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★1月10日 日曜日★
だよもん星人こと長森の影響を受けたわけでもないが、このところ、朝食には牛
乳を飲むようにしている。
だから今日もキッチンで牛乳を飲みながらご食を食べていた。
しかしその絶妙な味のハーモニーには感慨を覚えるばかりであった。
浩平「なぁ長森、やっぱり牛乳にご食は変だぞ…」
明日からは朝食はパン食にしよう。その方が楽だし。
すると階段を一段一段、ゆっくりと降りる音が聞こえてきた。
しばらくして、昨日の女の子が台所に顔を出した。
浩平「よぉ、起きたか」
女の子「…」
浩平「待ってな、いま牛乳を入れるから。温かいのと冷たいのとどちらがいい?」
女の子「…温かいの」
浩平「そうか、それじゃもうちょっとだけ待ってろよ」
牛乳を電子レンジで温め、マグカップに入れて手渡してやる。
浩平「ほれ、ちょっと熱いから気を付けて」
女の子「…」
黙って女の子はマグカップを受け取り、口を付ける。
女の子「…熱っ」
浩平「ごめん、熱かったか?」
女の子はふるふると首を横に振り、飲み続けた。
浩平「えと、ごはん…はやっぱり牛乳には合わないから、パンならその袋にまだ
   残っているはずだから、適当に食べてくれ」
オレの言葉に促されてか、女の子はコンビニの袋からパンを取り出し、袋を破っ
てひとかじり。
今日女の子が選んだのはジャムパンだった。
オレは牛乳でご食を食べるのは諦め、コンビニの袋から烏龍茶のペットボトルを
取り出し、コップに注いだ。
そしてごくごくと飲み干し、一息ついた。
浩平「ふぅ」
見ると女の子は食べるのをやめていた。
浩平「もういいのか?」
黙って女の子は頷いた。
浩平「そうか」
オレはそう言うと、残っていたご飯を一口で平らげた。
浩平「さて、と。ここで聞くのもなんだから、リビングにでも行こうか」
そう言ってリビングへと向かう。女の子も後に付いてきた。

浩平「それで、だ」
女の子がソファーに座るのを確認してからオレは口を開いた。
浩平「…何から聞いたらいいものやら」
聞きたいことが多すぎて少々混乱していた。
浩平「それじゃとりあえず…。オレは君に何をしたんだ?オレは君を知らないし、
   恨まれるようなことをした覚えもないんだけど」
女の子「…分かんない」
浩平「分かんない?」
思わずオレは女の子の言葉をそのまま返していた。
女の子「分かんないけど、あなたの顔を見ていると無性にむかつくの」
う、きついこと言うなぁ…。
そりゃ確かにハンサムとは言えない顔だけど…。
浩平「それは、オレの顔が不快感を与える作りをしているということか?」
女の子「そういう訳じゃないけど…」
もう少しでオレを生んでくれた両親を恨むところだった。
浩平「つまり、具体的には忘れてしまったけど、オレに何かされた覚えがある、
   ということなのか?」
女の子「そういうことになるのかな」
浩平「うーん」
弱った。
具体的な話が無ければ思い出せることも思い出せないだろう。
しかし女の子は間違いなくオレに恨みを抱いているようだ。
浩平「そのむかつきは、オレが謝ったくらいでは治まらないのか?」
女の子「…うん、多分そうだと思う」
浩平「そうか…。でもオレも、自分が何をしたか分からないまま謝っても、謝っ
   た気には到底なれそうにもないけどな」
謝っても許してもらえない。
誤解というわけでもなさそうだ。
だとすれば…。
オレは頭を掻いた。よりによってこのような方法しか無いとは。
他にも方法が無いわけではない。しかし、昨晩のこの女の子の怯えようを見てい
るせいか、そのような方法を選ぶのは人間として間違っているような気がした。
だから、選べる方法はこれしか無い。
…まあいい。それほど時間もかからないだろう。むしろこのままずるずると引き
ずる方がよほどイヤだ。
ため息をつきながらオレはソファーから立ち上がり、女の子の前に立った。
そしてそのまま膝をつき、顔を女の子に近づけた。
女の子「な、なによ」
女の子はオレから逃げるように顔を逸らす。
しかしオレは気にせず続けた。
浩平「オレには身に覚えがないが、君はオレを恨んでいる。オレとしては恨まれ
   たままというのは非常に気分が悪いので、さっさと恨みを晴らして欲しい」
女の子「…」
女の子は黙ったままだ。
やはりこの手しか無いようだ。
なに、七瀬にやられたことを考えればそれほど大したことじゃない。
あの時は歯が折れたからな…。
オレは腹に気合いを入れ、覚悟を決める。
浩平「だから、気が済むまで殴ってくれ」
女の子「え?」
女の子は怪訝そうな顔をする。無理もない話だろう。
だからオレは誤魔化すように言った。
浩平「いや、実を言うとまだはっきり目が覚めてなくてな。ここで一発気合いを
   入れて欲しかったりもするんだ。だから遠慮なく、景気いいのを、な」
女の子「え?え?」
女の子の頭の上に「?」マークが浮かんでいるのが見えるようだ。
だけどオレは話し続けた。
浩平「ただしグーパンチはやめた方がいい。君の手だと拳を痛めるだけだから。
   だからビンタがお勧めだな。往復ビンタというのもなかなかいいな。肘で
   遠心力を生み出し、手首のスナップを利かせるんだ」
女の子「で、でも、そんなことしたら…」
浩平「ん?オレを殴りたかったんじゃなかったのか?」
女の子「…」
浩平「それとも跡が残るのを気にしてくれてるのか?なに、どうせ今日は予定も
   無いし。一日中家にいるつもりだから。明日までには腫れも引くだろ」
女の子「でも…」
浩平「恨みを晴らせるチャンスじゃないか。遠慮なんてする必要ないから、ほら」
右頬を指差しながら差し出す。
女の子はしばらく呆然とオレの頬を見ていたが、不意につぶやいた。
女の子「…いいわよ、もう」
浩平「え?」
女の子「何だかやる気なくなっちゃったわよ。それにあなたの顔を見てると、ど
    うして恨んでたのかも分かんなくなったし」
浩平「…そうか」
緊張が解けたせいか、大きなあくびが出た。
浩平「折角期待してたのにな」
そしてオレは両手で両頬をぺちぺちと叩き始めた。
女の子「な、何してるのよ!」
浩平「ん?ただの目覚ましだけど」
気にせず叩き続ける。
女の子「やめてよ、やめてよ!…あーもう、赤くなっちゃってるよぅ…」
浩平「はー、やっと目が覚めた」
女の子「あぅー、わけわかんない…」
当初の予定とは狂ってしまったが、結果として女の子の恨みは晴らせた、という
か無くせたようなので、オレは先に座っていたソファーに戻った。
浩平「それで、と。とりあえず1つの問題は片づいたわけだ」
女の子「もう無茶苦茶よう…」
ちょっと頬が痛いが、気にしない。
オレは深く座り直し、言葉を続けた。
浩平「では、次の議題に移りたいと思う。そもそも、君は誰だ?どこから来た?」
女の子「…分かんない」
浩平「分かんない?」
さっきも同じようなやり取りをした気がする。
浩平「わかんないって、自分の名前も?住所も?電話番号も?」
女の子「…うん」
浩平「他に思い出せることはないのか?」
女の子「………うん」
浩平「…」
記憶喪失というやつか。弱ったな…。
女の子「ただ『あなたが憎い』っていうことだけ覚えてたの。今じゃどうでも良
    くなっちゃったけど…。そう、あなたが唯一のあたしの道しるべだった
    のよ」
浩平「オレのことだけ覚えてたという事か。何だか光栄だなぁ」
女の子「そんないいことじゃないと思うけど…」
浩平「そうか?身も知らぬ女の子に覚えてもらえている…ロマンじゃないか」
思い切り嫌そうな顔をして女の子は言い放つ。
女の子「…変なやつ」
浩平「ぐはっ」
少なからぬ精神的ダメージを負ってしまった。
浩平「ま、まぁそれは置いておいてだ」
折原浩平は打たれ強いのだ。
浩平「折原浩平」
女の子「?」
浩平「おりはらこうへい。オレの名だよ。いつまでも“あなた”って呼ばれるの
   はこそばゆいからな。”おりはら”なり“こーへー”なり、呼び捨てにし
   てくれて構わないぞ」。
女の子「こーへー」
なんだか力が抜ける。
浩平「…いや、今の無し。“こうへい”としっかり呼んでくれ」
女の子「こーへー」
更に力が抜ける。
浩平「いや、だから…」
女の子はいたずらっぽく笑った。
なんだ、笑えばとても可愛いじゃないか…。
そして笑みをたたえたまま言った
女の子「こうへい、ね。分かったわよ。こう呼べばいいんでしょ」
浩平「そうしてくれると助かる…」
打たれ強いはずの折原浩平は跡形もなかった。
浩平「それで、残る問題は君の名前だけど、どうしようか」
女の子「そう言われても、そう簡単には思い出せないんだけど」
浩平「そうだなとりあえず…“殺村凶子”ってのはどうだ?」
女の子「何それ?」
浩平「ちなみにこのように書く」
字を書いて女の子に見せた。
ばきっ。
女の子の正拳がオレの眉間に炸裂していた。
浩平「ぐっ…いいパンチを持ってるじゃないか…」
親指を立て、女の子に賛辞を送る。
同時に、もしこのパンチで好きなだけ殴られていたら…と考えたが、恐ろしい結
末しか思い浮かばなかったので考えないことにした。
女の子「イヤよそんな名前!」
浩平「そうか?いかにも“復讐者”という感じでかっこいいと思ったんだけど」
女の子「イヤなものはイヤなのよぅ!」
浩平「それじゃ、思い出せるまで待つしかないか…」
女の子「そうしてちょうだい」
浩平「そうか…じゃ」
そう言ってソファーから立つ。
女の子「どこ行くの?」
浩平「やっぱりちょっと寝てくる」
思ったよりさっきのパンチで受けたダメージは深刻なようだった。頭がふらふら
している。
単に寝不足という話もあるが。
浩平「昼までに起きてこなかったら適当に食べてくれていいから。パンの在庫は
   まだまだ有るし、インスタント食品なら戸棚に放り込んである。電子レン
   ジの使い方は分かるよな?」
女の子「うん」
浩平「それじゃ、おやすみ」
そしてオレは自分の部屋に行って、ベッドに潜り込んだ。
意識が遠ざかるのはすぐだった。

声「きゃーーーーーーっ!!!」
オレの眠りは叫び声で破られた。
慌てて飛び起きる。
浩平「なんだなんだ、どうした!」
悲鳴を上げているのはあの女の子だった。
オレの部屋の入り口で、オレを指差しながら叫んでいた。
とりあえず自分の体を見てみたが、特に異状は認められない。
ベッドから抜けだし、女の子の前に立った。
浩平「とりあえず落ち付けって、ほら」
何とか女の子を落ち着かせる。
浩平「何だって悲鳴なんか上げたんだ?」
女の子「だって、浩平がそこで寝てたから…」
浩平「へ?そこ、って、これはオレのベッドだから寝てて当然だと思うけど」
女の子「え?」
浩平「ちなみにこの部屋はオレの部屋。思いっきり散らかってるけど、適当にく
   つろいでくれたまえ」
女の子「なんだ、そうだったの。あたしはてっきり…」
浩平「てっきり?」
女の子は赤くなって俯いてしまった。
女の子「…てっきり…あたしの匂いを…」
ぐは。途中まで聞いて分かってしまった。
全身の力が抜けた。危うく壁で頭を打つところだった。
浩平「オレはそんな変態さんじゃないって…」
壁に手をついて体を起こしながら女の子に言った。
女の子「疑ってごめんなさい…」
浩平「いや…こっちも説明不足だったし。それで?」
女の子「え?」
女の子はきょとんとしている。
浩平「叫び声上げるために来たんじゃないだろ?」
女の子「えーと…あ、そうそう、そうなの!」
表情をぱっと明るくした。
浩平「…お嬢さん、分かるように説明してくれないか」
女の子「えーとね、えーとね!」
聞いちゃいねぇ。
女の子「名前思い出したの!…名前だけ、だけど」
最後の言葉は恥ずかしそうに付け足された。
女の子「さわたりまこと。これが私の名前」
浩平「…さわたり…まこと?」
何かが心の奥底で引っかかるのを感じた。
女の子「そうよ、さわたりまこと。ちなみにこう書くの」
女の子は「沢渡真琴」と書いて見せてくれた。
…ちりん…。
何か、澄んだ音色が聞こえたような…。
浩平「沢渡真琴、か。いい名前じゃないか」
沢渡真琴「うん、いい名前でしょ」
とても嬉しそうだ。
浩平「それじゃよろしくな。殺村凶子」
めきゃっ。
鋭い手刀がオレの額を割っていた。
浩平「ふ…いいチョップだぜ」
賛辞を送る。ちょっと涙が出てしまった。痛い…。
沢渡真琴「そんな名前じゃないって言ってるでしょ!」
本気で怒っているようだった。
浩平「ちょっとお茶目したかっただけなのに…」
涙目で訴える。
沢渡真琴「限度があるわよ限度が!」
浩平「ごめん、オレが悪かった」
沢渡真琴「分かればいいのよ」
カラッとした性格のようだ。見習うべきかも。
浩平「それでは改めて。よろしく、沢渡真琴」
沢渡真琴「うんっ♪」
やっぱりとても嬉しそうだった。
浩平「それで、なんて呼べばいい?」
沢渡真琴「真琴でいいわ。まこと」
浩平「ま〜こ〜と〜」
地獄の底から響いてくるような声で言ってみた。
ずばっ。
真琴のつま先がオレの鳩尾に突き刺さっていた。
浩平「ぐ…素晴らしいキックだ…」
最大級の賛辞を送る。
…父さん、オレ、もうじきそっちに行くかも…。
真琴「そんな呼び方やめて!」
浩平「りょ、了解…」

浩平「それで、結局思い出せたのは名前だけなんだよな」
真琴「うん…」
真琴は俯きながら頷いた。
弱ったな…。
真琴の持ち物を調べてみたが、女の子が持つには無骨すぎる財布の中にも、女の
子が持つにはシンプルすぎる鞄の中にも、手がかりになりそうなものは何一つ無
いようだった。
ふと、何か1枚の紙が鞄の中に入っているのに気付く。
取り出してみると、プリント機のシールのシートだった。
見てみれば、真琴が一人で写っている。
浩平「…何やってんだお前?」
真琴「ほっといてよぅ」
真琴はむっとしたようだ
聞けば、記憶を失って街をさまよっているときに、女子高生達が楽しそうに写し
ているのを見たので、自分もやってみたのだとか。
オレは「友達居ないのか」と言いかけて、やめた。
当たり前だ。記憶を無くしているのだから。
ふと真琴を見ると、不安そうな目でオレを見ている。
浩平「どうした?」
真琴「…警察に突き出すの?」
もちろん考えなかったわけではないが、それではあまりにも可愛そうだと自分の
中で却下したのだった。
浩平「いや、それは考えてないよ」
そう言うと、真琴は心底安心したようだ。
真琴「よかった…」
浩平「とりあえず、記憶が戻るまでここにいればいい。自分の家だと思ってくれ
   ていいから。変に堅苦しく思われたらこっちがたまらない」
真琴「…」
真琴は黙ったままだったが、しばらくしてから頷いた。
浩平「でもまだ問題は山積みなんだよな…」

とりあえず、当面の生活資金は大丈夫のはずだ。
由紀子さんから生活費として、オレがあと数人増えても大丈夫なくらいは貰って
いる。それに貯金もそれなりに有るし。真琴に幾らかお小遣いをあげても大丈夫
だろう。

真琴の寝場所については由紀子さんの部屋を使うよう伝えた。パジャマは当面は
由紀子さんのを借りるつもりだが、明らかにサイズが違うので、近いうちに買わ
ないといけないだろう。
…ついでに服も何着か買わないといけないだろうな。

オレが学校に行っている間は真琴には留守番してもらうしかないだろうな。前の
学校なら、椎名みたいに授業に潜り込ませることも出来ただろうが、転校して間
もない今の学校ではさすがに無理だと思う。
だからとりあえず、家の中の各設備の説明を真琴にしておいた。
ただし、火だけはオレがいないときには扱うなときつく言っておいた。
「料理くらいできるのに」と言っていたが、これだけは譲るわけにはいかない。

食べ物の方は、朝食はパン食にしたから問題ないだろう。昼食は冷蔵庫や戸棚の
中の在庫で何とかしてもらう。
問題は夕食だ。出来ればまともなものを作りたいところだが…。水瀬に教えても
らった本の料理を試してみるしかないか。

さて、残った問題だが。
…ひとつ屋根の下に若い男女…。
何気なく真琴を見てみた。
真琴「ん?」
まるで邪気のない瞳でオレを見ている。
…こんなヤツ相手にそんな気になることもないだろう。
真琴「どしたのどしたの?」
浩平「いえ、何でもないです…」

さてと。山積みだった問題は何とか解決できそうだ。
ぐ〜。
浩平「ん?何の音だ?真琴か?」
真琴「違うわよ。浩平じゃないの?」
浩平「オレじゃないぞ」
ぐ〜。
真琴「やっぱり浩平じゃないの」
浩平「オレだったのか、それは盲点だった」
そういえばずいぶん腹が減っているな。
そう思いながら時計を見た。
浩平「…3時…」
朝食から以降は何も食べていなかったから、そりゃ腹が減るはずだ。
浩平「真琴は何か食べたのか?」
真琴「食べたよ。あんパンだけだけどね」
まだ買い置きは残っているはずだが、今から食べても中途半端になるな…。
それなら、とオレは言った。
浩平「真琴、買い物にでも行くか」
真琴「え?」
浩平「買い物だよ買い物。デパートに行くんだ。お前のパジャマだとか服だとか
   買ったり、食料品の調達したり。ついでに今日の夕食は外食だ」
真琴「…」
真琴は黙っている。
浩平「どうした?」
真琴「いいの?」
浩平「何が?」
真琴「何が、って…。あたしなんかにお金使うなんて…」
オレはやれやれというように頭を振った。
浩平「あのなぁ、いつまでも同じ服着ているわけにもいかないだろ。それとも洗
   濯してる間、裸でいるつもりか?」
真琴「それは…イヤ」
浩平「それともオレの服でも着るか?」
真琴「それもイヤ」
浩平「だったら買うしかないだろ。そういうことだ」
真琴「じゃあ…行く」
浩平「おう」
そうと決まればあとは出かけるだけだ。

浩平「…やっぱり何か食べておくんだった…」
商店街に着いたとき、オレは空きっ腹を抱えて呻いていた。
真琴「なに情け無いこと言ってるのよう。まだ何も買い物終わってないわよ」
真琴は元気だった。何だかはしゃいでいるようにも見える。
浩平「…そうでした。…はぁ」
オレはため息をつくしかなかった。

まず真琴の服の買い物。パジャマとか服とかを買い込んだ。
一応服選びには付き合ったが、さすがに下着を買うときは逃げ出した。
真琴「やーい浩平の意気地なしー」
商店街を歩きながら、真琴にからかわれる。
浩平「やかましい!男の純情をもてあそぶんじゃないっ」
真琴「へへーん」
浩平「くっ…それにしてもそんなパジャマで良かったのか?」
オレは何とか話を逸らそうとした。
真琴「何が?」
浩平「いや、選んだオレが言うのも何だけど、ヘンじゃないか、それ」
ちなみに全身にデフォルメされたカエルがプリントされているパジャマだ。
浩平「ほとんど冗談だったんだぞ」
真琴「いいわよ、可愛いじゃないの」
浩平「可愛いかぁ?…ま、真琴が気に入ってるんならいいけど」
それに言われてみれば可愛いような気がしなくもなかったりする。
浩平「ところで…」
オレは商店街の時計を見た。6時半。そろそろ夕食にしてもいい時間だ。
浩平「そろそろ夕食にしないか」
真琴「そうね…。ねぇ、あれは何?」
浩平「ん?」
真琴の指差した方を見てみる。中華惣菜屋だろうか。軒先にセイロが置いてあり、
景気良く湯気を吹き上げていた。
浩平「ああ、ありゃ肉まんだろ」
真琴「肉まん?…ねぇ、真琴、あれ食べたい」
浩平「今からか?夕食が食べづらくなるぞ」
真琴「1個ぐらい大丈夫だって」
浩平「まぁ1個ぐらいなら大丈夫か。それなら行ってみるか」
真琴「うん♪」
そして店先に向かい、肉まんを2個注文する。実はオレも食べてみたかったのだ。
真琴「…」
浩平「…旨いな、これ」
実にこの店の肉まんは旨かった。オレは料理番組の解説者じゃないのでうまく表
現出来ないが、とにかく旨かった。
オレは真琴の方を見る。
真琴は頷いた。
そしてオレは店員に言った。
浩平「すみません、肉まん10個ください」

オレ達2人は家のリビングでくつろいでいた。
いや、伸びていた。
店で買い込んだ後、家に帰ってから食べたのだが、実に恐ろしい肉まんだった。
食べても食べても嫌にならない、それどころか次が欲しくなる、魔性の味だ。
それでオレ達2人は買い込んだ肉まん全てを食べ、こうやって伸びている、とい
うわけだ。
浩平「真琴…おいしいけど、今度からはほどほどにしような」
オレは呻くように言った。
真琴「…うん…」
真琴は弱々しく答えた。

浩平「さて、と」
オレはよろよろと立ち上がった。
真琴「どうしたの?」
浩平「いつまでもこうして伸びているわけにもいかないからな。風呂を沸かして
   くる」
真琴「あ、それなら真琴がするわよ」
真琴はぴょんと立ち上がった。オレより回復が早いとは恐るべし。
浩平「いいのか?」
真琴「うん、任せて」
真琴は頷いた。
浩平「そうか。それなら一番風呂の権利も譲ろう」
真琴「わーい♪」
両手を挙げて喜んだ。

真琴が風呂を沸かして入っている間、オレは何も特にすることは無かった。
テレビも何も面白いものがやっていないので消したままだ。
浩平「…」
しばらくぼーっとしていたが、ふとあることを思いついた。
水瀬に教えて貰った本にはかなりの料理が載っていたが、弾数は多い方がいい。
長森に電話して秘伝のレシピを伝授してもらおう。
気恥ずかしいとか思っている場合じゃない。
オレだけなら毎日同じメニューでもいいが、真琴が一緒にいるのならそうはいか
ない。
そう考え、立ち上がりかけたとき、ふと疑問に思った。
何でオレはこんなにあの子のために一生懸命になってるんだ?
考えてみれば確かに妙だ。今では和解しているものの、最初はオレに恨みさえ持っ
ていたヤツだ。それに出会ってまだ2日しか経っていない。疑問に思って当然だ
ろう。
浩平「…いや」
オレは頭を振った。単にオレがお節介好きなだけだ。
そうでなきゃ、あんなに手の掛かる椎名の世話なんか出来るはずがない。
自分の行動に納得できたので、オレは廊下に向かった。

トゥルルルル、トゥルルルル…
長森『はい長森です』
浩平「よお、だよもん星人」
長森『……』
浩平「…あれ、長森?」
長森『……?』
浩平「もしもーし」
長森『………』
突如沸き起こる違和感。
そしてそれは徐々にオレの心を浸食してゆく。
…一体何なんだこれは。
オレの内部からじわじわと、体まで蝕んでゆくように感じられた。
しかしこの違和感は長森の言葉で払拭された。
長森『……あ、どうしたの浩平?』
浩平「どうしたの、じゃないだろ。しばらく反応がなかったぞ」
長森『ごめんごめん。何か私ぼーっとしてた』
浩平「大丈夫か、お前?」
長森『うん、大丈夫。あ、そうだ』
浩平「ん?」
長森『あけましておめでとうございます』
そういえば新年の挨拶がまだだったっけ。
浩平「あ、あぁ、おめでとう」
長森『ねぇねぇ、新しい学校ってどんな感じ?いきなりいじめられてない?』
浩平「あのなぁ…」
まだまだ分からない事だらけだけど、と付け加えた上で、今住んでいるところと、
新しい学校の説明をしてやった。
長森『ふーん。なかなか良さそうな学校だね』
浩平「昨日の4時間しか授業受けてないから、どんな先生がいるのかほとんど分
   かってないけどな」
長森『え?昨日も授業あったの?』
浩平「ああ。どうやらこっちの学校は土曜日でも毎週あるらしい」
長森『大変そうね』
浩平「ま、どうせ休みだからって何かするわけでもないけどな」
長森『そりゃそうか。浩平だもんね』
浩平「なんだそりゃ」
長森『えへへ…。そう言えば浩平』
浩平「ん?」
長森『今住んでるところって、小さい頃に何度か行ったこと有るって言ってなかっ
   たっけ』
浩平「有るよ。夏休みとか冬休みに何度か。でもかなり小さい頃の話だけどな」
長森『ふーん』
…ちりん…。
浩平「ん?」
長森『どうしたの?』
浩平「いや、何か音が聞こえた気がしたんだけど…聞こえなかったか?」
長森『ううん、何もきこえなかったよ』
浩平「そうか、だったら気のせいなんだろうな」
長森『うんうん気のせい。どうせテレビの見過ぎで寝不足になってるんだよ』
浩平「何だよそれは」
長森『私は心配だよ。浩平がちゃんと独り立ちできるかどうか』
浩平「またそれかよ」
電話してまで長森に保護者面されるとは思わなかった。
長森『それで、用件はそれだけ?』
浩平「えーと。あ、いや、まだだ」
肝心の用件が済んでいなかった。
とりあえず用件を伝える前に、由紀子さんが長期出張で居ないことと、それで自
分で料理をしないといけないことを伝え、現状を説明した。
ただし、真琴が家に転がり込んでいることは伏せた。
こんな事が長森に知れたら何と言われるか分かったものじゃない。
浩平「それでだ。今日の用件だけどな…」
真琴「浩平、お風呂あいたよ♪」
オレの目論見は数秒で潰えた。
日頃の行いが悪いのだろうか。
長森『あれ、いまの声なに?女の子みたいだったけど』
浩平「ききき気のせい気のせい」
オレは大慌てで否定する。
真琴「どしたの浩平?」
オレに近づき疑問を口にする真琴。
その真琴にオレはジェスチャーで、電話中だから静かにしろ、と伝える。
真琴「ねぇねぇ誰と話してるの?」
オレにはジェスチャーの才能は無いということらしい。
長森『やっぱり女の子だ。浩平〜♪』
声が笑っている。何を考えているか想像出来るだけに腹立たしい。
浩平「…はぁ」
どうやら腹をくくるしかないようだった。
とりあえず真琴には昔の友達と話してるんだと伝えた。
そして長森には真琴との出会いから現在に至るまでを大まかに話した。
長森『ふーん、復讐のために現れた少女か…ロマンチックねぇ』
さすが幼なじみだ。考えることが似ている。
浩平「いや、だから、そんなに格好のいいものじゃないと…」
長森『それに、もしかしたらその子、浩平の運命の人かも知れないよ』
ぐ…。そういう話に持っていくなよ…。
浩平「なんでそういう話に持っていこうとするんだ」
長森『ねぇねぇ、その子とお話ししてもいい?』
人の話を聞いちゃいねぇ。
浩平「却下」
長森『そんなこと言わないでよ、ね?』
浩平「……はぁ。分かったよ」
オレは折れた。ここで下手な出方をすれば、あっちの学校でどんな噂を流される
か分かったものじゃない。住井あたり、確認のためにわざわざ乗り込んでくる可
能性すら有る。
浩平「ちょっと待ってろ。…ほら真琴、電話」
そう言って真琴に受話器を手渡す。
真琴「あたしに?」
真琴はきょとんとしている。
浩平「そう。オレの友達がお前と話したいんだとさ」
真琴「…」
真琴は戸惑っている。無理もない。
浩平「大丈夫だ。人畜無害は保証する」
受話器から何か聞こえてくるが気にしない。
浩平「ほら、大丈夫だって」
真琴はオレが差し出した受話器を恐る恐る受け取り、おずおずと話し始めた。
真琴「…もしもし」
オレは様子を見ていた。
真琴「…うん。……うん、そう」
うーん、こんなに人見知りするヤツだったのか。気付かなかった。
オレに対する態度からは全く想像できなかった。
真琴「え、そうなの?うん」
しかし長森はこういう奴の扱いが上手いからなぁ。
真琴「あは、そうなんだ」
かなりうち解けてきたな。さすがだ、長森。
真琴「あはは、浩平ってそういう奴なんだ」
オレ?何でここでオレの名前が出る?
…いや、よく考えてみろ。
長森と真琴で共有できる話題って、オレのことぐらいしか無いじゃないか。
真琴「きゃはは♪そんなことが有ったんだ」
しまった。長森の奴、真琴にオレの恥ずかしい話をどんどん暴露しているに違い
ない。
こりゃ無理にでも話をやめさせ…。
真琴「うんうん♪」
…駄目だ、もう手遅れだ。諦めるしかない。
浩平「はぁ…。風呂にでも入ろ…」

陰鬱な気分のまま風呂から上がり、廊下を覗くと、まだ電話は続いていた。
浩平(こりゃ電話料金の請求書が楽しみだ…)
苦笑しながら呟くオレの姿を見て、真琴が嬉しそうに長森に言った。
真琴「あ、瑞佳、浩平お風呂から上がったよ♪」
…もう瑞佳呼ばわりかよ。速すぎる。これも長森の人徳のなせる業か。
真琴「はい」
オレに向かって真琴は受話器を差し出す。
真琴「お風呂から上がってくるの待ってたの。瑞佳が話があるって」
元々オレが長森に話があったんだが、ということは心にしまっておこう。
黙って真琴から受話器を受け取った。
浩平「もしもし」
長森『かわいーーーーーーーーー!』
オレの左耳は壊滅的ダメージを喰らった。
浩平「ばかっ、電話で大きな声を出すな!耳が潰れるかと思ったぞ」
長森『あ、ごめん』
まだ左耳はわんわん言っているが、声が聞こえない程じゃない。
長森『ねぇねぇ、可愛い子じゃないの!』
浩平「それは実物を見ていないからだ。ヤツの素顔はおぞましいの一言に尽きる」
長森『嘘だよね』
浩平「あぁ」
速攻で見破られた。もう少し工夫すべきだったと反省する。
長森『ねぇ、あんな可愛い彼女どこで見つけたの?』
浩平「だから彼女じゃないって…。それにそれはさっき説明しただろ」
長森『もうちょっと詳しく話して欲しいな』
浩平「まったく…」
そして真琴との出会いから始まり、現在に至るまでの経緯をさっきよりは詳細に
伝える。
そしてオレには恨まれるようなことは全くした覚えがないことも念押しで伝えた。
長森『やっぱり運命的な出会いじゃない』
浩平「まだ言うか…」
どうあってもそういう事にしたいらしい。
浩平「それで、どういうことを真琴に話したんだ?」
長森『知らない方がいいと思うよ〜』
浩平「いや、是非とも聞かせてくれ」
どんな武器が真琴に手渡されたか知っておかないと、今後の戦いに支障が出てし
まう。

浩平「…」
聞かない方が良かった。
オレがとっくに忘れてしまっている事まで、長森は真琴に話していたのだ。
長森『でもあたしから話したんじゃないもん。真琴の方から聞きたい、って言っ
   たんだもん』
気休めにもならないって…。
オレは憂鬱な気持ちを振り払うために、話題を切り替えることにした。
浩平「それで、そっちの様子はどうだ?」
長森『どう、って言われても…。年末年始挟んでるけど、浩平が転校してからそ
   んなに日数経ってないもん』
浩平「言われてみればそうだな」
それでも気になったので一応聞いてみることにした。

やはり聞くまでもなかったかも知れない。
大して様子は変わっていないようだったからだ。
だけど、一番の気がかりだった椎名が相変わらずだというのは嬉しかった。
オレがいなくても頑張っているんだな、椎名。
あと、みさき先輩と澪のことも気になってはいたが、さすがに学年が違う生徒の
ことまでは長森も知らないだろうから聞かなかった。

ふと時計を見る。
浩平「げ」
長森『どうしたの?』
電話を受けた方は料金を気にしなくていいから呑気なものだ。
浩平「かなりの長電話になってしまってるぞ」
長森『えと…あ、ほんとだ』
浩平「それじゃ、明日は月曜日だから、そろそろ切るぞ」
長森『うん、それじゃまた。真琴にもよろしくね』
浩平「あぁ、それじゃあな」
そう言ってオレは受話器を置き…。
大事なことを忘れていた。
慌てて受話器に話しかける。
浩平「すまん長森。もう1件だけ」
長森『何?』
良かった。まだ繋がっていた。
浩平「チャーハンしか作れないオレでも作れる簡単な料理って無いか?」
長森『料理?うーん…。あ、そうだ。あたしが愛読してる本の名前教えてあげる
   よ。あれに載ってる料理なら浩平でも出来ると思う』
浩平「本の名前…」
嫌な予感がした。
浩平「ちょっと待った。その本の名前って…」
オレは昨日買った本の名前を言った。
長森『うん、それそれ。良く知ってるね浩平』
浩平「知ってるも何も、クラスのヤツに教えてもらったんだよ」
長森『あ、そうなんだ』
長時間遠距離通話して、結局収穫ゼロ。はぁ…。

真琴を由紀子さんの部屋に送った後、オレも自分の部屋に戻った。
そしてベッドに潜り込む。
しかしなかなか眠れなかった。
沢渡真琴…さわたりまこと…。
オレは布団の中で、真琴の口からこの名前が出たときに感じた引っかかりを反芻
していた。
さわたり…まこと…。
心の中のパズルのピースが一致した感触があった。
思い出した。
小さかった頃、オレが憧れていた女性の名前だ。
ということは、真琴は彼女と同一人物か?
…いや、そんな筈はない。彼女はオレより年上だったが、真琴はどう見たって年
下だ。
それなら彼女を知っている誰かだとか。
彼女からオレの話を聞いて、そして彼女と混同しているとか。
…いや、これもおかしい。
オレは彼女とは話もしたことはない。
ただ遠くから、それこそ高嶺の花の如く眺めているだけだったんだ。
それに、この名前は誰にも話していないはずだ。
長森にだって言ったことはない。
…いや、違う。
あの頃一緒に住んでたヤツに話したことがあったはずだ。
あれは確か…。
浩平「いや、いくら何でも違うだろ」
寝返りながら、オレは口に出して呟いていた。
あり得ない。
それより、たまたま同姓同名だった、というほうがよほど現実的だ。
それに、真琴と「沢渡真琴」という名前はあまりにもぴったりし過ぎている。
後から付けられたものじゃない。元からそういう名前なのだ。
オレはそう納得すると、そのまま眠りに落ちていった。

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