを報告しています。ところが、変なことに気づきました。下の写真をご覧下さい。左が「生駒の古道」記載の仏坂地蔵、中央が「調査報告書」記載の仏坂地蔵、右が私が見つけた保育園北の地蔵様です。何か違うような気がしませんか?

  

左写真の地蔵様だけ拡大してみます。

 拡大して粗くなっていますが形はわかります。

 調査報告書と私が見つけた地蔵様は同じですが、生駒の古道の地蔵様はどう見ても別物です。これは一体どうしたことでしょう。
 考えられることは【調査報告書NO176の仏坂地蔵と「生駒の古道」に記述された仏坂地蔵は別物である。】ということです。「古道」に記述されている地蔵様が仏坂地蔵であることは疑いがありません。祠に「仏坂の地蔵」(蔵が見えませんが)と書いてあります。私が見つけてきた地蔵様が調査報告書のNO176であることも間違いがありません。サイズ、記銘等が一致しています。ただし、両者は別ものだったとしか考えられません。
 つまり、仏坂には坂の上下に別々の地蔵様が祀られていたと考えるべきです。坂の上は奈良市です。調査報告書の守備範囲は生駒市内です。暗峠で生駒市外の遺物を3件収録していますが、「東大阪市側」と断っています。仏坂地蔵には何の断り書きもありません。つまり「古道」が取り上げた仏坂地蔵は調査報告書には取り上げられていなかったと思われます。
 というわけで、私が発見した地蔵は移転したのではなく、もともとその付近にあった地蔵様でしょう。もちろん学研登美ヶ丘駅付近の変化を考えると少しは移動したでしょうが、市境をまたいで移動したわけでは無さそうです。よく考えてみたら、このような地域の遺物が、市境をまたいで引っ越すなどという事態は、まず無いことに気づくべきでした。残念ながら「古道」に記載されたひょうたん池北西の仏坂地蔵は行方不明というわけです。
 そうなると、「生駒の古道」P.94に書かれている、【「享保十六年(1731)」の銘が入っているそうです。】という記述は誤りということになります。坂の上の仏坂地蔵が行方不明で確認できないため、断定はできませんが、おそらく無銘だったのではないかと思います。銘があっても摩滅して読めなかったのでしょう。だから調査報告書の記述を引用したのでしょうが、写真の比較や、サイズの確認をしていれば別物と気づけたと思います。

追記:この地蔵様は「生駒の古道」記載の位置近くにちゃんとありました。仏坂地蔵探索ページで紹介しています。

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