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★1月14日 木曜日★
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
浩平「うおっ!」
オレは目覚ましにたたき起こされた。
時計を見てみる。
浩平(7時…)
どうやら、アラームを設定し直すのを忘れてしまったようだ。
だけどオレは考え直す。
30分睡眠時間が減るのは確かに辛いけど、その分、のんびりできるからいいか。
浩平(それに、あの雪道を真琴に走らせるのは可愛そうだよな…)
あれこれ考えながら部屋を出た。
1階に降りたが、まだ真琴は起きていないようだった。
由紀子さんの部屋の前に立ち、ノックを2回。
中から「あうー」という情けない声が聞こえてきた。起きているようだ。
しかししばらく待っても出てこない。
仕方がないのでオレは「入るぞ」と一声かけ、部屋の中に入った。
部屋に入ると、真琴はベッドの上に座っていた。
寒いのか、全身を布団でくるんでいた。
浩平「なんだ、起きてたのか」
しかし真琴はオレの顔をじっと見つめてベッドの上に座ったままで、動こうとし
ない。
オレは少し心配になって尋ねた。
浩平「どうしたんだ?」
真琴はそれでもしばらく黙ったままオレの顔を見つめていたが、やがてぽつりと
呟いた。
真琴「…ごめんなさい」
浩平「どうしたんだ?」
真琴「…怒らない?」
真琴はすがるような目でオレを見ていた。
そんな目で見られて怒れるはずがない。だからオレは可能な限りの優しい声で言っ
た。
浩平「怒らないよ」
それでも真琴はしばらくの間、オレの顔をじっと見ていたが、ついに決心したよ
うに言った。
真琴「…あのね」
そう言うと真琴は体を覆うようにかぶっていた布団の前を開き、オレに自分の体
を見せた。
そこには、真っ赤に染まったパジャマ。
浩平「怪我してるじゃないか!」
オレは思わず大声を出してしまった。
真琴はそのオレの声に驚いて、びくん、と身をすくませた。
浩平「あ、ご、ごめん…」
身をすくませながら、真琴はふるふると首を横に振っていた。
浩平「怪我…じゃないのか?」
真琴はこくこく、と頷いた。
ということは…。
浩平(…そういうことか)
慣れない環境にストレスが溜まり体調が狂ったのか、それとも記憶を無くした時
に体のリズムまで忘れてしまったのかは分からない。
とにかく、それは真琴に起こってしまった。
そして、この事態に一番当惑しているのは真琴自身なのだ。
そんな真琴をどうして責めることが出来るだろう。
だからオレは真琴に背を向けて言った。
浩平「準備してやるから、シャワーだけでも浴びたほうがいい」
その後オレは浴室に向かうと、シャワーと風呂の準備をした。
真琴が浴室に入るのを確認してから、オレは由紀子さんの部屋に入った。
そしてベッドを調べる。
幸いなことに、布団やシーツ、毛布には染みていないようだった。
しかしあのパジャマはもう使い物にはならないだろう。
浩平(今日の帰りにデパートに行くか…)
そして他にも買わなければならないものがあるのだが、オレにはどういうものを
買えばいいのか全く分からない。
かと言って、真琴ひとりに買いに行かせるのは心配だった。
浩平(美坂か水瀬に頼んでみるしかないな)
キッチンでオレと真琴はテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
浩平「苦しくないか」
真琴「…ちょっと…」
浩平「痛みは?」
真琴「少し…」
浩平「そう…か」
男の身であるオレに、真琴の辛さは分からない。
だから真琴が苦痛を訴えるのなら、そうなんだろうな、と思うことしかオレには
できなかった。
ただ、歯がゆかった。
だから、オレは祈るような気持ちで言葉を絞り出した。
浩平「…腹は減ってないか?」
すると真琴は、
真琴「うん、ちょっと減ってる」
と答えた。
良かった。食欲は有るんだ。
オレは救われたような気持ちになった。
浩平「それじゃ、牛乳温めるから待ってろよ」
真琴が食べ終わるのを待ってからオレは言った。
浩平「どうする、今日は学校休むか?」
オレは時計を見た。今から行っても3時間目からがせいぜいだろう。
しかし真琴は首を振った。
真琴「ううん、読みたい本があるから…」
浩平「げ、もしかしてあの本棚全部制覇する気なのか?」
真琴「うん♪」
真琴は明るく頷いた。
良かった。いつも通りの真琴だ。
浩平「それじゃ支度しないとな」
学校までの雪道を、真琴が辛くならないように、また滑って転ばないように、ゆっ
くりと歩いた。
その間は言葉少なだったが、二人を温かな空気が包んでくれている、そんな気が
した。
真琴を図書室に送りオレが教室に着いたときには、2時間目は既に終わっており、
3時間目の前の休み時間に入っていた。
浩平「よお」
オレは机に鞄を置きながら北川に声をかけた。
北川「おっす、今日は遅かったな」
浩平「ああ、ちょっとな」
ニヤニヤしながら北川は言った。
北川「彼女に何かあったのか」
浩平「まぁな、大したことはなかったけど」
オレは否定しなかった。事実には違いないからだ。
そして北川もオレの言葉から何かを察したのか、これ以上は詮索しなかった。
北川「そういえば折原」
ふと思い出したように北川は言った。
浩平「なんだ?」
北川「お前、住井と何かあったのか?」
浩平「いや別に。連絡すら取ってないぞ」
北川「そうか…」
考え込むような仕草をする北川。
浩平「どうした?」
北川「いや昨日、お前の武勇伝を聞こうと住井に電話したんだよ」
浩平「…」
突っ込むのはやめておこう。
北川「そしたら、『折原なんて奴知らないぞ』だとさ」
…そうか、南に続いて住井にも忘れられたか。
こうやって少しずつオレはあの世界に引き寄せられてゆくのだろう。
オレは妙に冷静になって事実を受け入れていた。
北川「なぁ、本当に心当たりはないのか」
浩平「無いな」
オレは自然に見えるよう振る舞った。
そこにチャイムが鳴った。
北川「…そうか、わかった」
そして北川は首を捻りながら前を向いた。
浩平(いつかはこいつらにも忘れられる時が来るんだろうな)
そう思うと、少しだけ寂しい気がした。
昼休み。
図書室に真琴を迎えに行き、そして学食へ向かう。
学食では北川達が席を取ってくれていた。
しかし、今日も相沢の姿はなかった。
聞いてみたが、やはり誰も知らないと言う。
ただ、美坂の顔はオレからは見えなかったので、どのような表情で答えたのかは
伺い知れなかった。
今日は、北川が真琴の相手をしていた。
浩平(変なこと吹き込まれなきゃいいんだけど…)
北川は住井から色々オレの情報を仕入れているはずだから、気が気ではなかった。
しかし今日は他に大事なことがある。
オレは美坂と水瀬に今朝の顛末を話した。
具体的な表現は避けたが、さすがは女の子、何とか分かってくれたようだ。
そして本題に入る。
真琴に買ってやりたいものがあるのだけど、男のオレでは全く役に立たない。
だけど真琴ひとりで買いに行かせるのは心配だ。
だから買い物に付き合ってやって欲しいのだ、と。
水瀬「ごめん、今日は祐一と約束があるんだよ」
水瀬は申し訳なさそうだった。
美坂「それじゃ、あたしが行ってあげるわ」
浩平「部活はいいのか?」
美坂「ええ、大丈夫よ」
何が大丈夫なのかは全く分からなかったが、美坂が買い物に付き合ってくれるの
だからそれで十分だった。
美坂「それにしても妬けるわねぇ」
突然美坂がとんでもない事を言う。
美坂「こんな熱々カップルの買い物に付き合うなんて、ほんと、あたしってお人
好しもいいところだわ」
水瀬「そうだよね」
笑いながら水瀬まで相づちを打つ。
しかしここで反論すれば「だったら二人だけで仲良く行けば?」とでも言われて
しまうのは目に見えている。
ここは真琴のためにぐっと我慢だ。
美坂「あら、反論しないわね。どうせ“真琴のためだ”とか思ってるんでしょう
けど」
ば、ばれてる…。
水瀬「あ、赤くなったよ」
美坂「まったく…。やんなっちゃうわね」
美坂たちと学食で別れ、教室に帰る途中。
何気なく廊下の窓から外を眺めていると、ふと気がついた。
浩平(ここは…)
教室からとここからとでは見える角度は違うが、この窓の外にあるのは同じ中庭
だった。
そして、敷き詰められた雪の上に人の姿が見える。
浩平(あれ、相沢じゃないか)
地面の上に座って何かしている。何かを食べているのか?
その相沢のそばにもう一人。
浩平(女の子か?)
しかしここからはよく見えない。小柄だから、多分女の子なんだろう。
雪の上で小柄な男の子と何かをしている相沢祐一。
それはそれで絵になる光景かも知れないが、よくよく見ればスカートを履いてい
るのでオレは女の子に違いないと結論づけた。
その女の子の姿を見ているうちに、オレはある感覚に捉えられていた。
積もった雪が見えるような気がする。その女の子の姿を透かして。
しかしその感覚は長くは続かなかったので、気のせいだと思うことにした。
この世界での存在が次第に薄れてゆき、いずれはこの世界から消え失せる、そん
なオレと同じような存在が居るはずがない。
居て欲しくなかった。
放課後。
一緒に帰るという相沢、水瀬と教室で別れ、オレと美坂は真琴を迎えるために図
書室に向かった。
浩平「…」
美坂「…すごいわね」
真琴がいる机の上に積み重ねられた本を見てオレ達は絶句していた。
物理、地学、代数、幾何、微分、積分、確率、統計。
およそ高校の教育課程の教科を網羅した…マンガ解説本の山。
その山に囲まれて、真琴はいた。
真琴「あ、浩平」
浩平「今日も念のため確認するけど、これ全部読んだのか?」
真琴「うん。この本が最後」
真琴が手にしているのは、統計の最終巻だった。
美坂「この子、折原君よりずっと頭いいんじゃない?」
浩平「オレもそう思う」
真琴「?」
真琴は自分のことが話題になっているとは気付いていないようだった。
浩平「やっぱりお前はすごいな、って話してたんだよ」
真琴「何が?」
やっぱり本人は全く自覚していなかった。
そして学校を出て、今日もゲーセンのクイズゲームで完膚無きまでに叩きのめさ
れた後、オレ達はデパートに向かっていた。
美坂「あそこまで完敗だと、かえってすがすがしいわね」
浩平「そうだな」
オレは真琴の方を見る。
オレに完勝しただけでもないだろう、とにかくとても楽しそうだった。
美坂「あれ、嬉しそうね。負けたのに」
浩平「そうか?ん…まぁ、そうだな」
オレは頬を掻いた。
そんなオレの顔を覗き込んで、美坂は言った。
美坂「……もしかして、マゾ?」
浩平「なんでそうなるっ!」
真琴「ね、マゾって何?」
浩平「うわっ!聞いてたのか!」
真琴「ね、なに?」
純粋無垢な好奇心丸出しの瞳で真琴は問いかける。
美坂「あのね、マゾっていうのはね…」
浩平「わーわー!ダメダメぇっ!」
美坂「…いじめられた方が嬉しい、変わった趣味の人のことよ」
浩平(説明するか普通…)
真琴「へー、じゃあ浩平ってマゾなの?」
浩平「断じて違うっ!全然違うっ!全く違うっ!」
美坂「そう?あたしは素質があると思うけど」
浩平「…美坂…お前なぁ…」
オレは頭を抱えた。
デパートに着くと、まずパジャマ売り場に向かった。
真琴はそこでしばらく何かを探しているようだったが、見つけたらしく、駆け寄
るとそれを手に取って戻ってきた。
真琴「浩平、見つけたわよ、これ」
浩平(げ、同じ柄…)
それはカエルプリントのパジャマだった。
美坂「そんな柄のパジャマでいいの?」
真琴「うん。前に浩平が選んでくれたのと同じ柄なの」
真琴はとても嬉しそうだ。
美坂「ふーん」
美坂はオレの顔をじっと見ていた。
し、視線が痛い…、
だからオレは慌てて否定した。
浩平「あ、あれはオレが冗談で選んだのを真琴が勝手に気に入っただけで…」
美坂「あっそ。ふーん」
美坂の視線が更に鋭くなった。痛すぎるからやめて…。
続いて、今日の買い物の第一目的であり、わざわざ美坂に付き合ってもらう理由
となったものの売り場に来ていた。
だけどそこは男が入るのは少々憚られるところでもあった。
浩平「えーと、それじゃ、オレは文房具でも物色してるから」
そう言ってその場から離れようとした。
美坂「折原君」
美坂に呼び止められた。
浩平「な、なんでしょうか?」
美坂「あなたも付き合うのよ」
オレは大慌てに慌てた。
浩平「ななな何でオレが!」
美坂「何言ってるのよ。今日の買い置きが無くなったら、またあたしや名雪が
真琴に付き合わなきゃいけないってこと?今日はたまたま予定が無かった
から良かったけど、いつもいつも都合がいいとは限らないのよ」
浩平「だったら真琴が買いに行けばいいじゃないか。今日は仕方ないけど、これ
からは大丈夫なはずだろ」
美坂「あのねぇ。あなたは男の子だから分からないでしょうけど、重いときには
起きあがれないくらい辛いのよ。そんな真琴に一人で買いに行かせるって
言うの?」
浩平「あ、いや、それは…」
美坂「いい機会だから折原君も勉強しなさい。具体的な説明は避けてあげるから」
浩平「具体的な説明が無くてもイヤなものはイヤだっ!」
美坂「往生際が悪いわね。いい加減観念しなさい」
美坂がオレの両手を引っ張る。
浩平(ふ、振りほどけないっ!なんて力だ!)
真琴「それじゃ行こうか、浩平♪」
真琴がオレの背中を押す。
浩平「あ、あうーっ!」
そしてそのまま売り場へと連行された…。
その後オレは、美坂教官の実に懇切丁寧な講義を受けることとなった。
…神秘は神秘のままにさせといてくれよぉぉ…。
デパートでの買い物を終えた後、オレは駅前のベンチにへたり込んでいた。
浩平「何だか…買い物するといつも疲れてる気がする…」
美坂「鍛え方が足りないわね」
真琴「そうそう、情けないわよ、浩平」
浩平(こ、この悪魔どもめ…)
ふと、美坂が腕時計を見る。
美坂「あ、もうこんな時間。それじゃ、もうそろそろあたし帰るわ」
浩平「おう、今日はありがとな」
美坂「お礼なんていいわよ。楽しかったし」
浩平「楽しかったと言うより、オレで楽しんでたんだろ」
美坂「あ、バレた?」
浩平(こ、こいつは…)
美坂「それじゃね〜」
そう言って美坂は手を振った。
浩平「おう」
真琴「またね、香里〜」
帰り道。いつもの店で肉まんを買い、食べながら歩いた。
オレは風呂からあがり、髪を拭きながらリビングに入った。
浩平「ふぅーっ、いい湯だったぁーっ」
…オヤジかオレは。
これでフルーツ牛乳でも有れば最高なんだけどな。
腰に手を当てて、ぐぐっと一気に…。
…やっぱりオヤジかもしれない。
浩平(…あれ?)
ふと、真琴の声が廊下の方から聞こえるのに気付く。
どうやら電話をしているらしい。
相手は長森か?どうせ今日のことの報告でもしてるんだろ。
それにしても…少しは電話料金を気にしてくれってんだ。
夜間だからまだましだけど、それでも遠距離通話には違いないんだから。
そう思いながらソファーに座ってテレビを見ていると、真琴の口調が妙なことに
気付いた。
怒鳴っている。喧嘩しているのか?
オレはテレビを消し、真琴の言葉に耳をそばだてる。
真琴「冗談でしょ」
……。
真琴「そんなはずない!瑞佳の幼なじみの浩平よ!」
え、オレ?
真琴「バカな事言わないでよ…」
……。
真琴「嘘よそんなの…」
……。
真琴「違う違う!そんなの違うよ!」
……。
真琴「…瑞佳ぁ…。真琴、瑞佳がうらやましかったのよ…。
あたしの知らない浩平たくさん知ってて…、
あたしよりいっぱい浩平と一緒に居て…、
なのに…どうしてその瑞佳が浩平のこと忘れてしまってるのよぅっ!」
…そうか、次は長森か…。
もう、あの学校にはオレを覚えているヤツは誰もいないんだろうな。
七瀬も、里村も、椎名も、みさき先輩も、澪も…。
真琴「瑞佳のばかぁっ!大っ嫌いっ!」
ガチャン!
浩平「真琴っ」
気がつくと、オレは廊下に立っていた。
そして真琴のそばに駆け寄ったが、それ以上のことは出来なかった。
何と声をかければいいのか分からなかった。
真琴の肩は震え、手は固く握りしめられている。しかし俯いているので表情は見
えない。
不意に、真琴は目尻を袖で拭うと、きっ、とオレを睨み据えた。
真琴「浩平」
真琴の声の鋭さにオレは少しひるんだ。
浩平「な、何だ?」
真琴「あたし、忘れないから」
浩平「え?」
真琴「何があっても、浩平のことは忘れないから!」
浩平「…」
真琴の真意は分からない。長森への意地か。それとも他の理由があるのか。
しかしその瞳には、固い決意と、揺るがぬ誓いを示す光が宿っていた。
明かりを全て消した真っ暗な部屋の中。
ベッドの上で仰向けになり、オレは考えていた。
オレをこの世界に引き留めてくれた真琴。
オレを何があっても忘れないと言ってくれた真琴。
そんなあいつに、オレは一体何をしてやれるのだろう。
いや、そんなことは考えるまでもなく分かり切っている。
記憶を取り戻す手助けをしてやる。
そして、本来あいつが居るべき所に送り届けてやるんだ。
明日は祝日だ。明日一日かけて、出来るだけのことはしてみよう。
そう考え、オレは瞳を閉じた。
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