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(3)

 ぱち。
 そう音を立てそうなくらい大きく快斗は瞳を見開いて、そのまま固まる。
 凍り付いたように変わらない表情の中で、その目にだけ比較的白馬にも読み取り易い様々な色が過ぎった。
 混乱、驚愕、不審、動揺、……否定。
 肩口で笑っていた快斗の瞳にあるように思えた、親密さやあからさまな好意の色は、刷毛で塗り替えられたみたいに払拭されたようだ。
 今朝までの彼の正しいスタンスに戻っただけだろうと推測出来ても、微妙に何か無くしたような気になって、そのカケラでも残ってはいないかと、祈る気分で瞳を覗き込む。
「目が覚めましたか」
 のんびりと呟く白馬から目を離さずに、彼は無表情、そして無言を保つ。ピクリ、と引きつったように口許を引きつらせたのも見て取れるくらいの至近距離にも、そろそろ慣れた。
 軽く二時間近くも膝枕を続けていれば、流石に初めこそどぎまぎしたが、次第に慣れてまじまじと顔の一つも眺めやれるようになるものだ。
 近過ぎる距離にも、膝の重みやぬくもりにも、二時間あればどうにか馴染んだ、のに。
「気分はどうです」
 やんわりと問えば、喘ぐように快斗は小さく息を飲み込んでゆっくりと口を開く。
「……白馬?」
 微妙に嫌そうなそれでいてその一言で全ての説明をも要求するかの如くものすごく複雑な感情を込めた声と、何かを探ろうとするような眼差し……白馬にはいたく見慣れた、いつもの黒羽快斗の姿である。
 困惑と、警戒感の混ざった、眼差しだ。
「そうですよ、僕です。で、気分は?」
「気分……は、普通、だけど。待て、ちょっと待て、待て」
 ぎょっとしたように顔をしかめ、早口で待てを繰り返すとがばっと起き上がり、彼は飛び退いた……白馬の膝から。
 それでも急には立ち上がれなかったのか、数歩分離れた床へがくがくと腰を落とす。そして今の自分の居た状況を確かめる為か、ぐるりと周りを見回し、最後に再び白馬の膝へと視線を寄越した。
 呆然と、視線を落とした膝からゆるゆると上げ、声なく唇だけが信じらんねぇ、と呟く。
「……気分って、……ちょい待て。待てよ。オレ、どうしてた……?」
「もしかして、記憶、飛んでますか」
「……すっ飛んでる」
 額に手をやり眉をしかめて呆然と呟く快斗に、白馬は苦笑する。やにわに軽くなった膝が物足りない気分をもたらすが、引き止どめる術がないのも、理由がないのも、仕方のない事だとも理解していた。
「いや、待てよ。朝、学校来たのはぼんやりと覚えてる。それから数Iは寝て……」
「技術工芸の途中で姿をくらませて、どうやら君は家政のクラスに入り込んで悪さをして来たようですね」
「悪さ……」
 思い出そうとしているのか、こめかみを押さえ快斗は顔をしかめている。
「カップケーキのレーズンを漬けるラム酒を飲んでしまったって青子くん、怒ってましたよ」
「……覚えて、ない」
 茫然と呟く声に覇気はなく、記憶が飛んでいるのがどれ程例のないショックな事かがその声からも伺える。
「みたいですね。残念です」
 残念? と、快斗に怪訝そうに見られ、白馬は肩を竦めた。
「何故そんな事をしたのか、酔っ払った君には聞けなかったもので」
「酔った? ……オレが?」
 耳を疑う、という風情で聞き返す快斗に、白馬は頷く。
「でも、酒ったって菓子作り用だろ? ……そんなのでオレが、酔って記憶飛んだってのか……?」
「君がどこかで頭をぶつけたのでなければ、そうでしょうね」
 記憶を探るように何かを凝視して、快斗が呻く。その中に、あの上機嫌で甘えてくる無防備な笑顔が隠されていると、見ていなければ信じられないような、いつも通りの姿。
 先ほどまでその頭は膝に、その腕は腰に回されていたのがそれこそ儚い夢だったかのような呆気ない幕切れに、軽くなった膝がやけに薄ら寒く感じるのを、苦笑に紛らわせた。
 思いを馳せても詮ない事だ。
 ぽん、と膝を払い手をつく。痺れを切らした膝が笑いかけたのも、どうにか誤魔化して白馬は立ち上がった。
 それを唖然としたままの快斗が視線だけで追う。
「三日も寝ず、前日からろくに食べずに摂れば、ほんの少しのアルコールでだって酔うのではないですかね、きっと」
 またも快斗は、ぎょ、っと身を硬くする。
「ちなみにそれは君が教えてくれました。ところで一つ聞きたいのですが、……君は、これまでにも記憶をなくすような飲み方を?」
 問いに、嫌そうに快斗は顔をしかめる。
「未成年の癖にどうこうって説教なら聞きたくない。またにしてくれ」
「そんなつもりではありませんよ。単なる……好奇心です」
「余計質悪ィ」
 小声でぼやかれたそれは聞こえないふりで聞き流した。
「黒羽くん?」
 応えを促す為に呼んだ名に、彼は完全なしかめっ面でむっつりと黙り込む。話したくない、と全身で訴えて来るが、根比べでは白馬も負ける気はない。
 壁に背を預けるようにして腕組みをし、待ちの態勢で快斗を睥睨する。
 半ば階下へ降る扉を塞いだような立ち位置は勿論わざとだ。と言っても快斗が本気で姿をくらます気になれば、その程度の小細工など何の妨げにもなりはしないのも承知の上で。
 そして、ただ快斗を見つめて時間を過ごすのにも、すっかり慣れた。
 むしろその不躾な視線に晒されて居心地の悪さに音をあげたのは快斗の方である。
「ったく、ムカつく。んなトコから見下ろすなよっ!」
 一声吠えて、座れ、と快斗の手が白馬のズボンの裾をひいて睨みあげて来る。
「いいでしょう」
 白馬は淡く微笑んで彼の向かいへと改めて腰を降ろした。
「それで?」
 促せば、快斗は胡座を組みその膝に頬杖をついてそっぽ向き、目を眇める。視線は合わない。
「飲んで記憶飛んだのなんて初めてだよ。そもそもかなり飲んだってほとんど酔わねぇんだから」
「そうなんですか。強いんですね」
「オレも今までそう思ってた」
 ため息と共に呻くように快斗は呟く。
「思って、たんだけどなぁ。……オレ、そんな明らかに酔ってるって分かる様子だったか」
 聞きたくないけど嫌々尋ねる、と言う語調に、恐らくアルコールに呑まれない自信がかなりあったのだろうと推測出来た。
「息は、酒臭くはなかったですよ。顔色もいつも通りでした」
 だから初めは酔っているとは思わずに、いつもとは毛色の違うタイプの奇行に及んでいるのかと、何か企んでいるのかとそちらを疑ったくらいだ。
 慰めるように言っても、しかめっ面の快斗の視線は上がらない。
「脱いだりとか暴れたりとか、泣いたりとか、吐いたりもしませんでした」
 酔っ払いの代表的な迷惑行為を次々と否定していく。
 ちなみに白馬は絡まれたのか甘えられていたのか判然としないので、その辺りについては触れないでおいた。
 多少ほっとしたのか、しかめっ面の快斗の眉間からシワが僅か減ったようだ。恐る恐る視線が上がり、白馬の次の言葉を待つ。
「ただ」
 言動はあからさまに違っていた。
「ただ……?」
 笑顔の大盤振る舞いで、ぴったりと白馬にくっついて、彼の言を引用するなら『抱きついて』離れなかった。更に可愛く甘えて、舌ったらずに機嫌良く話しかけて、果てには強引に白馬の膝を枕にして眠ってしまった。
 快斗は言い淀んだ白馬の台詞を身構え、強張った顔で待っている。
「あーその、……君は、少しばかり珍しい感じでした」
 具体的に羅列すると、快斗は全面否定に出るか、いたたまれなさに地の果てまで落ち込むか、はたまた羞恥に身悶えるか。
 いずれにせよお酒を飲み酔って本音が出た、というパターンではないだろうから、先だってのような酔い方の快斗はそうは見れないに違いない。
 睡眠不足に空腹というダブルコンポがあったから本来酔う筈のないアルコール量で酔っ払った。故に、有り得ない酔い方をしたというならば、あんな彼にはそうはお目にかかれないと言う事だ。
 思い返せば傍迷惑ではあったが、酔った快斗はなかなかに可愛げがあった。
 どこか子供めいた可愛げは、普段の関係からすると向けられる事のない、スキンシップ過多な甘え方。
 だがそれは素面ではまず確実にお目にかかれない、と言うだけでなく普通に酔った程度でも見れないかなりレアな状態だったのだろう。残念だ。
「何だよ珍しいって。オレ、何したんだ?」
 曖昧な説明で黙り込んだ白馬に、焦ったように快斗が詰め寄る。
「おい、白馬」
「そうですね……知りたいですか」
「そりゃ、分かンねぇのも気持ち悪いだろ、やっぱり」
 居心地悪そうに見やる快斗を前に、白馬は熟考の姿勢で思わせぶりに沈黙を保つ。
「何だよ。もったいぶらなくてもいーだろ」
「教えてあげてもいいですよ、条件つきで」
 にっこり、笑顔での不穏な発言に、快斗が瞬間唖然とし、うろたえる。
「ど、どういう意味だよ」
「難しい事ではありません。ただ……何を言って何をしたか、覚えてないのでしょう、君は?」
 確認に、快斗は不安と不満が入り交じった表情で、一つ頷く。
「なら、まずは反省なさい。そもそもは君が家政科の皆さんの所でラム酒を飲んでしまったのが原因なのですよ。後できちんと青子くんたちに謝るように」
「……分ってるよ」
 快斗は不承不承の体で頷く。
「睡眠不足も食事を抜くのも体調不良の基ですからね。これも反省し改善なさい」
「へいへい。します! ……つーかオレ、もしかして家政科で暴れたとか、そーいう……?」
「それは大丈夫だと思いますよ。家政科ではラム酒を飲んでケラケラ笑って飛び出したそうですから」
 それはそれで立派に酔っ払いの奇行と理解したらしい快斗が、自らの所業に頭を抱えて低く呻く。
「教室には何人かいましたけど、君が酔っていたと知っているのは僕と青子くんくらいでしょう。ただ、……君の珍しい状態は何人かに見られてますから、何か言われるかもしれませんが」
 からかいのネタくらいにはなるかもしれない。
 普段から犬猿の仲な白馬を相手にへばりついて離れずに騒いでいたのだから。勿論、快斗ならではのいつもと異なる悪ふざけの一環として流されている可能性も高いだろうけれど。
「覚悟は良いですか」
 ある意味悲壮な顔つきで、快斗は重々しく頷いた。
「まず君は、終始、機嫌良くにこにこと笑ってました」
 その台詞の反対に作用するかのように、快斗が眉をひそめ軽く顔をしかめた。
「それから僕にひっついて、」
「はあっ?」
「ひっつくと言うか、抱きついて来て、」
 素頓狂な叫びの後、今度は言葉も出ないのか、大きく瞳を見開いて、口はパクパクと空をかむ。
「楽しそうに僕の名を連呼して、ちっとも離れてくれませんでした」
「……マ……マジ、かよ……」
 頭を押さえて、がっくりと彼が俯く。少しばかり罪悪感も覚えたものの、白馬は至って真顔で淡々と先を続けた。
「ここに来たら来たで、君ときたらとてつもなく可愛く甘えて」
「…………あま…………?」
「白馬大好きー、と懐いてくれましてね」
 完全にしかめっ面で口許を押さえた快斗は呻くしかない。のたうち回る寸前の形相だが、微かに見える耳が羞恥にか他の理由にか、確かにほの赤く染まっているのが、垣間見える。
「挙げ句君は、やったー、白馬の膝まくらーっと腰に抱きついて」
 悪夢だ、と小さな呟きが聞こえる。そこで白馬は単調に語った台詞に僅か笑いをこらえる空気を混ぜ込み、続けた。
「すやすやと僕の膝で寝てしまいました」
 語尾の、語調の変化を聞き捉えたらしき快斗が、ぴたっと動きを止める。まさかまさか、とその頭の中で文字が渦巻いているのが目に見えるような沈黙が過ぎった。
 その効果を充分に図って間を置いて、白馬はくすりと笑う。
「……なんてね、信じました?」
「おまっ……! まさかっ」
 珍しくも弾けるように笑い出した白馬を、信じられないものを見るように眺めて三秒、快斗が勢い良く胸倉を掴んで揺する。
「ありえねぇ! 冗談なら冗談だって分かる顔でいいやがれっ!」
 アホばか白バカと聞き捨てならない悪態を立て続けに投げつけられるも、白馬は笑って流す。
「おや、全部が全部、嘘って訳でもないんですよ」
 むしろ、真実に混ぜた、嘘はたったの一つだ。何気ないふりでわざと隠した虚構は、白馬なりの小さな望みのようなものかもしれない。貰う事のなかった、一言。
 しかしここで軽く口にのせた否定は、益々信憑性を欠けさせるものと承知の上での発言でもある。真実を全て、今この時に何の駆け引きもせずに伝えようという気は、ない。
 正直な処、気持ちなどとうに悟られている気もするが、素面の彼が素知らぬふりを貫くなら、……彼も告げるつもりがないのなら、白馬としても秘めるだけだ。どんな意地の張り合いかとも思うが、こういった事柄にはタイミングもあれば駆け引きもある。だからそこは簡単には譲れない。
「分かった、よーく分かった! つまり端っから教える気なんかなかったんだな?」
「教えてあげたじゃないですか、少しばかり創作が混じりましたけど」
「だーっ!」
 しれっと、それでいて完全に面白がっているのがみえみえな態度の白馬を前に、足を踏み鳴らさんばかりに快斗が吠える。
「ムカつくっ!」
「でも、何をしでかしたかって沢山想像して、少しは反省になったんじゃないですか」
 からかいまじりの正論に、彼は聞きたくないとばかりに露骨に視線の交わりを断ち切った。
「もういい、真面目に聞いたオレがバカだった!」
 胸倉を掴んでいた手も、あっけなく離れて、快斗は憤然と立ち上がる。それを引き止める為の言葉はこんな時なのに、否、こんな時だからか、探偵丸出しだ。
「証拠もありますよ」
 全てが嘘ではない、証拠が。
 追いかけるようにかけた低めた声に多少は後ろ髪をひかれたか、快斗は勢い良く踏み出した足を迷うように、二、三歩進めて、止めた。視線は落としたまま。
「思い出してみて下さい。君が目を覚ました状況を」
 白馬の膝の上から、彼は跳ね起きた。そしてそうなるには何らかの流れがあったであろう事は推測出来る筈。
 息を詰めるように待つ白馬へと、快斗がゆっくりと振り返った。怒りに染まっているかと思われたその瞳は、意外にも冷静で、揺ぎなく、強い。
 飛び起きた際の状況を都合良く忘れてはいないのだと分かるのは、その強さの中に少しばかりの苦みがあるからだろう。
「真実の証拠になりませんか」
 再度の問い掛けに、不意に快斗が鮮やかに、笑った。
「……残念だな。状況証拠なんかじゃ、オレは落ちないんだよ」
 鮮やかで、極めて挑戦的で不敵な笑みに、うっかりと見惚れてしまったのは束の間で。
 けれど、白馬の緊張感の削げたそんな僅かな間を見逃さず、容赦なく彼はさっさと踵を返して立ち去った。
 優勢を確信した処でひっくり返される。追い詰めても、手の届く一歩手前で足許を掬われる感覚は、まるで夜を統べる白き魔術師と、同種の物だ。
 悔しさと、どこか清々しさが混じり合って、気づけば白馬は笑っていた。
 そうだ、彼は状況証拠などでは、落ちない。安易な手などで認める筈がない。全てを明らかになど、しない。
 分かっていても落ちて来たボタモチは拾わずにはいられなかった。チャンスだと思った。
 安易に吐露される事のない心がどこに向けられているのかを、その気持ちがどこにあるのかを、耳にするチャンスだと思った。
 白馬は駆け引きをしている。
 快斗も駆け引きをしている。
 互いの気持ちは薄々感じていて、多分、互いがそれを感づいている事も知っている。
 けれど互いにそれを口には出さない。尻尾を掴ませる事なく相手の尻尾を掴もうとしている。イタチごっこは大抵引き分けか、そうでなければ弱冠白馬に分が悪い。
 昼の顔と夜の顔、二倍惚れている分だけ、きっと分が悪い。
 でも、……だからこそ。
「一つくらい、僕しか知らない真実があってもいいでしょう」
 笑みを残して、白馬は呟いた。
 教室での奇行は青子も知っている。また廊下を移動していた折りの二人も多少なりとも人目に触れた。
 けれど、屋上に着いてから何を話して何をしたかは、快斗の記憶がうっかり復活でもしない限りは、完全に白馬だけのものだ。
 恐らく快斗自身は見せるつもりも与えるつもりもなかったもの。
 それは確かな重さで膝の上にあった。
 確かな温もりで、そこにあった。
 それでも、自分しか知らない真実なら、そんなものは幻と同義だとそれも知っている。
 ただ、白馬には無邪気な甘い夢の如き時間で、それでいてどこまでもリアルだった。
 未だ、残っている感覚を閉じ込めるように、ゆっくりと。
 白馬はてのひらを握り込んだ。

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