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★1月20日 水曜日★
体が揺れる。
声「朝だよ、浩平、起きてよぅ」
浩平「今日は眠い。だからまだ寝る」
声「今日は、って、毎日じゃないのよぅ」
浩平「だったら、毎日寝る」
声「わけ分かんないわよぅ」
浩平「…くー」
声「…うー。分かったわよ。今日もキスしてやるんだから」
浩平「どうぞどうそ…。今更キスぐらいで驚いたりしないぞ…」
声「それじゃ、じっとしててよ」
浩平「どうぞどうぞ…」
ちょん。
唇に柔らかい感触。
でもこれは予期していたことだから、別に今さら驚きはしない。
…。
ん?
…。
やけに長いな。
…。
そろそろ息が苦しくなってきた。
…。
う、うう、いい加減息をしないと…。
…。
ぐ、マ、マジでやばい…。
…。
ぬ、ぐ、し、死ぬ…。
…。
浩平「くはーーーーーーーーーーっ!」
オレは真琴をはねのけて起き上がった。
真琴「あ、やっと起きた」
浩平「やっと起きた、じゃねーっ!お前はオレを殺す気かっ!」
真琴「だってなかなか起きてくれないんだもの…。真琴だって苦しかったのよ」
浩平「はあぁ…。分かった分かった、素直に起きなかったオレが悪かったよ」
真琴「分かればよろしい♪」
浩平「でもな、もうあの起こし方はやめてくれ。あのまま永眠しそうだ」
真琴「天にも昇る気持ち、ってやつ?」
浩平「シャレにもならないこと言うんじゃない!」
真琴「あははっ♪」
真琴「はい、浩平」
浩平「ん」
オレは真琴からホットミルクのマグカップを受け取る。
そしてジャムを塗ったトーストにかぶりついた。
浩平「…そういえば」
真琴「なに?」
浩平「昨日、朝食の支度とかしてくれたの、真琴だったっけ」
真琴「そうよ。浩平、覚えてないの?」
浩平「覚えてないというか、記憶そのものが無いような…」
真琴「そりゃそうかも。あの時、ずーっと浩平ってぼーっとしたままだったから
ね」
浩平「ずーっと?」
真琴「そう、ずーっと。着替えてるときも、あたしがそばで一緒に着替えてたの
に全っ然気付かなかったんだもの」
浩平「なにっ!そんなことしてたのか?じょ、冗談だよな?」
真琴「さーて、どうでしょうかね〜」
浩平「くっ…。と、とにかく!今日は別々に着替えるからな!」
真琴「無理しないでね」
浩平「してないっ!」
全く…と思いながらトーストを食べ続けた。
登校後、真琴と別れて図書室から出ると、昨日の女子生徒が廊下に立っていた。
浩平「よお、また会ったな」
女子生徒「はい」
浩平「今日もこんなところで何やってたんだ?もしかして図書委員とか」
女子生徒「いえ、違います」
浩平「そうか…ま、いいけど。それじゃな」
オレはそのまま立ち去ろうとした。
女子生徒「あの…少々、お時間よろしいでしょうか」
女子生徒に呼び止められた。
浩平「オレか?大丈夫だけど。でも、話、長くなりそうか?」
オレは時計を見ながら聞いた。あと5分ほどでチャイムが鳴る。
女子生徒「…そうですね」
女子生徒も時計を見ながら答えた。
浩平「だったら…そうだな、昼休みはどうかな」
女子生徒「わかりました」
浩平「場所は…」
女子生徒「中庭…はどうですか」
浩平「中庭、か。寒いけど、いいのか?」
女子生徒「構いません」
浩平「そうか、それなら。……あ、そうだ」
女子生徒「何か?」
浩平「自己紹介がまだだった。オレは折原浩平。つい先日転校してきたばっかり
なんだ。折原でも浩平でも好きに呼んでくれればいいから」
女子生徒「それでは、折原さん、とお呼びします」
浩平「分かった」
女子生徒「私は天野美汐といいます」
浩平「みしお?」
女子生徒「こう書きます」
そう言って空中に字を書いた。
浩平「美しい、汐、か。変わってるけど、でも、きれいな名前だな」
天野「そう、ですか…」
どこか嬉しそうだった。
浩平「でも天野、って呼ばせてもらうよ。いきなり下の名前で呼ぶのはどうかと
思うし」
天野「はい」
浩平「それじゃ、昼休みに中庭で」
天野「はい、それでは」
オレはまた図書室に入り、真琴に今日の昼食も付き合えないと断りを入れた。
真琴は「またぁ?」と言っていたが、今日の夕食の支度もオレがすることで商談
は成立した。
昼休みのチャイムが鳴ると同時にオレは教室を飛び出し、購買に向かった。
前回の教訓を生かし、食料持参で中庭に向かうためだった。
そして難なく昼食を手に入れ、中庭に向かう途中の廊下で天野を見かけた。
浩平「よぉ」
天野「はい」
浩平「ご飯はもう食べたのか?」
天野「はい」
浩平「げ、早いな…」
天野「小食ですから」
浩平「小食、か。あの人とえらい違いだな…」
天野「あの人、と申しますと?」
浩平「ん?ああ、前の学校にな、カレーを10皿近く食べる先輩がいたんだよ」
天野「10皿ですか…それはすごいですね」
浩平「だろ?…ってこんなところで立ち話しててどうするんだ。中庭に行くんだ
よな」
天野「そうですね」
浩平「それじゃ、行こうか」
天野「はい」
そうして中庭に向かおうとして、何気なく窓の外を見てみた時。
浩平「ありゃ」
天野「どうかなさいましたか」
浩平「先客がいる」
窓からは中庭が見えていた。そこに立つ2人の姿も。
天野「あの子…」
浩平「ん?相沢を知ってるのか?」
天野「相沢さん、とはどちらの方ですか」
浩平「男の方」
天野「それでしたら違います。私が知っているのは女の子の方です」
浩平「あの子を知っているのか?」
天野「ええ。同級生の筈です。確か名前は…」
オレは思い出そうとしている天野を見ながら考えていたが、思い切って名前を口
にした。
浩平「…美坂栞、だろ」
天野「はい、確かそうです。よくご存じですね」
浩平「まぁ、ちょっとあってな」
あの子の姉がオレと同じクラスにいる、と言いかけたがやめた。
美坂が自分の妹を完全に受け入れるまで、2人が姉妹であることは誰にも知らせ
ない方がいいと思ったからだ。
天野「あの子、1学期の最初の日だけ登校して、後はずっと休んでいるそうです」
浩平「そうなのか…」
やはり、重い病気だったんだ。
そう思い、女の子の姿をじっくり見てみた。
向こうの景色が透けて見えるような感じは、以前よりは少しだが薄れていた。
浩平(美坂、頑張ってるんだな…)
天野「それで、場所はどうなさいますか?」
浩平「ん?あぁ、そうだな…。体育館裏でもいいか?」
天野「構いません」
浩平「それじゃ、行こう」
浩平「それで、話ってなに?」
体育館裏でオレは天野に尋ねた。
天野「…昨日のあの子のことです」
浩平「あの子?ああ、真琴のことか」
天野「真琴、という名前なのですか」
浩平「そう、沢渡真琴。もっとも、本当の名前かどうかは分からないんだけどね」
天野「記憶喪失なのですね」
浩平「ああ、そうだよ」
オレは天野の言い方に妙な引っかかりを覚えたが、他に気になったことがあった
ので聞き流した。
浩平「そういえば天野って、真琴のことを知ってるのか?」
天野「どうしてですか」
浩平「いや何となく、知ってそうな話し方をしているな、と思ったから」
天野「いえ、知りません」
浩平「そうか…」
天野「ただ…そうですね、折原さんのお言葉を借りれば、知っている人に似てい
る、ということでしょうか」
浩平「似てるって、真琴にか?」
天野「はい。ただ、姿形が似ているわけではありません。私が知っているのは男
の子でしたし」
浩平「確かに、真琴に似ている男の子というのは…想像したいような…したくな
いような…」
オレは頭の中で真琴の顔のパーツを色々取り替えていたが、天野がじっとオレの
顔を見ているのに気付き、慌てて言った。
浩平「あ、ごめん、話の腰を折ってしまったな。ええと…天野の知ってる男の子
って、どんな子なんだ」
天野「はい。いたずら好きで、不器用で、素直でなくて、でも無邪気な、とても
いい子でした」
天野は遠くを見るような目をしていた。
浩平「はは、それじゃ確かに真琴そっくりだな」
天野「はい」
それからしばらく天野は黙ってしまった。だから、突然天野が言った言葉にオレ
は面食らってしまった。
天野「折原さんは、あの子のことが好きなのですね」
浩平「な!う…、と、唐突な質問だな…」
オレは顔が急に火照ってゆくのを感じた。
天野「すみません、いきなり立ち入った質問で」
浩平「い、いや、別にいいんだけどね、う、うん」
天野「折原さんのあの子に対する態度を見ていると、そう思ったもので」
浩平「ま、まぁ、こんな風に顔に出てしまえば、一目瞭然だよな、はは…」
オレは頭を掻いた。
天野「…」
天野はまたしばらく何も言わずオレを見ていた。少し悲しそうに見えたのは気の
せいだったのだろうか。
そのうち天野は再び口を開いた。
天野「…折原さんは、あの子と初めて会った時を覚えていらっしゃいますか」
浩平「あいつと?ああ、あれはオレがここに転校してきた翌日だったな」
天野「それは今月の初め、ということですか」
浩平「そうだな。ええと…1月9日だったっけ。商店街でいきなり殴りかかって
きたんだったよな。それが今じゃ同居してて、その上…まぁ…」
また顔が赤くなる。
しかしそんなオレを天野は無視するように言葉を続けた。
天野「…折原さんはあの子と会っているはずです。そのずっと以前に」
浩平「なんだって?」
オレは思わず聞き返した。天野の言っていることがあまりにも突拍子のないこと
に思えたからだ。
しかし天野は、同じ言葉を繰り返しただけだった。
天野「あの子と会っているはずです。ずっと以前に」
浩平「…そりゃ確かにあいつはオレに最初会ったとき、オレのことを知ってる、
って言ってたけど…」
天野「それなら。確かにあの子と会っているのですよ」
浩平「だけどなぁ…。オレはあいつと会ったのはあの時が始めてで、それまでは
あいつのことなんか全然知らなかったんだぞ」
天野「…折原さんがあの子のことをご存じなかったのも無理はないのです」
浩平「え?どういうこと?」
オレが聞き返したとき、天野は目を閉じ、胸に手を当てていた。まるで息を整え
ているような、心を鎮めているような、そんな風に見えた。
しばらくして目を開きオレの顔をじっと見ると、静かにこう言った。
天野「…折原さん。ひとつ、確認させてください」
浩平「なんだ?」
天野「私がこれから話そうとしていることは、通常の感覚からすれば常軌を逸し
ているようなことです。私の正気を疑われるかも知れません。それでも、
私の言うことを信じてくださいますか?」
オレは急激に血の気が失せていくのを感じていた。
天野は、オレの予想や何もかもを遙かに超えた何かを言おうとしている。しかし
それが単なる戯れ言でないことは天野の目を見ていれば分かる。少なくとも天野
は自分が言おうとしていることに確信を持っている。オレはそう直感した。
そして。
天野は自分が話そうとしていることは常軌を逸していると言った。正気を疑うか
も知れないとも言った。これはつまり、自分の言うことを受け止める覚悟はある
か、ということだ。
オレの中で本能が叫びを上げる。
天野の話を聞くな、耳を塞いで今すぐこの場から逃げ出せ、と。
しかし、とオレは考える。
オレの身に起こっている現象も常軌を逸しているのではなかったか。
そして今、天野が話そうとしているのは真琴のことだ。
今ここで逃げれば、恐らく2度と真実を知る機会は訪れないだろう。
だけど、もう一つの考えもオレの頭にはあった。
ここで真実を知ってしまったら、オレの中の真琴に対する何かを失う。
そしてそれは真琴そのものを失うことに繋がるかも知れない。
これは避けるべきことであり、そして、今のオレにとって最も恐れるべきことで
あった。
だからオレは天野にこう言った。
浩平「ああ、信じるよ。だけど」
オレは一旦言葉を切り、そして続けた。
浩平「続きは今度にしてくれないか。多分今のままでは…覚悟が足りない」
天野はそんなオレを見て何かを感じたのだろうか。
天野「わかりました」
こう言ってくれた。
そして、しばらくしてからチャイムが鳴った。
ふと気づき、手元を見る。
浩平「…せっかく買ったのに食べるの忘れてた…」
天野「まだ少し時間はありますが」
浩平「うう、教室帰りながら食べる…」
そしてオレは天野と別れた。
放課後。図書室から真琴を連れだして昇降口へと向かっていた。
浩平「そういえば、今晩、舞踏会があるんだって」
真琴「ぶとうかい?」
浩平「ちなみに、闘う方じゃなくて踊る方な」
真琴「そんなの分かってるわよぅ」
浩平「ほれ、それがそのポスターだ」
オレは掲示板に貼られているポスターを指差した。
真琴「ふーん」
浩平「オレも最初は冗談だと思ったんだけど、このポスターがあちこちに貼られ
ているのを見て信じる気になったよ。冗談にしては手が込みすぎているか
らな」
真琴「…真琴も出たかったなぁ」
浩平「それはオレも考えた」
真琴「え?」
浩平「昨日、学校の帰りに商店街に寄ってる間、実は色々見てたんだよ。買えそ
うなドレス無いか、ってな」
真琴「へえ、いつの間に」
浩平「ふふん。それで有るには有ったんだ。だけど」
真琴「だけど?」
浩平「貯金がほとんど空になるくらいの値段だった」
真琴「買っちゃえば良かったのに」
浩平「あのな、それで次の日から食費はどうするんだ?」
真琴「あ、あう…」
浩平「それにもう一つ問題があったんだ」
真琴「なに?」
浩平「『おい、あの美少女は何年の何組だ?』『すみません部外者です』という
のはいくら何でもダメだろう」
真琴「あうぅ…」
浩平「でもな、本当のことを言えば、オレも真琴のドレス姿を見たかったんだよ」
真琴「そうなの?」
浩平「ああ」
真琴「それは残念ねぇ」
浩平「全くだ」
オレは、ぽん、と真琴の頭に手を置いてやる。
浩平「ま、またいつか機会があるさ」
真琴「それもそうね」
真琴は笑みを浮かべて頷いた。
そう、オレにはそんな機会は訪れないかもしれないけど、真琴にはいつかきっと
訪れる。
オレはそう信じて疑わなかった。
昼休みでの約束通り、今日の夕食は炊事と片づけのどちらもオレの担当だった。
だから、というわけでもないだろうが、真琴は夕食後からずっとリビングでテレ
ビを見ており、オレが風呂に入るぞと声をかけたときもそうだった。
風呂から上がってオレの部屋に戻ったとき。
真琴はベッドの上にパジャマ姿で座っていた。
真琴「あ、やっと来た」
あまりにもあっけらかんと言うその姿にオレは少し目眩がしたが、ここで何か非
難めいたことを言えば昨日の二の舞だと思い、我慢した。
浩平「ほら、寝るから、そこどいて」
真琴「うん」
真琴を立ち上がらせた後、オレはベッドに潜り込み、そして真琴、ぴろも後に続
いた。
真琴の寝息を聞きながら、オレは天野の言葉を思い出していた。
天野『折原さんはあの子と会っているはずです。そのずっと以前に』
ずっと以前。
もしそんなことがあったとすれば、それはオレがまだ幼かった頃。
幼い頃のオレと今の真琴とを結びつけるのは、さわたりまこと、というその名前。
真琴と出会って間もないころ否定した仮説が、再びオレの中で存在感を主張し始
めていた。
目の前の真琴の寝顔にオレは呼びかける。
浩平「真琴は…真琴だよな」
すると真琴は薄く目を開いた。
真琴「何わけ分かんないこと言ってるのよぅ」
浩平「いや、記憶を取り戻してもおまえはおまえのままかな、って思ってな」
真琴「真琴は真琴。他の誰でもないわよ」
浩平「…そうだよな」
真琴「…だけど」
浩平「ん?」
真琴「もうひとつ、思い出したことがあったの」
浩平「どんなこと?」
真琴「あの丘…」
浩平「丘?」
真琴「うん。あそこにね、長い長い間、居たような気がするの」
浩平「…」
また、心の中のピースが一致した感覚を覚えた。
浩平「それじゃ、明日また行こうか」
真琴「うん」
浩平「ピクニックには寒すぎるけどな」
真琴「そうだね」
浩平「それじゃ、おやすみ」
真琴「おやすみ」
だけどオレはそのまま眠りに落ちることは出来なかった。
ただ、真琴の顔を、唇を、閉じた瞳を見つめながら、頭の中のまとまらぬものを
どうにかしてまとめようともがいていた。
何かが形になろうとしていたその時。
真琴の唇が動いた。
楽しい日々…。
ずっと…ずっと一緒にいられると思ってた。
ただ、一緒に居たかった。
だから、置いていかれたとき…捨てられたと思って…許せなくなって…。
でも会いたくて…もう一度会いたくて…。
そして、真琴の瞳から、涙がひとしずく。
カーテンから漏れる月明かりを受け、光っていた。
浩平(…)
指で拭ってやりたい衝動を抑え、オレは目を閉じた。
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