≪3≫
久々に気持ち良く眠れた気がした。
些細な物音、それこそハヤテの吠える声だって目じゃないような深い眠りを存分に味わって、やっと自分が寝不足だった上に酷く不安定になっていたことを自覚した。
目蓋の裏に感じる外は既に暗く、眠りすぎた焦りと空腹感がいっぺんにやって来る。そういえばお昼ご飯も食べてなかった、と何かを忘れているまま目を開けようとしたのだが…開かない。
………なんで?
内心で呟いて首を傾げる。まるで糊付けしたみたいにぴったり…ぴっちりくっついた目蓋は、力を込めればなんとか開きそうではあるものの、くっついている境目がぴりぴりと引き攣れて痛いのだ。
ううう、と今度は声に出して唸ってみると、――すっかり馴染んで気づかなかったが――両手で握っていたらしい誰かの手にくいくいと引かれて、その相手の声が降ってきた。
「……起きたか?」
「さくま……?」
上田にいるはずのない人物の声に、一瞬これは夢の類いかという思いが疑問系で飛び出す。だけど握る手の感触は確かに覚えのあるもので。
「〜〜〜〜っ!」
そうだった。寝入る前、いきなり上田に――陣内家に現れた佐久間に力一杯抱きついて大泣きしてしまったのだった。居た堪れなくなって、布団に踞るように体をうつ伏せにしてまるくなってみる。
だめだ、恥ずかしすぎる。
「ぉおお!?…どした〜?」
今更大泣きくらい恥ずかしがる必要もないだろ、俺としちゃオイシイ体勢だけどな。
なんて言う声は、健二の逃避願望に反してさっきよりもぐっと近くなっていて、そういえば握った手をそのままにうつ伏せになっていたのに気づく。
つまり、佐久間の手を胸の下に押し潰すように抱き込んでいて。
「わっ!?あ、え―っとっ!」
自覚と同時に跳ねるように起き上がり、はくはくと口を開閉させると、くすくすと楽しげに笑いながら柔らかい手つきで髪を撫でられた。それがまた気恥ずかしさに拍車を掛けるのだが。
「それで、いい加減目を見てオハナシしたいんだけど?」
「…………」
「健二〜?」
「………ひらかないんだ、」
「は?」
「…目がくっついてて、開かない」
「あ〜〜…」
お前大泣きしたまま寝たからなぁ。なんて言う声が間近で上がって、前髪をかき上げられる感触。くっついた所を見ているのか、ちょいちょいと睫をくすぐる指先に目頭がむずむずと疼いた。
「涙の痕、パリパリになってる。無理矢理開けようとしたら痛いかもな」
「…痛かったよ」
なんとかしてよ、とため息混じりに呟くと、今度は熱をもった目蓋をするりと撫でられる。
「タオル、借りてきてやるよ。冷たいのと熱いの」
そこらへん歩いたら誰かいるだろ。
「………うん」
分かりやすい打開策に頷いて、暗い中に唯一ある気配が動こうとするのが解る。
――健二が行動するには視覚が必要で、目を開くには佐久間に動いてもらうのが一番で、その安易な方式を自分は十分理解している。だけど、
「…だからな?健二。ちょっとの間でいいから離そうぜ?」
「……………うん、」
「……お〜い、健二〜?」
苦笑しながらの呼び掛けで、困らせてしまっていることには気づいていたけど、どうにも手を離すことは出来なくて。
暗い中で一人になるのが怖い、なんて、子供みたいな理由を分析してしまってまた恥ずかしくなったが、それでも。
するり、暖かい掌に頬を撫でられる。思わずすり寄りたくなるのを我慢してじっとしていると、佐久間の癖っ毛が頬に…息が耳元にかかって、
「…そんなに離れるのが嫌なら、舐めて治してやってもいいけど…?」
「・・・・・・」
は?
内緒話の様に囁かれた言葉に、咄嗟に反応出来なかった。
なめる?
舐め…っ!
「ばっ、ば、バカさくま!」
慌てて両手で掴んでいた手を放り出すように離すと、楽しそうに笑いながらわしゃわしゃ髪を撫でられた。元々寝癖のあった髪は、見えないけどかなり酷いことになってるに違いない。
「安心しろよ〜ちゃんと本気だから」
「尚悪いよ、バカっ」
さっさとタオル取りに行けば!
「はいはい、寂しかったら寝てていいからな〜」
「〜〜〜っ、さびしくなんかっ」
ない、と反論する前に、軽やかな足音は靴下越しの密やかさで縁側の向こうへ消えていった。
あまりの呆気なさに気が緩んで、ぽすりと布団に沈み込む。手に残った温もりを握って、開いて。
「…さびしくない…わけ、ないよなぁ」
しんと静かに、空虚が落ちた。
力なく一人ごちて顔を枕に埋める。気づかなかった時は平気だったのに、どうして今はこんなにも耐えがたいのか。握り込んだ両手が汗をかいて、じわじわと温もりを失っていくのが嫌で、丸く縮めた体の奥にぎゅっと抱えて目を閉じた。
中庭を横目に縁側をぐるりと回り、迷いながらたどり着いたキッチンで井戸端会議をしている女性陣のからかいを適当にいなし―年上の姉がいるお陰で、すっかりそういうことにも慣れてしまった―行動を予想されていたらしく、用意されていたタオルを拝借した佐久間は、敷居の向こうで小さくなって眠る姿に苦笑を溢した。
「やっぱ、寂しかったか?」
足音を忍ばせて室内に入り、体を強張らせている健二の枕元に腰を落ち付け、完全にうつ伏せになって枕に顔を埋めている体勢に眉を潜める。思っていたよりも寂しがらせていたらしい。
「あーあ、窒息するぞ〜」
タオルを入れたボウルを置いて、所々跳ねている後ろ頭をくしゃくしゃと撫でる。
見た目よりも断然に柔らかいそれを堪能してから、あまり肉付きの良くない腰と恐らく平均よりも薄い肩に手を伸ばし、よいせと我ながらおっさんくさい掛け声を上げて軽い体を膝の上に持ち上げた。思い切った体勢の変化にも起きる様子のない健二に苦笑を一つ。
「あ〜んまり無防備だと、襲われても文句言えないからな…?」
端から見れば洒落に見えない状況で、冗談と本気を半々に含ませて呟く。
元より寝込みを襲う趣味はないし、何より膝の上に乗っけて少しずつ体を弛緩させていく健二にそんな気も失せてしまうのが実情なのだが。
眠ることすら忘れてしまう現実逃避型の寂しがり屋が、こんなに熟睡できるのが自分と一緒の時くらいだと知っている。
ふにゃりと柔らかくもたれ掛かる頭を膝枕してやって、レンジでチンしてもらった温タオルを適当に振って冷まし、折り畳んで目蓋の上に置いてやる。先に本人の涙を誘ってやらないと、目蓋の裏側の乾燥した涙の痕まではどうしようもない。
出会ってからこの方、自分の前ではきっちり泣かせるように刷り込んできたためか、すっかり泣く子の世話にも慣れてしまった。
「……あんま、溜め込むなよー」
規則正しく呼吸する薄い唇を眺めながら、どうにも情けない響きで囁きがぽつりと零れる。
緩んできた目蓋の境目からポロリと水滴が落ちるのを見るのは、いつだって心臓によろしくないものだ。
溢れたそれが頬を伝う前にさっさと拭って、冷タオルに取り替える。それで腫れた目蓋を冷やしながら温くなった温タオルでくるくると顔を拭いていると、目元のタオルが僅かに動いた。
どうやらお目覚めらしい。
「目、開けるか…?」
「ん……さくま…?」
「こんな近くにいてお前が起きない相手なんて他に誰がいるよ?…ゆっくりでいいから、目ぇ開け」
「…うん」
促す佐久間の声に、いささか億劫そうに頷いた健二は、さっきまで乾ききっていて開けられなかったらしい目蓋をゆるゆると押し上げる。その時にまた一粒零れた涙を拭ってやり、前髪を掻き上げて目をのぞき込んだ。
パシパシと瞬きする度に落ちる乾燥した涙の塩分の結晶が、新しい涙と一緒にこぼれて落ちるのを確認する。目蓋はまだ腫れていたが、眠る前に比べて表情は大分マシになったように見えた。
「…そういえば、なんでここにいるの?」
「なんだよ、来ちゃダメだったか?」
「そういうわけじゃないけど……」
答えなんかもう自覚しているだろうに。言い淀む健二の頭を膝に乗せたまま固定する。首さえホールドすればこっちのものだ。
「俺こそ聞きたいね。…お前、自分がどれだけひどい顔してるかわかってる?」
鼻先が触れ合いそうなほど間近からの問いに、今更自分の体勢に気付いたらしい健二が、布団に入った半身がバタバタと身じろぎするが、逃がすつもりなんか全くない。
「〜〜〜〜っ、」
観念したのかついでに悔しくなったのか、半分寝ぼけていた顔がくしゃくしゃと歪む。目に涙を溜めてにらみ上げられたって怖くも何ともない、……別な方向で反応しそうだったが。そこはまぁ、鉄壁の理性というやつだ。
なにせ、健二に膝枕したままだったので。
色々な身体的事情を無視して、何食わぬ顔で無防備に見上げてくる目がよく見えるように前髪を掻き上げてやり、詰まらせてしまった言葉を促した。
「……僕の家は、東京のあの家なんだ」
「そうだな」
「栄おばあちゃんが僕を認めてくれて、ここの人もみんなすごく優しくて、夏中こっちにいていいって言ってくれてるし、冬もおいでって誘ってくれたりしたけど、」
「よかったじゃん、好かれてるってことだろ?」
「…うん……でも、」
僕の帰る先は、東京なんだ。
噛みしめるように繰り返す言葉に苦味はなかったが、不安に揺れる目がじぃと佐久間を捉える。
東京以外の新たな居場所を得て、何が不安なのか。寧ろ、東京の自宅から出ることばかり考えていた健二にとっては喜ばしいことなんじゃ――。
そう考えていたところで、健二の額に当てていた手がずりずりと引き下ろされ、こちらを見上げていた目元を隠してしまった。
夜目にも分かる、少し赤くなった耳元と、手のひらがじわりと濡れる感触に、頭の中でもやもやしていた謎がやっとパチリと噛み合った気がした。
新しい繋がりを得て浮かれているはずの健二が、こうして東京にこだわる理由なんて、
「なぁ、もしかして…帰ってこなくて良いって言ったの、逆に不安にしたか?」
「〜〜っ、」
ふるふる、唇を噛みしめたまま小さな頭が振れる。嗚咽を混じらせた呼気が震えていて、まるで説得力のないやせ我慢が、うっかり可愛いなんて思えてしまって。
「バッカだなぁ、お前」
つい昨晩もこぼした科白を、今度は本人を目の前にして呟いた。不満げに尖った唇をちょいちょいと摘んで、小さく笑う。手の中で瞬きするまつげがくすぐったくて、目元で押さえようとする手に指を絡めて剥がすと、また少し潤んで赤くなった目と視線があった。
「しばらく帰ってこなくて良いって言ったのは、新しい居場所に長くいた方がお前が馴染むのにいいだろってことで、帰ってくんなって意味じゃねぇよ?」
「ぅん……わかってる、けど――」
「おまえが帰ってくるのは、いつだって東京の、俺の側なのには変わりないって」
「………うん、」
「大体、帰ってこなくていいのは"しばらく"であって、本当に夏中ってなったら多分俺の方から迎えに来てたし」
今みたいにさ。
「……うん…?」
なんで?
言い聞かせるように言葉を重ねると、見上げてくる目を不思議そうに瞬いて小首を傾げる。その仕草は今の至近距離的にも非常にそそられるものがあったが――なんで?はないだろう、なんで?は。
相変わらず自覚に乏しい健二と、きしりと鳴った板間の音にいたずら心がわいた。
「なっ、なになに!?」
やっぱり軽すぎる体を引き起こして膝の上に乗せてみると、自分が作ったアバターそっくりにわたわたと反応する。今更ながらに自分の仕事を内心で自画自賛しながらフワフワとあちこち跳ねている頭に顔を埋めた。
インドアの典型みたいなやつなのに、数日離れていただけで、知らない藺草の匂いと陽向の匂いがして新鮮な気分になる。
「ん〜〜…健二充〜〜」
「はぁっ?」
「だって三日も生で会ってなかったの、何年ぶりだと思ってんだよ?モニター越しだけってのも結構辛いんだって」
「それは……」
自分としては相当明け透けに言ってやると、答えられなくなった健二が口をもごもごさせて、ゆっくりと腕の中で体の力を抜いた。柔らかくもたれかかる重みとぬくもりが心地いい。
色々堪えながら感触を堪能していると、細い腕が遠慮がちに背中に回り、伏せられた額が肩に摺り寄せられて、似たような思いがあったのだろうと自惚れるには十分だった。
つい抱きしめる力を思い切り強くする。脊椎が浮く背筋がしなるくらいに強く。
「ちょっ…、くるし…」
「わり、でももうちょい……」
「ぇええ」
耳元での抗議だって、こっちを煽る要素にしかならないってきっと気づいちゃいないだろう。こっちが懸命に堪えていても、応えられて乗らないわけがない。背後で動揺の気配がしたけど、それも構ったことじゃなかった。
――肩口でくぐもる苦しげな声が、少し高くなった体温が、全部健二の存在を実感の種になって、ますます離してやる気も失せる。
「ラブマとの一戦、面白かったけどな」
「世界がかかってた、なんて…未だに信じられないけど、ね…」
「信じられなくても、この家の人たちやお前は、世界の英雄なんだ。ただ――」
「ただ?」
「お前があんながむしゃらになってる時にそばにいられないのは、もうごめんだ」
「…さくま………?」
きっと気づいちゃいないだろう。あの、あらわしがこの家目掛けて落ちてくる映像と、命懸けで数字の海を泳ぐ健二の姿を並行して見続ける、見ているしかなかった焦燥感。
実際にあらわしが落ちた直後、全部の回線が暗転して、夏希からの連絡が来るまで姿どころか無事かどうかすら解らない怖さは、傍観者に徹せざるを得なかった佐久間しか、きっと解らない。
一度、ぎゅうっと抱きしめる腕に力を込めて、健二の腰元で手を組み、鼻先が触れ合う距離で視線を合わせた。黒目がちな目はまだ少し潤んでいて、それでも佐久間を真っ直ぐに映す。
「ねぇ敬、僕はちゃんといるよ…?」
「当然だろ?でないとお前は誰だよってことになるし」
「うん、でも――」
不安そうに見えて、なんて自分の方が不安そうな声音で言う健二の前髪をかきあげる。露わになった額にちゅっと音を立ててキスをしてみると、真っ赤になった健二が慌てて離れようとし始めた。
もちろん、腰元に回した腕を佐久間が放さない限りは無理な話なのだが。
なんだかそわそわしている背後の気配をよそに、そう本気で抵抗しているわけではない健二とのじゃれあいに終止符を打ったのは、
ぐうぅぅ〜
きゅるるる…
「「……………」」
二人の腹で盛大な抗議を上げた虫の音だった。
きょとん、とまん丸く見開いた目と目があって、腹の底からくすぐったさがこみ上げてくる。
「〜〜〜っっ」
「―――ぷっ」
思わず噴き出したのはどちらが先だったか。
抱き合った体勢のままひとしきり笑って。ずっと感じていた"飢え"のようなものが収まった気がした。気が抜けたと言ってもいい。
「はー…笑ったら余計に腹減ったな〜。夕飯、もらいに行こうぜ」
「ん……そういえばお昼も食べてなかった、かも」
「あ〜…そういや、これから昼だって言ってたもんな」
お前寝落ちしてたし。
未だ至近距離にある健二の瞼の腫れ具合を確認しながら腕を放すと、胸に置かれていた手を引いて立ち上がる。反動でよろけた体を支えながら、佐久間は障子の向こうにある相当数の気配がこそこそと無くなっていくのを感じてほくそ笑んだ。
もう少し時間をかけて行けば、広間に着いた頃にはデバガメ好きな人々によって心尽くしの暖かな食事が用意されていることは容易に想像がつく。
年月の長で予測できるようになったものの、突拍子もない行動ばかり起こす思い人の天然ぶりに比べれば。
ひとりごと>
策士な佐久間氏と、策士を振り回す天然系健二嬢。
出歯亀にはいつだって勢揃いな陣内家