クローバー・ブルー・クローバー:3



(5)

 探偵との真夜中の攻防は数度に渡って続いた。
 その度にどうしようもなく胸の内をかき乱されてしまうのに、それでも彼に会いに出向かずにはいられなかった。そしてその手段も快斗には怪盗KIDとしてしか残されていなかった。
 KIDと会わせると、過去の彼とした約束を果たさなければならない。
 彼の望みを叶えたい。そんな気持ちも嘘ではないが、それだけでもなかった。
 会いたい。
 でも快斗ではない名を呼ぶ声に、快斗には向けられなかった熱い眼差しに、いつも打ちのめされて。
 投げ出してしまいたいと思ったのも一度や二度ではなかった。
 矛盾を抱えて、それでも決めた事だから。
 天を駆け、宙に舞い、怪盗KIDは駆け抜ける。

 KIDの現場に、基本的に東西探偵は立ち入らない。勿論、暗号解読自体は好きらしく、協力を乞われると力を貸してはいるようだったが、そもそも一課と三課は取り扱いが違う。窃盗犯は守備範囲外だからと新一は言う。
 それにKIDを追いかけるにしても、既に警視総監令息の白馬探という英国帰りの高校生探偵が必要以上に執着している。そこに立ち入ってまでも関わらなければならない必要はないし気も進まない。
 言葉面はそっけないが、本当は彼が快斗を知ったからこそに思える。もう一人の西の探偵はあまり拘っていないのか彼に倣っての事なのか、あり難くも同様の反応で。
 そんな所が彼等の優しさだ。
 だから、こんな局面で彼の声が聞こえたのには心底驚いた。
「快斗!」
 仕事の後、そろそろ白馬が現れるかと気もそぞろになっている、そんな時に名前で呼ばれるとは思わなかったのでまともに面食らってしまう。
 犯行現場の裏手のビルの、静かな屋上に駆け寄る人影は間違いようもなく友人の顔。犯人を追いかける場合を別にして、息急き切って駆ける名探偵など滅多にお目にかかれない。
「……おや、こんばんは、名探偵。お一人とはお珍しい」
「馬鹿! それどころじゃねぇよ!」
 第二声で怒鳴りつけられ、快斗は目を丸くする。切羽詰まった声音は真剣そのもの。
 目前にまで駆け寄った新一は、大きく息を吐いてから快斗の腕を強く掴んだ。白いスーツの袖による皺に彼の力の入れ具合も現している。
 目を合わして、ゆっくりと噛んで含めるようにはっきりと、話した言葉は短く。
「白馬が事故った」
「…………え……、」
「白馬が事故ったんだ。ここで待っててもあいつは来ないぞ」
 何を言っているのか瞬間分からず、ぽかんと見返してしまう。
 そんな姿に少しばかり苛立った調子で新一は快斗の腕をぐいぐいと引く。エレベーターホールまで引きずられるように連れられつつ、快斗は縺れる舌を必死に動かした。
「ちょっ、待って、待ってよ。事故、って、」
「車に引っ掛けられた。詳しい容体は知らねぇよ。とにかく病院だ」
 行くぞ、と促されて呆然としたままKIDのスーツからとりあえず変装を解く。
 それが精一杯で。腕を掴まれたままエレベーターに乗り込んで、下る僅かな時間の浮遊感すら吐き気を催す。新一の声すら遠く、引かれる腕だけがひたすら現実だった。
 脳裏を過るのは、来なかった懐かしい人。
 待っても、待っても来なくて……、結局それきり会えなかった。
「おい、快斗?」
「……うん、大丈、夫」
 込み上げて来る覚えのある感覚。
 絶え間なくガンガンと側頭部を殴られているかのような、頭痛は止まらず微弱な身体の震えに新一の手が背に回る。
 宥めるようなてのひらの動きと、強い響きの声。
「しっかりしろよ。きっと白馬なら大丈夫だから」
 頷こうとしたが、息が上手く出来ず快斗は軽く咳き込んだ。
「快斗」
 気遣わし気な声に、必死で頷いて。
 長い時間をかけてようやく辿り着いた一階に降り立ち、ホールを抜けた所で轟くエンジン音が二人を迎えた。道路脇でキーを差したままのバイクに跨って待機していた黒い影が手を上げる。平次だ。
「黒羽! こっちや!」
 傍迷惑にふかしている訳ではないが夜更けにも関わらずエンジンを切らずに待っていたのが更に不安を募らせる。止まってしまいそうになる足を、背を押してくれる友人の手が助けた。
 当然のように後ろを指差されて慌てて新一を見返すと、平次の投げたメットを手早く被せられる。まるで子供にするようにしっかりと顎までしめられて。
「服部、安全運転だぞ」
「分かっとる」
 メット越し、こもった声が低く応え。しっかり腕を回して、放すなよ、なんてまるで後部が初めてのように世話を焼かれて戸惑う。あれよあれよの間に快斗の両腕は平次の腰に回された。
「え、でも、新一は、」
「オレはいい。何とでもなる、いいから、……行け」
 最後の一言は強く、相棒に向かって。
 声に押し出されるように、平次が力強くスロットルを蹴る。一呼吸後の引っ張られるような感覚に、ひたすら快斗は腕に力を込めたが既に腕の感覚もよく分からない。
 風を切っているのは分かっても、走ってるという気はしなかった。過ぎる視界は景色と捉えるまでもなく色程度で、見事に知覚出来ない。
 常ならば平次の運転はスピードを出しても危うさはない。大阪でコナンを乗せたまま事故った記憶がそうさせるのか、自分に何かあったら泣く人がいるという自覚が出来たのか。
 轟く爆音がバイクの立てているものなのかそれとも体内に響く鼓動なのかも判別がつかないまま。
 回した腕と鼻先の背中だけが確かな現実だった。
 病院に着いたと腕を叩かれて合図され、やっと呼びかけていたらしい平次の声に気付く。背中に抱きついていた状態から慌てて動こうとしたが、ぎちぎちに固まった腕はすぐには動かせない。指先の震えに気付いた平次が丁寧に手を解いた。
「あ、ごめっ、」
 瞬きを繰り返す快斗を助け降ろし、結局メットを外すまで手を煩わせてしまう。慌てる快斗の血の気の引いた顔に平次の眉が少しばかり寄せられた。
「かまへんよ。行くで」
 キーを抜いて足早に救急入り口に向かう背中を追うので精一杯な姿を見て取った平次が快斗の肩に手を回してずんずんと進む。
 途中、看護師と話している内容も耳に入らず、間断なく続く頭痛と襲って来る恐怖で全身が心臓になったような動悸は留まる事を知らない。
 気付けば平次の片手は病室の扉を引く所だった。目の端に白いプレートが見え、文字を知覚した途端。
 ぎく、っと足が竦んだ。
「あ、」
 白馬探、と読めた文字に膝の力が抜ける。瞬間、回されていた肩の力が強まらなければ確実にくず折れてしまっていた。
「黒羽! 平気か」
 かけられた声に、しかし頷く事すら出来ない。ドアから目を離せず息をも殺して、怖いと呟いた声は辛うじて平次にも届いた。
「先刻の聞いてへんかったんか? 白馬ならもう大丈夫や、命に別状あれへん」
「……ッ、ホントに……?」
 やっと見返せた平次の顔がゆっくりと笑顔になる。
「ほんま。ジブンもちゃんと顔見たらもっと安心出来るやろ。……入るで」
 やっとの思いで頷いて、静かに二人は病室に入る。
 どうやって枕元まで歩んだのかは知らない。気がついたら目に入る位置に横たわった白馬の顔が見えて、無意識に乗り出しその顔を覗き込んでいた。
 こめかみに張り付けられたガーゼと腕に伸びている点滴が痛々しい。目の閉じられたままの白過ぎる彼の口元にてのひらをかざし、微かに感じる息にやっと安堵が込み上げて来る。がくがくと震える身体はとうとう自らを支えられず、快斗はベッドの脇に膝をついた。
 未だ震える指先で彼に触れるのは躊躇われた。彼の頬の脇のシーツが手の中でしわを作る。
 込み上げて来たのは、安堵だけでなく。何もかもが一気に押し寄せて来る。
 そんな中でも、ただ目が放せなくて。
「事故、なんて……、死んだかと……っ」
 ぼろぼろと零れる涙は点滴の管の傍のシーツに染みを残し、快斗の喉からは抑えきれない嗚咽が止めどなく漏れた。
 白馬の顔が滲んで見えなくなっても眼を閉じる事も出来なくて。堪え切れず伸ばした指先に、ほのかに伝わる体温が染み入る。
 平次がそっと背を叩いて席を外したのは分かった。気配が消えたのも感じたし、扉の静かに閉まるその音も確かに耳に入っていたけれど振り返る事は出来なかった。
 彼から、目を放せなかったから。
「白馬……白馬、」
 少しでも体温を感じたら、もう手が離せなかった。もっと安心が欲しくて、不安を打ち消したくて、指先を滑らせる。頬から傷のガーゼを避けて額に、唇に。
「バカ、どれだけ、心配し、たかと……っ」
 素直に吐露される言葉は掠れて、震えて、嗚咽混じりで。馬鹿みたいに流れ続ける涙に耐え切れず、そっとシーツに突っ伏す。
 その耳に彼の寝息以外のものが混じり届いた。風もそよがせない、息だけみたいな声。
「ろ、ば、くん」
「白馬っ?」
 は、っと上げた顔に、白馬の繊細な紅茶色の瞳が飛び込んで来る。
「なかないで、」
 たどたどしい囁きに、慌てて袖で涙を拭う。それでも零れて来るのは新たな涙で。
「泣かないで、黒羽くん」
 もどかしそうに繰り返した声は、少しばかり力を有して耳に届く。
「事故に、……オマエが事故に会ったって聞いて、びっくりした」
 耳元に囁くと、白馬が困ったように眉を寄せる。記憶を辿っているのかしばらくしてやっと『ああ、』と彼は呟いた。
「大丈夫でしたか?」
 反対に問いかけられ、戸惑う快斗に心配そうな眼差しが向けられて、ますます困惑する。
「大丈夫、って、オレが? 大丈夫じゃないの、オマエじゃんか」
「でも、君、待ってくれていたでしょう? 今夜は君と会う夜だった」
「……? どういう、」
 白馬の言っている意味が分からずに段々と不安が忍び寄って来る。そういえば彼の怪我がどの程度なのかも確かめていない。快斗自身が全然そんな状態ではなかったのだから無理もないとはいえ。
「約束はしてませんでしたけど、犯行の後いつも、君は僕を待っていてくれたでしょう? 今日も、そうだったのではないですか」
 やや苦しそうに、それでも白馬は言い切った。少ない光源の中、快斗の態度から答えを見逃すまいと言うよう、心配気な視線を外さずにじっと眺めながら。
 呆然と見返す。
「すみません、君を待たせてしまって」
 そんな筈ない。そんなに簡単に、暗示が解けるだなんて事、ない。そう思っているのに、彼の台詞は間違えようもなく決定的に響く。
「体調は大丈夫ですか。薬はちゃんと持っていますか」
 怪盗KIDの正体が黒羽快斗だと知っている。
 快斗の不安症を知っていて、気遣ってくれる。
 それはKIDだけを見ている今の白馬には有り得ない、記憶を封じる前の白馬でしかない。
「オマエ、記憶……!」
 涙も乾くほどの驚きに、白馬の瞳が穏やかに細められた。
「ええ、少しずつ暗示は解けて来ていました。KIDと会う度に、どんどん湧き上がって来る違和感があって……この事故が決定的でした。車にぶつけられて、動けなくなって……瞬間に、衝動が湧き上がったんです。行かなくてはいけない、君を待たせてしまう、と」
 止まったと思った涙が再び頬を伝う。
 KIDを忘れられないと言った白馬。快斗よりもKIDを選んだ彼の望みくらい叶えてやりたかったけど、全ての記憶を持ったままの彼にKIDとして会い、振舞い、その度に快斗としての想いを砕かれて絶望するのは……、あまりにも切ない。
「お願いです、泣かないで、黒羽くん。すみません、僕は君を振り回してばかりだ」
 流石にまだ身体は動かないのか、もどかしそうに肩を動かせた白馬は痛みにか、束の間眉をひそめた。
「君が好きだと言って、君よりKIDが好きだと言って、……勝手ばかり言う僕を信じて下さいとはとても言えませんが」
 潜めた声が、それでも快斗の名を呼ぶ。大切そうに、愛しそうに。懐かしい響きに揺さぶられる想い。
「それでもあれからKIDと会って、はっきり分かりました。KIDもちゃんと君でした。僕が好きなのは君なんです、黒羽くん」
 すみません、と重ねての謝罪にぐっと嗚咽が零れた。
 嬉しいと思う。しかしそれ以上に俄かに信じがたいのも事実だった。息を吸って、吐いて。涙を拭うと白馬の顔を覗き込む。小さな勇気。
「白馬。眼、閉じて」
 囁き声に彼は躊躇わない。伏せられた瞼が彼にほのかに陰影をつけた。
「いいぜ、開けて」
 促す声に、白馬が柔らかい紅茶色の瞳を向ける。大きく見開かれた彼の眼の中に映り込む白装束。
「白馬……?」
 不安気に声が揺れたのは分かっただろうか。薄闇の中、白馬の視線がじっと注がれて。覚えのある温かく穏やかな視線でもなく、見据え熱く注がれる視線でもない。あえて言うならば焦がれているような色。
 ふわり、白馬が微笑みを浮かべた。こめかみのガーゼにも負けず、彼の気品も穏やかさも失われる事なく。
「見納めですね、黒羽くん」
「いいのかよ……?」
 問いに、白馬はしっかりと頷く。
「君の良いように」
 染み渡る声にまた泣きたくなる。何度も、何度も手のうちから擦り抜けた幸せが、戻って来るだなんて。
「オレは、オマエが無事だってだけで、もう、それだけで……、」
 言葉にならない想いに詰まらせた声に、大丈夫、と白馬は笑う。
「もうどこにも行きません。君の傍に居ます。いつか信じて貰えるまで、……ずっと」
 染み透る声の約束は心にまで響いて。過去の記憶を塗り替える、温かい波動に、おずおずと快斗は腕を伸ばす。
 懐かしい温もりに触れて、漏れた吐息は言葉よりも雄弁に恋しかった想いを伝える。
 駆け足になった鼓動は、不安とは程遠い心地良さで快斗を包み込んだ。

 記憶の中の、懐かしい人の微笑みと共に。



                       ・END・

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