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★1月11日 月曜日★
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ
ばんっ!
騒音源を叩きつけ黙らせる。
これでオレの眠りを妨げるものは何もない。
………。
……。
…。
声「こうへい、こうへい」
ん、誰だ?オレの名を呼ぶヤツは?
声「こうへい、こうへいってば」
地震か?何だか揺れてるぞ。
声「こうへい、こうへいってばぁ。起きてよぅ」
何だよもう…。
浩平「うるさぁい、オレは眠いんだぁ」
声「あうーっ、起きてよぅ…。もう8時来ちゃうよぉ」
なにっ!
慌てて飛び起きた。
すると額に何かがぶつかった。
目の前に火花が飛び散った。痛い…。
声「あうぅ…痛いよ…、ひどいよ浩平…」
目を開けてみると真琴が額を押さえていた。
浩平「おい、どうした」
真琴「どうしたもこうしたもないわよぅ。浩平がいきなり起きあがるからぶつけ
たんじゃないのよぅ…」
浩平「ご、ごめん。大丈夫か?」
真琴「大丈夫だけど…。それより時間!」
浩平「え?」
時計を見てみた。7時45分。
浩平「確かにそろそろ危ないな」
真琴「危ないな、ってのんびり言ってる場合じゃないわよ」
浩平「そりゃそうか。…ん?」
見ると、真琴がオレの制服と鞄を持って立っていた。
真琴「ん、じゃないでしょ。全くもう。早く取ってよ」
浩平「あ、ごめんごめん」
制服と鞄を受け取り、ベッドから立ち上がると、真琴が言った。
真琴「お布団干しておくわよ」
浩平「あ、あぁ」
何だかしっくり来ない感じを味わいながら階段を下りた。
真琴が用意してくれた朝食の席でオレは尋ねた。
浩平「なぁ真琴」
真琴「なに?」
真琴はホットミルクを飲んでいた。
浩平「長森から頼まれたのか?」
真琴「何を?」
浩平「いや、オレを起こしに来たり、布団干したり…」
真琴「うん。瑞佳に頼まれたの。浩平は朝はダメダメだからよろしく、って」
浩平「ダメダメ…」
真琴「あ、ダメダメとは瑞佳は言ってなかったわね」
つまりダメダメは真琴の創作、って、そんな事はどうでもいいんだ。
浩平「つまり、長森は自分がやってきたことをやってくれ、と真琴に頼んだわけ
だな」
真琴「そういう事ね」
まぁ長森の事だ。自分の代わりを真琴に務めて欲しかったわけだ。
それは分かる。
しかし…。
浩平「なぁ真琴」
真琴「なに?」
真琴はイチゴジャムを付けたトーストをかじっていた。
浩平「いいのか?」
真琴「何が?」
浩平「元々オレが憎かったんだろ?なのにオレなんかの面倒を見るなんて」
真琴「女と女の約束だから」
いつの間に長森とそんな仲になってたんだ…。
真琴「あと、それと」
浩平「?」
真琴「浩平は、真琴が記憶を取り戻すまでここに居ればいい、って言ってくれた
わよね」
浩平「ああ」
真琴「だから、その…」
真琴は赤くなって俯き、呟くように言葉を絞り出す。
真琴「…ずっと世話になりっぱなしって嫌じゃない?」
ああ、そう言う事か。
オレは納得した。
浩平「つまり、これで貸し借りは無し、と言いたいんだな?」
真琴の顔がこちらを向き、輝いた。
真琴「そうそう、それよそれ」
ふぅ、素直じゃないねぇ。
ま、ここは真琴がそう言ってるんだからそういう事にしておこう。
浩平「…って、うわっ!もうこんな時間!」
時計は8時10分を指していた。
浩平「すまん真琴、後片付けは頼む!」
真琴「うん!」
オレは残っていたトーストを牛乳で流し込み、大慌てで着替えた後、玄関から飛
び出した。
学校の校門に飛び込むのと、予鈴が鳴るのとは同時だった。
ふと見ると、相沢と水瀬、そして美坂が立ち話をしているようだった。
浩平「よお」
声をかけると、3人はこちらに気づいたようだ。
水瀬「おはよう、折原君」
水瀬は平然としていた。
相沢「………やぁ」
対して相沢は息も切れ切れだった。どうやら走ってきたらしい。
浩平「走ってきたのか?」
相沢「………あぁ…」
浩平「大丈夫か?」
相沢「…………あぁ…何とか…」
あまり大丈夫そうではなかった。
浩平「とりあえず教室まで辿り着こう。その後なら幾らでも休める」
相沢「そう…だな」
そして教室に着くと、相沢は机の上に突っ伏した。
休み時間。
この時間は次の授業の予習をするヤツもいるだろう。
だけどオレは特に何もすることはないので、ぼーっとしていた。
女子生徒「折原君」
浩平「ん?」
話しかけてきたのは水瀬の席の後ろに座っている美坂という奴だ。
何となく深山先輩に似ていないこともない。
美坂「ん?とはご挨拶ね。何してるの?」
浩平「ぼーっとしてる」
美坂「ぼーっとしながら何してるの?」
浩平「ただひたすら徹底的に全力を尽くしてぼーっとしている」
美坂「………ヒマ人ね」
呆れられたようだ。
浩平「ほっとけ」
美坂「んー、あ、そうだ、自己紹介がまだだったわね。私の名前は美坂香里」
そう言って美坂は字を書いて見せてくれた。
浩平「みさか…かおり、ね。じゃあ、かおりちゃん」
美坂「…殴られたい?」
声と顔は笑っているが、美坂の放つオーラに闘気が満ちているのを感じた。
浩平「謹んで辞退させていただきます」
美坂「賢明ね」
浩平「それじゃ美坂でいいか?オレはもう知ってると思うけど折原浩平、折原っ
て呼んでいいから」
美坂「そうね、美坂でいいわよ。折原君って呼ばせてもらうけど」
浩平「“君”は譲れないわけか」
美坂「譲れないわね」
浩平「じゃ、それでいい」
チャイムが鳴った。
浩平「なんだか異様に休み時間が短くないか?」
美坂「そう?いつも通りだけど」
浩平「ま、頻繁に休み時間の長さが変わっても困るけどな」
美坂「当たり前じゃない」
するとドアが開き先生が入ってきたので、美坂は自分の席に戻った。
午前中最後の授業のチャイムが鳴った。
浩平「腹減ったあ〜」
声で空腹を訴えながら立ち上がった。
すると北川が話しかけてきた。
北川「今日はどうするんだ?」
浩平「何が?」
北川「何がって、昼食はどうするか、って聞いてるんだ」
浩平「ああ、弁当もないからな、今日は学食だ」
北川は振り返りながら言った。
北川「学食だってよ」
見ると相沢、水瀬、美坂が集まっていた。
どうやらヤツらも学食部隊らしい。
学食に向かう途中、北川が話しかけてきた。
北川「今日はオレの番だな」
浩平「何の話だ?」
北川「お前に昼食をおごる話だよ」
浩平「あ」
完全に忘れていた。
北川「忘れてたのか?」
浩平「ああ、ものの見事に」
北川は呆れたように言った。
北川「お前って欲が無いよなぁ」
浩平「そうでもないと思うけどな。しかしおごってもらうって言っても、オレは
ここの学食は初めてだから、どんなメニューが有るのか知らないぞ」
水瀬「Aランチ」
水瀬が即答する。
いつの間にか水瀬が話に加わっていた。
水瀬「Aランチが私のオススメだよ」
美坂「名雪って、学食行くといっつもAランチだものね」
美坂まで話に加わっていた。
美坂「他のメニューを知らないんじゃない?」
水瀬「そんなことないよー。Aランチはね、イチゴのムースが付くんだよ」
相沢「またイチゴか。お前って本当にイチゴが好きだよな」
さらに相沢まで話に加わっていた。
オレの昼食の話ごときにこの大所帯…話題に飢えているのかこいつらは。
とてもそうには見えないけどな。
それにしても、イチゴのムース、か…。
甘いものが好きなオレにはもってこいかも知れない。
浩平「ありがと水瀬、Aランチ試してみるよ」
水瀬「うん」
水瀬は嬉しそうだった。
北川「おごるのは俺なんだけどな」
北川はちょっと不満そうだった。
浩平「だから別におごってもらわなくってもいいと何度も…」
北川「いや、これは男と男の約束だ。破るわけにはいかない」
浩平「そこまで大げさに思わなくってもだな…」
しかし北川は頑としてオレの遠慮を受け付けてくれなかった。
意外に頑固なヤツのようだった。
学食は混んでいたが、何とか人数分の座席を確保し、昼食に取りかかった。
そしてあらかた食べ終わり、最後の楽しみとして残しておいたイチゴのムースの
攻略を始める。
浩平「……うまい」
一口目にしてこう言わざるを得ないような味だった。
水瀬「ね?おいしいよね」
水瀬も同じようにイチゴのムースを楽しんでいるようだった。
もしかしたら味の好みが近いのかも知れない。
近いうちに商店街の甘党の店を教えてもらおう。
水瀬なら間違いなく知ってそうだった。
相沢、水瀬、美坂の3人は先に学食を出ていたので、北川と一緒に食堂から教室
に戻る廊下を歩いていた。
その間、何気なく窓の外を見ていた。
学校の校門が見えていた。
浩平「?」
校門の所に誰かが立っているようだ。
窓に顔を近づけ、よく見てみる。
あの服、あの髪型、間違いない。
浩平「あのばか…。すまん、先に戻っててくれ!」
北川「あ、おい!」
呼び止めようとする北川を無視し、一旦教室に戻ってコートをひっ掴むと、昇降
口から校門へと走っていった。
校門に着くなり、オレは思わず怒鳴ってしまっていた。
浩平「ばか、こんなところでなにやってるんだよ!」
校門に立っていたのは真琴だった。
オレの言葉に真琴は身をすくませる。
おそるおそるオレの目を見上げながら、真琴はつぶやいた。
真琴「あぅ…暇だったから…」
浩平「暇だったからってなぁ…」
真琴「それに一人でいたってつまんないし…」
…ああ、そういうことか。
こいつがこんなに寂しがり屋だとは思わなかったな。
浩平「はぁ…。だけどそんな薄着じゃ、風邪を引いちまうじゃないか」
真琴はコートさえ着ていない。微かに震えていた。
真琴「だって…こんなに寒いと思わなかったから…」
家から一歩出たら気づくと思うぞ、普通は。
浩平「それで、熱っぽいとか、咳とかくしゃみとかは?」
真琴「無い…と思う」
浩平「ちょっと見せてみろ」
真琴の額に手を当てる。真琴は目を閉じてオレにされるがままになっていた。
どうやら熱は上がっていないようだった。
浩平「よし、風邪は引いていないようだな」
オレはまたため息をつくと、持っていたコートを真琴に手渡してやった。
浩平「ほれ、これ着てとっとと帰れ」
真琴「…」
真琴は躊躇っているようだった。
浩平「どうした?とっとと着ろよ」
真琴「…いいの?」
浩平「いいの、って何が?」
真琴「これって浩平のコートよね?これを真琴が着ちゃったら、浩平が…」
浩平「大丈夫だって。オレはこれからまだ授業があるし。それにコートが無くっ
たって奥の手がある」
体操服を制服の下に着るのだ。少々動きづらくなるが防寒性は抜群だ。
真琴「?」
浩平「だから大丈夫だって。それにオレは寒さには強い方だから」
とんでもない大嘘だが、こうでも言わないと真琴は帰らないだろう。
浩平「とにかく、早く帰るんだ」
真琴「で、でも…」
浩平「お前が風邪を引いたら看病するのはオレなんだから。だから、な、頼む」
オレは真琴の肩に手を置きながら頼んだ。
真琴「………分かったわよぅ」
渋々だが真琴は了解してくれたらしく、オレのコートを羽織った。
浩平「あ、それから」
オレは財布をポケットから取りだし、真琴に千円札を手渡す。
浩平「例の肉まん、2個ほど頼む」
真琴の顔が明るくなった。
浩平「昨日みたいな事になるから買いすぎるんじゃないぞ。それと、余ったお金
は好きに使っていいから」
真琴「うん♪」
真琴はとても嬉しがっている。
…可愛いなぁ…。
などとのんびり真琴に見とれている場合じゃない。
浩平「と、とにかく早く帰れ。オレも授業があるし」
真琴「…どうしたの?何だか顔が赤いわよ?やっぱり風邪ひいたんじゃないの?」
浩平「な、何でもない、大丈夫だって。とにかく帰れっての」
真琴「う、うん」
真琴が手を振りながら帰ってゆくのを見送った後。
浩平「…寒っ」
オレは大きく身震いをし、昇降口に駆け込んだ。
教室に戻ると、北川と美坂が先に戻っていた。
そして自分の席につくと、北川が気色の悪い声で話しかけてきた。
北川「先生も隅に置けませんのぅ」
浩平「何の話だ?」
北川「校門でのやり取り、全て拝見させていただきました」
浩平「なっ!」
オレは慌てた。いつの間に見られていたんだろう。
だけど当然の話だ。
オレは廊下で真琴の姿を見て校門へ駆けつけたんだ。
同様に北川も、廊下でオレと真琴のやり取りを見ていたっておかしくない。
北川「しっかしあんな年下に手を出すとは…なかなかのやり手ですな」
浩平「人聞きの悪いこと言うんじゃない。あいつは妹だ」
しかし北川は指を立て、ちっちっち、と言った後、こう続けた。
北川「この北川様の情報網をなめていただいては困ります」
…こいつこんなキャラクターだったか?
北川「住井様という方から、折原様には妹は居ないという情報を得ております」
浩平「なっ!」
まさかここで住井の名前が出てくるとは思わなかった。
浩平「住井を知ってるのか?」
北川「おっと、お喋りが過ぎましたな。失敬、失敬」
これ以上詮索しても無駄なようだった。
住井の情報網を侮ったつもりはなかったが、ここまでとは…。
この調子だと、北川を通じて今のオレの情報もあっちの学校に流れている可能性
は十分に考えられる。
そして恐らく、長森にまでも…。
しかし、あまり考えても怖い考えになるだけで先が無さそうなので、オレは北川
に意識を戻した。
その北川は、にやにやしながらオレを見ている。
浩平「分かった。話してやるよ。ただし住井には言わないでくれ…」
北川「お任せ下さい。我がビジネスは信頼が第一ですから」
どんなビジネスなんだ…。
美坂「ふーん」
話をし終わった後、最初に声を出したのは美坂だった。
気がつけば、いつの間にか相沢や水瀬も一緒に聞いていたようだ。
水瀬「その子、可愛そう…」
浩平「可愛そう?」
水瀬「だって、記憶喪失なんでしょ?」
浩平「そうだけど…」
水瀬「自分が誰なの分からない、これほど不安な事って無いと思うよ」
浩平「…」
不安…だから寒い中オレを待っていたわけか。
しかし、そうだとしたら…。
浩平「…弱ったな」
相沢「何がだ?」
浩平「とりあえず今日は何とか帰したけど、明日も多分来るんだろうな」
そして寒い中、ひたすらオレが出てくるのを待つわけだ。
水瀬「そうだろうね」
オレは顎に手を当てながら呟いた。
浩平「しかし、椎名にしてやったようなことが出来るはずもないし…」
相沢「椎名?」
しまった、考えを口に出してしまっていた。
と、そこにチャイムが鳴った。
美坂「じゃ、話の続きは次の休み時間ね」
オレが反論する隙も与えず、美坂は自分の席に戻った。
5時間目の後の休み時間。
オレの机の周りに集まったみんなに椎名のことを話していた。
話し終えると、しばらくみんな無口となった。
しかし北川はにやついていた。
こいつ、既に住井から聞いてたな…。
水瀬「折原君って優しいんだね」
水瀬が気色の悪いことを言う。
だからオレは否定した。
浩平「単に放っておけなかっただけだって」
水瀬「それが優しいって事だと思うよ」
オレの否定は受け入れられなかった。
相沢「それでどうするんだ?同じようなことをするのか?」
浩平「それは無理だろ。オレの前の担任は、教室の生徒の半分がペンギンに変わっ
ていも気づかないようなヤツだったから大丈夫だったけど」
美坂「さすがに石橋はそこまでひどくはないわね」
それはそうだろう。あの髭がひどすぎるだけだ。
水瀬「だけどどうしよう。その子、絶対明日も来るよ。そしていつか本当に風邪
ひいちゃうよ」
水瀬はまるで人ごとじゃないように言う。かなりいい奴のようだ。
浩平「そうだな…。来るんじゃない、と言っても来るだろうな」
あいつは意外に頑固そうだからな…。
北川「それじゃ、授業中は他の部屋に隠れてる、ってのはどうだ?」
相沢「それはいいな。しかし、授業中にずっと隠れてても大丈夫な部屋って有る
のか?クラブに入っていないのに部室に隠れるわけにもいかないし。理科
室とか工作室とかも、いつ授業で使われるか分からんぞ」
そこで美坂が口を挟んだ。
美坂「大丈夫な部屋なら有るわよ」
浩平「どこだ?」
美坂「図書室」
あ、その手が有ったか。
美坂「図書室なら授業中に居たって自習だと思われるし、それに死角が多いから
目立ちにくいしね」
総員、美坂の案に頷く。
相沢「これで隠れ場所の事は片づいたな」
だが、まだ問題が残っている。
浩平「しかし制服はどうするんだ?前の学校の時は、たまたま転校生が居て、そ
いつに借りることが出来たけど」
言いながら相沢を見る。
浩平「相沢もオレも男だから、女子用の制服なんて持ってないぞ」
水瀬「持ってたら嫌だよ」
もっともな意見だ。
浩平「それに美坂も水瀬も、スペアの制服なんて持ってないだろ?」
美坂と水瀬を見る。2人とも頷いた。
北川「だけど別に制服は無くったっていいんじゃないか?私服のまま入り込んで
いる奴もいることだし」
相沢「いや、あいつは中庭にしか来ないから問題はないんだろ。さすがに校舎の
中に入るのには制服がいると思うぞ」
あいつ?誰の話だ?
相沢「とにかく、何とかして制服を確保しないと駄目だ、ってことだな」
水瀬「でも、どうやって手に入れるの?」
全員が頭を抱える。文殊の知恵と言うより烏合の集かも知れない。
すると美坂が言った。
美坂「あ、それならあたしの…」
しかし途中で言葉が詰まった。
美坂「あたしの…」
水瀬「…香里?」
水瀬が心配そうに美坂を見る。
それでも次の言葉が出てこない。
だけどオレは、何かを美坂が必死で隠しているような気がした。
そして。
オレに似た何かを今の美坂から感じ取っていた。
しかしそれが何かまでは分からなかった。
美坂「あたしの…知り合いに…」
ようやく言葉が繋がったようだ。
美坂「そう、あたしの知り合いに演劇部の子が居るのよ」
演劇部か…。
澪、オレが居なくても頑張ってるかな…。
あいつのことだから大丈夫だと思うが。
美坂「その子を通じて借りられると思うわ」
水瀬「どういうこと?」
美坂「卒業した先輩が何人か制服を残してくれているんだって。その制服を借り
られると思う」
相沢「でも、そんな制服何のためにあるんだ?この学校の生徒じゃ、誰だって自
分の制服を持ってるだろ?」
美坂「分からない?つまり男子は男子用の制服は持ってるけど…」
相沢「げ、そういう事は…」
美坂「そ。女装用ね」
相沢「だが女装用でも有るに越したことはないな。どうだ折原?」
浩平「そうだな…それじゃ美坂、頼んでいいか?」
美坂「いいわよ。ただし何日か待ってね。演劇部の都合もあると思うから」
浩平「あぁ」
美坂「あともうひとつ」
浩平「ん?」
美坂「アイデア料。明日のお昼ご飯、おごってね」
浩平「う…まぁいいけど」
オレの言葉の後、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
美坂「期待してるわ」
そう言って美坂は席に戻った。
放課後。
自分の席に座ったままで、相沢と水瀬が話しているのを意味もなく眺めていた。
幼なじみでいとこ同士だから、仲が良いのは良く分かる。
そうか、オレと長森もこんな風に見られてたのかもな。
しかし…気のせいか水瀬の態度に時々気後れを感じる。
7年間会っていなかったと聞いているからそのせいかとも思ったが、どうもそれ
だけではないようだ。
女子生徒「折原君」
浩平「ん?」
女子生徒「ん?とはご挨拶ね。何してるの?」
話しかけてきたのは美坂だった。
浩平「ぼーっとしてる」
美坂「またぁ?で、今度はぼーっとしながら何してるの?」
浩平「あいつらを見てる」
あいつらとはもちろん相沢と水瀬のことだ。
美坂「ふーん」
浩平「…なぁ美坂」
美坂「何?」
浩平「あいつらっていつもあぁなのか?」
美坂「そうね、いつも夫婦漫才やってるみたいね」
浩平「夫婦漫才…。ま、それは置いておいて」
美坂「置いておかないでよ。ま、いいけど」
浩平「いや、オレの聞き方が悪かった。水瀬っていつもあぁなのか?」
美坂「どういうこと?」
浩平「何というか…、あいつらっていとこ同士で幼なじみなんだよな」
美坂「そうよ」
浩平「そうだよな、それなのに何というか…相沢に遠慮しているというか、…い
や違う、相手の傷口に触れないようにしてる気がする」
美坂は驚いたようにオレを見た。
美坂「へえ、出会ってまだそんなに経たないのに、よくそこまで分かるわね」
浩平「オレにも幼なじみの女の子がいたからな。それにこう見えても、人を見る
目は鍛えられてるんでな」
美坂「そんな風に見えないわね」
浩平「いや、それが普通の反応だと思う。オレでもびっくりしてるぐらいだ」
美坂「それにしたって短期間でそこまで見抜くなんてすごいわね。そうね、私も
そう思ってたのよ」
浩平「訳を知ってるか?」
美坂「知ってると思う?」
浩平「いや、全然そうは見えない」
美坂「こんな事、直接名雪に聞くわけにもいかないし。かと言って、名雪の方か
らも教えてはくれないのよね」
浩平「相沢の方から聞き出すわけにもいかなさそうだな」
美坂「そうね」
浩平「いつか、本人達の口から語られるのを待つだけ、か」
美坂「もどかしいけど、仕方がないわね」
水瀬「ねーねー香里、何話してるの?」
水瀬がこちらに気づき、話しかけてきた。
相沢はいつの間にか居なくなっていた。帰ったのだろう。
美坂「今後の日本情勢について」
浩平「そうそう」
ナイスフォローだ。美坂。
水瀬「ふぅん…」
浩平「いや、マジに取られても困るんだけど…」
美坂「それより名雪、部活はいいの?」
美坂に指摘され、腕時計を見る水瀬。
水瀬「うわ、もうこんな時間だよ。ありがと香里」
美坂「部活頑張ってね」
水瀬「うん、頑張るよ!」
そう言って水瀬は教室から飛び出していった。
浩平「水瀬って何部に入ってるんだ?」
美坂「陸上部。おまけに部長さんなのよ」
浩平「へー、それは凄いな」
美坂「そうは見えないでしょ」
浩平「何が?」
美坂「足が速そうに見えないでしょ」
浩平「それはどういう意味だ?」
美坂「言葉通りよ」
言葉通りって…。
浩平「…美坂、さりげなくひどいこと言ってないか?」
美坂「そう?」
浩平「…それで実際速いんだよな?」
美坂「そうね。それに毎朝鍛えられてるしね」
浩平「どういうことだ?」
美坂「ほとんど毎朝、走って登校してるからね」
浩平「…水瀬って朝、弱いのか?」
美坂「弱いってものじゃないわね。目覚まし数十個使っても起きられないんだか
ら」
浩平「数十個…それは凄いな」
美坂「数十個は冗談だけど、十数個なのは本当よ」
浩平「それでも凄いな」
美坂「でしょ?でもこの3学期から状況は変わったみたい」
浩平「どういうことだ?」
美坂「相沢君が起こしてくれるようになったんだって」
そういえば同居してたな。
浩平「でも今日も走って登校してたみたいだぞ。それも予鈴ギリギリで」
美坂「そうなのよね…あれ、どうして笑ってるの?」
思わずオレは笑い出していた。
浩平「いや、よく似たことはどこにでも有るんだなぁ、ってな」
美坂「?」
浩平「オレも前の学校の時、毎朝幼なじみに起こされてたんだ。さすがに同居は
してなかったけどな」
美坂「そうなんだ」
浩平「だけどほとんど毎日走って登校してた」
美坂「ということは…」
浩平「そのうち遅刻する、にジュース1本」
美坂「それじゃ賭にならないじゃない」
浩平「やっぱりさりげなくひどいこと言ってるぞ」
美坂「気のせいよ…あ、もうこんな時間」
浩平「ごまかしてないか?」
美坂「だから気のせいだって。私もクラブに行かなきゃ」
浩平「美坂は何部なんだ?」
美坂「ひみつ。そのうち案内してあげるわ」
浩平「そうか。それなら、その時を楽しみにしてるよ」
美坂「楽しみにしててね。それじゃね」
浩平「ああ。…あ、ごめん」
去りかけた美坂を呼び止める。
美坂「何?」
浩平「制服のこと、頼んだぞ」
美坂「そのことね。大丈夫よ」
浩平「そうか、それじゃな」
そして美坂も教室を出ていった。
気が付けば、教室に残っているのはオレを含め数人になっていた。
浩平「…帰るか」
オレは鞄を持ち、席を立った。
家に帰り、自分の部屋に戻ると、ちょっとした違和感に捕らわれた。
浩平「…?」
何かが無い。何かが見あたらないのだ。
部屋の中を見渡してみる。そして何が無いのかようやく気づいた。
念のためベッドのクッションの下を確認してみる。
こちらは大丈夫だった。
階段を降り、リビングに顔を突っ込む。
すると中で真琴がうつ伏せに寝転がり、肉まんを口にしていた。
手にはどこで買ってきたのかマンガ雑誌があった。
そして、見覚えのあるマンガ雑誌も床に転がっていた。
浩平「真琴」
しかし真琴はオレに気づかない。
浩平「おーい真琴ー」
やっぱり気づかない。
浩平「真琴せんせー。もしもーし」
全然気づかない。
どうやら夢中になっているようだった。
オレは真琴に逆エビ固めでもかけたくなったが、女の子にかける技ではないので
やめておいた。
仕方がないので、とりあえず真琴のそばに同じようにうつ伏せに寝転がり、読み
かけだったマンガ雑誌を床から拾って読み始めた。
浩平(あれ?)
この感じ…知っているような気がする。
何故だか分からないが懐かしい気分になった。
すると不意に、真琴がオレに気づいたらしく声を上げた。
真琴「あれ、浩平?おかえり。いつの間に帰ってたの?」
浩平「ついさっき。というか、さっき呼んでたんだけど…」
真琴「え、そうだっけ?」
やっぱり全く気づいていなかったようだ。
浩平「ところで真琴」
真琴「ん?」
浩平「オレの部屋から雑誌を持ち出すんだったら一言言ってくれ。いきなり無く
なってると心臓に悪い」
真琴「そんなHな雑誌は無かったわよ」
浩平「そういう話をしてるんじゃないっ!」
オレは思わず大声で言ってしまっていた。
しかし真琴はさらりと流す。
真琴「うん、分かった」
浩平「分かってくれたらそれでいい」
オレはそう言うと、マンガ雑誌の続きを読み始めた。
しかし、とあるページで止まってしまった。
浩平「…え、えと、真琴せんせい?」
真琴「あう?」
肉まんを食べながら真琴は応じた。
浩平「つかぬことをお尋ねしますが、この本も全部読まれたのでしょうか?」
真琴「うん、読んだよ」
…顔から血の気が引くのを感じた。
オレは少年誌も買ってるが、青年誌も買っている。
そして今オレが手にしてるのは、その青年誌の中でも特に過激な表現がされてい
るマンガが載った雑誌だった。
さっき真琴はこう言った。
『そんなHな雑誌は無かったわよ』
分かってながら言ったのだろうか。
すると真琴はこちらに向かって言った。
真琴「あ、そだ。浩平、それに載ってるようなことしないでね」
オレは雑誌の上に顔を落下させていた。
浩平「あ、あぁ…」
紙とインクの臭いを嗅ぎながら、オレはただ呻くように答えるしかなかった。
オレが作ったチャーハンをあらかた食べ終え、残りをスプーンでつつきながら真
琴は言った
真琴「ねぇ浩平」
浩平「ん?」
真琴「あのね、えと…」
何やら恥ずかしそうだった。
浩平「どうした?」
真琴「あのね…明日から、真琴も晩ご飯作っていい?」
浩平「ん?あぁ、別にいいけど。その方がオレも楽出来るし」
しかしオレは気になることがあったので聞いてみた。
浩平「だけどお前、料理できるのか?」
真琴「あうぅ…」
困った顔になる。
どうやら予想通りだったようだ。
浩平「ま、オレも出来る限り手伝ってやるよ。それに」
そう言って食卓の上に置いてあった本を指差す。水瀬に教えてもらった本だ。
浩平「この本を見ながらだったらお前でも出来るだろ」
まさに料理の入門書、と呼ぶべき本だった。
真琴「うん」
嬉しそうに頷いた。
だけど腑に落ちない点がある。
浩平「もしかして…これも長森の差し金か?」
真琴「差し金ってどういう意味よ」
真琴はさっきの嬉しそうな表情から一転、不機嫌そうに言う。
真琴「これも、女と女の約束なんだから」
浩平「そうか、分かった」
言い方が違うだけで本質は同じような気がするが。
そしてオレは付け加えた。
浩平「ただし、一日交代な」
真琴「どうして?」
浩平「そうだな…これは長森に対する意地、ってやつかな」
引っ越してからも気にかけてくれるのは悪い気はしないが、世話になりっぱなし
というのは少し気に入らなかった。
真琴「良く分かんない」
浩平「まぁ気にするな。とにかく一日交代でいいな?」
真琴「うん、分かった」
オレ達はリビングでくつろいでいた。
ふと思い出したことがあったので、真琴に言った。
浩平「なぁ真琴」
真琴「なに?」
真琴はマンガから顔を上げた。それほどまだ熱中していなかったらしい。
浩平「学校、行きたくないか?」
真琴「え?今日も行ったけど?」
浩平「あ、いや、そうじゃなくてな」
真琴「?」
どうやらこちらの意図を掴みかねているようだ。
浩平「いや、今日、校門まで来ていただろ?寒い中ずっと待っているよりは、中
に入った方が、と思ってだな…」
そして、授業は一緒に受けられないけど昼休みには一緒に食事できること、また、
制服の手配までは済ませていること、ただし実際に制服が手に入るのは数日後に
なりそうだということなどを伝えた。
しかし真琴は不安そうだった。
真琴「中には人、いっぱいいるんでしょ?」
浩平「それはそうだな。学校だし」
真琴「…あうぅ…」
真琴はかなり困っているようだ。
そうか、こいつはかなり人見知りするんだったな…。
浩平「嫌ならそれでいい」
真琴はほっとしたようだった。
浩平「だけどな、今日のように校門でずっと待っている、というのはやめてくれ」
真琴「どうして?」
浩平「お前が風邪とか引いたら困るからだ」
真琴「心配してくれてるの?」
オレは慌てて否定した。
浩平「困るからだ、って言っただろ。看病しなきゃいけないのはオレなんだから」
真琴「ふーん」
真琴はオレを値踏みするかのように見つめ、そして言った。
真琴「分かった。真琴も学校行く」
浩平「え?いいのか?」
真琴「商店街も人でいっぱいだったもの。平気よ」
そういえばコイツと初めて会ったのも商店街だったっけ。
真琴「それに浩平の頼みだものね。仕方ないじゃない」
つまりオレが借りを作った形にしたいわけか。別にいいけどな。
浩平「それじゃあ頼む。あと、それから」
真琴「何?」
浩平「明日も学校に来るのは構わないけど、放課後にしてくれ」
そして終業時刻を真琴に教える。
だけどどこか不満そうだったので付け加えた。
浩平「帰りに商店街寄って、あの店で肉まん買って帰ろう」
すると真琴はすぐに笑顔になった。
真琴「うん、分かった♪」
はぁ、なんて分かりやすい奴なんだ…。
その後、真琴に続いて風呂に入り、そのまま部屋に戻った。
そしてベッドに潜り込むと、そのまま静かに眠った。
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