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★1月22日 金曜日★
真琴「浩平、起きて」
浩平「んあ?」
真琴「あ、起きた」
浩平「…」
真琴「さ、早く起きないと遅刻するわよ」
浩平「…1度くらい…大丈夫…寝る」
真琴「わっ、また寝ちゃダメ!」
浩平「うう…わぁったよ…」
真琴「そうそう、それでいいのよ」
どうも頭がはっきりしない。
昨日、遅くまで色々と考えていたせいか。
それとも…。
真琴「…ん?どうしたの?真琴の顔に何か付いてる?」
浩平「……目と鼻と口」
真琴「そんなの当たり前じゃないの。さあ、起きた後はベッドから立ち上がるの」
浩平「ふぁい」
真琴「はいはい、それでよし。次は部屋を出て階段を降りる。気を付けてね」
…非現実的な真琴の現実を受け入れたためなのか。
あるいは、理解したと思い込んではいるものの、やはり心の奥底深くでは拒絶し
ていて、それで疲労が溜まっているのだろうか。
真琴「あうっ、階段で座り込んで寝ちゃダメよぅ」
浩平「んあ」
真琴「さあ、立った立った。…そうそう、そうやって、ゆっくり降りていくのよ」
とにかく今日天野に会って話を聞けば、オレの仮説、いや確信が正しいのかどう
かが分かる。分かるはずだ。
となれば、今ここで考えていても仕方がない。
真琴「はい、無事に1階に着いたわよ」
浩平「ふうー」
真琴「あ、今度こそちゃんと目を覚ましたのね」
浩平「ああ、なんとかな」
真琴「とか言いながら、歯磨きしながら寝たりしないでよね」
浩平「大丈夫だって」

今日もまた、真琴が用意してくれた朝食を食べる。
浩平「はぁーっ、昨日は勝ったのに、今日はまたお前の勝ちか…」
真琴「悔しかったらもう少し早起きすることね」
浩平「そう言われてもなぁ…」
そう言いながら真琴からマグカップを受け取ろうとした。
浩平「ん?」
真琴「どうしたの?」
浩平「お前、手、震えてるぞ」
真琴「え?」
オレのマグカップを掴んだ真琴の手が、僅かだが震えていた。
浩平「手首、痛めたんじゃないか」
真琴「そんなことないわよ。痛くないもの」
浩平「とにかく、早く放した方がいいって」
真琴「あ、ごめん」
オレがマグカップをしっかり掴んでいるのを確認して、真琴は手を放した。
真琴「うーん、おかしいなぁ…」
そして真琴はジャムの瓶を引き寄せ、蓋を開け、スプーンを差し入れて、ジャム
をトーストに塗ろうとした。
しかし、どこかぎこちない。
真琴もそれに気付いたようだ。
真琴「何でだろ?」
浩平「気付かないうちに捻挫したんじゃないのか」
真琴「ううん。ほんと、痛みは全然ないの。力が入らないわけでもないし」
浩平「ほら、トースト貸して。一緒に塗ってやるから」
真琴「いいの?」
浩平「いいからいいから。ほら」
真琴「うん」
オレは真琴からトーストを受け取ると、ジャムの瓶を引き寄せ、手早くトースト
にジャムを塗って真琴に返した。
浩平「ほら」
真琴「うん、ありがと」
浩平「礼はいいから。早く食べないと」
真琴「うん」

今日は図書室の前に天野は居なかった。
浩平「天野、居ないな」
真琴「そうだね」
浩平「ま、そうそう1時間目が自習、ということも無いだろうからな」
真琴「それもそうね」
そうして真琴を図書室の中に連れてゆき、再び廊下に戻ると、天野が立っていた。
天野「おはようございます」
浩平「…ああ、おはよう」
天野「今日はいかがでしょうか」
浩平「ああ、構わないよ。心の準備も出来た」
もはや確信となっているものを準備と呼んでもいいのかは別として。
天野「はい」
浩平「ただ、今日は昼休みじゃなくて放課後にしたいんだけど」
天野「お昼休みはご都合が悪いのですか」
浩平「都合が悪いというか…。既に2回も真琴との昼食をすっぽかしてるから、
   3回目ともなると身の危険を感じるんだよ」
天野「身の危険、ですか」
浩平「そう。朝、起こされる時に窒息寸前まで持っていかれるとか」
天野「でも本当は、折原さん自身もあの子と一緒に食事がしたいのですよね」
浩平「ま、まぁ、そうなんだけど」
そう言うと、天野は僅かだが顔を綻ばせた。
天野「わかりました。では、放課後に」

昼休み。
今日は珍しく4人分の席が確保できたので、北川や水瀬と合流して昼食をとるこ
とになった。
相沢と美坂は今日も居なかったが、もう何も聞かなかった。
北川とオレはカレー、そして真琴は天ぷらそばをトレーに乗せていた。
水瀬はカレーパンを持っていたが、自分で食べるのではないらしく(相沢のだろ
うか)、いつもと同じようにAランチを注文していた。
そして水瀬が席に着いたところで、北川が言った。
北川「それじゃ、全員揃ったな」
浩平「おう」
北川「じゃ、食べようか」
そうしてみんな食べ始めた。
その途端、かつん、という音がした。
浩平「ん?」
見ると、真琴がトレーの上に箸を落としていた。
真琴「…」
真琴は空っぽになった自分の手を見つめていた。
浩平「どうした、まだ調子が悪いのか?」
真琴「…うん」
もう一度箸を手にするが、手の中で転がすだけで、まともに持とうとはしない。
真琴「…スプーン取ってくる」
そう言って席を立とうとする。
浩平「ちょっと待った」
真琴「ん?」
浩平「スプーンでそばは食べづらいと思うぞ」
真琴「あ、あう…」
浩平「ちなみにフォークでも厳しいと思う」
真琴「あうぅ…」
浩平「だから」
オレはカレーの皿が乗ったトレーを真琴に差し出して言った。
浩平「お前さえよければ、ここはひとつ、トレードということでどうだ。手はま
   だ付けてないからきれいなものだ」
真琴「…分かったわよ。その話、乗ったわ」
浩平「おう」
こうしてカレーと天ぷらそばのトレードは成立し、無事に物品の交換も完了した。
北川「…」
北川はオレの顔を複雑な表情で見ていた。
浩平「なんだよ」
北川「お前ら、やっぱりいいよな…」
浩平「何がだよ」
北川「そこまでさり気なく熱々なことが出来るなんて、お前らやっぱり本物だ」
気のせいか、涙声に聞こえる。
浩平「べ、別にオレ達はそんなつもりで」
水瀬「自然に出来る、ということがすごいと思うんだよ」
あろうことか水瀬まで同意した。
いや、こいつも元からこうだったかも…。
水瀬「今折原君がしたことは別に恥ずかしがることじゃないと思うよ。何かやま
   しい気持ちがあってしたんじゃないよね?」
浩平「あ、ああ、もちろんだ」
水瀬「だったらそれはやっぱり折原君の優しさなんだよ」
そして水瀬は真琴の方を向いて言った。
水瀬「真琴、いい人見つけたね」
真琴「…うん」
真琴は顔を赤くして頷いた。
浩平「ととととにかく、早く食べないと冷めてしまうぞ」
真琴「う、うん、そうよね」
浩平「…」
オレはそばをすすりながら考えていた。
浩平(見つけた、か)
最初はオレが真琴を見つけた。
そして、真琴がオレを見つけたんだ。
浩平(…これは…偶然じゃなくて必然、運命だったのかもな…)
ふと気がつくと、また北川がオレの顔を見ていた。
北川「…折原」
浩平「なんだ?」
北川「お前、顔赤いぞ。七味でも入れすぎたか?」
浩平「ち、違うっ!」
北川「そうか、違うのか〜♪だったら何でだろうなぁ、何考えてたのかなぁ?」
浩平「うるさいっ、静かに食わせろっ!」
北川「へいへい」

放課後、オレは天野と会っていた。
天野「折原さん。それでは、お話ししてよろしいのですね」
浩平「ああ。大丈夫だ」
天野「では…」
そこで天野は一旦言葉を切る。まるで呼吸を整えているかのように胸に手を当て
る。そして再び口を開いた。
天野「…ものみの丘はご存じでしょうか」
浩平「…ああ」
真琴と一緒に昨日行ったあの丘の名前がそうだというのは知っていた。
浩平「オレ達も昨日、行ったんだ。真冬のピクニックだな」
天野「そうですか…」
天野は何か考えているようだったが、また言葉を続けた。
天野「あの丘には、不思議な獣が住んでいるのだそうです」
浩平「それは…狐か?」
天野「いえ、姿形は狐と全く同じなのですが、不思議な力を持つため、特に妖狐
   と呼ばれるのだそうです」
浩平「妖狐…」
天野「多くの年月を生き長らえた狐が、そのような物の怪となるのだそうです」
浩平「…」
天野「この物の怪が姿を現わした村は例外なく災いを受け、滅びる。そのため、
   古くから災いをもたらすものとして忌み嫌われてきました。現代に至るま
   でです」
浩平「それが…あいつなのか」
天野「…はい。あの子は妖狐。あなたに災いをもたらしに来たのです」
浩平「…災い、か」
オレは真琴との出会いから思い返していた。
浩平「確かに最初はあいつはオレを憎んでた。オレに危害を加えようとさえした。
   だけど、今はむしろ助けられている。あいつを頼りにさえしているんだ。
   災いをもたらすなんてとてもじゃないが信じられないな」
天野「…」
浩平「そもそも、なんであいつはオレの前に現れたんだ。やはり、オレに復讐を
   するためにか?」
置き去りにしたことへの復讐。それなら、オレは甘んじて受けても良かった。
天野「いえ、あの子にはそんな悪意はないでしょう。ただ、折原さんに会いたかっ
   た。それだけです」
浩平「会いたかった?」
天野「はい」
浩平「だけど、あいつはそんなことは覚えてなかったぞ。覚えていたのは、オレ
   への憎しみと、沢渡真琴という名前、そしてものみの丘にいた、というこ
   とぐらいだ」
天野「それは、この奇跡には代償が必要だからなのです」
浩平「奇跡…?」
天野「はい」
確かにこれは、奇跡という言葉でも使わなければいけないほどの出来事だ。
浩平「その奇跡の代償というのが、記憶なんだな」
天野「はい。ですから、あの子は自分がどのような決意でやってきたのかも知り
   ません。今後の運命も知りません。これがこの奇跡の最大の悲劇です」
浩平「今後の…運命?」
天野「…折原さんは今、束の間の奇跡の中にいるのです。そしてその奇跡は、ほ
   んの一瞬の煌めきです」
浩平「ちょっと待て。束の間とはどういう意味だ。一瞬とはどういう意味なんだ」
天野「…この奇跡に必要な代償は記憶だけではないのです」
浩平「まさか…」
天野「はい。命も代償となります。しかし、命を代償にしても、得られる時間は
   ほんの僅かでしかありません。」
浩平「命が代償とはどういうことだ?あいつは死んでしまうのか?」
天野「…いえ。消えてしまうのです」
浩平「消えて…しまう?」
天野「はい。最初からいなかったかのように」
浩平「消える…のか?あいつも消えてしまうのか?」
天野「…はい」
浩平「…」
天野「訪れる別れは、相沢さんがあの子に情を移し…いえ、あの子を愛している
   ほど、辛く悲しいものです」
浩平「…」
天野「それが、あの子のもたらす災い。そして奇跡の幕切れです」
途端、足に力が入らなくなり、オレは雪の上に膝をついてしまう。
そして両手を雪の上につき、白い大地に向かって声を吐き出した。
浩平「そんなの、そんなのどこが奇跡だよ!むしろ呪いじゃないか!」
天野「…」
浩平「そんな力なんか無かったら、あいつは平和に暮らせてたんだ。消えるよう
   なことにはならなかったんだ!オレなんかのためにそんな…。オレのどこ
   に、そんな何があるってんだよ!」
雪を握りしめ、地面に叩きつけた。
天野「…」
浩平「それともこれは罰なのか?自然で暮らしてゆくべきあいつに人の温もりを
   教えたことへの罰なのか?あの丘に置き去りにしたことへの罰なのか?だっ
   たら何でオレじゃなくてあいつに降りかかるんだよ!」
天野「…折原さん…」
浩平「消えるのはオレだけでいい…なんであいつまで消えなきゃいけないんだ!
   …ちくしょう…」
天野「…」
浩平「…」
天野「…」
浩平「…すまない…天野に当たっても仕方のない話なんだよな…」
天野「いえ、気になさらないでください」
そしてオレは、天野に促されるまま体育館裏口の階段に腰をかけた。
天野もオレの隣に座った。
浩平「ごめんな。取り乱してしまって」
天野「いえ、お気になさらず」
浩平「ははは、情け無い話だよな、全く…」
天野「…」
天野はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように口を開いた。
天野「折原さん。ひとつお聞きしてよろしいでしょうか」
浩平「ん?ああ、構わないよ」
天野「『消えるのはオレだけでいい』とはどういうことでしょうか」
浩平「え?はは…そうか、そんなことまで口走ってたのか、オレは…」
天野「差し支えなければ教えていただけないでしょうか」
浩平「…差し支えある、と言えばどうする?」
天野「…」
天野は黙って俺の目を見ているだけだった。
しかしその目は、引き下がるつもりは一切無いことを語っていた。
浩平「…わかった。ただしこの話も負けず劣らずとんでもない話だから、覚悟し
   て聞いてくれよ」
天野「はい」
そしてオレは話し始めた。

先に美坂に話したのとほとんど同じ内容だから、2回目ということもあって、比
較的スムーズに話をすることができた。
天野の方も、心の準備が出来ていたのか、それとも単にこの手の話に抵抗が無い
だけなのかは分からないが、オレの話を静かに聞いていた。
浩平「…というわけだ」
天野「…」
浩平「信じたくなければ信じなくていい。いや、むしろ信じない方がいい」
天野「いえ、信じます」
浩平「そうか…」
オレは少し考えた後、言葉を繋げた。
浩平「だけどな天野」
天野「はい」
浩平「オレのことを話してしまった後でこんなことを言うのも何だが、これ以上、
   オレ達に関わるな」
天野「…え?」
浩平「真琴のことも、オレのことも忘れてしまうんだ」
天野「ですが…」
浩平「初めて天野に会ったとき、オレは言ったよな。昔に大切なものを無くした
   ような、そんな風に見えたと」
天野「…」
浩平「真琴と同じようなヤツを知ってるって言ってたよな」
天野「…はい」
浩平「そいつと…悲しい別れをしたんだな」
天野「……はい」
浩平「だったら、もう一度そんな思いをすることはない。オレ達の悲劇はオレ達
   の中で終わらせる。天野まで巻き込むわけにはいかない」
天野「…」
浩平「これまで、ありがとう」
そしてオレは立ち上がり、天野に背を向け、立ち去ろうとした。
天野「…お断りします」
オレは振り向き、天野を見た。
浩平「何て言った?」
天野はオレをじっと見つめ、きっぱりと言った。
天野「お断りします、と言いました」
浩平「どうしてだ」
天野「…悲しみから目を背けるつもりであれば、最初から折原さんに声をかけた
   りはしません」
浩平「…」
天野「…」
浩平「……つまりそれは、初めから何もかも覚悟の上、というわけだな」
天野「さすがに折原さんの身の上までは予想できませんでしたので、何もかも、
   というわけではありませんが」
浩平「でも今は、何もかも覚悟している、と」
天野「はい」
浩平「…分かった。天野がそこまで言うのなら止めはしない」
天野「はい」
浩平「今後も、真琴のいい友達でいてやってくれ」
天野「はい」
浩平「それから…真琴が居なくなるまではオレも消えないつもりだけど、もし失
   敗してしまったらあいつのことを頼む。辛いとは思うけど…」
天野「私なら大丈夫です」
浩平「そうか…。ま、オレもそんな失敗はしないつもりだけどな」
天野「はい」

図書室に行くと、真琴が拗ねていた。
真琴「遅いわよ!何やってたのよ、もう」
浩平「ごめん、ちょっと掃除当番食らってな」
真琴「ん?」
オレの顔を見ながら怪訝そうな顔をする。
浩平「どうした?目の数でも増えてるか?」
真琴「ううん、何だか疲れたような顔をしてるから…」
げ、顔に残ってたか。何とかごまかさないと…。
浩平「ああ、進路指導の先生にバラ色の未来を示されたからな」
真琴「バラ色の未来?」
浩平「うん。『折原、お前の今の成績ではこの学校は無理だ』ってな」
真琴「全然バラ色じゃないじゃない」
浩平「でもまだ先の話だ。そんなに悲観することじゃないよ」
真琴「ふうん、真琴には良く分からないけど」
浩平「お前は気楽でいいよな。進路なんか考えなくていいから」
真琴「真琴だって考えてるわよぅ」
浩平「ほう、どんな?」
真琴「ふふーん、それはヒミツ♪」
浩平「んー」
オレは目を瞑り、何かを考えるような仕草をした。
真琴「何してるのよ」
浩平「真琴の頭の中を見てる」
真琴「えっ?」
浩平「んー、何だかレースでフリフリのドレスが見えるような…」
真琴「わっわっ、やめてよぅ!」
浩平「ははは、冗談だって」
そう言って真琴の頭を撫でてやる。
浩平「お前の考えてることぐらいお見通し、ってことだ」
真琴「もうっ、浩平の意地悪っ」

商店街の中でオレは真琴に尋ねた。
浩平「手、調子はどうだ?」
真琴「んー」
真琴は手を握ったり開いたりしている。
真琴「やっぱり痛みとか疲れとかは無いんだけど、何て言うか…細かいことをす
   るのは難しいみたい」
浩平「そうか…」
オレは少し考え、言った。
浩平「それじゃ、お前の手が回復するまで、夕飯の支度と片づけはオレがする」
真琴「え?」
浩平「料理の中にお前の指が入ってたらたまらん」
真琴「あうっ、もう少しまともな言い方は出来ないの!」
浩平「あはは、ちょっとブラック過ぎたか」
真琴「思わず想像しちゃったじゃないのよ」
浩平「ごめんごめん」
真琴「もう…それじゃお願いね」
浩平「おう」
そしてオレはとある店に足を向けた。
途端、真琴に腕を掴まれる。
浩平「ん?手を繋ぎたいのか?」
真琴「…浩平、今、どこに行こうとしてたの?」
浩平「いつもの肉まんの店だけど?」
真琴「肉まん、だけ?」
浩平「う」
真琴「一緒に中華惣菜も買っちゃおうかな〜なんて思ったりしてなかった?」
浩平「ううう」
真琴「今日は真琴の代打だから、手を抜くのは別に構わないわよ。だけど、同じ
   店のおかずが続くのは遠慮したいわね」
浩平「…わかりました」

夕食の片づけを済ませ、リビングを覗いた。
浩平「あれ?」
真琴は居なかった。
浩平(いつもなら、ここでテレビ見てるか、マンガ読んでるはずなのに)
そうして由紀子さんの部屋に向かうと、ドアの向こうから『あうーっ』という困っ
たような声が聞こえてくる。
浩平「真琴?」
真琴「あ、あうっ」
浩平「どうした?入るぞ」
真琴「ちょ、ちょっと待って」
そして部屋の中をどたばた走り回るような音がする。
真琴「う、うん、いいよ」
浩平「じゃ、入るぞ」
そしてドアを開け、中に入る。
部屋の中では、真琴がベッドに腰をかけていた。
しかし、どこか様子がおかしい。
浩平「どうした」
真琴「べ、べつに何も隠してないわよ」
浩平「オレは何か隠してるな、と言った覚えは無いんだが」
真琴「あ、あうぅっ」
オレは床の上に座り込み、言った。
浩平「前に言ったよな。ひとりで抱え込むな、って」
真琴「…」
浩平「何を隠してるんだ。怒らないから」
真琴「…」
それでも真琴はしばらく黙っていたが、部屋のすみを指差した。
真琴「あれ…」
浩平「あれ、ってゴミ箱?」
真琴「うん…」
オレはゴミ箱の中を覗いた。
中には、折れた割り箸が何本か入っていた。
浩平「お前…」
恐らく、箸を持つ練習をしていたのだろう。
しかしうまくいかないので、癇癪を起こしてへし折って、そしてまた気を取り直
して練習して、といったところなのだろう。
浩平「気持ちは分かるけど、調子の悪いときにいくら頑張っても、下手をすれば
   余計に悪くなるだけだぞ」
真琴「あう…」
浩平「焦っても仕方ない。のんびり行こう、な?」
真琴「うん…」
浩平「それじゃ風呂でも入ってこい。湯の中で手のマッサージをするのを忘れる
   んじゃないぞ」
真琴「うん」
そして真琴はベッドから立ち上がって、浴室へ向かった。
浩平「…」
しかしオレは落胆のあまり立ち上がれずにいた。
これは予兆だ。人の姿をとり続ける力が失われつつあるんだ。そう直感した。
考えてみれば、字が読めなくなったのも予兆に違いない。
だけど真琴はこのことを知らない。これから先も、何本もの割り箸を折り続ける
のだろう。
そしてこれからも、予兆は現れ続けるのだろう。
だけど…このようなことを真琴に知らせるわけにはいかない。感づかれてもいけ
ない。
だからオレは…。
もう、あいつの前では悲しそうな顔を見せてはいけないんだ。

今日もまた、ぴろを挟んで川の字で1つのベッドで寝ていた。
真琴「浩平…」
浩平「ん?」
真琴「手、握っていい?」
浩平「ああ、遠慮するな」
真琴「うん…」
そして真琴は差し出したオレの手を握った。
真琴「あのね、浩平…」
浩平「ん?」
真琴「…恐いの…」
浩平「恐い?」
真琴「恐い…夢を見るの。ひとりっきりで、真っ暗で、なんにも見えなくて…」
浩平「…」
真琴「音もしないし、何も感じないの。ただ、あたしだけがそこにいるの」
浩平「…」
そこが、真琴が向かわねばならない場所なのだろうか。
天野が言っていたように、この世界から消えたとき、真琴が旅立たなければなら
ない場所なのだろうか。
虚無。
真琴を待ち受けている場所がそのようなところなのだとしたら、オレに一体何が
出来るのだろうか。
自分ひとりのこともままならぬオレに、一体どんなことが出来るというのだろう。
何も出来ない。オレには真琴の運命を変える力など、無い。
だから、せめて…。
そんな場所でも真琴が寂しくならないように…。
ひとつでも多くの想い出を持って行けるように…。
浩平「…真琴」
真琴「ん?」
浩平「…」
だけど、オレにはその一言が言えなかった。
真琴が愛おしすぎて、だから、オレが今しようとしたことは、単にオレの感情を
押しつけるだけのような気がして、言えなかった。
浩平「いや、いい…」
真琴「いいわよ」
不意の真琴の言葉にオレは驚いた。
浩平「いいわよ、って、何が?」
真琴「…もう、女の子にそこまで言わせる気?」
浩平「まさか…」
真琴「何言ってるのよ、浩平が考えたことでしょ」
浩平「良く分かったな」
真琴「だって、息づかい聞こえるから…」
浩平「あ…」
真琴「そこまで息が荒くなってたら、なに考えてるかぐらい分かるわよ」
浩平「う…。まさかこんな時まで真琴に先手取られるとは…」
真琴「うふふ。その代わり、浩平がリードしてね」
浩平「分かったよ。それじゃ…」
真琴「うん」

浩平「ぬぎぬぎー。ほうら、よいではないか、よいではないか〜」
真琴「あーれーご無体なー、って何言わせるのよ!」
浩平「やっぱり帯をくるくるーって巻き取るのでないと雰囲気出ないな…」
真琴「どんな雰囲気よっ!というか、いきなり何でギャグに走ってるのよ!」
浩平「いや、やっぱりその…シリアスなままだと間が持たないというか…」
真琴「何よそれ…」
浩平「それでは気を取り直してもう一度」
真琴「ってわざわざ着せてどうするのよっ!」
浩平「いや、やり直すわけだから…」
真琴「別にいいわよ、もう」
浩平「それじゃ、このままで」
真琴「もう…」
浩平「…ほー、いい胸してるな、お前…」
真琴「ほ、ほっといてよぅ」
浩平「いや、一応褒めてるんだけど…」
真琴「あうぅ…」
浩平「しかしこういうのを見てると、こーんなふうにふにふにしたり、こーんなふうに
   びろーんとひっぱったりしたくなる…」
ばきっ!
真琴の肘がオレの脳天に突き立っていた。
浩平「…痛い…」
真琴「思い切りやっちゃってるじゃないのよぅ!」
浩平「いいじゃないかよぉ、減るもんじゃなし…」
真琴「減らなくてもイヤよ!」
浩平「いや、あまりにもいい形だったから、つい…」
真琴「今さらフォローしても遅いわよっ!」
浩平「…」
真琴「な、なによ」
ぺろぺろっ。
真琴「きゃっ」
ちぅー。
真琴「ふあっ」
もみもみっ。
真琴「はうっ」
ぺろぺろっ。ちぅー。もみもみっ。ぺろぺろっ。ちぅー。もみもみっ。
真琴「あうーっ、やめてよー」
浩平「ふぇっふぇっふぇっ、嫌よ嫌よも好きのうち、と言うてのう…」
真琴「あうぅ…浩平がスケベオヤジになっちゃったよぅ…」
浩平「…と、遊ぶのはこれくらいにして」
真琴「あたしの胸で遊ばないでよっ!」
浩平「…」
ぴと。
浩平「…」
真琴「何してるの?胸に耳なんか押しつけて」
浩平「真琴の心臓の鼓動を聴いてるんだ…」
真琴「えっ…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「……くー」
ぽかっ。
真琴「寝ないでよ!」
浩平「あう…ひどいよママン…」
真琴「誰がママンよっ!」
浩平「いや、心地が良くて思わず…」
真琴「それでも寝ないでよぅ」
浩平「分かった分かった…。じゃ、次は、と」
真琴「今度はなに?」
浩平「おーぷんせさみ♪」
真琴「わっ!いきなり両膝持って何するのよ!」
浩平「いえ、この間の方にご用がありまして…」
真琴「あうぅ…」
浩平「さて、取り出しましたるはこの人差し指一本。この指を…」
真琴「え?」
すり。
真琴「きゃ」
すりすり。
真琴「きゃうっ」
浩平「続きまして、この親指をお仲間に加えまして…」
真琴「…その変な前口上やめてよう」
浩平「まぁまぁ、そうおっしゃらず…」
むにゅ。
真琴「うひゃ」
むにゅむみゅ。
真琴「うきゃっ」
浩平「…ん、こんなものかな」
真琴「あう…」
浩平「それじゃ、この邪魔っけな布っきれを除けて、と」
真琴「あうぅ…」
浩平「………うわ、べとべと…」
ごきっ。
真琴の両膝が側頭部に直撃していた。
浩平「あつぅ…率直な感想を言っただけなのに…」
真琴「そんな恥ずかしいこと言わないでよ!」
浩平「いいじゃないかよぅ…。それじゃ、この糸の引いた美味しそうな所をひ
   とつ…」
真琴「何だか納豆みたいでイヤぁ」
浩平「真琴、納豆嫌いだったっけ?」
真琴「そうじゃない、そうじゃないけど…」
浩平「んー?じゃ、いただきます」
真琴「えっ?」
ぺろ。
真琴「ひゃん」
ぺろぺーろ。
真琴「ひゃひゃ」
ぺろぺーろぺろ。ちゅ。
真琴「ひゃ、あぅっ」
むにゅー。
真琴「あ、あうーっ…」
浩平「…と、ごちそうさまでした」
真琴「はぅぅ…いきなり何するのよぅ…」
浩平「下準備だよ」
真琴「下準備?」
浩平「そ」
真琴「じゃ、じゃぁ…」
浩平「…ああ」
真琴「…」
浩平「……覚悟はいいか?」
真琴「も少しムードのある言い方は出来ないの?」
浩平「悪かったな、これが精一杯なんだよ」
真琴「はぁ…いいわよ」
浩平「それじゃ、行くぞ」
真琴「…うん」
浩平「…」
真琴「………っ」
浩平「大丈夫か?」
真琴「だ、大丈夫よ…」
浩平「無理はするなよ。ダメだったら言ってくれよ」
真琴「う、うん。分かってるわよ」
浩平「そうか…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…あっ」
浩平「ホントに大丈夫か?」
真琴「大丈夫、って、言ってるでしょ」
浩平「わ、悪い…。それじゃ行くぞ」
真琴「うん…」
浩平「…っ」
真琴「…くはっ…」
浩平「……」
真琴「…はーっ、はーっ、はーっ…」
浩平「…」
真琴「…ふぅ…な、なんとか大丈夫よ…」
浩平「………じゃあ、動くぞ」
真琴「い、いいわよ」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…っ」
浩平「お、おい…」
真琴「だから大丈夫だって言ってるでしょ。何度も言わせないで」
浩平「ごめん。もう聞かない」
真琴「うん…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…浩平?」
浩平「ん?」
真琴「どしたの?泣いてるよ」
浩平「…あれ、ほんとだ」
真琴「どうしたの?」
浩平「あはは、分かんないや」
真琴「分かんない?」
浩平「ああ。…もしかしたら、気持ち良すぎてかもな」
真琴「ば、ばか、何言ってるのよぅ」
浩平「はは…。冗談だよ」
真琴「変なこと言わないでよ」
浩平「うん。多分これは…嬉し泣きだと思う」
真琴「嬉し泣き?」
浩平「そう。やっと真琴とひとつになれた、って」
真琴「は、恥ずかしいこと言わないでよ」
浩平「ご、ごめん…」
真琴「…でも、真琴にはそうは見えない」
浩平「え?」
真琴「何だか…悲しそうに見える」
浩平「悲しそう?」
真琴「うん。何となくだけど、そう思った」
浩平「気のせいだって」
真琴「うーん、何か心当たりある?」
浩平「無いよ。全然」
真琴「ふーん、なら、やっぱり真琴の気のせいかも」
浩平「だからそう言ってるじゃないか。では!」
真琴「な、なに?」
浩平「なに、って、続きだよ、っと」
真琴「きゃっ」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「え、えーと、そ、そろそろ、限界、かも…」
真琴「そ、そうなの?」
浩平「あ、ああ」
真琴「じゃあ、どうぞ」
浩平「どうぞ、ってお前…」
真琴「じゃあ、何て言えばいいのよ」
浩平「思いつかない」
真琴「何だっていいじゃない、そんなの」
浩平「そうだな…」
真琴「そうよ…」
浩平「それじゃ…」
真琴「うん…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…くっ、ま、真琴!」
真琴「あ、あうっ、こ、浩平!」
そしてオレは全てを解き放った。
真琴が旅立った後でも、オレと過ごした日々が真琴の中に残り続けるよう、そん
な願いを込めて。

真琴「あーあ、これじゃ出来ちゃうよ…」
浩平「嫌か?」
真琴「嫌じゃないけど…」
浩平「……真琴?」
真琴「あれ?…あはは、何でだろ。涙が…止まらないよ…。嬉しいはずなのに、
   何でこんなに悲しく感じるんだろ…」
浩平「…」
真琴は、知ってるのかもしれない。
必要な時間は、10ヶ月。
しかし、自分に残されている時間は、全くそれには届かないということを。
真琴「あれ、浩平?…また…」
浩平「…ああ…またみたいだ…」
真琴「…馬鹿みたいよね、あたしたち。こんなことして、それなのに、ふたりし
   て泣いて…」
浩平「…似た者同士だよな…」
真琴「……いいじゃない、それで」
浩平「そう…だな」
オレは真琴の手を取り、身体を引き寄せ、抱きしめた。
真琴「…浩平?」
浩平「…」
真琴「…痛いよ浩平、そんなに強く抱きしめないでよ」
浩平「ごめん、だけど、もう少し…」
真琴「…分かったわよ。その代わり、真琴も…」
そう言うと真琴はオレの背に手を回し、同じようにオレを抱きしめた。
浩平「ああ、遠慮なくな…」
真琴「うん…」
その後、オレ達はお互いに抱きしめ合い、ふたり一緒に、涙の限り泣いた。
どちらも、もう理由は問わなかった。

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