クローバー・ブルー・クローバー:2



(3)

 世界は暗闇に没していた。
 背を上下する何かの感触が初めに快斗に戻った感覚だった。
 何か、……誰か。
 誰だ?
 気付けば相当に間近な自分以外の気配に、不意に怯えた快斗が我知らず押し退けようとした腕もあっと言う間に浚われた。
 耳に直接注ぎ込まれたのであろう、何音かの響き。耳朶を震わす振動も快斗の身体が起こしている震えに紛れ届かない。
 聞こえないのが、恐怖をいや増す。
 分からない、と首を振ろうとしたけれど、身体は重苦しく自由は利かず、放せ、と訴えた声も声にならなかった。
 辛うじて言う事を利く爪をたて、重い腕であがく。
 存在から離れようともがいた身体は次の瞬間には抱き込まれ温かさに包まれていた。背に回された腕、密着する上半身。
 何が起こったのか。
 怯え、仰け反る快斗のこめかみに、眉間に、頬に、落とされる、熱。
「……っな、せ……ッ」
 声とも言えない息に少しばかり音がついただけの拒否は敢え無く無視された。
「      」
 ガンガンと響く頭の中の騒音。
 額や頬をそっと辿った覚えのある柔らかさをおぼろげに知覚して、快斗はふっと力を抜く。
 髪を梳くのは、……指。宥めるように額にかかった前髪をかき上げる仕草を知っている。
「   、    」
 届かない何かに、必死に耳を澄ませる。轟く鼓動、押し寄せる恐怖を堪え、ゆっくりと、働きを放棄していた五官がそれぞれ動きを取り戻すのを待つ。
 幾度も、忙しなく瞬きを繰り返して。……回っている視界に負けないように。
「……くん、」
 大声で呼んでいるのではなく、耳のすぐ傍らで囁いているのが分かる。知っている。この声ならよく、知っている。
「もう大丈夫ですよ、黒羽くん」
 やっと届いた、落ち着いた、穏やかな声。それを時折邪魔しているのが、自分の立てていた荒い息だと言うのも分かって来る。大きく震えている身体を抱き込んでいるのが、彼だという事も。
「大きく息をして。……そうです、もう一度」
 強く息を吐き出した。どっと押し寄せる何かが捕らえていた恐怖をも流すように、ひたすら一途に耳は声を追う。
 促されるまま繰り返す深呼吸で、次第にうるさく早鐘を打っていた鼓動がのろのろとペースを落として来るのを感じる。染み入る温かさや、髪を梳き宥める指先の動きは、確かに彼でしかなかった。
 白馬だ。
 しっかりと回されている腕にどうにかこうにか持ち上げた震える指先を添える。捕まえたシャツの引っ張られる感覚に、白馬の声に更に柔らかさが加わった。
「大丈夫、僕はここに居ます」
 その言葉こそ快斗が欲しているものだと、望んでいるものだなんて、分かる筈ないのに。
 こみ上げそうになる涙を懸命に耐える。
 それでもこめかみに落とされた唇と同様、その言葉は水よりも早く快斗に浸透した。震えが目に見えて穏やかになる。
 薄らぼやける視界の中、目を凝らして見上げた彼は穏やかな瞳をしている。そして口元にたたえられた小さな微笑みは、何故だか何かを堪えているようなどこか痛そうな表情にも見えた。
「分かりますね? もう、大丈夫」
 さぁ、目を閉じて。
 そう促す声に従う事はとても自然に思われた。
 あやすように緩やかに揺すられ、宥めるようなくちづけが何度も額や鼻先に訪れる。
 前後の繋がりも、現状も、何もかもどうでもよく、ただ素直に目を閉じると後は感じるだけ。
 大丈夫、と言う言葉がこれ程力強く感じたのは初めてだった。
 本当に、もう大丈夫。そう思えたから再度訪れた暗闇は怖くなかった。


*   *   *


 今まで、不安症の症状が現れて前後不覚にまで陥ると、そこからの覚醒はロクなもんじゃなかった。
 不安と恐怖にかき回された心はいつも疲弊して、長く頭痛が残り、早めに薬で抑えた時でさえ全身を襲う倦怠感で疲れ切ってしまう。
 重苦しい頭、身動きもままならない身体、憂鬱さを振り払うまでに覚醒してからもしばらくの時間を要した。……常ならば。
 だから、こんなに溢れ出るような幸福感を感じて目を覚ますのは初めてだった。
 身体に漠然としただるさは残っていても、絶対的な安心感が根底にある。
 白馬が『大丈夫』と言ったからか。『ここに居る』と言う言葉を貰ったからかもしれない。
「……黒羽くん?」
 声が聞こえても驚きはない。
 確信があったからだ。
 目を開いた時に、一人ではないと……そこに彼が居るという、確信が。
「目が……?」
 小声で慎重にかけられた声に、頷きを返す代わりに快斗はそうっと目を開けた。
 高い天井にカーテンの落ち着いた配色、上質なシーツのすべらかな手触りも、アンティークな家具も、見覚えがあるどころではない。全てが彼の部屋を示していて、最後に傍らに立つ白馬をしっかり視認した。
 病院に担ぎ込まれたのではなかったのが少々意外ではあったが、快斗が今ここに居るという事でブラックアウトしてから後のおおよその経緯は推測出来る。
 件のスタバから荷物よろしく担ぎ出されたのか、そもそも店内で過去に覚えのある大騒ぎを巻き起こしてしまったのか。そう思うだけでいつもなら襲って来る筈の憂鬱が、不思議にやって来ない。それを些末事と捉えられる位、心が軽やかだ。
「隣の部屋に僕のかかりつけの医師に待機して貰っています。どうしますか」
「いや……、平気」
 少し掠れたが、出た声までもが差異ない。
 視界も回っていなければあの寒々しく重苦しい倦怠感がほとんどない。どこか中の方から暖められているかのような感覚に促されるまま、快斗はゆっくりと身を起こした。
 胃がひっくり返るような感覚もなく、自分で驚くほどに平静でいられている。
 ベッドの縁に腰掛けなおそうとして、流石に多少ふらつく身体に少しばかり心許ない気分が過った瞬間。タイミング良く気遣わしげに添えられた手に、また笑顔が零れた。
「オマエが大丈夫だって言ったからかな。なんか大丈夫っぽい」
 思えば、症状が出た時に居合わせた人で『大丈夫か』と声をかける人はいても『大丈夫だ』と言ってくれる人はいなかった。たったそれだけの言葉で呼吸までもが随分と楽になるなんて知らなかった。
「助かった。礼、言っとく」
 幸せな気分のままで微笑みかけて、快斗は異変に気付いた。
「いえ。……僕は君が時間に神経質なのを知っていましたから。ただそれだけです」
 表情は暗く緊張しているのか声も硬い。やたら自嘲気味に響く言葉はおよそ白馬らしくはなかった。
 が、同時に腑にも落ちる。
 あの落ち着いた適切な対応は、彼生来の落ち着きや快斗への思いやりから発生したものだけでなく、確とした知識に培われていた、と言う事だ。
 つまり、白馬は快斗のパニック障害も不安症も知っていた、だからそつなく適切な対応が出来た。
 ただそれだけ。
 バカみたいに浮かれた幸せな気持ちが急速にしぼんでいくのが分かる。がっかりしたのをそれでも懸命に顔に出さないよう、快斗は軽い口調で肩を竦めて見せる。
「ああ……、そっか。なぁ、それっていつから?」
「初めから、です。叔父に君の髪の毛の照合を頼んだ際に、君自身の調査も関連の調査部に依頼したんです。軽蔑しますか」
 うかない表情が、似合わぬ自嘲に歪む。
「……してくれて構いません」
「出来る訳ないじゃん」
 即答に、白馬が怪訝な視線を向けて来る。
 自分の部屋に居る癖に妙に居心地悪そうに突っ立っている御曹司の腕をぐいと引いて、快斗は無理矢理ベッドの隣に腰掛けさせた。
 困惑顔で従いながらも、僅かな身じろぎが無意識に距離を取ろうとしている姿のようで、そんな些細な仕草に息が詰まりそうな気分になる。
 存在は近づいても心が遠のいて来る時は、こんな感じなのだろうか。
「出来ないよ、軽蔑なんて。オレだってオマエの事なんかいの一番に洗いざらい調べ上げた。そんなオレに何が言える?」
「それは……そうかもしれませんが。しかし誉められた所業ではありません」
「じゃあお互い様でいーじゃんか。オマエが知っててくれたから、オレは病院に担ぎ込まれずにすんで今こうしてンだからさ。悪い事ばっかじゃねーよ」
 白馬はそれでも何かを言いかけて、しかしそれ以上に言い返しはせず俯いた。溜め息と共に落ちた肩口に脱力が伺える。
「君は……、」
 沈黙が落ちる、間際。躊躇を振り切って口を開いた、そんな感じで白馬が言を継ぐ。
「何故、あの時、薬を飲まなかったのですか。持っていたのでしょう?」
 白馬の指が快斗の胸元を指差す。ああ、と呟いて快斗はピルケースを取り出した。安定剤。ぎりぎりになったら飲むつもりで握りしめて、それでも結局口にせず、そのまま。
 ぽん、とてのひらの上で踊る薄い黄色の透明なピルケース。中身もちゃんと入っている。
「持ってたよ」
 持ってはいた。だが何故だか、飲まずに待ってみたかった。……彼を待つのなら飲まずに待てるのではないか、そんな楽観的思考が脳裏を過ったのは、事実。
 結果は僅かな期待をあっさりと粉砕して平素と変わらず発症した訳だが、その状態からの脱却は彼の手によってもたらされた。
 恐慌状態に陥っていた快斗を根気良く宥め、穏やかな声で鎮め、落ち着きを取り戻す。成し遂げたのは他でもない白馬で。
 効果があったのは彼が適切な対応をしたからではあるのだろうけれど、快斗自身が白馬を信用しているからこそその指と温もりが効力を発したのだとも言える。
「ただ、何となく、かな」
 それを、伝える事は憚られた。あからさまではないとは言え垣間見える白馬の表情と態度が、嫌な予感を沸き起こらせる。胸の内でじわじわとこみ上げて来る、何か。
 漂うどことなくぎこちない空気が肌をピリピリと刺激している。
「それより、オマエの話って?」
 快斗を呼び出した用件を振ると、白馬の表情は分かり易く狼狽の表情を見せる。
 それだけでおぼろげな不穏な気配は明確な疑念に変わり、彼の言い出し渋っている話題にもあらかたの見当はついた。
「いえ、今日はもう、」
「人がいない所ですると、オレが取り乱すかもしれないって心配するような話?」
 よいしょ、と足に力をこめて快斗は慎重に立ち上がった。気遣わしそうに同じように立ち上がった白馬のベッドからシーツを抜き取るように引っ張って、ふわりと引っかぶる。
「黒羽くん……?」
 ひらり、舞うのは純白であってもマントではないし、くるりと回って見せても快斗の服装は変わらない。
 それでも白馬は大仰に息を飲んだ。
 呆然とシーツを纏う快斗を凝視して、立ち尽くしている。
「ばっかだなぁ」
 思わず呟いた快斗に、やっと白馬が瞳を瞬かせた。夢から醒めたような表情が微かにうろたえ、快斗の台詞を捉え損なったと言葉にしなくても分かる。
 快斗がクスリと声をたてて笑うと、ますます白馬は困惑顔で見返して来る。纏ったシーツをそのままに滑らかな足さばきで快斗は白馬に歩み寄った。
 衣擦れの音だけが室内で唯一の音となり、それも後一歩で触れ合わんばかりの位置で足を留めた快斗によって痛い程の沈黙へと沈んだ。
 けれど、沈黙を破るのもまた快斗で。
「白馬」
 名を呼ぶ。大切に、愛しさを舌で転がすように。こんな風に名を呼べるのがこれが最後であっても後悔しなくてもすむように。
 はい、と白馬が応える。
 緊張した面持ちに、快斗はシーツの裾から伸ばした手の甲でそっと頬を掠めた。そのまま指先だけで触れる唇。彼の神経が全てそこに集まった瞬間を見計らい、
「だ、か、ら! オマエはバカだって言ったの!」
 ぎゅう、と鼻を摘まめば、正しく鳩が豆鉄砲を食らったような表情の御曹司。
「オレの事ちゃんと見てるか? 分かってる? つまんない事で変に取り乱したりするとか本気で思ってンのかよ?」
 詰め寄ると、返事に窮した白馬が緩く首を横に振る。そうだろ、そうだろと快斗は捲し立てた。
「じゃあ言えよ。オマエの話、ちゃんと聞くから、約束する」
「ですが、」
「身体もそんなに疲れてない。冷静だし落ち着いてるよ。なぁ、オマエの『話』を聞きたいんだ。オマエから聞きたい、……ダメか?」
 重ねた言葉と力を篭めた眼差しに、とうとう白馬が白旗を上げた。やっと心を決めたか真っ直ぐに返って来る視線。
「君は強いですね」
 感嘆を含み呟く声に快斗はただ静かに微笑んだ。
 快斗を強くした一要素が白馬なら弱くするのもまた白馬なのだと彼は知らない。
 快斗の中に彼が知らない事はまだまだ沢山あって、彼の気持ちばかり距離があった訳じゃなく、きっと快斗の閉ざしていた部分もまた等分に距離を生んでいた。
「君が好きでした、黒羽くん。素直な所も意地っ張りな所も、いつでも真っ直ぐな所も僕を驚かせてくれる所も」
 言葉が届いているのか確かめるように瞳を合わせて来る白馬の目からは逃れられない。真摯な態度は決して生半可な覚悟でこの話をしているのではないと快斗に伝えて来る。
「君と居ると楽しかったですし、とても愛おしく思っています。これは嘘ではありません」
 うん、と声なく応える。耳が拾った過去形が胸中に虚ろに広げるものを押し隠して、ちゃんと聞いているよの返事の代わりの頷き一つ。
「ただ……、気付いてしまったんです。忘れられない人がいると。存在だけで心は踊り、目が合うだけで僕の全部は浚われてしまう。鮮烈で、神秘的で。……どこか危うく儚い」
 彼が、誰を語っているかは明白だった。
「忘れられない人なんです。どこまでも止めようもなく心が追いかけて行くのは、……君じゃなかった」
 快斗であって、快斗でない。怪盗紳士、月下の貴公子、……怪盗KID。
 雑誌やTVで美辞麗句を並べ立てられても、聞き流せた。それは快斗の作り上げたものでしかなく快斗を揺るがせるものではなかったから。
 なのに、彼の口から出た『怪盗KID』は確然とした痛みを伴って耳に残る。
「すみません、勝手な事を言っているのは分かっています。君には何の非もない。でも、お願いです」

 別れて、下さい。

 白馬の決定的な一言が落ちると、場には沈黙が落ちた。
 瞳は逸らされず、押し黙ったままの快斗をしっかと捕らえている。
 言葉は間違いようもなく耳に届いている。意味もちゃんと伝わって捉えられた。身じろぎした覚えもないのに、いつの間にか彼との間におよそ二歩の距離が出来ている。
 あくまでも表情を変えない快斗に焦れたのか、応えを求めた白馬が疑問形で小さく名を呼ぶ。
 黒羽くん? と、唇が紡ぐ音。多分、それが息を殺していた快斗を解き放ち動かした。
「オマエの言い分は分かった」
「黒羽くん……?」
 本当に? とでも続けた気な彼に、快斗は近づく。
 一歩、そして二歩。
 手を伸ばして肩を引き少し身を屈めた白馬の頬にてのひらを滑らせた。戸惑いを見せる瞳に、口元だけで笑んで伸び上がりくちづけをねだる。
 距離を縮めた快斗に白馬の身体が瞬間硬さを生んだが、緊張だったのか何だったのか、それも柔らかく引き寄せ合うよう重なり合った唇に根こそぎ浚われた。
 手を放した拍子に身体を取り巻いていたシーツが音もなくさらりと落ち、快斗の足元に豊かな白が波打つ。
 こんなの、ただのキスじゃない。
 快斗にとって、彼とのキスはいつだってただのキスなんかじゃなかった。
 けれどこれ程に想いの全てを込めて贈ったくちづけも初めてで。離れ難くて、恋しくて。
 何度も、何度も何度も角度を変えて、強く甘く、僅かな隙間から吐息も想い零れるのを恐れるかのように、ひたすらに貪り合う。
 まるで初めて互いを心ゆくまで探索し合った時にも匹敵する熱心さと性急さに、頭がくらくらして来る。
 白馬の首に回していた腕から次第に力が抜け、腰に回された彼の腕で辛うじて身を支えている。そんな有様は初めてだった。全て曝け出し委ねるのなんて。
 身体を重ねてはいても彼はどこか遠く、快斗も熱に溺れても余す所なく自分を曝け出すような、そんな愛し方は出来なかった。どこかに自分を保っていて、かけひきと言う名で誤魔化していたから。
 霞がかった視界で、更に身を屈めた白馬の唇が首筋を辿り、鎖骨を強く吸い上げる。通り一遍の愛撫ではなく、自覚なく強い執着の痕を残すように。
「……ッ」
 知らず上がった息に漏れ零れた、声ならぬ声。
 ふっと不思議そうに瞳を開いた白馬と至近距離で視線がかち合った。
 一瞬のようで、またとても長い時間のようでもあった。
 未だ瞳に情欲を滲ませた白馬は、取り澄ました顔の探偵ではなく、快斗の保護者面で振舞う恋人でもなく、ただ快斗を欲し男っぽさが前面に押し出された白馬探だった。
 ……手に入れたかった彼の中に眠って居た彼に、やっと出会えた。そう思うと自然に笑みが浮かぶ。
 するりと腕から擦り抜けた快斗を追うように腕を伸ばそうとして、はっと白馬も表情を改めた。
 快斗の意図を悟ったのだろう。
「最後のキス、ですか」
「そうだよ。オレとはこれで終わり。オマエの望みはそうなんだろ?」
 バツが悪そうに白馬は眼を伏せる。
「そンな顔しなくてもいーんだって。別に責めてない。人の気持ちなんて他人にはどうにも出来ないし、自分にだってどうこう出来るようなもんでもないんだからさ」
 穏やかな快斗の紡ぐ声に、白馬はおずおずと視線を上げる。
 悄然とした情けない表情なのに、快斗の目にはそんな彼は可愛く映り、これもまたもっと早く出合いたかった彼の一面だった。
 終わりになる今になって、でなく。
「だからさ、白馬。オマエに魔法をかけてやるよ」
 息を飲んだ白馬が、張り詰めた表情で痛い程に快斗を注視する。快斗はそれなりに笑いかけたつもりだったが、彼の真顔のまま固まった表情からするに失敗だったのかもしれない。
 声だけは、いつも通りを維持出来た。
「会わせてやる。ただし条件つきで」
「条件、とは?」
 白馬の目付きが見る間に激変した。声はひどく切羽詰まって、瞳は熱を帯び、輝きが胸に痛い。
 バカなことをしている。
 それでもやり遂げるしかない。
 ポケットからおもむろに取り出したのは片手に納まる、父の遺品。怪盗KIDの片眼鏡。
 目前にかざすと、ゆらり、幸福を願う幸運のシンボルが揺らめいた。
 白馬の眼が釘付けになる。
 付き合ってしばらくして、とうとう快斗の口からKIDの正体は自分なのだと告白した時、最後のつもりで彼の目の前で身に纏って見せた怪盗KIDの白装束。その時以来、衣装は隠し部屋奥深く大切に片付けても、モノクルだけは手放せなかった。
 けれど、人目に晒すのは、あれ以来。
 パンドラと呼ばれるビッグジュエルは結局見つからなかったけれど、KIDを付け狙い敵対していた組織はコナン達との連携で壊滅に追い込めた。
 それを機に快斗は非日常からは身を引いている。
 白馬を手に入れたから。白馬がちゃんと快斗を選んでくれたから、もうKIDはいらない。
 そう思ったのに、皮肉にもそれ以来封印していたモノクルを再び日の目を見せる羽目になったのも彼の為だなんて。
 馴染んだ、硬質の手触り。
 白馬を椅子に腰掛けるよう促し、その前に立つ。

 条件は、忘却。
 怪盗KIDの正体が快斗である事を。
 快斗が白馬を好きで、白馬もその想いに応えた事を。
 ……関係する全てを記憶の根底に眠らせる、……心の奥底に。
 噛み含めるように告げた条件にも白馬は怯まなかった。否やを唱えず、決然と頷きを返す。
 その度に、快斗が泣きたくなるような打ちのめされるような最悪の気分を募らせているだなんて、知りもせず。
「それで結構です。……君は、それで……?」
「いいよ、オレもそれで」
 オマエがそれを望むならば。口には出せない一言を飲み込んで、短い答えで精一杯。
 合図に、白馬が瞳を閉じ、大きく深呼吸をする。緩く握り込んでいたてのひらを膝に乗せ、数秒。
 見開かれた静かな眼差しは快斗を捕らえて、一つ頷いて先を促す。

 ゆうらり。
 左右に揺れるクローバー。
 一定の動きを繰り返す幸運のシンボルを、白馬の真摯な眼差しが追う。

 全部を捨ててでも白馬が欲したのは快斗ではなかった。快斗だけど、快斗ではない存在。もう封印した筈の存在。
 影に、ありもしない幻に、とうとう快斗は負けたのだ。















(4)

 心地良い日差しが隠れると途端に気温が下がり、日暮れの時間のズレやそんな体感温度に因って季節の移ろいに気づかされる。
 それがいかに当たり前の事でも新一がそれに気付くのは稀だった。
 探偵モードにスイッチが入っている時は大抵他は一切シャットアウト、事件性にタイムリミットがなければ時間すら忘れ去っているのが工藤新一である。そんな際に気温だとか服装だとかに気が回る筈もなく、新一はいつも震え出してから寒い事に気付いたり、立ち眩んでから暑かったのに気付く。……もっと下手をすると倒れてから己の不調を悟る始末だ。
 流石に最近はそんな事も減ったけれど、それだって自覚が出来たからではなくて、ただ単にお節介な人間があれこれと口を出すようになったからに過ぎない。
 お節介の最高峰が西の高校生探偵、服部平次。
 大きな休みは勿論、月の半分の週末には三百七十キロメートルの距離を難なく飛び越えて、彼は一途新一の元へやって来る。
 東京へ、ではなくて、新一の所に来るのだと言うのは言葉のあやではなくてそのまま彼の言で、そう言う事を恥ずかしげもなく言ってのける所が平次の平次たる所以に思える。
 と言っても聞かされるこっちが激烈に恥ずかしいから、四回に三回は蹴りを入れたり足を踏んだりしてその口を閉じさせるべく黄金の右足を行使しなければならない。
 邪険にしても懲りずにじゃれかかって来る様は図体ばかりデカくて気の優しい大型犬のようで、懐かれるとむげに出来ない。黙って傍らにいる時は邪魔にならずそこにいるのを視界の端に捉えているだけで別々の事をしていても不思議と安心感を得られるのも大型犬の良い所で。
 ろくな連絡もなくいつだって出し抜けにやって来る来訪者を心待ちにしてしまっているのだから、自分だって充分どうかしてる。それも分かっている。
 そんな事を考えながら門に手をかけた所で気がついた。
 玄関の明かり取り窓から漏れるぼんやりとした光、視線をずらすとリビングにも灯りが灯っているのがガラス越しに見て取れる。
 瞬間的に浮かんだ顔は当然のように先ほどまで脳裏を占めていた彼。急ぎ足になる自分を必死で戒めながらも、もどかしく新一は扉を開いた。……施錠されていない。
「服部? 来てるのか?」
 思わず弾んだ声に自分で顔をしかめた新一のアンテナに何かが引っかかった。
 靴を脱ぐ。
「…………服部、」
 少し大きく読んで見ても、返らない、声。いつだって、ドアを開けた音を耳ざとく聞き取って、新一が靴を脱ぐ頃にはそこまで出て来て『おかえり』の一言があるのだ。たまに夕飯の支度に気を取られて気付かない場合もあるけれど。
 邸内はやけに静かだ。人の立てる音が伝わって来ない。
 しかしこの段になっても悪い予想は脳裏を過らなかった。
 一時は幽霊屋敷呼ばわりまでされた工藤邸だが、新一がコナンから戻って自宅に戻る際に見て分かるものも一見しても気付かないようなものも、ありとあらゆるセキュリティーが本人の与り知らぬ所で設置されていた。事後報告はロスからの一本の電話だけ。新一が脱力するのも無理もない。
 フリーパスなのは本人と両親、運命共同体である哀と阿笠、そして新一が望んだ服部平次。残るは例外が約一名、フリーパスは必要ないと不敵に笑った共同戦線を張った怪盗だけだ。
 廊下を抜けた先、リビングに足を踏み入れてやっと新一は来客がその例外である事を知った。
 声をかけようとして思わず躊躇ったのは、怪盗の姿があまりに異様だったからである。
 リビングから続いているキッチンの床にしゃがみ込んで、フローリングの床にひたすらのの字を書いている。見るからに拗ねていますを体現した姿は怪盗ならではな長いマントにシルクハット付きの白装束とはあまりにも違和感がある。
 鈴木園子を筆頭とするKIDファンや怪盗KIDを永遠のライバルと目している節のある中森警部が見たら、この姿は情けな過ぎて咽び泣くかもしれない。
 それでもここは間違いなく自分の家で、この奇行を放置するのは暫定家主としても有り得なかった。気が進まないにしても。
「……そんな所で何やってんだ?」
 ようやくかけた声に、KIDが顔を上げる。どうせ演技ではあろうが、うるんだ涙目でひっしと見上げられて咄嗟に新一は怯んだ。その一瞬の間に勝敗は決したとも言える。
「やっぱり名探偵はへーちゃんがいーんだ。オレの事なんかどうでもいーんだ」
「……はあ?」
「第一声が服部でその後も服部でオレの名前は呼んでくンなかった。新ちゃんの薄情者―ッ」
「あ、あのな、」
「せっかく美味しいお夕飯の用意して名探偵のご帰宅待ってたのに〜。新ちゃん冷たいー。オレってば、かわいそー」
 突っ走るマシンガントークの果てに、うわーん、と泣き伏す真似までする快斗の頭を新一は力一杯はたいた。
「だから待てって!」
 口を開いた時点でこれは怪盗KIDではなく快斗でしかないのは明白な台詞の数々に、溢れ出るのは嘆息だけである。
 何がどうして疲れ果てて帰って来て安らげる筈の自宅で更に疲労を重ねなくてならないのだろうか。
 ピタ、と動きを止めた快斗は、
「うー、いたた……。乱暴だなあ、もう」
 やっとまともなテンションでの呟きを漏らした。
 新一も軽く息を吐く。どうにか訳の分からない暴走に一区切りついたのは確かなようだ。
「いいか、おまえの名前を呼ばなかったのはおまえがオレの留守中に来ていると思わなかったからで、他意はない」
 未だ涙目の快斗の前に同様にしゃがみ込んで、視線を合わす。
「それで、どうしておまえはそんな格好で料理なんかしてたんだ? 仮装パレードでもあったっけ」
 夕飯を用意していたと言うだけあってコトコトとお鍋からは美味しそうなビーフシチューの香りが漂い、ボールにはサラダらしきものが盛られ、オーブンの前では後は焼くばかりとバケットが待機している。よくよく見るとダイニングテーブルにはしっかり二人分のテーブルセッティングが成されて、ワイングラスまで並んでいる。
 今夜の夕飯が真っ当な洋食なのは容易に推理出来たが、それを作っていたらしい彼が何故今になってそんな……怪盗KIDの格好をしているのか、そこが理解出来ない。
「ああ……、これ?」
 妙にぼんやりした顔で快斗は自らの姿を見遣り、薄く笑う。
「オレね、今日、KID復活第一段だったんだよ」
 よいしょ、と呟いて立ち上がり、次いでぽかんとしている新一の手も取って引っ張り上げる。そのままダイニングテーブルまで手を引かれ促されるまま腰掛けた。スマートな態度はKIDの優雅な動きそのものだ。
「ニュース見なかった? 久々だったから結構な騒ぎになったんだけどなあ」
 軽やかな口調で手際良くパンをカットしてオーブンに入れる。くるりと反転したかと思うと、シチューとサラダが次々に目前に並べられた。
「警部がさ、もう張り切っちゃって張り切っちゃって、なんかオレてば愛されてるなあって実感しちゃったね」
「そりゃあの人にとったらKIDは生き甲斐みたいなもんだからな。……じゃなくて!」
 目の前のビーフシチューに思わず気を取られてうっかり流しかけた会話を慌てて引き戻す。
「そもそもなんでまたそんな事やってんだよ! もう必要なくなったってあの時……ッ!」
 組織を壊滅に追い込んで、彗星が過ぎ……パンドラという謎を置き去りに快斗は終止符を打った。
 果たして盗一がパンドラの存在を知った所から始まったのか、パンドラを捜す組織を知ったが故に怪盗KIDを始めたのか。そんなものは鶏が先か卵が先かにも準じる問題で、何もかも終わった今になっては結論など出しようがない。
 ましてや快斗が二つ名を身に纏っている限り敵対組織という脅威は去っても司法と相対する立場は変わらず、不安は尽きない。
 分かっていたからキッパリと彼は羽根を畳んだ。
 その筈なのに。
「……オレとしてはそうだったんだけどね〜。どうにもそうじゃなかったみたいでさ。へこみそうだったから美味しいご飯食べたいなーって、……思ったから来ちゃった」
 まあ食べてよ、とワインを傾けられると反射的にグラスの脚に手が伸びる。
 まったりとして濃厚なビーフシチューは空きっ腹に染み込むようだ。ビーフは口の中でふわりと解け、蕩ける。
「旨い」
「へへへ〜、ありがと」
「服部もいりゃ良かったな。悔しがるな、きっと」
「また作るよ。オレ的にはへーちゃんの作ってくれるご飯食べる方が好きだけどね。バランスいいでしょ」
 週末は工藤邸の食卓も豊かになるが常時は外食にコンビニ弁当にインスタント食品、最悪は食事抜きだ。ここに来て美味しいものが食べたければ平次の訪れそうな週末を狙うか、自分で作るしかない訳だ。
「……悪かったな、トーストくらいしか出さねぇで」
「新ちゃんはいいの。オレ、料理好きだもん。けど、一人で食べる為には作る気になんないから、」
「だったら白馬にでも作ってやれば。おまえの手料理なら喜ぶだろ」
「あー……、それムリ」
 嫌、でなく無理というのがよく分からない。首を傾げた新一に快斗は付け足した。
「別れたから」
「ハイ?」
 がさがさとサラダをかき混ぜながらの即答に新一は微妙な抑揚で聞き返した。何だか想像もしていなかった言葉が耳に届いた、気がする。
「アイツとは別れたんだよ。てかオレが振られたって言うのかなあ」
「白馬が? ……おまえを振った?」
「うん」
 快斗が、ケンカついでに別れる宣言をぶちかます、とでも言うなら何とはなしにありそうだが、白馬が切り出したと言うのはその時の衝動などではなく決定的な意味合いを感じる。眉をひそめた新一に快斗は肩を竦めて自らを指す。
「仕方ないよ。アイツはコッチの姿の方が好きだったみたいだから」
 KIDのスーツをつまらなそうに引っ張って軽い溜め息が一つ。
 とうとう突いてばかりでちっとも減らないサラダとの格闘を放棄したらしい快斗は、フォークをくるりと回してそのまま消し去る。見事な手腕は相変わらずで、どんなに目を凝らしていてもタネは見えない。
 凝視している視線に気付いたらしい快斗は、そっと苦笑して、新たなものをてのひらに生み出す。……怪盗KIDのモノクルだ。
 てのひらの上で二、三度跳ね上げる。KIDを語る重要なパーツで怪盗KIDのシンボルとも言える、片眼鏡から揺れる小さなクローバー。
「どっちもおまえだろ」
 怪盗KID、黒羽快斗。どう振る舞うか装うかの違いはあっても本質はどちらにしても快斗だ。
「そうだよ、オレや名探偵にはね。へーちゃんもそう言ってくれるかもしれない。でも白馬には違ったみたいだ」
 ぼんやりと眺める様子は、こっそりへこんで落ち込んでいる、そんな顔。
 泥棒なんて嘘が上手で隠すのも上手で、笑顔やなんでもない顔を容易く作ってしまえる。
 それはそれで確かだけれど、快斗の時にはそれほど徹底もしていないし、新一と向かい合っている際にはむしろ飾らぬ素の表情を多く覗かせている。
 特に、白馬が絡んでからの彼なら、非情に分かり易くはしゃいだりへこんだり、すぐに分かるようになってしまった。
 だから今の顔も分かる。
 笑っていても、平気な顔をしていても、本当は全然大丈夫なんかじゃないって。
 胸が詰まった。
 切なくて苦しくていっそ大声で叫びたくて、けれどそんな衝動を彼の何かがせき止めている。そんな姿は見ていて痛々しいのに。
 でもきっと彼は認めない。平気、と笑って見せるだけだ。それも分かっていて、だから白馬を責める言葉も快斗の決意を翻させる言葉も持たず。
「その格好、……KID、いつまでするんだ……?」
「……さぁ、多分、しばらく、」
 あやふやなのは以前のような明確な目的やタイムリミットが快斗の中にないからだろうか。それとも白馬次第、……か。
 黙り込んだ新一に、薄い笑み。らしくない。まったくもって彼らしくない儚い、笑みだ。
 シャク、とレタスを一口。急がずにワインを一口。
「魔法が解けるまで」
 四十秒を過ぎて落ちた呟きの意味をまもなく新一も知る事になる。


*   *   *


 風が強い。
 ぶわ、とマントが大きく風を孕んで吹き付けて激しく煽られる。
 揺らぎかける重心のバランスをやんわりとした身じろぎで取って、見下ろす横顔に月光が僅かに陰影を刻んだ。
 今回のターゲットは個人宅と言う事もあって警察としても邸内、敷地内までの警備はし易いが、そこを出ると普通の住宅街が広がっている。
 あっという間にマスコミに広がり集まりに集まった物見高い野次馬と隣接する住宅街は警備には不便極まりない。怪盗の立場に立てば入り組んだ住宅街は抜け道も豊富で、野次馬はその身を隠す森と化す。
 今回は予告時間が遅かった事もありその数は控え目だが、それでもKID現るの一報に場は沸いた。
 それからは電光石火の早業で。立て続けに爆ぜる爆音と閃光。次々に母屋から光が消えて、警備陣の怒号の響く中、とうとう問題の離れまで至る。
 次の瞬間には、怪盗の姿を捕まえるべく忙しなく夜を薙いでいたサーチライトや、周りの建物の照明も……流石に大阪で引き起こした大停電ほどではないが半径数キロに及び一息に光が落ちる。
 立ち回りも首尾も、いつも通りに。
 列を成すパトカーが闇夜を滑降する真っ白いハングライターを追って行く、赤いテーブルランプだけが点々と線を引く。
 手にした獲物も含み、それらに対する興味も微かにあった高揚も、幕引きと共に速やかに消え失せた。
 地に足をつけると、怪盗KIDの意識は速やかに快斗に戻る。
 塗り込めたような宵闇。不意に胸が苦しく、ふっと強く息を吐き出すと息苦しさがましになった気がした。
 進む道の先、路肩に濃紺のジャガーを認め足を留めるまでは。
 とくん、と鼓動が大きく跳ねる。
 今し方の仕事中には苦もなく冷静であり続けた鼓動が、単純にもその姿を視認しただけで忙しなく早まるのが分かった。
 待っていたのは、探偵。待ち伏せをされるだろう見当はつけていた。場所もこの辺りだろうとも。
 だが待っていたのは彼でも、本当の意味で彼の登場を待っていたのは他でもない快斗自身だ。
 今は最早『怪盗KID』としてしか会う事は叶わない、白馬探を。
「今夜は随分ごゆっくりでしたね、KID」
 耳鳴りがしそうな程静かなのに、彼の声が耳に届いただけで全身を歓喜が駆け抜け、脈動する鼓動の音が煩い程に脳裏を響き渡る。
 車からするりと身を離し見据える瞳を見返して、快斗は一瞬で変装を解くと彼の目に怪盗の扮装を晒した。翻るマントと白のスーツ、青いシャツに赤いネクタイ、仕上げはシルクハット。
 誰しもがKIDと聞けば思い浮かべる姿に強く風が吹き付けた。
「貴方もつくづくお暇なようですね、こうも毎度お会いするとは」
 軽い皮肉に探偵が楽しそうに瞳を輝かせた。
「お会いするのは、最近の貴方のお仕事が多いからでしょう。お陰で僕は振りまわされてばかりですよ」
 言いながらも、彼の態度は落ち着き払ったものだ。悠々と快斗に向かって歩き出す。
 ビル街に人影はなく、対峙する二人の間を風だけが吹き過ぎる。
「それも今日で終わりにするつもりですがね。……貴方を捕まえて」
 気迫を込め強く見据える、瞳の力。受け流してこそKIDだったかもしれないが、真正面から合わせた視線を外し損ねた。
 驚いたのは探偵の方で。
「……KID?」
 訝し気に足を留められて、そのミスに気付いた。響いた動揺を瞳から気取られるだなんて。
 しかし視線を眇め外した所で既に遅く、不審を抱いた瞳が快斗を見ている。
 すかさず茶化す事も、挑戦的に視線を弾き返す事もなく言葉を失った快斗は『怪盗KID』としてとしては更に違和感を増してしまったようで。
 無理をして作り出したのでなく、衣装を身に纏うだけで意識はKIDとなってKIDとして振舞うのに不自由など一つもなかったのに。
「貴方、……KIDですよね?」
 心持ち落とした探偵の声が、強く快斗の耳朶を震わせた。『KID』に「誰か」を問うても『KID』に『KID』かと問われるとは。
「私が誰に見えると?」
 短い応えに白馬の表情を過ったのは、恐らく困惑の色。記憶の中の怪盗KIDと比べられているのだろうか。自然と快斗も身構え、肩に力が入らざるを得ない。
 分かる訳ない。
 今の白馬は快斗とKIDの繋がりを知らず、快斗と触れ合わせた指も肌も記憶にない。快斗がかけた暗示が効いているのは確かだ。無理矢理かけた訳ではなく彼だって納得して望んだ暗示だ、そう簡単に解ける筈もない。
 ……分かっているのに。
「貴方は、」
 答えようとして、言葉に詰まる。軽く額に手を当て一度大きく首を振る仕草に怯え、快斗は半歩後ずさった。
 何かを思い出す時の仕草の、ようで。
 もう快斗にはKIDしかいないのに。怪盗KIDとしてしか彼には必要とされていないのに、それすらも失ってしまったらどうしたらいいと言うのか。
 続く答えを待てなかった。
「私を捕らえたら、貴方にも分かるでしょう」
 切って捨てるように告げた声は、鋭さをギリギリ保っている。はっと白馬が姿勢を正した。
「なるほど。では捕まえるまで……!」
 挑む瞳が叩きつける力でやっと安堵が生まれた。彼がそうやって見てくれるならば、まだしゃんとKIDで居られる。
 宣言と共に彼は大きく踏み出した。駆けるとほんの数歩の距離。
 急速にその距離を縮める白馬の腕をかいくぐって、快斗もマントを翻し身をかわす。跳躍、トランプ銃で足を止めて。
「足りませんよ、探偵さん」
 囁きに、彼が目を見開く。嘲笑をたたえた口元を覆って、刹那、叩きつけた煙幕弾が一気に視界を埋め尽くす。
 求める気持ちがまだ足りない。胸が痛い。切なくて、苦しい。彼の想いが、足りてない。
「……KID!」
 大きく呼ばれたその名前に、心が疼く。伸ばされた指を取る事が出来たあの頃の幸せが既視感とともに思い出されて。
 失った、もう戻れない短かった時間。
 もつれそうになる足で、必死に彼の視界を逃れて跳躍は音もなく。
 彼が『KID』と呼ぶのなら、彼の望む怪盗KIDとして翻弄し、大胆不敵に逃げおおせなければならない。
 それこそが白馬の望みだから。


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