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★1月13日 水曜日★
珍しいこともあるものだ。
目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまった。
いつもより30分も早くアラームを設定したにも関わらず、だ。
時計を見てみる。
浩平(6時55分…)
オレは鳴らなかった目覚ましを止め、ベッドから這い出た。
浩平(そんなに楽しみなのかな、真琴の制服姿…)
頭を掻きながら、オレは階段を降りた。

浩平「あれ?」
キッチンを覗くと、まだ真琴は居なかった。
浩平(寝てるのかな)
真琴が寝ているはずの由紀子さんの部屋の前に行く。
中からは物音一つしない。
オレはドアをノックした。
…反応がない。
浩平「開けるぞー」
一声かけた後、オレはドアを開けた。
部屋の中は明るかった。
浩平(電気つけっぱなしじゃないか)
そして真琴は…ベッドの上で熟睡していた。
枕元には山積みのマンガ。そして真琴の胸の上にも1冊乗っていた。
どうやら、夜遅くまで読み耽った揚げ句、そのまま寝てしまったようだ。
浩平(ちゃんと言っておいたのに)
頭が痛くなったが、仕方がないので真琴を起こしにかかった。
浩平「起きろー。朝だぞ」
真琴「…くー」
なかなか手強いようだ。
浩平「起ーきーろー」
言いながら真琴の体を揺する。
真琴「…くー」
全く反応がない。
浩平「起きろ、うり〜〜〜」
真琴の頬を人差し指で押し込んでやる。
真琴「……う?」
お、反応があった。
浩平「起ーーーきーーーろーーー」
両頬を引っ張ってやった。
真琴「……う〜〜〜、う?」
真琴が目を開いた。
オレは慌てて手を引っ込める。
真琴「あう〜〜、ひどいわよ浩平、ほっぺたがじんじんするじゃないのよぅ」
浩平「なかなか起きないお前が悪い。ついでに言えば、夜更かししたお前が悪い」
真琴「うー」
浩平「愚痴は後で聞いてやるから、今はとにかく起きろ。今日から学校に行くん
   だろ?」
真琴「あたし行かない」
浩平「じゃ寝てろ。その代わり、制服は美坂に返しておくぞ」
真琴「…う〜、分かったわよぅ」
真琴はのそのそとベッドから這い降りた。

朝食を食べ終え、自分の部屋で着替えた後、1階に降りてみたら…真琴の姿が無
い。
台所にもリビングにも洗面所にも居ない。
トイレかと思ったが、トイレにも居なかった。
もしや、と思い由紀子さんの部屋の前に行くと、部屋の中から「あう〜」という
情けない声が聞こえてくる。
オレはドア越しに真琴に声をかけた。
浩平「どうした?」
ドアの向こうから声が返ってくる。
真琴「リボンの結び方が分からないのよぅ」
オレは苦笑し、言った。
浩平「ほら、出てこい。手伝ってやるから」

記憶を頼りに真琴のリボンを結び終えたとき、時間は7時55分だった。
これなら歩いて行っても大丈夫だろう。

浩平「しっかし、不思議なこともあるもんだな」
雪の積もった道を歩きながら、オレは感慨深げに真琴に言った。
真琴「何が?」
浩平「オレを付け狙ってたヤツと一緒に登校することになるなんてな」
真琴「んー、それもそうよね」
浩平「…なぁ真琴」
真琴「なに?」
浩平「本当にいいのか?」
真琴「何が?」
浩平「何がってお前…最初はオレを憎んでたはずなのに、今じゃ何かと世話になっ
   てるし…」
真琴「だからそれは言ったじゃない。確かに浩平を憎んでた気持ちも有ったけど、
   どうでもよくなっちゃったの。浩平の世話をしてるのも、世話になりっぱ
   なしというのはしゃくだから。瑞佳との約束もあるしね。それに…」
そこまで言って真琴は言葉を切る。
浩平「ん?」
真琴「…何でもないっ」
真琴はそっぽを向いてしまった。
浩平「?…まぁいいけど」

その後、昨晩の夕食についての批評などをしているうちに、校門に着いた。
校門では、水瀬、相沢、美坂の3人がが立ち話をしていた。
浩平「…あれ?どうした?」
3人の表情が何やら暗い。
浩平「何があったんだ?」
相沢「いや、ちょっとな…」
水瀬「知らない方がいいと思うよ…」
美坂「そうね、知らない方が幸せだと思うわ…」
浩平(何なんだ、一体…)
ふと、美坂の目が真琴の方を向く。
そして手を振りながら言った。
美坂「あ、真琴、おはよう」
水瀬と相沢も真琴に気づいたようだ。
水瀬「おはよう真琴」
相沢「よお」
水瀬と美坂が真琴に駆け寄る。
水瀬「今日から学校に来るんだよね」
美坂「一緒に授業受けられないのは残念ね」
こうして見てみると、真琴はお姉さん二人に囲まれているようだった。
特に美坂は年上っぽく見えるからなぁ…。
そのお姉さんたちに「可愛い、可愛い」と囃し立てられて、真琴はすっかり赤く
なっていた。
すると真琴を見ながら相沢が話しかけてきた。
相沢「なぁ、可愛いじゃないか。」
浩平「そうか?」
相沢「そうか、ってお前…。もしかして寝てるのか?」
浩平「起きてるって」
相沢「だったら真琴を良く見てみろよ」
家を出るときは着替えの手伝いをしていたし、出てからはずっと話し込んでいた
ので、確かにまだ真琴の制服姿をじっくり見たことは無かった。
だから言われたとおりに見てみた。
真琴「な、何よ」
オレの視線に気付いたのか、真琴は居心地悪そうにしている。
浩平「…うーん、確かに可愛いなぁ…」
感想が思わず口に出るほどだった。
相沢「だろ?」
真琴「あうーっ、浩平まで一緒になって言わないでよぉ…」
真琴はますます赤くなった。
面白いので追い打ちをかけてみようとしたその時。
水瀬「わあ」
いきなり水瀬が声を上げる。
水瀬「チャイムまであと5分無いよ…」
浩平「それじゃ、オレは真琴を図書室に送ってくるから、先に行っててくれ」
相沢「それだと遅刻しちまうじゃないか」
浩平「腹痛でトイレにこもってるとでも言ってくれればいいから」
相沢「…わかった」
そう言うと相沢達は走っていった。

オレ達は図書室のドアの前に来ていた。
そしてドアのノブに手をかける。
かちゃり。
浩平「お、開いてるな」
ドアを開き、中を覗き込む。
電灯は点り、暖房も効いているが、誰もいないようだった。
真琴を連れて中に入る。
真琴は当然だが、オレもこの学校の図書室に入るのはこれが初めてなので、周り
を色々と見渡した。
浩平「…ほー、結構本格的じゃないか」
何が本格的かは自分でも良く分からなかったが、とにかく色々と本が揃っている
らしいのは分かった。
真琴もオレに続いてぐるりと周りを見渡した。
真琴「ねぇ、マンガは無いの?」
浩平「んー、どうだろ。学校だからなぁ」
そう言いながらもう一度見渡す。
ふと、見覚えのある本を見つけたので、それを手に取り真琴に手渡した。
浩平「有るには有ったぞ、これでも読んで勉強してろ」
それはマンガで日本史の解説をした本だった。
浩平「日本史が終わったら次は世界史な」
その本が有った本棚の下の段を指差した。
真琴「やだこんなの。つまんない」
浩平「文句を言うなら読んでからにしろ。それにこの本にはオレも昔お世話になっ
   たんだ」
真琴「そうなの?」
浩平「あぁ」
ただし小学生の頃だが。
真琴「…それじゃ読んでみる」
浩平「おう、頑張れ」
マンガを読むのに頑張れもないと思うが。
浩平「それじゃ、昼休みになったら迎えに来るから」
真琴「分かったわ」
浩平「寝るなら寝てもいいからな」
真琴「んもう、ほっといてよ」
浩平「はは、じゃな」
オレは真琴に手を振ると、教室に向かった。

教室には既に担任が来ていたので、一言詫びを入れてから席に着いた。

4時間目終了のチャイムが鳴ると、オレは席から立ち北川に声をかけた。
浩平「それじゃ、オレは図書室に行ってくるから」
北川「あぁ、頑張って彼女をエスコートしてこいよ」
浩平「なっ!だからそうじゃないって何度も何度も…」
北川「そうやってムキになるところが脈ありだってバレバレなんだよ」
ニヤニヤしながら北川が言う。
浩平「…!」
オレは言いかけた言葉を飲み込んだ。完全に北川のペースだ。いま何を言っても
泥沼に更にはまり込むだけだ。
浩平「と、とにかく!学食でな!」
北川「あぁ。楽しみにしてるよ」
何を楽しみにしてるかはもはや突っ込まなかった。

図書室で真琴は机の上で本を枕にして眠っている。
…と思ったが、一心不乱に本を読んでいた。
浩平(これで読んでるのがマンガじゃなかったら、結構さまになるんだけどな)
苦笑いしながらオレは思った。
しかし、机の上に積み上げられている本の数を見て驚いた。
オレは自分の驚きを確認するため、真琴に声をかけた。
浩平「真琴」
真琴「あ、浩平、おかえり」
おかえり、って、ここは家じゃないんだけど。
浩平「この本…全部読んだのか?」
真琴「うん」
机の上に積まれている本は、日本史と世界史の全巻と、他のシリーズの約半分。
ちなみに背表紙には「生物」と書いてある。真琴が今読んでる本もそうだ。
このペースだと、放課後までには更に他のシリーズにも手を付けることになるだ
ろう。
さっきは気付かなかったが、オレがお世話になった日本史や世界史以外にも、
今真琴が読んでいる生物、そして化学、物理などの解説マンガ本があった。
どうやら好評につき他の科目の解説本も刊行されたらしい。
それにしても。
浩平(全シリーズ揃ってるんじゃないか?)
学校の図書室とは思えない充実っぷりだった。
それとも担当者の趣味とかこだわりの結果なんだろうか。
気になったので本棚の下の方を見てみる。
経済学、社会学、政治学、人間工学、高分子化学、無機化学、量子力学…。
これでマンガじゃなかったら、大学の図書館に有ってもおかしくない本が並んで
いた。
そして真琴の今の読破スピードから計算すると、この本棚を制覇するのはそれほ
ど遠い日じゃないような気がしてきた。
浩平「お前…実は凄いヤツだろ」
真琴「ん?」
全く自覚のないところが末恐ろしい…。
浩平「それじゃ、昼食食べに行くか」
真琴「うん♪」

食堂に着くと、オレは辺りを見回した。
すると、北川が手を振っているのに気付いた。
北川「おーい、こっちこっち」
オレは真琴と一緒に北川の居るテーブルに向かった。
北川「う〜む、なるほど。確かに相沢の言ってた通りだな」
北川達が取っておいてくれたテーブルにつくなり、北川は真琴を眺めながら言っ
た。
浩平「こらっ、真琴が恥ずかしがるからじろじろ見るんじゃない」
北川「へいへい、仕方ありませんな」
この野郎…。
浩平「あれ?そういえば相沢は?」
周りを見回すが相沢の姿は無かった。
水瀬「今日もどこかに行っちゃったよ」
水瀬が困ったように言う。
浩平「なにやってんだあいつ?」
美坂「さあ?」
誰も知らないようだった。
相沢を待ってても仕方が無いので、オレは席から立ち上がり言った。
浩平「料理はオレが運ぶから、真琴はここで待っててくれ。何が欲しい?」
真琴「肉まん♪」
浩平「売ってない売ってない」
オレは手を振って否定した。
そもそも肉まん売ってる学食ってあるのか?
真琴「なーんだ。だったら浩平と同じのでいいよ」
浩平「そうか、じゃ行ってくる」

真琴はとても楽しそうに食べていた。
記憶を失ってオレと一緒に住むようになってからは、オレと二人きりの食卓だっ
たから、このような仲間との食事は新鮮に感じられるのだろう。
そして、水瀬とイチゴムースについて語り合っている姿は、何となく女の子らし
いなと思った。
美坂「折原君」
不意に美坂がオレの名を呼んだ。
浩平「なんだ?」
美坂「嬉しそうね」
浩平「嬉しそう?何が?」
美坂「言葉通りよ」
分からないって。
美坂「ねぇ…折原君ってあの子が好きなの?…って何咳込んでるのよ」
オレは突然の美坂の言葉に食べ物を喉を詰まらせてしまっていた。
浩平「げほっ!はぁ…、はぁ…」
美坂「大丈夫?」
浩平「う、うん、何とか…。ふーっ、っと。…いや、さっきも北川にも同じよう
   なこと言われたんだよ」
美坂「北川君に?…で、どうなの?」
浩平「どうなの、って言われても…。良く分からない、というのが正直なところ
   かな」
美坂「でも気にはなってるんでしょ?」
浩平「気になる、と言うか、放っとけないんだよな、色々危なっかしくって」
美坂「ふぅん。それって折原君の性分なのよね、きっと」
浩平「そうなんだろうな」
美坂「…でもね、折原君」
浩平「ん?」
美坂「あの子、いつかは記憶を取り戻すのよね」
浩平「そう…だな。そしてオレのことも忘れてしまうんだろうな」
美坂「それで平気なの?」
浩平「んー、それこそ良く分からない。ただ、それであいつが本来いるべきとこ
   ろに戻れるんだったら、喜ぶべきことなんだろうけど」
美坂「…」
浩平「ま、その時がきたらそこで考えるよ」
そう言ってから真琴の方を向く。
水瀬とおかずの交換をしているようだった。
どちらもAランチだから、おかずに違いは無いはずなんだが…。
美坂「やっぱり嬉しそうね、折原君」
浩平「…かも知れないな」
ここは美坂の指摘に素直に頷くべきだと思った。

昼食を平らげた後、オレは真琴を図書室に送り、教室に戻った。
そして自分の席で机に突っ伏して、残された休み時間を睡眠時間に費やすべく努
力していた。
すると、席の前の方から声が聞こえてきた。
どうやら、美坂と相沢が話をしているらしかった。
何を言ってるのかは聞き取れなかった。
ただ、美坂のこの一言だけは良く聞こえた。
美坂「知らないわ、あたしは一人っ子よ」
どくん。
…何だ?
今の美坂の言葉を聞いたとき、オレの中の何かが強く反応したような気がした。
反応?
いや、これは共鳴と言った方がいいかもしれない。
顔を上げて美坂を見てみる。
いたって平静な顔をしていた。
しかしオレには何となく分かる。
嘘だ。美坂は嘘をついている。
そしてその嘘は…。
その時、チャイムが鳴った。
自分の席に着くためにオレの席の前を通り過ぎようとした美坂に、オレは声をか
けた。
浩平「美坂、あんな嘘はつくもんじゃない」
美坂「…嘘って何のこと?」
美坂は平然と答えた。
その時、教室のドアが開き、教師が入ってきた。
浩平「いや、いい」
美坂「…そう」
そしてそのまま美坂は自分の席に着いた。

オレに答えたあの時、美坂はいたって平静な顔をしていた。
だけどその時の美坂の瞳の奥に微かに見えた色をオレは知っている。
だってその色は…、
…オレの瞳と同じ色だったからだ。

放課後。
オレは真琴を迎えに図書室へ向かった。
浩平「…」
真琴がいる机の上。
昼休みに確認した日本史と世界史、生物の本に加え、化学の本までもが積み重ね
られていた。
真琴「あ、浩平、ちょっと待って。これ読んだら終わりだから」
真琴が読んでいるのは化学の解説マンガの最終巻だった。
昼休み、化学まで手を付けるだろうとは思ってはいたが、ほとんど読み終えると
までは思わなかった。
浩平「…はぁ…やっぱすごいわお前」
真琴「ん?」
やっぱり自覚は無いようだった。

学校を出た後、オレ達は商店街の中にいた。
ゲームセンターの前を通りかかったとき、オレはふとあることを思いついた。
浩平「真琴、ちょっとゲーセン寄っていかないか?」
真琴「え?…まぁいいけど」
ゲーセンに入り、少し探す。
あった。
それは、クイズゲームの機体だった。
浩平「このゲームはだな…」
真琴にゲームの説明をする。要は、画面に出た問題の正しい回答をボタンで選ぶ、
そういうゲームだ。
そして真琴の分もコインを入れて、ゲームスタート。
協力プレイと対戦プレイが選べるが、ここは対戦プレイ。
そしてジャンルセレクトは、日本史。
つまり、真琴が図書室にいる間に読んだマンガのことをどれだけ理解しているか、
覚えているか、試そうとしたわけだ。
本来なら問題集でも買えばいいのだろうが、真琴のことだ、素直に解いてくれる
とは思えない。
だからクイズゲームでさり気なく試す、とこういうわけだ。

まさに鎧袖一触とはこのことだ。
ただし、こてんぱんにやられたのはオレの方だったが。
浩平「………」
ゲーム中、オレは1問も真琴に勝てなかった。
ジャンルを世界史、生物、化学に変えても同じだった。
真琴「わーいわーい、全戦全勝♪」
隣の席では真琴が大喜びしていた。
オレは喜ぶ真琴を見ていたが、真琴の頭に手を乗せ、撫でてやった。
真琴「な、なにするのよぅ」
浩平「ん、お祝いだよ、お祝い」
最初は戸惑っていた真琴だったが、まんざらでもないのか、嬉しそうな顔になっ
た。
勝負は完敗だったが、勝つのが目的ではなく、真琴の学習結果がどれほどのもの
か確認するのが目的だったから、予想を遙かに超えた結果にオレは満足していた。

ゲーセンを出て家に帰ろうとしたとき、ふと、ゲーセンの軒先にあるプリント機
に目が行った。
真琴「どうしたの?」
浩平「いや…相変わらず人気だなぁ、って」
プリント機の前には今日も女子学生の人だかりが出来ていた。
浩平「お前の全勝記念に写真でも、と思ったんだけど…あれじゃ無理か」
真琴「べつにそんなのいいじゃない。その代わり、肉まん買ってよ」
浩平「そっちの方が嬉しいか。よし、分かった。買って帰ろう」
真琴「うん♪」

そしてオレ達は今日もまた、肉まんを頬張りながら帰ったのだった。

オレが作った夕食を食べ終え、その片づけを真琴がしている間、オレは自分の
部屋のベッドの上でぼーっと天井を見ていた。
浩平「…そういえば」
ふと思い出したことがあったのでCDラックを漁る。
浩平「あった」
それは、前の学校の南から借りっぱなしのCDだった。返すのを忘れてしまい、
借りたまま引っ越してしまったのだ。
南は住井ほどのつき合いは無かったが、きちんと謝っておいた方がいいだろう。
オレは1階に降り、電話をかけた。
トゥルルルル、トゥルルルル…。
南「もしもし、南です」
浩平「あ、南?オレ」
南「……」
…なんだ?何なんだこの違和感は?
この違和感は前にも感じたことがある。
しかも、あの時より強く感じる。
オレは焦って言葉を続けた。
浩平「オレだよ、折原浩平」
南「……どなたですか?」
喉から水分が失われてゆく、喉が灼けるようだ。
オレは唾を飲み込み言葉を続けた。
浩平「だから、この正月に引っ越した折原浩平」
南「………」
電話をかけ間違えたのかと思い、番号を確認する。
しかし間違ってはいない。
オレは張り付いた喉から声を絞り出した。
浩平「冗談だよな?オレがCD借りっぱなしだったから怒って冗談言ってるん
   だよな?」
そんなオレの言葉も虚しく、南は言った。
南「………電話、切りますよ」
そして受話器が置かれる音。
ツー、ツー、ツー、ツー…。
単調な音が流れる受話器を持ったまま、オレはその場に立ちつくしていた。

…南から忘れられた。
そう理解した瞬間、自分の存在感が急激に失われてゆくのを感じた。
それと同時に、視界が暗くなり、霞んでゆく。全身の感覚が薄れてゆく。
そして元の視界と差し替えるように、ある風景が目の前を覆っていった。
風になびく草の野原。
肌には風すら感じられる。
ふと、揺れる草の中にひとりの少女が立っているのに気付く。
その少女はオレを招くように、オレを見つめていた。
オレは理解していた。
あの少女についてゆけば、幼い頃に望んだ世界が手に入る。
永遠の世界。
幼い日、あの少女とした口約束のとおりに。
だが、まだついて行くわけにはいかない。
オレは後ずさりしようとした。
しかし体が動かない。
そのうち頭が麻痺してゆき、違う考えに支配されていった。
ここで一歩踏み出せばいい。
たった一歩だ。
それで全てが終わる。いや、これから全てが始まるんだ。
その考えに導かれるまま、一歩を踏み出すために、オレは右足を上げようとした。

声「どうしたの?」
突然元の世界に引き戻される。
視界が回復する。
どうやら、真琴がそばに立っているようだ。
真琴「ねえってば」
心配そうにオレの体を揺する。
真琴…。
もしかして、お前がオレを引き留めてくれたのか?
オレは真琴を思い切り抱きしめたくなったが、必死にその衝動を抑えつける。
今回は真琴が引き留めてくれたが、いつかはあの少女が招く世界に行かねばなら
ない時が来る。
そうオレは確信していた。
ならば、真琴と深く心を通わせてはいけない。
その時が来たとき、互いに辛い思いをするだけだから。
そして真琴は記憶を取り戻しさえすれば、オレの事など忘れ、本来居るべきとこ
ろに帰っていくのだから。
だからオレは努めて平静を装いこう答えただけだった。
浩平「あぁ、ごめん。立ったまま寝てたみたいだ」
真琴「何やってるのよ、もう」
真琴は呆れたように言った。
良かった。どうやらごまかせたようだ。

明かりを消した部屋の中で、ベッドに寝転びながら今日のこと、いや真琴のこと
を考えていた。
この世界にオレを引き戻してくれた真琴。
いずれ記憶を取り戻し、オレの前から去ってゆく真琴。
そして、その真琴に対するオレ自身の気持ち。
オレは、自分の中で真琴の存在が大きくなりつつあることに気付いていた。
今日の出来事で、それは一層強く感じられた。
だけど、いずれ真琴はオレの元から去ることになる。
あるいは、あの少女に誘われるままオレがこの世界から立ち去る方が先かもしれ
ない。
どちらにせよ、別れは避けられないのだ。
ならば、やはり真琴とはあまり心を通わせるわけにはいかない。
…だけど…。
本当にそれでいいのだろうか。
オレはそれを望んでいるのだろうか。
それが本当に真琴のためになるのだろうか。
…わからない。
もつれた思考はただ堂々巡りを繰り返すばかりで、そのうち寝入ってしまった。

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