[前日へ]
[一覧へ]
[翌日へ]


★1月21日 木曜日★
目が覚めた。
目覚まし時計を見ると、アラームが鳴るまでにはまだ少し時間があった。
だから、オレは真琴の寝顔を眺めていた。
愛しいひと。
だけど、他の感覚も自分の中にはあった。
それが何かは分からない。
手を伸ばしても、触れた途端に崩れてしまう。
いや、オレはその感覚を知っているのかもしれない。
ただ、それを受け入れたくないだけなのかもしれない。
全ての始まりは今月初めのあの出会いからだと、そう思い込みたいだけなのかも
しれない。
そう思い、ふと時計を見ると、あと僅かで鳴りそうな時間だった。
だから、オレは反撃に出た。

真琴「…」
むすっとした顔をしながら、真琴はトーストを食べていた。
浩平「どうした?今日は調子が悪いのか?」
真琴「違うわよぅ」
浩平「だったらどうしてそんなに不機嫌そうなんだ?」
真琴「だって…」
オレには真琴が不機嫌な理由は分かっていた。
浩平「そう毎日毎日起こされるわけにはいかないからな」
真琴「あう…」
浩平「でも手荒には扱わなかっただろ?」
真琴「起きたらいきなりテーブルにいたら、誰だってびっくりするわよぅ」
浩平「それはそうかもしれないけど」
あの後オレは、真琴を起こさないようにして抱き上げて、テーブルの席まで運ん
だのだった。
浩平「でも本当は、寝てる間にされたのが気に入らないだけだったりしてな」
真琴「何よそれ」
浩平「それはこういうことですよ、お姫様」
そう言ってオレは真琴の席の後ろに立ち、トーストを持った真琴をそのまま持ち
上げて抱き上げた。真琴の軽い体では簡単なことだった。
浩平「これでご満足いただけましたでしょうか、姫様」
真琴「わわっ、何するのよぅ!」
浩平「ささ、姫様はお気になさらず、そのままお召し上がりください」
真琴「あぅー…」
真琴はそれでもしばらくは唸っていたが、しぶしぶトーストを食べ始めた。
そしてオレは、真琴の体重を両腕に感じながら、えもいわれぬ感覚に浸っていた。
真琴「…何か変なこと考えてるでしょ」
浩平「と、とんでもない」
真琴「だったら何でそんなにぽわーっとした顔してるのよ」
浩平「ぽわー?」
真琴「そうよ」
浩平「いや、何となく、幸せだなぁ、って」
変に誤解されるのも嫌なので、ここは正直に答えることにした。
真琴「…だったらいいけど」
すると、真琴は何かを思いついたのか、にやにやしながらオレに言った。
真琴「それじゃあねぇ」
浩平「ん?」
真琴「今日はこのまま登校してね」
浩平「え?え?」
真琴「お願いするわよ」
浩平「ちょ、ちょっと待った!それはさすがに目立ち過ぎる!」
真琴「恥ずかしいの?」
浩平「それも有るけど、真琴はこっそり学校に通ってるんだから、学校側に知れ
   るような危ないことは出来ないって」
真琴「あう…分かったわよぅ。その代わり、玄関まではお願いするわね」
浩平「おう、任せとけ」

学校に着いて、真琴と一緒に図書室に向かうと、ドアの前に天野が居た。
天野「おはようございます」
浩平「ああ、おはよう。…ところでちょっと時間いいか?」
天野は少し考えた後、答えた。オレが何をしようとしているのか察したのだろう。
天野「…かまいません」
浩平「それじゃ」
オレは真琴の肩に手を乗せた。
浩平「こいつが前に言っていた沢渡真琴」
真琴がおどおどと天野に会釈する。
天野は無表情のまま会釈を返した。
浩平「見た目は可愛いが中身は凶暴…」
真琴がオレを見つめている。右手を握りしめて。
浩平「…というのは冗談で、中身も可愛い」
天野はこんなオレ達のやり取りを見て、少し微笑んだようだ。
浩平「とにかく悪いヤツじゃないのは保証する。もっとも、オレの保証がどの程
   度信頼できるかは知らないけどな」
しかし天野は静かに言った。
天野「十分信頼できると思います」
浩平「そうか、それはどうも…」
オレは頬を掻いた。
そして今度は天野を指し示しながら言った。
浩平「彼女は天野美汐。見た目はおばさんくさいが中身もおばさんだ」
オレがこう言うと、さすがに天野はちょっとむっとしたようだ。
天野「もう少しまともな紹介はできないのですか」
浩平「こういう性分だからな。とにかく、物腰が上品な女性だ」
天野を見ると、不機嫌な顔は治まっている。
今度の紹介には満足したようだ。
そして天野は真琴に微笑みかけて言った。
天野「よろしくね」
真琴「あ、あぅ…」
真琴はまだ戸惑っているようだ。オレの服にしがみつくようにしている。
天野の静かな物腰が、真琴には相手が何を考えているのか分からないように映る
のだろうか。
だからオレは安心させるために言った。
浩平「大丈夫だって。天野はオレみたいに意地悪じゃないから」
真琴「それってあまり参考にならないんだけど」
浩平「そ、そうかな」
天野はオレ達のやり取りを見て微笑んでいた。
そんな天野を見て、真琴もようやく安心したようだ。
天野は真琴に話しかける。
天野「美汐と呼んでね」
真琴「みしお?」
天野「そう、美汐。あなたを真琴と呼んでいいかしら」
真琴はしばらく考え、答えた。
真琴「…うん」
何やら嬉しそうだった。
天野「それじゃ、このあと一緒に本でも読みましょうか」
浩平「え?授業はどうなってるんだ?」
天野「先生がお休みだそうで、自習です。朝のホームルームには出ないといけま
   せんが」
浩平「教室から出てても大丈夫なのか?」
天野「はい。むしろ、図書室の資料を使って調べものをしなければいけないので」
浩平「そうなのか…」
教師にも色々いるものだと思った。
浩平「それじゃ、天野、真琴を頼むよ」
天野「はい」
浩平「真琴、天野を困らせるんじゃないぞ」
真琴「そんな子供じゃないわよぅ」
浩平「ははは、そうだったな」
そう言って真琴の頭を撫でてやり、オレは自分の教室に向かった。

昼休み。図書室に真琴を迎えに行ってみると。
真琴「…あうー」
真琴は唸っていた。
いつもの通り、真琴の座っている席には何冊もの本が積み上げられていた。
しかし、ほとんど読まれた形跡がない。
真琴の方を見ると、これまでならすらすらと読み進み、スムーズにページをめくっ
ていたのだが、今日は同じページで固まっていた。
浩平「どうした?何か難しい問題にでもぶつかったか?」
だけど真琴が読んでいる本は古典文学だから、そんな筈はなかった。
浩平「それとも、作者の書き方が下手っぴで読み解くのに時間がかかってるとか」
真琴「そんなんじゃない…と思う…」
真琴の様子が何だか妙なので、オレは思わず天野の姿を捜した。
しかし、居ない。
どうやら自習は1時間目だけのようだった。
仕方なく時計を見てみると、昼休みは既にかなり浸食されていた。
浩平「ま、とにかく。昼食を食べに行かないとな。腹が減っては本も読めない」
真琴「浩平、それ何だか違うわよ…」
浩平「いいじゃないか。意味はそれほど間違ってないだろ」
真琴「それはそうだけど…」
浩平「それじゃ、行こう」
真琴「うん」

浩平「ところで、天野はどんな感じだった?」
Aランチを食べながら、オレは真琴に尋ねた。
真琴「どんな感じ、って言われても…。普通の女の子としか答えようが無いわよ」
同じくAランチを食べながら真琴は答えた。
浩平「そう?」
真琴「うん。ちょっと物静かで控えめな感じはするけど、でも、特別変わってる、
   ということは無かったわね」
浩平「お前に変わってる、なんて言われたら、普通の子ならショックを受けて寝
   込んでしまうだろうな」
真琴「どういう意味よそれ」
浩平「はは、冗談だって」
真琴「もう…」
しばらく真琴はまた黙々と食べていたが、ふと思い出したように言った。
真琴「でも…気のせいかな?」
浩平「何が?」
真琴「真琴と美汐が会ったのって、今日が初めてよね?」
浩平「そうだな。以前からお前の話はしてたけど、実際に会ったのは今日が初め
   てだな。間違いない」
真琴「そうよね…」
浩平「どうした?」
真琴「うん…気のせいかも知れないけど、時々真琴のこと、昔から知ってるよう
   な話し方をするときがあるの」
浩平「それは多分、あいつの知り合いに真琴に似たヤツがいたからじゃないかな」
真琴「真琴に似た?」
浩平「そう。あまり詳しくは聞いてないけど、性格とか行動パターンとかが似て
   たらしいぞ」
真琴「ふーん、そうなんだ。案外、真琴の親戚とかだったりして」
浩平「いくら何でもそれは話が出来すぎだろ」
真琴「あはは、そうよね」
ここでふと、オレはあることに気付き、箸を止めた。
浩平「なぁ真琴…」
真琴「なに?」
浩平「昨日、オレの方から話を振っておきながらこんなこと言うのも何だけど…」
真琴「ん?」
浩平「記憶喪失のことを話題にしても、お前、何ともなくなったな」
真琴「…」
真琴も箸を止めた。
浩平「…強く、なったんだな…」
真琴「……そんなこと無いよ。真琴は変わってない。変わったとすれば…、浩平
   をそばに感じるようになった、というところかな」
浩平「真琴…」
テーブルを挟んで、黙って見つめ合う二人。
場所が学食でなかったら、このまま抱き合ってしまいそうな雰囲気だった。
しかしこの雰囲気は無遠慮な言葉でぶち壊された。
北川「へいへいお二人さん、こんな公衆の面前で何いいムード作ってますかぁ?」
浩平「き、北川!」
水瀬「私もいるよ」
真琴「名雪…」
浩平「お前らいつの間に…」
北川「ちゃんと声かけたぞ」
水瀬「うん。だけど全然気付かなかったんだよ」
北川「お前ら、自分らの世界に入りすぎ」
浩平「ぐ…」
オレは無理矢理にでも話をすり替えようとした。
浩平「そ、そういえば、相沢と美坂は?」
水瀬「祐一なら中庭だよ。香里は分からないけど」
浩平「中庭か…」
まだあの子と会っているんだろうか。
北川「ともかく、いちゃいちゃしたいんだったら場所を選んだ方がいいぞ」
話題を引き戻されてしまった。
水瀬「そうそう。目立つと困るのは折原君たちなんだからね」
確かにそうだ。オレはともかく、真琴が目立つとまずい。
浩平「アドバイスどうも…」
北川「それと」
浩平「まだ何かあるのか?」
北川「あと少しでチャイムだけど、それ、全部食べきれるのか?」
浩平「ん?」
北川の指差す方を見ると、まだ半分近く残ったAランチがあった。
真琴の方も同じくらい残っていた。
北川「じゃ、がんばれよ、色んな意味で」
水瀬「ふぁいと、だよ」
そしてまた、オレ達二人が残された。
浩平「…」
真琴「…」
浩平「…っと、呆けてる場合じゃない、片づけないと」
真琴「そ、そうよね」
後はもう、味なんか感じなかった。
せっかくのイチゴムースが…。

放課後、図書室に行くと、やっぱり真琴が唸っていた。
真琴「…あうぅー」
浩平「…」
だけどオレは何も聞かなかった。
案外、本の読み過ぎで頭の中が飽和状態になってるだけかもしれない。
真琴「…浩平」
浩平「ん?」
真琴「いま、失礼なこと考えてたでしょ」
浩平「か、考えてない考えてない」
真琴「ほんとに?」
浩平「ほんとだって」
真琴「それならいいけど」
浩平「とにかく、今日はあの丘に行くんだろ?早くしないと日が暮れてしまうぞ」
真琴「うん」

浩平「ところで」
真琴「ん?」
浩平「あの丘への道って、こっちで良かったっけ?」
ちなみに今は商店街の中だ。
真琴「ううん」
浩平「それじゃなんでここ通ってるんだ?」
真琴「決まってるじゃない。いつもの店で肉まん買うの」
浩平「肉まん?」
真琴「そうよ。春ならバスケットいっぱいのサンドウィッチ。だけどまだ冬だか
   ら、肉まん」
浩平「お前…あの話、真に受けてたのか」
真琴「うん。ピクニックでしょ?」
浩平「…まぁ、いいけどね」

真琴はオレを導くように数歩先を歩いていた。
商店街は夕焼けで赤く染まっていた。
赤い建物、赤い雪、赤い道、そして赤い空。
オレは空を見上げる。
あの赤い空の向こう。
そこに、もうひとりのオレが居るのを感じる。
そしてその場所に、オレは向かおうとしている。
たったひとりで。
大事な人を置き去りにして。
浩平「…真琴っ」
オレは思わず声を出していた。
真琴は振り返ると首をかしげ、オレの瞳をじっと見つめた。
浩平「いつまでも…いつまでも変わらず居てくれよな。ずっとオレのそばにいて
   くれよな…」
真琴「…それって、真琴の記憶が戻って欲しくない、ってこと?」
浩平「え?えっと、それは…」
真琴「あはは、冗談よ。真琴はずっと浩平のそばにいる。たとえ記憶が戻っても、
   浩平を忘れたりなんかしないわよ」
浩平「そうか…」
オレは溢れてくるものを真琴から隠すために、また空を見上げた。
だけどそれは、やはりそこにあった。
真琴のそばからオレを連れ去るもの。
真琴との間を引き裂くもの。
過去の盟約が作り出したもの。
オレは初めて、過去の自分を呪った。

いつもの店で肉まんを買うと、オレ達はあの丘へ向かう道を歩いていた。
真琴「今日も浩平、あと少しで他のも買うところだったわね」
浩平「だってよぅ、あんなに美味しそうなの、放っておけないよ…」
真琴「はいはい。あの店は逃げないんだから、また今度買いましょうね」
浩平「うん…」

浩平「しかし…この道はピクニックには向いてないぞ」
真琴「でも、ピクニックって言い出したのは浩平でしょ」
浩平「そりゃそうだけど…」
オレ達は、木々の中の細い道を歩いていた。
道は緩やかな坂になっていた。
浩平「真琴…足元滑るから気を付けろよ」
真琴「うん…きゃっ」
浩平「え…うわっ」
オレは突き飛ばされ、真琴の下敷きになって地面に倒れていた。
浩平「いつつ…真琴、大丈夫か?」
真琴「う、うん」
浩平「肉まんは?」
真琴「えと…うん、無傷」
浩平「良かった。それじゃ、行くぞ」
真琴「ちょっと待ってよ。浩平は?」
浩平「オレ?ああ、少しコートに泥が付いただけだ。ほら」
そう言ってオレはコートをぱんぱんと叩く。
浩平「これで取れた。じゃ、行くぞ」
真琴「…うん」
浩平「あ、そだ」
真琴「なに?」
浩平「ほら、手を出して」
オレは真琴に手を差し出した。
浩平「繋いでてやるから。いきなり後ろから押し倒されたらたまらん」
真琴「うん…」
そしてまたオレ達は歩き出した。

そのうち木々もまばらになり、開けた場所に出た。
見覚えのある場所。
しかし、数日前に訪れただけの場所とは思えない。妙に見慣れている気がするの
は何故なんだろう。
いや、やはりオレはここを知っている。数日前からじゃない、ずっと前からだ。
オレがこんなことを考えていると、真琴は丘の風景を見ながら、呟くように言っ
た。
真琴「真琴、ここを知ってる。家なんて無いのに…ずっと長い間、ここに住んで
   たような気がする」
浩平「そうか…」
ふと、真琴の目線がある一点で止まる。
真琴「あっ!」
その一点目掛けて真琴が駆け出した。
浩平「おい、危ないぞ!」
オレも真琴を見失わないように後を追った。

茂みの中に開けた小さな広場に、真琴は立ちつくしていた。
真琴「…」
浩平「まこ…と?」
真琴「…」
真琴は凍り付いたように、その場所を見ていた。
しかしその目は、今ではなく、過去を見ているようだった。
ちょうど、今オレが、同じように過去の光景を見ているように。
一度は否定し、そして昨日甦ったあの仮説が、更に一層、その形をはっきりさせ
始めていた。
そう、オレは真琴と過去に出会っていたのだ。
まだ幼い頃に。
そしてこの場所は…。
真琴「…」
真琴の瞳から、涙がこぼれようとしていた。
この場所は、あの時の別れの場所だ。
オレの元から去るよう促したのに、あいつは去ろうとしなかった。
だから、オレがこの場所から立ち去った。あいつを置いて。
そんなオレの背中を、あいつはいつまでも、いつまでも見つめ続けていたんだ。
真琴「あのね…」
真琴が俯きながら呟いた。
真琴「…」
しかし次の言葉が出てこないようだった。
浩平「真琴…?」
めきょっ。
真琴の左フックがオレの顎先を捕らえていた。
浩平「あぐ…」
真琴「ごめんなさい、今回は勘弁して!ここを見てたら何だかむかついて…」
浩平「いや、それはいいんだけど…。最高の…パンチだったかな、と…」
オレは親指を立てて真琴を賞賛した。
そしてそのまま視界が暗転した。
………。
……。
…。
歌が聞こえる。
歌詞はないけれど、懐かしいメロディ。
オレは目を開いた。
目の前に、真琴の胸と顔が見える。
真琴に膝枕してもらっているようだった。
浩平「…歌ってるの、真琴か?」
真琴「うん」
歌いやめて、真琴が頷く。
浩平「その歌、知ってるのか?」
真琴「うん、何となく。何て名前の歌なのか知らないし、歌詞も知らないんだけ
   どね」
浩平「…それ、アニメソングだぞ」
真琴「ええっ!そうなの?」
浩平「でも、小さい頃に大好きだった歌なんだ」
真琴「そう…」
そう、オレが小さい頃よく見ていたアニメの主題歌。
好きだったから、あいつと一緒にいるときはいつも歌ってた。
自転車の前かごにあいつを乗せて、走りながら歌ってた。
真琴「でもこの歌、曲の感じからすると女の子向けアニメの歌だったんじゃない?」
図星だった。
浩平「ぐ…好きだったんだからいいじゃないかよぅ」
真琴「真琴は別に悪いとは言ってないわよ」
浩平「それに…」
真琴「?」
浩平「…嫌なことまで思い出したじゃないか」
真琴「どんなこと?」
浩平「これ歌ってるの同級生に聞かれて、『折原は男のくせに女のアニメ見てる』
   って言われてからかわれたんだよ」
真琴「それでどうしたの?」
浩平「ムキになって、もっと歌ってやった」
真琴「浩平って、小さい頃から意地っ張りだったんだね」
浩平「こればっかりは生まれつきの性分なんだろうな…」
真琴「…」
浩平「真琴」
真琴「なに?」
浩平「…もっと歌ってくれないか?」
真琴「うん、いいわよ」
オレは真琴の歌を聴きながら、そのまま眠りに…。
真琴「…浩平、浩平」
浩平「んあ?」
真琴「こんなところで寝たら風邪引いちゃうわよ」
浩平「あ?あぁ…そうだった」
まだ丘に居ることをすっかり忘れてしまっていた。
真琴「なんというか、真琴の歌と膝枕が気持ちよくてな…ふわ〜あぁぁ…」
オレは起きあがり、延びをした。
浩平「しかし…」
顎をさすってみた。まだ少し痛む。
浩平「いいパンチだったよなぁ…。世界も狙えるんじゃないか」
真琴「ご、ごめんなさい」
浩平「とりあえず理由を聞かせてくれ。別に怒らないから」
真琴「…あのね、この場所を見てると、何だかむかついたの」
浩平「それは…聞いたと思う」
何となく記憶が混乱している気がするが…。
真琴「ここで、ものすっごくイヤなことがあったような気がしたから…」
浩平「イヤなこと…か」
確かにそうに違いない。
置き去りにされたら、捨てられたら、誰だってイヤだろうから。
例えそれが、何者であったとしても…。
真琴「あう…寒いね…」
真琴の言葉でオレは現実に引き戻される。
浩平「ああ…」
ふと、目の前を白いものが舞い落ちるのが見えた。
浩平「げ、雪じゃないか」
真琴「そうね…」
見上げると、いくつもいくつも、舞い落ちてきていた。
浩平「こりゃ本降りになりそうだ。雪だるまになる前に帰らないと」
真琴「急がないとね」
浩平「そうだな」
立ち去る寸前、オレは振り返り、その場所を見た。
そこに佇む幻。オレが置き去りにしたものの形。
ちりん。
また、あの澄んだ音が聞こえた。

今日の夕食当番は真琴。
そういうわけで、家に帰ると大騒動が始まった。
以前に比べると腕は上達しているはずなのだが、オレの手伝いが必要なのは相変
わらずだった。
そして何とか料理が出来上がり、二人してテーブルにつく。
真琴「これがあたしの実力なんだから」
浩平「で、この料理のうち何割がお前の実力だ?言ってみろ、ん?」
真琴「うっさいわねぇっ」
半分以上はオレが手伝っていたような気がする。
真琴「とにかく食べましょ。冷めちゃうともったいないわよ」
浩平「そうだな」
見た目は平均点以下だけど、味は合格ラインだったのは有り難かった。
浩平「これで味もアウトだったら救われないな」
真琴「何か言った?」
浩平「いえいえ、何でもございません」
そしてオレ達は食事を始めた。
しばらくすると、ふと、真琴が箸を止めた。
真琴「…浩平」
浩平「ん?」
真琴「真琴が………」
真琴はそこで言い淀む。
浩平「…?」
真琴「ううん、やっぱりいい」
浩平「どうしたんだよ。お前らしくもない」
真琴「気にしないで」
浩平「…まぁ、お前がそう言うならいいけど。でも、あまりひとりで抱え込まな
   いでくれよ」
真琴「え?」
浩平「まぁ何というか…オレがそばにいる意味が無くなる。お前の悲しそうな顔
   を見るのは辛い。…挙げていったらきりがないからこれくらいにするけど」
真琴「…うん、わかったわよ」

オレが洗い物を済ませてリビングに入ると、真琴は寝転がってマンガを読んでい
た。
真琴「あ、浩平。待ってたのよ」
そう言うと真琴は起きあがり、床の上に座る。
浩平「待ってた?」
真琴「うん…」
浩平「どうしたんだ?」
真琴「あのね…」
そう言って真琴はオレに読んでいたマンガを差し出した。
浩平「これをどうするんだ?」
真琴「…読んで」
浩平「オレがこれを?まぁ、少女マンガも嫌いじゃないけど…」
真琴「あ、そういう意味の『読んで』じゃなくて…」
浩平「ん?」
真琴「…朗読して欲しいの」
浩平「朗読?何でまた?」
真琴「………」
真琴は俯いてしまった。
浩平「お、おい…」
真琴「…字が…」
浩平「字?」
真琴「うん…字が…読めないの…」
浩平「何だって?」
真琴「分かんない…。全部が全部じゃないけど、読めない字があるの…」
そんな馬鹿な。真琴は学校の図書室の本を平気で読んでたはずだ。
それも高校まででなく、大学の教科の本まで手を出していたはずだ。
なのに、こんな少女マンガの字が読めないなんて…。
浩平「それは、今日からなんだな」
真琴は頷いた。
つまり、今日図書室で唸っていたのはこれが理由ということか。
原因は分からない。だけど、真琴はそのために悩んでいる。
だったらオレの選ぶべき道はひとつだ。さっきの食卓での誓い通りに。
浩平「分かった。ただし、森本レオの声でお願い、とかいう注文は無しにしてく
   れよ。物まねはそれほど上手くないんだ」
オレが出来るのは長森の物まねぐらいだ。
真琴「うん。浩平が読んでくれるならそれでいいの」
浩平「そうか…。それじゃ読むぞ」
そしてオレは床に肘をついて寝そべった。
真琴もオレの隣に同じように寝そべった。
浩平「えっーとまずは、タイトルからな。『恋はいつだって唐突だ』」
真琴「うん」
浩平「…なんか昔、よく似た名前の歌、無かったっけ?」
真琴「そだっけ?」
浩平「えーっと、あれは確か『唐突』じゃなくて『突然』で…。ま、いっか」
真琴「そうそう、次いきましょ」
浩平「はいはい」
こうしている間、オレはあることを思い出していた。
オレがこうやって寝転んで本を読んでいるそばで、あいつも一緒に寝転んでいた。
時々、声に出して本を読んでやったこともあったと思う。
浩平「…」
真琴の頭を撫でてやる。
真琴「わ、なに?」
浩平「いや、何となく、つい」
真琴「もう、タイトルから全然進んでないじゃないの」
浩平「ごめんごめん、次から真面目に読むから」
真琴「ちゃんとしてよね」
浩平「はいはいはい」
真琴「『はい』は1回っ」
浩平「はい」
そして、ふたりで1冊のマンガを読み進めていった。
………。
……。
…。
浩平「『わかった。絶対に迎えに来るから』
   『そのときはふたりで一緒になろう。結婚しよう』
   『それまで…さようなら』」
真琴「…」
浩平「…」
…オレがあの世界に連れ去られようとするその時。
オレは真琴に、このマンガのように言えるのだろうか?
いつか必ず戻ってくると、迎えに来ると…。
真琴「…浩平、浩平っ」
浩平「…ん?ああ、ごめん」
真琴「どうしたの?ぼーっとして」
浩平「いや、ちょっと感動してたみたい」
真琴「ふーん、浩平でも感動するんだ」
浩平「どういう意味だよ、それ。そう言う真琴はどうなんだ」
真琴「もちろん感動したわよ。とってもいいお話だったぁ…」
浩平「そうか…」
真琴「…ねぇ浩平、結婚ってどんな感じか分かる?」
浩平「ん?結婚か…。良く分からないな」
真琴「どうして?」
浩平「んー、父さんは小さいときに死んじゃったし、母さんも小さいときに居な
   くなったからな。夫婦の生活というのがどういうものか全然知らないんだ」
ふと、真琴が赤くなって目を伏せているのに気付く。
真琴「…ご、ごめんなさい。何も知らずにこんなこと聞いて…」
浩平「あ、いいよいいよ別に。もうずっと昔のことだから気にしなくていいって。
   真琴だって悪気があって聞いたわけじゃないんだし」
真琴「う…ん」
自分の振った話題で真琴の元気がなくなったので、オレは何とかして元気づけて
やりたいと思い、話題を振り替えた。
浩平「それで、真琴は結婚についてどう考えてるんだ?」
真琴「え?えっと…真琴も良く知らないから、憧れてるだけなんだけどね」
浩平「憧れか…」
真琴「うん」
浩平「しかし結婚って言ってもお前、身元不明のままじゃ籍も入れられないじゃ
   ないか」
すると真琴はむっとしてこう言った。
真琴「もう、浩平って変なところで現実的なんだから」
浩平「これがオレの性分だからね。だけど…」
真琴「ん?」
浩平「逆に言えば、身元さえ何とかすれば籍の方も何とかなる、ってことだから」
真琴「そんなこと出来るの?」
浩平「うん。ちょっと色々手続きとか有るみたいだけどね」
真琴「ふーん。それじゃ真琴達も…」
浩平「そうだな。ただちょっと年齢が足りないみたいから、あと1年は待たない
   とダメだろうけど」
真琴「あぅ…」
浩平「ま、でも」
オレは真琴の頭に手を乗せて言った。
浩平「お前はまだ若いんだから、1年なんてあっという間だ」
真琴「なんか年寄りじみた言い方ね」
浩平「少なくともお前よりは年上の筈だからな」
真琴「あうー」
そう、1年なんかあっという間だ。
オレには時間は残されていないだろうけど、真琴にはまだまだ未来がある。
…許されるなら、オレも真琴と一緒に同じ未来を歩みたいけれど…。

風呂から上がって部屋に戻った時。
真琴「…くー」
既にベッドで真琴が寝息を立てていた。
浩平(素早いというか何というか…)
仕方がないので、真琴を起こさないようにしながらオレもベッドに潜り込む。
すると、何か柔らかいものを踏んだような感触。
ぴろ「うなぁ」
浩平「あ、ごめん。お前も寝ていたんだったよな」
真琴「……浩平?」
浩平「あ…。起こしてしまったか」
真琴「ううん、いいの。浩平を待ってたの」
浩平「どうしたんだ?」
真琴「あのね…。真琴が……」
どうやら夕食の席での話の続きのようだった。
オレは唾を飲み込んだ。
真琴「真琴が……誰であっても、好きでいてくれる?」
思わずオレはため息をついてしまった。
浩平「はぁー、なんだ、そんなことか」
真琴「あうーっ、そんなことってなによぅ」
オレは手を伸ばし、真琴の頬に添えながら言った。
浩平「あのな、オレはお前が本当は誰だか知らないまま好きになってるんだよ。
   お前が本当は誰かなんて関係ない。お前がお前であればそれでいいんだ。
   今更聞くなよ、そんなこと」
真琴「…」
真琴は頬に添えられたオレの手に自分の手を重ねた。
浩平「それに昨日言ってたじゃないか。真琴は真琴のままだ、って。今日、あの
   丘で何を感じたのかはオレには分からないから、何に不安になってるかも
   分からない。だけど」
オレは目を瞑った。
心の中にある、実体を伴いつつある仮説を見つめるため。
そして再び目を開き、真琴を見つめていった。
浩平「だけどせめてこれだけは信じてくれ。たとえ本当のお前が、今のお前とか
   け離れたものであったとしても、オレはやっぱりお前はお前だと思うし、
   そう信じるよ。だから、オレがお前を好きな気持ちには変わりはない」
真琴「…ありがと」
浩平「だから礼を言われるようなことじゃないって。オレは自分の気持ちに正直
   なだけなんだから」
真琴「うん…でも、やっぱり、ありがと」
浩平「ふう…。とにかく、明日も学校あるんだから、とっとと寝ろ」
真琴「うん、おやすみ」
浩平「ああ、おやすみ」

その後、オレは夢を見た。
いや、夢を見たと思い込んでいたのかも知れない。
とにかく、幼い頃の記憶を見た。
幼い日、オレはあの丘で一匹の子狐と出会った。
それがあいつとの初めての出会いだ。
あいつは足を怪我していたので、家に連れて帰り、手当をしてやった。
怪我が治るまでずっと一緒にいた。
一緒に遊んだ。色んなことを話した。あちこち走り回った。同じ布団で寝た。
さすがに一緒に風呂に入ろうとしたときは嫌がられたけれど。
とにかく、あいつとはずっと一緒にいたんだ。
この土地では友達が出来なかったオレの、唯一の友達だった。
ほんの半月の間だったけど、楽しい日々だった。
きっとあいつにとっても同じだったんだろう。
だから。

オレは目を開き、真琴を見た。
浩平(こうして戻ってきたんだ)

[前日へ]
[一覧へ]
[翌日へ]