クローバー・ブルー・クローバー:1



(1)

「なァ白馬、ジブン最近あんまし黒羽と上手くいっとらんの」
 古くからの友人の、らしくない躊躇いがちな問い掛けに、白馬は無意識に笑顔をやや引き攣らせた。
 そつのない態度がモットーだった御曹司にはそれはそれで珍しい反応だったのも確かで、いや、あンなッ、と話を振った筈の平次があわてふためき言葉の継ぎ穂を探す始末である。
「野暮は承知やで、せやけどこっちもある意味死活問題やねん」
 白馬と平次は旧知の間柄だ。個人的にずっと親しく連絡を取り続けていた訳ではなくとも家族ぐるみでの親交は長く、顔を合わせる機会あらば近況を報告しあう程度には、親しい。
 ましてや新一や快斗を交えた今現在の交友関係を築いてからは改めて鑑みるまでもなくかなり親しいと言って差し支えない。
 何故ならば、西の探偵・服部平次と彼の相棒である東の名探偵・工藤新一、そして白馬探とクラスメイトの黒羽快斗は、幾つかの秘密を共有している間柄だからである。
 秘密の一つは、例えば、工藤新一が事件に首を突っ込んで高校二年のとある期間、小学生の姿で『江戸川コナン』と名乗り暮らしていたという事実。幼馴染みの父親である売れない探偵を『眠りの小五郎』なる名探偵に仕立て上げたのも彼だった。
 また、服部平次はコナンであった頃に出会い、新一に戻った現在、彼の家の間借り人兼家政夫兼相棒であり、……同棲相手、つまり恋人でもある。
 これもまた秘すべき事柄だ。
 そして、どういう契機を経たか正確な所は聞かされないままだったが、ある時より平成のルパンこと怪盗KIDもそれらの秘密を共有する仲となった。
 白馬は江戸川コナンに黄金館で出会い、ただの少年でないのはある程度推察してはいたが、具体的に彼の事情を知り得た時は勿論驚いた。
 驚いて、落ち着きを取り戻したら口を出さずにはいられなかった。それほどに小耳に挟んだコナンの事情は危険と背中を合わせていた。
 ……白馬が申し出た協力はやんわりと拒絶された。深刻な事態にも関わらず、否、だからこそだったのかもしれないが、怪盗KIDが力を貸していたのをも知らされず探偵と怪盗の打ち立てた作戦の全体像はさりげなくも白馬の目から確実に隠されて来た。
 だが、力になりたいのだと願っても白馬自身の力より白馬を取り巻く環境により存在はつまはじかれて、思いがけず事態が変化したのは白馬が快斗と思いを交わしてからの事。
 ようやっと全体像を知り得た頃には全ては終わっていた。隠匿されていた事実にショックがなかった訳ではない。
 黒羽快斗と怪盗KIDを繋ぐ、秘密。
 それにまつわる諸事情。
 白馬はずっと怪盗KIDを追い掛けていた探偵で、しかも白馬警視総監の子息でもある。性格はと言うと真面目で堅物の、……要はあまり融通の利くタイプではない。
 だから、白馬に友人としての好意は抱けど、彼が快斗の恋人に落ち着く今の今まで東西探偵が白馬探という存在に多面的に危惧を抱き信頼を注げるまでに難色を見せたのも無理はなかった。
 現在の白馬と快斗の仲。これもまた秘密にせざるを得ない事象で、集う四人はそれらの秘密を現在共有している。
 探偵と探偵。
 探偵と、怪盗。
 つまり三人の探偵と、怪盗。
 二点ならまだしも、四点をともなると結ぶ共通点は一見奇妙にも見え少なく、目に見えるものなんてせいぜい性別に誕生年が同年である事、その程度だ。
 彼等四人は対外的には友人と言う名の枠組みで括れるものの、実際の関係は二組の恋人達である。
 そう声を大にして言えない立場なだけに、二組の間にはより一層密接な友情と互いへの理解があるのだろう。
 けれど、平次がこう直接話法で白馬と快斗の関係に触れて来たのは例がなかったから、気を悪くするよりも戸惑いを強く覚えてしまう。
「……死活問題とは何です?」
「切り返す所を見ると図星っちゅーこっちゃな」
 やっぱり、とでも言うように平次は軽く眉根を寄せた。
 白馬も、結局小さな溜め息を落として平次の疑念を確信へと変化させる。
「僕と黒羽くんは……、確かに今、少しギクシャクしているかもしれません」
 言いながら、随分とオブラートに包んだ表現だとも思う。実際にはかなりぎこちない態度が見え隠れしている事だろう。
 平次はそんな事はないと言えずにもごもごと口を濁している。
 白馬は快斗の事で平次や新一に相談を持ち掛けたりはしないが、……性格的にそういった事が白馬は得手ではない……、快斗はそうではないらしい。
 彼等が心安く付き合っているのを知っていても、快斗が白馬に告げるべき事柄までも彼等に相談していると聞けば、温厚と礼儀正しさが服を着て歩いているようだと例えられる男でも心穏やかではいられない。
 実際の白馬はそんな出来た人物ではないのだから、尚の事。
 快斗が東西名探偵を恋愛対象と見ていないと分かっていても。
 彼等が快斗をそんな風に見てやしないと知っていても。
 嫉妬や切なさの形作った些細な棘はあちこちに傷を残し、抜けずに忘れさせる事もなくちくちくと痛みを生み出す。心穏やかとは掛け離れた状態になってしまうのだ。
「仕方のない事ですよ」
「何が、しゃーない言うねん」
 平次に冷静に問い返されて白馬の口許には、自嘲が過る。
「想いなんて必ずしも等分なものではありませんから。誰にとっても……、僕たちにも」
 同じだけ想い想われるなんて有り得ない。
 寄せた想いと同じだけ想いを返せなんて無茶な話であるし、想いなんてものは秤に掛けて重さを比べる事も、メジャーで計る事も出来ない、曖昧で扱い難いもの。
 そこに多くを求めても仕方がない。
 そんな気持ちがあるからか、快斗との間に行き違いや隙間を感じた時、白馬はいつもそこで立ち止まる。振り返り、歩を詰め関係の修復をはかるのは端っから常に快斗だった。


*   *   *


 平次が見た所、一見意外だが、気配りな真面目人間と見られがちな白馬の方がその実人間関係にドライで切り換えが早く、自由奔放でちゃらんぽらんなイメージの快斗はこれで存外人間関係にまめで個々の繋がりにも殊更執着する傾向がある。
 そんな二人だったから平次は基本的に快斗に同情を寄せてしまう。
 両想いになれた割に、何故だか報われていない気がする自らの立場と彼の立場とはどこか相通ずるものを感じるからだ。……片想いだった頃と変わらない、空回りしているような感覚は悲しいかな覚えがあり過ぎる。
「こらあかん、黒羽がへこむんも納得や〜……」
 平次は天を仰いで溜め息を落とし……、否、吹き上げた。
「? 黒羽くんが落ち込んでいる?」
「せや。そらもうエライへこんどるけどそれも無理あらへんわ。ジブンがこの調子やったらなァ……。暖簾に腕押し、ヌカに釘、ちゅーこっちゃ」
「あまり喜ばしくない例えですね」
 腕組みし、憮然と答えた白馬だったが無反応でないのがまだ救いだ。
 故意でなく白馬自身が快斗との関係をどう扱っていいのか分かっていないのかもしれない。平次はふと思った。その位、御曹司からは戸惑いの波動が強く伝わって来ている。
「せやろな。実際ええ意味で言うたんちゃう。余計なお世話かもしれんけど、ジブン黒羽ン事突き放し過ぎやで」
「…………僕が?」
 手の中のティーカップを彼は理解不能と顔に書いて睨んでいる。
「突き放した覚えなどありませんよ。……黒羽くんが君にそんな事を?」
「いや。せやけど俺にはそう見えるで。突き放しとるちゅうか、……あんまし執着あれへんみたいに見えるんやけど」
 白馬の瞳はやんわりと困惑の色を纏う。
「僕は彼が好きですよ。大切に想っています。でも君にはそうは見えない、そういう事ですね」
「そーや。そもそも忘れとるやろ」
 平次は声を潜めた。
「ジブン、KID相手ン時、何が何でも正体知ろうとして後追っ掛け回して、絶対捕まえたるて豪語しとったやん」
 はっと白馬は息を飲んだ。
「傍目にも眼ェが丸っきり違ぅとった。一方通行でもそんだけ強ぅ執着した相手居るん、一番知っとるんは黒羽ちゃうんか」
 怪盗KID。
 今はもう現れる事のない、月下の奇術師。白馬は彼を追って留学中だった英国から帰国した、それ程ののめり込みようだった。
 それを一番間近で目の当たりにしていたのが、怪盗KID自身……最後の最後までKIDの姿では認める事なく逃げ切った訳だが、つまりは黒羽快斗なのだ。
 白馬はKIDの正体に確信を抱いてはいたが確証は得なかった。快斗と恋人と呼ばれる仲になって初めて告白された時はやや諦めに近い表情で受け入れたと聞く。
 そして現在白き麗人はもはや現れはしないと知っている。自分もこの場にいないもう一人の探偵も、……彼も。
 しかし彼は、怪盗KIDの現れなくなった平穏な生活にいつまでも馴染んでいないように見えた。
 手の中で開き出した花をろくに見ようともせず、今となっては到底手の届かない鮮烈な残像にいつまでも囚われたままのようだ。本人がどこまで自覚しているかは分からないが。
「それでも精一杯笑とる黒羽の気持ちも、もうちょっと汲んでやり」
 白馬の考え込む一間に、平次はもう一言滑り込ませる。
「いつの間にか今の自分が影になってる、言うとったで。……意味くらい分かるやろ」
 彼が息を詰めた。端正な横顔を曇らせ、どこか茫然とした表情がやがて、俯く。
 白い肌が青ざめて、どこを見ているのか見開かれたままだった瞳が痛々しく閉じられた。
「……何て事だ。君は地雷を踏みました、服部くん」
 愕然とした、絶望を絞り出すような、声。
 何を、と反駁する間もなく白馬は言を継いだ。
「僕が好きなのは黒羽くんではない。いえ、勿論、好意はあります。でも僕の意識も視線もその存在だけで根こそぎ浚ってしまえるのは、彼じゃない」
 続く言葉など探偵でなくとも容易に推測出来る。やってもうた藪蛇や、と平次は額を押さえた。
 やはり他人の色恋沙汰に迂闊に首を突っ込むべきではなかったのだ。現に相棒はそう再三忠告していたと言うのに聞き入れなかったのは自らの失点だ。
 痛感する。口を挟むべきじゃなかった。いかに空回りする恋心と立場にいくばくかの共感を覚えたとしても。
 平次が過ちに気付いた時にはもう取り返しはつかなかった。
 絶望と同時に誇らしげな笑みが微かに白馬の口許を過った。
 何かを振り切って、眼に見えない幾つかを捨ててしまって初めて手に入れる事の出来る、決然とした表情。かつての熱さを取り戻した、瞳。
 その眼を平次は確かに知っていた。その瞳が向かう先を、確かに。











(2)

「話?」
 聞き返すと白馬の声が耳元で『はい』と応える。
 電話越しの彼の声は常より少し低く、耳朶を震わせて心地よく染み込み、うっかりすると快斗は彼の台詞の内容を捉え損ねる。
「大切な話があるんです」
「……ああ、うん。何」
「……直接、会えませんか」
 歯切れの悪い口調に、おや珍しいと心の中で呟く。彼の煮え切らない口調はさておき、彼からのアクセスはそれだけで快斗の心を浮き立たせる。
「いいよ。んじゃオレ、行こうか? オマエ、今どこ?」
「君はどちらに?」
 間を置かずに即刻問い返されて、思わず返答に詰まる。
 こんな風に白馬が質問に質問で返して来るのは探偵の得意技なのか。
 ふと笑ってしまいそうになる。……もう考えなくてもいいのに、彼の探偵としての顔など。
 けれどこんな些細な瞬間に過去が追いかけて来て快斗は自らの中に封印した怪盗KIDと直面させられる。白馬は思いもかけないのだ。快斗の中に巻き起こされる、そんな葛藤は。
「駅前のコンビニだけど」
 雑誌を流し読みしていると携帯電話が震えて快斗に着信を報せた。携帯電話を保持していても、白馬にかけるばかりで彼からの着信などそれこそ片手で足り得る程度だったから、驚いてしまって。
 瞬間、まじまじと眺めると我に返り、よく見もせずに雑誌をラックに戻すと慌てふためいて店外に飛び出した快斗である。
「近くに喫茶店か何かは?」
「スタバならある」
「分かりました。ではそこで。二十分程で行きますから入っていて下さい」
「いーけど……。なぁ、白馬。何かあった?」
 いつもなら柔らかく響く筈の声が、今日に限ってやけに硬い。
 何か怒らせるような事でもしただろうか、と携帯電話を耳に当てつつ空を見上げる。
 沈み切らない夕日が地表に僅か一線朱を残している。夕刻。夜と言うには若干早い。
 ……思い返しては見たものの、どうにも身に覚えはない。勿論、自覚なしに怒らせる可能性だってある訳だけど。
 喧嘩もした。仲違いもしたし仲直りもした。怒らせもしたし怒りもしたし、拗ねもしたけど、それだって恋人同士なら極当たり前の出来事で。
 それでも失いたくない、失えないと思う程に快斗は白馬に嵌っている。声一つに、こんなに敏感になる程に。
 白馬の返事まで、微妙な間が落ちた。
「……後で、話しましょう」
 何かあったのかと言う問いを、彼は否定しなかった。それがやたらと引っかかっている。白馬は下手な言い訳をしない。そんな所にも彼の生真面目さが現れている気がする。
 通常モードに戻った携帯電話を片手に、何故だかざわざわと胸が騒ぐ。
 湧き上がって来る予感めいたものを必死で打ち消しながら、快斗はゆっくりと踵を返した。



 待ち合わせ場所に、時間より早く辿り着くのは快斗のモットーから外れる。
 傍迷惑なモットーではあったが、時を選ばず、相手を問わず、待つのは嫌いだった。誰かを待つ時間は待つ楽しみを覚えるのではなく、ただ言いようもない不安に襲われる苦痛の時間でしかないからだ。
 その理由も分かっている。
 けれど、今回はそれに頓着しる以前に白馬に押し切られてしまった。話の流れ的に否やを唱え損ねてしまっている。
 通りに面したガラス張りのカウンター席は人目を引くのか意外と人影はまばらで空席が目立つ。却って奥のテーブル席の方が他人との距離が近く見えたので快斗はカウンターを選んだ。
 白馬の『話』が何であれ、世間話に終始するとはとても思えない。かと言って白馬邸に招くでもないのも妙と言えば妙だが流石にそれ以上は推し量りようもなかった。
 なるべく平静を保つようカプチーノにざらざらと砂糖を溶かし込み、スプーンを回す事に意識を集中させるものの、ガラス越しにまだ現れない白馬をちらちらと目の端で探すのは止められない。
 手の中に握り込んだ携帯電話をそっと見遣った。まだ彼の言った二十分までには間もあるし、再度の着信も見られない。
 窓の向こうを二筋に分かれそれぞれの方向に流れて行く、人波。
 老若男女、様々な人々が流れ、真中の車道には渋滞でなかなか動かない車たちが詰まっている。いつも通りの午後六時だ。
 待ち人の姿は見えない。
 彼は来ると言ったのだから、必ずやって来る。生真面目が服を着たような人だから。ちゃんと分かっているのに、ぐらぐらと揺さぶられる、心。
 何かが起こって、この場に現れないのでは……もう会えないのでは、という押し寄せる不安。過去からの恐怖は押し込めるのが困難で。
 じわじわと焦燥感と息苦しさが快斗を侵食して来る。
 てのひらに額に、そして次第に背筋にまでじんわりと嫌な汗が滲み、胃がざわざわと落ち着かなくなって来る。目が回るような感覚に襲われて、みるみる動悸が激しくなってゆくのが分かる。
 脈打つ鼓動が早送られてまるで耳元で重苦しい音がガンガンと打ち鳴らされているかのようだ。耳鳴りなどと可愛いレベルはとっくに過ぎている。
 店内に流れている筈の音楽ももう耳には届かなかった。
 ヤバイ。
 それも分かっている。この症状がどう進行してどんな状態に至るのかも、経験から知っている。
 そんな自分の変化を分かっていてもどうする事も出来ないで快斗は浅く早い息を繰り返した。
 チキチキと小さく音をたてるプラスティックスプーンが手元の紙コップをひっくり返してしまいそうで、震える手を放す。
 はやく、
 早く、早く、
 ……ハヤク、ハヤク、ハヤク!
「……白馬」
 早く来い、バカッ。
 両手に顔を埋め、カウンターに突っ伏して吐き出した小声の悪態は、結局彼の名で。にも関わらず止まらない、症状。むしろ想いの強さ故か進行が早い気さえする。
 瞑った瞳。
 閉ざされた視界は不安を煽る。だけれども目を見開くと現れない彼を探してしまうから、そして見つけられない事に焦燥感を募らせるだけだから、いくらかでも症状を抑えるべく快斗は瞳を閉じ続けた。
 顔の下から片腕を抜き、指先で胸元を探る。胸ポケットをまさぐって、小さなピルケースが指先に触れると少しだけ安心出来た。
 ……ほんの気休め程度だが。だが、それも所詮は一時的でしかない。
 刻一刻と迫る、限界の間際。
 声すらもう届かないその場所で、突然、背に触れたてのひらは誰のものだったのか。
 唯それだけが現実だった。


*   *   *


 幼い頃から、父親である黒羽盗一のマジックショーに快斗はよく連れられていた。大体公演中は楽屋か客席の母親の隣で大人しくしていたが、盗一の付き人の寺井に連れられて近場に遊びに連れ出して貰う事もままあった。
 どちらにしても、自分の普段暮らしている場所ではなかったしそこがどこであっても子供だった快斗には関係がなかった。
 楽しければそれでいい、ただの知らない場所だ。
 そこも行くのは初めてだった。
 ただ、建物の外にいると風のニオイが違ってそれが少し珍しかったのを覚えている。どこかざらりとした、潮の香りの風がやけに強く全身に吹きつける。
「見えるかい、快斗」
 楽屋をこっそり抜け出して、廊下の突き当たりの窓から見渡す町、父の指差す先にキラキラ光る海が少しだけ顔を覗かせていて、快斗は歓声を上げた。
「海だ! うわぁ、いいなー。ねぇ、後で行ける、父さん?」
 きっと無理と言われるのを覚悟しての問いには、思わせぶりな……何か企んでいる時の……笑顔が返される。
「今日は昼公演だけだからね。三時からでどうだい」
「えっ、ホント?」
「ホントさ。でもせっかくだから父さんは快斗ともっとすごい所に行きたいな」
「どこどこ!」
 あそこ、と指先が示す場所は快斗からは良く見えない。
 不本意ながら七つにしては快斗は背丈が些か平均より足りない。ぴょこぴょこ背伸びしていると、笑った盗一にあっさりと抱え上げられてしまう。小さな子供にするような扱いに一頻り文句は言うものの、格段に良くなった窓の外の景色にすぐそれも忘れ去られた。
「ほら、ごらん。海からすぐそこに見えるだろう?」
「……ピンクの、何。アレ……くじら?」
 間にいくつも挟んだ建物の向こう、海の傍らにひょっこりと顔を出しているように見えるのが件の『ピンクのくじら』なのだ。手前の建物でその前景は見せてはいないが妙にファンシーなくじらは周りの風景から明らかに浮いて見える。
「ああ、そうさ、あのくじらが目印でね、水族館だ。海から繋がっているんだそうだよ。見てみたいと思わないかい?」
「思うー! あっそうだ、ラッコいるかな?」
「どうかな。だがペンギンやイルカのショーはあるらしいぞ」
「やたっ。行く行く! 行くーッ」
「よろしい」
 盗一は重々しく頷いて快斗を下ろす。と、どこからか逆八の字に跳ね上がったつけひげを取りだし素早く鼻の下に張り付けた。
「では君には重大な使命を与えよう」
 いつもTVで見ている戦隊物の司令官を真似ての台詞に、快斗は笑いを堪えてシャンと背筋を伸ばした。父は声色までも似せて、おもむろに話し出す。
「もしかしたら父さんの仕事は三時に終わらないかもしれない」
「えー」
 しーっと盗一に口の前で人差し指を立てられて快斗は唇をチャックする仕草で応える。
「そこで快斗に使命だ。一足先に出かけて四時からのイルカショーの席を父さん達の分も取って置いて欲しい」
「……一人で?」
 快斗はわくわくと聞き返す。
 普段、知らない場所で一人で出歩く事に母親は渋い顔をする。『子供だから』というのが理由で、それを言われると快斗には反論の余地はない。
 だが、息子の無鉄砲さとも言える行動力を、父親はむしろ独立心旺盛と呼んで擁護してくれている。
 今も『その通り』と頷く。
「出来るかい」
 快斗は力強く頷き返した。
「うん! まかせて」
 母親や寺井に言えばきっと心配し止められる。それは分かっているから、誰にも内緒、これは男二人の秘密といたずらっぽく笑い合う。
 こうして舞台の盛り上がるタイミングを見計らって快斗はそっと会場を抜け出したのである。
 裏口から抜け出した快斗は足取り軽くくじらを目指した。上ばかりを見上げて知らない街を駆け抜ける興奮は冒険で。夢中で駆け抜けて辿り着いた水族館は父の言葉の通り海のすぐ間際にあった。
 ちょっとドキドキしながら一人で切符を買って意気揚々と入場する子供を不思議そうに職員は見たものの、何も言われずに止められず、快斗は館内に通される。
 水族館は別世界だった。
 たっぷり天井まで水の張られた壁一面の水槽。その中を悠々と横切る巨大なエイにちょっとおっかない風貌の鮫。
 小さな水槽も沢山ある。上からあてられたライトの中、キラキラ銀色に光る小さな魚。
 愛嬌のあるペンギンコーナーに色鮮やかなイソギンチャクや珊瑚。
 ふわふわ漂うクラゲもユーモラスでどこか幻想的で足を留める人も多い。
 魚屋で見かけるサバやカツオなど見覚えのある魚や明らかに異色の熱帯魚など見るものは尽きない。イルカショーの開幕時間の四時までを快斗は駆け足で水族館を回った。
 後で父親に見せてあげたい水槽の場所を頭の中にリストアップして行くのは楽しく、あっと言う間に三時半が来る。
 未だ人のまばらなイルカショーの会場の正面の特等席を陣取って、快斗は父の到着を待つ事にした。
 ずらりと段状に並んだカラフルな長椅子と半円形のプール。青みがかった透明な水の中には、主役のイルカもアシカもペンギンの姿も見えない。
 段々と、観客が増えて来た。
 ステージにも館員が小魚の入ったバケツやショーで使うであろう小物を持って出入りし始めた為、じわじわと興奮が会場内にも広がって、……同様に興奮していた快斗は不意に冷や水を浴びせられたような気分になった。
 どうしてまだ来ないんだろう。
 そわそわと、プールと人が次々姿を現わす入り口とを交互に眺めやって、次第に落ち着かない気分になって来る。
 ……来てくれないのだろうか?
 まだ舞台は終わらないのか。まさか、水族館の約束を、忘れちゃったのだろうか?
 それとも水族館は近くにもう一つあったのだろうか。イルカショーは四時じゃなくて五時半のつもりだったのかもしれない。
 有り得ないと分かっていても次々と懸念が浮かんで積み重なって行く。
 ゆっくりと時計の針は半円回って、イルカショーの始まる時間がやって来ると快斗の不安と緊張はピークに達した。
 会館に……父や母の元に、引き返した方が良い気もした。けれど動いてしまう事ですれ違ったら却って会えないかもしれないと思うと足が竦む。
 水族館に入る分のお金しか渡されなかったから、出てしまうと再入場出来ないだろう事実も快斗の足を鈍らせた。
 マイク片手のトレーナーの声も、イルカがジャンプする度に周りから上がる大きな歓声も耳を素通りして。
 入り口ばかりを気にしている間におよそ三十分余りのイルカショーは終わりを告げた。楽しむどころか、惨めで、不安なだけの三十分という時間は実際はよりもずっと長く感じられた。
 押し流される人波に浚われていつまでもその場に留まる事も許されず、イルカショーの会場を出てしまうと快斗は途端に居場所に困ってしまった。……待ち合わせはイルカショーのところだったから。
 先ほどまではキラキラと楽し気に水中を舞い泳ぐ綺麗だった銀色の魚も気付けば鈍い輝きで寄り集まり、幾多の瞼のないその目がじーっと快斗を見ている、気がする。
 近寄って来る魚の目は、鈍くどんよりと不気味に映る。
 怖かった。
 心臓の音はみるみる大きくなって、耳元まで響く。全身が心臓みたいになって、声も出なくて、その時はそれが『不安』だなんて知らなかったけれど何かに押し潰されそうなのは分かったから館内のベンチの隅っこにしゃがみ込む。
 泣かないでいるのにただただ必死だった。時間は緩慢に流れていつまでたっても進まなかった。
 一人蹲り耐える恐怖は、まるで上手く隠れ過ぎて誰にも見つけて貰えなかったかくれんぼのように。いつしか探すのを諦めて皆が帰ってしまったのではないかと言う、不安と向き合って。
 ぽつねんと蹲りながら、快斗はそんな波に何度も襲われた。
 午後七時の閉館時になって漸く子供一人がいつまでも館内に居るという不審に気付いた水族館の社員に保護されるまで、ずっと。
 館員は少年の口から名前と住所を聞き出して首を傾げた。快斗の答えた住所は明らかに附近のものではなかったからだ。
 誰と来たのかと言う問いに、一人で来たと快斗は答える。会館までは父と母と、寺井やスタッフ達と一緒だったが水族館には一人で来たから。
 これが更に館員を混乱に陥れた。
 一人で来たと言い、父を待っていると言い、帰り道は分からないと言う。
 しかも父はマジシャンと付け加えた事で、更に信憑性が減ってしまったが快斗にはそんな事情は分からない。
 家出か、もしかすると捨て子か、はたまた単なる迷子なのか、どう判断すれば良いのか分からなかった館員は、結局百十番通報して判断を委ねた。
 交番からやって来た二人の巡査に、もう一度名前と住所を聞かれ、同じ答えを返す。更に水族館に来た経緯を尋ねられ、やっとどこかの会館から来たのは伝わったものの、快斗は父がショーを行っている会館の名前までは覚えていなかった。二十分ばかり歩いて辿り着いた事しか言えない。
 こんな事になるのならさっさと会館まで帰れば良かったと思ったが、後の祭り。
 巡査に連れられ水族館の外に出て、来た道を尋ねられても既におぼろげな記憶となった上真っ暗になった景色は来る時に見た風景とまるで違う顔を見せていた。
 はっきりと返せる答えもなく途方に暮れる。
 結局、交番に移動して巡査が自宅の留守番電話に何度もメッセージを吹き込む横でどうしようもなく震えていた。
 知らない大人にばかり囲まれながら物怖じせず普段ならはつらつとしている快斗でさえも、流石に心許なくて、心細くて、……萎縮させてしまう。優しくかけられる声も手も不安を忘れさせるだけの力はなくて、それでも意地で泣かないでいようとぐっと歯を噛み締める。
 何かを待っている時特有の遅々とした時間の流れは、快斗をらしからず不安でささくれだった無口な子供に仕立て上げた。
 やたらと長い、長い、一日。
 結果として快斗が母と再会出来たのは翌日も遅い時刻になってからで。
 快斗の保護者である黒羽盗一と連絡をつけようとプロダクションに連絡を取ってようやっと水族館の近くの爆発事故の起こった会館で、件の黒羽盗一がマジックショーを行っていた事が判明しての事だった。
 いきなり慌ただしくなった周囲を訝るだけの余裕もなく、茫然としている快斗の傍でその爆発事故とそれに伴う火事によって黒羽盗一自身が還らぬ人となり七歳になる息子が消息不明になっていたのが判明したのだ。
 現場検証の結果、爆発は手違いにより引き起こされた事故と結論された。
 爆発と火事と言う大事にも関わらず観客やスタッフに多少の怪我人は出たが、爆発の規模を鑑みるに他に死者が出なかったのは奇跡的だったとごく一部の雑誌に取り上げられた。
 本来なら若きマジシャンの衝撃的な死は大きくメディアを揺るがせる筈だったがどこで抑止されたのか、騒ぎは即座に収縮を見せた。
 執り行われた葬儀も、……ひっそりと。
 そんな諸事情が耳に入り出したのはずっと後だった。
 その時は母と会えた安堵が父の不在の疑問を僅かに上回っていたから、そして母親も絶望視されていた息子がひょっこり現れたものだから、他の何もかもが一斉に一旦脇に寄せられた。母親に、寺井に、可愛がってくれている常駐スタッフたちに揉みくちゃにされて泣かれて……、ホッとして。
 彼等は快斗の無事を口に出して喜び、快斗が悲劇を目の当たりにせずに済んだ事を口に出さずに慰めとした。いつもなら快斗は父の舞台に一番近い観客席にいたから、爆発に巻き込まれなかったとしても『事故』の瞬間を網膜に焼き付けてしまう所だった。
 そうならなかったのは奇跡的な偶然の重なりだったのか、何かを感じとっていたが故の盗一の作為の結果だったのか。
 その当時も、時の過ぎた今となっても皆目分からない。
 ……父がいつものように傍に来て抱きしめてくれないのが気になっていたもののはぐらかされ、理由が語られたのは翌々日になってからだった。
 父が、亡くなったのだともういないのだと理解するのには更にもう少し時間を必要とした。遺体すらなく形ばかりの葬儀が済んでも始まった日常はまるで父の新たな舞台のようで、いつだって不意にどこからか現れて名を呼んでくれるような気がしたから。
 もういない。
 会えない。
 話す事も触れる事も出来ず、体温も鼓動も感じない。
 それが実感出来なかった。
 こんな風にあまりにも唐突に、快斗の世界を構築し揺るぎ無く中心に居た父親が姿を消してしまうだなんて。
 気付けば繰り返し訪れる後悔の波は尽きず、けれど終わってしまった出来事はいくら思い返した所で何が出来るでもない。
 ぽつねんと不安に過ぎた午後は快斗を打ちのめしたけれど、心の中にまで至る傷を遺したのは、待ち続けた午後と父を失った事が相まみえて発生したと思われた。
 あるがままの世界を諾々と受け入れるまでに、費やした数年。
 その死因が、あの魔法使いみたいに完璧に見えた父が起こした不名誉な事故だった、と、十年かかってどうにか至った納得が、脆くも崩れた、……十七の誕生日。
 理不尽に奪われた存在は大き過ぎた。
 反動も大きかった。
 もう出来ない納得なんか、しない。黙って受け入れたりしない。己の中から突き上げて来るものがあって、成す力は不足していてもゼロじゃないのなら。
 不思議と踏み切るに躊躇はなかった。
 新たに目前に提示された謎は父が快斗に遺した舞台への切符。
 片道切符の覚悟が初めからあった訳ではない。自覚など後からついて来たようなものだ。ただ白き衣を纏って、納得のいく答えを探す。そんな風に、夜空にたなびく白装束は快斗を変えた。
 変わった快斗に変わらず残されたのはトラウマだった。しかも一つではなく、二つ。

 魚と、誰かを待つという行為。

 二つ共に不安や恐怖、後悔、そして強く父の死へと直結している。
 だから魚は食べれないのは勿論、姿を見るのも出来ない。誰が笑おうとからかいのネタにしようと、切実に身体も心も受け付けない。
 魚のトラウマは父の死後、比較的時を移さず発覚した。その症状は簡単に言うならパニック障害と呼ばれるもので、魚によって引き起こされる事も、何故魚で症状が出るのかも容易に答えが見つけられた。
 歳を重ねると共に徐々にその症状は軽減されていったのと、意識して魚を避けるのは不可能ではなかったからパニックを起こすのは年々減っていった。
 だが誰かを待つ行為で起こる症状はより深刻で、最悪の場合、前後不覚にまで陥る。快斗は度々救急車で運ばれ、不安症や神経症と言う名を告げられた。
 神経科や心療内科にかかるのはある程度年齢がいっていても微妙な躊躇いが伴う。ましてや当時の快斗はまだ小学生。病院は病を治す所というよりは行きたくない所という印象が依然として強い。
 それらが考慮され、通院も様子を見て、薬の処方も熟考されカウンセリングや心理療法を中心に対処された。
 気を落ち着かせる方法を学び、ある程度の年齢に達すると安定剤を常備する事で多少の安心感は得られた。
 かと言って、人を待つのが耐えられないというのは他人には非常に理解され難く、また待てないのだと理解される為に誰彼なしに生い立ちを一から十まで説明する気にもなれず。
 せめてもと思い付いたのは、ささやかな抵抗。待ち合わせをしないのは無理でも、最悪自分が誰かを待たなければ良い、という……ぶっちゃけた話、自己本位な極論だ。
 しかし、意外にもこれは効果があった。快斗の作り上げたおちゃらけたキャラクターも一役買って、多少の遅刻は苦笑一つで周りに見逃して貰えた。
 中学に上がる頃になると快斗は細心の注意を払って誰も待たずに済むよう計らっていたから昔のようにしょっちゅう救急車で運ばれる事もなく、幼馴染みの中森青子でさえも快斗の過去を覚えているかどうか怪しいものだった。覚えていても完治したと思っているかもしれない。
 高校生になった頃には魚のトラウマの方だけすっかり有名になっていた。
 お調子者で人気者な快斗に悪意を持って魚を突き付けるような連中には即日しっかり報復もしていたから、往々にして友人達にはちょっとしたからかいのネタ程度に扱われていた。運動が出来て、授業なんて寝てばかりの癖に結構成績も良くて、マジックが得意で話術も巧み。気取らず気さくな人柄は下手をすれば却って嫌味に取られかねない。
 けれど、涙目になって本気で魚から逃げ惑う姿を見てしまうとそんな気もなくなる。計算した訳ではないが、クラスではそんな風にすっかり打ち解け不安症も鳴りを潜めていた。
 ……彼が現れるまでは。
 英国帰りの高校生探偵・白馬探。
 隠し部屋の存在を知り、怪盗KIDとして動き始めてまもなく登場した彼は、KIDを追いかけ帰国したと言う。しかも大胆にも快斗を名指しし怪盗KIDの正体だ、必ず捕まえて見せると豪語した。
 大言壮語だとか、やっかいな奴だと思わないでもなかった。
 けれどそれ以上に興味をそそられた。
 自信家で、頑なで、真っ直ぐな眼差しでKIDを追って来る。快斗が予告状を出すと予告日に快斗を罠にかけようなんて画策してみたりするわりにはツメが甘く、非情になり切れない。騎士道精神がしっかり根付いた紳士の国育ちが現れている。
 時々恐ろしく勘を働かせたり動きを見切って来る事もあって、快斗は彼とのスリルある攻防に心躍らせ楽しんだ。
 KIDとしてだけでなく、顔を合わせるとからかうのを楽しんでいる快斗に対し白馬は苦虫をかみしめたようなしかめっ面に疑惑の眼差し、最後は決まって諦めか呆れの表情に落ち着く。
 怪盗KIDとしての側面を得た快斗には程良い刺激でも、彼にとってはのらりくらり言い逃れる快斗を相手にするのは楽しくないのだろう。
 快斗が徐々に募らせる想いとは裏腹に、当初あからさまに乗り気でないと分かっている白馬を相手に快斗としても校外にまで呼び出す勇気はなかった。
 彼が嬉々とするのは所詮怪盗KIDがらみだけ。それを承知していても快斗は彼の探偵でない一面も見たい。
 だから、理由をつけて一度だけ街に呼び出した。待ち合わせは快斗にとっても不安と危険を伴うものだったが、それ以上に期待もあった。
 少しずつ、少しずつ知って行くのは楽しい。
 白馬が時間の十分前には現れる、生真面目な質だとか。
 佇んだ姿は泰然としていて、スマートで。
 ただ立っているだけでもその長身と穏やかで知的な顔立ちは人目を引いたし、通り過ぎる人々が自然と目で追うのも思わず立ち止まるのも、後ろ髪を引かれ振り返る気持ちもよく分かった。
 なのに彼の周りで人垣が造られたりしないのは、上質で気品さえ漂う横顔がナンパや勧誘など中途半端な近づき方を許さず、迂闊に声をかけれない雰囲気を保っているからだろう。
 流石、御曹司。
 俗に言う育ちの良さが如実に現れた訳だが当人の自覚があるかはまた別と思われた。
 日常はKID疑惑の皮肉と当てこすりばかりが口をつく彼の、そんな外面の良さに感銘を受けるなんて馬鹿馬鹿しいとは思うけれど。やたら見目を引く秀麗な横顔をこっそり覗き見るのは存外楽しかった。
 周知の声にならない注目の視線の中に姿を現し、……声をかけようとした直前に目が合った彼に名を呼ばれたのは想定外。時間ぴったりに現れた快斗を捉らえた白馬の瞳に瞬間驚きが過ぎり、すぐに嫌味のないやんわりとした微笑みが取って代わる。
 コイツが待っていたのはオレなのだ、という言葉にならない優越と快感は爪先から瞬間に背を這い上がるゾクゾク感と似て、癖になりそうなヤバイ予感が僅かした。
 彼の視線を捕らえ続けたいと思ったのはその時。……独占したい、と。
 スポットライトを浴びて舞台上を支配する奇術師は、派手に動かして観客の注目を集める手より、そちらに視線を促している間目立たない地味なもう一つの手の方がより重要な役割を果たす。
 同様に、派手に立ち回る怪盗KIDではなくて、その後ろでひっそりと息づくただの黒羽快斗を見つけて欲しい。
 贅沢に過ぎるかもしれない望みも手に入れる為なら努力の価値はある。
 口煩く怪盗KID疑惑をぶつけて来る白馬を一笑し受け流して来ただけの快斗が、態度を翻しKIDとは全然関係のないクラスの行事などに白馬を引っ張り込みくっついて歩き、家まで押しかけるなど積極的に関わり始めたものだから、それまでとは真逆の行動に当然周りは訝った。
 何と言っても追う者と追われる者の入れ代わった追いかけっこだ。
 周りも急な展開の二人を何事かと首を捻りつつ眺めたものの、単に快斗が白馬を構いたがっているだけだと分かるとやんやと茶化すだけで騒ぎはやがてゆっくりと鎮静化した。うまくしたもので、どんなに奇異な状況も日常となればすぐに忘れられてしまうものなのだ。
 むしろ素直に納得しなかったのは渦中の人となった白馬だ。
 彼は、今までKID疑惑で絡む白馬をのらりくらりとやり過ごして来た快斗のあからさまな態度の変容をそう簡単には受け入れたりはしなかった。身構え、また何かを企んでいるのではないかという露骨な警戒の視線と疑惑を含ませた相変わらずの丁寧な口調でもって快斗と相対する。
 快斗が何かと誘いかけるのとついて回るのには多少身に覚えもあるからか好都合と判断したか追い払いはしないものの、友好的に対応するまでには遠く至らない。
 その頑固さは筋金入りで。けれど、あまりの頑なさに時折こっそりへこんでもへこたれても、簡単に諦めたりはしなかった。
 実際彼の疑いは濡れ衣でも事実無根でもなかったし、半ば自業自得なのも承知している。それでも容易に諦めるという選択肢はその時の快斗にはなくなっていた。
 白馬へ向かう気持ちは半端な興味をとっくに超えていたのだから。
 ちょうどその頃だった。
 江戸川コナンを名乗る内外が大幅にアンバランスな小さな名探偵と出会って、密やかな交流が始まったのは。
 幸い江戸川コナンの本来の姿も快斗の記憶には存在している。
 思えばここしばらく高校生探偵はメディアを騒がせていなかったから彼の顔もしばらく見てはいなかったが、初めて顔を合わせた時の衝撃は忘れられない。
 時計塔に現れた怪盗KIDに向けて、どういういきさつか警察のヘリコプターに同乗していた高校生が身を乗り出して銃をぶっ放したのだ。勿論、当たりはしなかったものの、……KID専任の中森警部が無線越しに怒声を上げた程に無茶苦茶な所業だった。
 それが、高校生探偵・工藤新一その人とのファーストコンタクトである。
 彼の現在の状況を調べ上げるのは難なく、芋づる式に彼の追い掛けている組織まで手を伸ばしたら計らずも根っこで快斗の追い掛けていた組織と繋がっていた。これはある意味好都合で。
 言葉巧みに協力を申し出て共に共同戦線を張るまでにさして時間はかからなかった。
 何分、双方にとって益がある関係だ。コナンにとって怪盗KIDは器用に立ち回れるジョーカー的存在で、即戦力であったし、快斗にとってもコナンや哀が居てくれる事は情報力のアップだけでなく精神的な安定を得られ独りきりで抱え込んでいた重圧から解放される事だったから。
 更にコナンの正体を知っている西の探偵が参戦したのも当然といえば当然の成り行きだったのだろう。
 コナンにとっては数少ない背中を預けれらる相手で。平次にとっての新一は何にも代え難い唯一の相手と目しているようだ。
 工藤新一に勝負を挑みに東の地に乗り込んで来て、小学一年生をしていた江戸川コナンの中に工藤新一を見つけた男。
 『子供に殺人現場なんか見せるもんやない!』と怒鳴りつける常識と、高校二年生が小学生になってしまったという非常識を受け入れる頭の柔軟さを併せ持った点が、快斗が服部平次を気に入った主なる要素だ。
 彼独特の時折いい加減に聞こえる発言は名探偵の血圧を瞬時に跳ね上げさせているようだが、時に曖昧さを許す態度こそ世界とは白と黒に、零か一かに割り切れるものではないと知っているが故で、快斗にしてみればそこは充分評価の対象だった。
 その上新一が怪盗KIDと手が組んだと聞かされても微塵も怯まず難色を示しもせず、束の間の驚きが過ぎると新一を豪胆と称え大ウケしたと聞く。
 そこでまた西の探偵の株がみるみる上がった訳である。
 工藤新一に関しては言うまでもなく端から気に入っていたし、一時的に手を組んだだけとうそぶいても自分の性格からしてドライに割り切れるとは思っていなかった。
 怪盗と探偵の立場を忘れないならば、貸し借りだけで動くシビアな人間であるべきかもしれなかったけれど、快斗は己の中のどこか甘い性分や情を抱き過ぎる性分を完璧に塗り込めて仮面を被るより、快斗らしさを殺さずに怪盗KIDを確立するを望み、そう努力している。
 だからこそ探偵との立場は対等でも心情的にはフィフティーではなく。入れ込んでしまいそうな予感は元よりあった。
 けれど只の協力者を越えて、仲間として扱われ、互いに信頼関係を築けるとまでは思ってもみなかった。
 嬉しい予想外だ。
 ある意味一番生傷の絶えなかったのがこの時期だったが、彼等が居てくれたから快斗は目一杯の強がりを駆使して凛と立っていられた。
 それからしばらく、怪盗KIDとしての華々しい活動も最低限必要に迫られたもの以外は控える方針で進み、水面下での対組織の偵察やらに追われていたせいか、目立った活動のないKIDの名が白馬の口に上がる頻度も目に見えて落ち……彼の意識も徐々に逸れていくのが分かった。
 それに伴い快斗への態度も軟化し始める。
 視線の険が鳴りを潜め、いつだって向けられていた疑惑の眼差しもただ当惑を織り交ぜた物問いた気な眼差しとして快斗に届けられる。
 彼の心が日に日に快斗に向けられるのを、感じ取れた。
 延びて行く、視線が絡み留まる時間や、ふとした瞬間に背を支えるてのひらに、柔らかな音の響きで呼ばれる名に。
 疑惑を完全に払拭するのは無理でも、快斗と面と向かっている時はせめて怪盗KIDを頭から締め出して欲しい。
 快斗は本気で彼の想いが欲しかったから、それを手に入れる為にKIDを差し出すような真似だけは出来なかったし、しなかった。
 もしかすると、そうした方が話は簡単だったのかもしれないが、してしまうと今度は白馬の想いが手に入っても、手に入れたのが快斗なのかKIDなのかが自分でも分からなくなってしまう。
 黒羽快斗も怪盗KIDも、どちらも快斗だ。けれど、同じであって違うものでもある。……殊、白馬にとっては。
 だから、快斗としての好意を全部詰めて、行動で示した。
 常に追いかけ一心に注ぐ、眼差しに。愛しさを込め、触れる背に。寄りそう肩口に。微笑みに、……そして沈黙に想いを込めて。
 それなりの時間はかかったものの、白馬はそれに応じてくれた。快斗を見て、浮かべる微笑みと注がれる穏やかな眼差し。
 それらが快斗を幸せにした。
 愛情を得られた、受け入れられたと思ったから、正体をも告げた。初めは白馬に諸事情を吐露するのに難色を示していた東西探偵も、この頃には快斗への白馬の態度の変化を見て取って、告げると決めた快斗をもう止めはしなかった。
 怪盗KIDの隠匿されていた事情、工藤新一の数奇な運命と彼が得た仲間達と組織との戦いの全容。過去になったとは言え、ほんの僅かだけ過去の話だ。
 長い長い話を、黙って白馬は聞く。
 時折痛そうに目を眇め、淡々と語る快斗の指に、指を絡めた。癒すよう、励ますように、そして折りに触れ途切れがちな快斗の話の続きを促すかのように、指先を捕らえ直し、くちづけを与える。
 誠実な横顔を、温もりをくれる指を、彼を、好きにならずにいられなかった。
 その眼差しが、しばしば快斗より快斗の向こうの誰かを見ているように感じられても。
 小さな諍いがある度に、気持ちのすれ違いがある度に、白馬の気持ちは途端に距離を取る。容易く遠のかれてしまう気持ちが無自覚ながらも彼の胸の底に眠っている疑念のようで、和解をしても心に残る針の先程の不安は常に消せなかった。
 それでも繋ぎ止めようとする努力を惜しまなかったのは、……彼を欲しているから。一度知ってしまった絶対的な安心感を、愛されている気分を、幸せを、失いたくはないから。好きだった、と過去形にしたくはないからだ。
 振り返るのはいつだって快斗だった。
 初めに押し切ったのも快斗だった。
 どちらも、快斗を気弱にする二要因で。
 想いをぶつけて、身体を重ねて、確かに手に入れた筈の幸せなのにふと気付けば二人の間にはどこか距離は残っていて、小さな不安は小波のようにどこまでも快斗の胸の内に波紋を広げた。
 音もなく、確実に。
 だから、白馬の呼び出しに快斗は応じたのかもしれない。状況に流されたからではなく、不安定な状態でバランスを取っているだけでなく待つ相手が彼である事で、自分の中、何かを変えられるのではないか、との願意を無意識に抱いて。


◆◆◆◆◆続き


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