時間回廊










<前編>



静かに、そして緩やかに時の流れる場所だった。

昼白色の照明。昼の外の騒がしい気配からその空間は完全に隔離されていて、大人の雰囲気を漂わせているに相応しい、水面を撫でるようなジャズが流されている。

この店のコーヒーは、昔から暇さえあれば良く飲みに来ていた。

今では仕事に忙殺される事も多いので滅多に来れなくなってしまったが、ここの穴場的な雰囲気もコーヒーの味も変わらず、忙しなく駆ける心を静めてくれるようで、今でも、暇さえあればここに来るという習慣は変わらない。


ただ、共にここを訪れる相手がいなくなってしまった、という点では変わってしまった事と言えるけれど。


コクリ、と優作は自分好みのブラックコーヒーを一口のみ、目線を正面の席の向こうにある観葉植物から、明度を落され落ち着きを感じさせる壁面の木目にやり、カラン、とベルを鳴らして入って来た客に意識を向けて、思わず微笑んだ。


その人物は、自分を見つけると真っ直ぐに近づいてきて、少し硬い表情で、日本人特有の「どうも」という言葉で声を掛けてきた。




「・・・座りませんか」




貴方が来るのはわかっていましたよ、ということを言外で告げて、実はマスターから自分を探して毎日来る老人の話を聞いていた事は霞ほども表に出さずに何食わぬ顔で席を勧めた。


全てを明かさない方が楽しめる事もある、とは彼の友人が告げた事だったか。




「・・・・・・ずっと、探しておりました」

「それは、何故とお聞きした方がいいんでしょうか?」




にっこりと笑いながら、未だに真面目な表情を崩さない彼――確か寺井と言ったか――に訊ねて湯気を立たせたままのコーヒーを啜った。

口内に苦味の強い独特の味と芳しい香りが広がる。


そういえば、「彼」はミルクと砂糖を大量に入れて飲んでいたな、とその度に呆れる自分と涼しい顔をして甘すぎるコーヒーとも言えない代物を飲む彼の姿を思い出して小さく微笑んだ。




「・・・・・・貴方は、盗一様を知ってらっしゃいましたね?」

「おや、随分とまた警察の尋問のようにおっしゃいますね?」




硬い声に茶化しては悪いかと思いながらもついつい言わなくてもいいようなことを言ってしまう。

思った通り言葉を詰らせた寺井は、椅子に座った体勢のまま硬直してしまった。おそらく、目の前に出されたコーヒーにも気づいていないだろう。


警察と言う言葉に過剰反応してしまうのは別段珍しい事ではない。怪しいには怪しいが、自分は目の前の老人を良く知っていた。・・・生憎、会った事はなかったが。



確かに、自分は彼――黒羽盗一とは友人だった。秘密の、というのがつくけれど。それに、目の前の男が盗一の付き人であった事も知っているのだから、さっさと教えてやればいい・・・のだが、生来の悪戯心でもう少し焦らしてみる事にした。




「黒羽盗一氏といえば、有名なマジシャンだった方ですよね?その方がどうかなさいましたか?」

「・・・・・・・・・」




にっこり。再び笑顔のままはぐらかされて、寺井は遂に黙り込んでしまった。そして、漸く自分の前にあるコーヒーに気づいたらしく、ゆっくりと味わいながら一口飲んで、落ち着きを取り戻した様子でこちらを見据えて言った。




「・・・失礼しました。私、黒羽盗一様の付き人をやっておりました者でございます。・・・推理小説家の工藤優作様でいらっしゃいますね?」




声音は至って静かで、先程までの取り乱した様子はなく、ただ肯定だけを待っているその言葉に、優作はそろそろ折れる事にした。




「はい、そうです。・・・寺井さんですね?」




と。名指しされた彼は、少し驚いたようだったが小さく頷いて、もう一口コーヒーを飲んだ。







































――生真面目なんだよ


と楽しそうに、それでいて確かな優しさを湛えた目で彼は言った。

彼は誰よりも愛する妻と息子と、そして目の前の付き人の老人を大事にしていただけに、最後のショーに立つ前夜、宝物を見せるような表情で自分の家族を語った彼の怪盗は、世間を騒がす怪盗KIDではなく、確かに黒羽盗一の顔をしていた。



マジシャンで、父親の顔を。


自分はあの初代怪盗の正体を知っていた。その素顔も知っていた。


怪盗の抱えている荷物の正体も、組織の存在も。


だから、目の前で物言いたげにしながらコーヒーを飲む老人が、何を言いたいのかも知っている。

いや、確認したいというところか。




「・・・そろそろ、出ましょうか」




カチャ、と極々小さな音を立てて寺井がコーヒーを飲み干したカップをソーサーに置くと、気まずいともそうではないとも取れる沈黙がその場に流れた。




「・・・そう、ですね・・・」




寺井も、空気を悟ったのか頷いた。それを見た優作はさっさと身支度をして伝票を取る。勿論、寺井の分のコーヒー代も込みで。




「そんな、払って頂く訳には・・・」

「いいですから、盗一の付き人の方なんでしょう?払わせて下さいよ」




たかがコーヒー一杯。これでチャラにしようとは思わないが、自分には負い目があるのだから。



彼等の大事な人と秘密に過ごしていた時間を、今まで一人占めしてきた大きな負い目が。







































どこからか、優しい音色が聞える。



オルゴールの音だ。軽やかだが優しく、懐かしい。



その音色はこの通りにやけに似合っていて、優作は次第に葉をつけ始めた樹々の並木を見上げ、白い石が敷き詰められた道をのんびり寺井と歩く。


前にここを通ったのは、もう随分と昔だ。

その時は独りで通った。その前はまだ彼が一緒だった。


そこを、今は彼の付き人と歩いている。


人生とは数奇なものだとはよく言うが、こうしてまた、彼の縁のある者とこの日本よりも随分離れた街の道を歩く事になるとは奇妙なものだと思う。

ずっと沈黙を決め込んでいる寺井は、気にせずにのんびりと散歩を楽しんでいる優作を物言いた気な目で見ているが、こちらから聞くつもりなど微塵も無かった。


聞きたければ聞けば良いのだ。聞かれそうな事は予測できているが、こちらから切り出したのでは意味が無い問題だから、自分は何も言うつもりはないのだし。

そうしたことは空気から察したのか、寺井はふいに立ち止まり、おもむろに「優作様」と呼びかけてきた。

「優作様」という呼び方にかなり抵抗があったが、友人もそれに苦笑しながらもなんとか受け入れていたのを知っているので、敢えて何も言わない事にする。




「なんでしょう?」

「・・・貴方が・・・盗一様とは、親友に近い関係である事は知っております」




近いというよりは、共犯者のような位置の親友だったのだが。それも敢えて黙っておくとして、優作は寺井の言葉の続きを促した。




「それで?」

「この度、私めが貴方を訪ねさせて頂いたのは・・・」




じっと何かを堪えるような口調。良い淀むのも無理はない、彼がここに来る事だって、かなり抵抗が有ったに違いないのだ。


偶には良いか、とほんの小さな救いの手を伸ばしてみる。




「――寺井さん。全部言おうとしなくて良いんですよ」




一言で、大体分かるのだから――否、もう解っているという方が正しいだろうか。それにしてもカウンセラーのような言い草に、つい内心で自嘲した。

しかし、その言葉で踏ん切りが付いたようで、彼は重々しく口を開き、本当に立った一言だけ言った。




「・・・・・・月下の奇術師が、再び立ちます」




と、それだけ。











知っていますよ、と今日何度目か解らない呟きを心の中で溶かして跡形も無くなるくらいまで消してしまう。


初代・怪盗KIDが死んでから7年の歳月の間に、彼の偽者なんてそりゃあもう掃いて腐る程いた。それほどに世の中を騒がせ浮かせた存在であったし、人を惹き付ける憧れでもあったのだ。

中には上出来ともいえそうな輩もいたが、本人に直接対峙している自分が気づかない訳も無く、ここ 7年、「怪盗KID再来か!?」という仰々しいある意味間抜けとも取れる記事を見ては苦笑したものだった。


感想を述べてしまえばつまらないの一言に尽きるが、見ている分には面白がっていられる。偽者はあくまでも偽者で、余り望まないながらも待っている存在ではないのだから。



・・・そう、今までのそれは。




「・・・二代目は・・・やはり彼ですか?」


「そうです。・・・・・そして、私は確認の為にここに来ました」


「ええ・・・知ってますよ」




それが徒労だと言う事も。


小さく呟いた言葉に、目の前の彼は小さく息を詰らせ、無言のままに深く深く頭を下げた。











怪盗KIDが復活した、というニュースはほんの少し前に聞いた事だった。また偽者か、という声が飛び交う中、偶々深夜ニュースでその姿を垣間見た優作は、それが紛れも無く「本物」であることを悟った。

自惚れでなく、彼の「怪盗KID」に一番近しい位置にいた者の一人であると断言できるから。

そして、それを悟ったすぐ後に盗一と会ったこの街に飛んだのだ。彼に良く聞いた忠実すぎるくらい忠実な彼の付き人が、自分を訪ねてくる事を予想して。




再び怪盗KIDの付き人となった老人は、彼自身が言った通り、確認しようとしていたのだ。

初代怪盗KIDの友人であり共犯者でもあった自分が、現代の怪盗KIDの正体を懇意にしてもらっている警察に密告する、という可能性を。

失礼な、と言ってしまいたい愚問な内容だったが、自分が彼であっても同じ様な行動を取るだろうと予測できたので、その辺りは不問の事にした。








ふと、自分の息子を思い出す。


小さい時からシャーロック・ホームズに憧れて、今自分がいるこの街にも何度か連れてきた事がある彼と、もしかすれば近いうちにでもあの店で共にコーヒーを味わう事になるかもしれない。

探偵と怪盗、なんて楽しいシチュエイションを逃すような人間には育てた覚えはないから、この予想は恐らく外れない。

今は少し小さくなってしまっているが、それでも行動力はあるし頭脳も健在なのだから、問題はないはずだ。いざという時には裏から手を回す様にしているのだし。




親ばかと言われようと、子供が可愛いのは万人の親に言える事だろう。


自分よりも先に逝ってしまった彼も、相当の親ばかだった。

家族のことを語る彼の、怪盗にあるまじきにやけた表情を思い出して小さく笑うと、老人は伺うようにこちらを見てくる。それに笑いかけた。




「そうそう、まだ昼間ですけど良い店を知ってるんですよ。・・・昔語りでもしませんか?」




穏やかな風が通る午後。温かな日差しの中で、遠く離れた処に逝った親友と、遠い空の下にいる息子達を思い出す。

偶にはこんな日も良い、と優作は再びのんびりと歩き出した。






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