無知は時に救いである
如かしてそれは真実か
稚き子供は無知である
如かしてそれは事実だろうか
先入観が目を溶かし
偽りが純真を嘲笑う
活目せよ 望みがあるのならば
予見せよ 未来が欲しいのならば
暖かな陽射しが降り注ぎ、風が穏やかに木々の枝葉を揺らす。
最小限の人の手を加えられるにとどまるアリエスの離宮の庭には、季節の様々な草花が彩り豊かに咲き誇っており、春のにぎわう空気にはしゃいだ可愛らしい声が聞こえてくる。
二人の妹が元気に外で遊ぶのを耳にしながら、ウッドデッキにしつらえた安楽椅子を揺らしティーカップを傾けながら読書を楽しんでいた少年は、扉を叩く控えめな音にゆるりと文字を追っていた目を上げる。
「――何か?」
「ルルーシュ様、シュナイゼル様がお越しです」
「兄上が?・・・エリア4からのお帰りは明日と聞いていたのに・・・構いません、お通ししてください」
少年の身分で侍女に掛けるものとしては不相応なほど丁寧に返答し、寛いでいた襟元を好きなく整え素早く身づくろいし、呼びに来た侍女に新しいお茶の支度を頼んで来客を迎える体勢をとった。
そうして、自らも義兄(あに)を迎えに玄関へと向かう。
目当ての人物とは、部屋を出てすぐに会うことが出来た。陽光に透ける薄い金髪に長身の義兄を見つけ、柔らかな静寂が保たれた廊下を小走りに駆け寄る。
「シュナイゼル兄上!」
「一ヶ月ぶりだね、ルルーシュ。元気にしてたかい?」
「はい!」
両手を伸べてくれた片方に軽く抱きつき、もう片方の手に頭を撫でられ、そのくすぐったさに笑いながら首を一杯仰がせて義兄を見上げた。
「ご無事で何よりです、兄上。お早いお帰りでしたね?」
「早くお前に会いたくてね」
潤いのない国外遠征はなかなかどうして退屈なものだよ。
他者に聞かれればあらぬ疑いを掛けられかねない類に首をかしげ、するりと兄から身を離し、連れたって自室へ歩きながら少し的を外して今回の仕事について訊ねた。
「エリア4で何か面倒なことでも?既に殆どの平定が済んで、反抗勢力も下火になっていると聞き及んでいますが・・・」
「そうだね、ブリタニア人地区は随分と整備が進んでいて、主要設備の設立も終わっていたよ。ナンバーズとの軋轢も減ったようだ」
表向きは。
「それは重畳ですね。あちらに移る民が平穏に暮らせればいいのですが・・・」
「心配ないだろう、クルーエヌ卿は優秀な人だからね」
「そうですね」
気遣わしげに眉を顰め表情を曇らせるルルーシュは、安心させるようなシュナイゼルの言葉にゆっくりと強張らせていた肩の力を抜いて頷き返す。
「そうそう、コーネリアがエリア8に行くそうだよ」
「それはやはり、戦女神として、ですよね?」
「そうだな」
今や軍ではコーネリアのことを常勝の女神と呼ぶ者もいるようだよ、とシュナイゼルは世間話をするような他愛なさで妹皇女の血なまぐさい戦歴を語り微笑む。
戦歴、といっても第2皇女であるコーネリアはまだ戦場に一度しか立っていないが、第3皇女――完全に血の繋がった妹のユーフェミアを守るためにもと自ら望んで軍に入った後の“活躍”は音に聞こえるほどである。
「姉上も素晴らしい戦略家ですから、お話を聞くのが楽しみです」
「帰ってきたら沢山話に来るだろうね。ルルーシュが相手ならコーネリアも楽しめるんじゃないかな」
「ルルーシュは戦略家としても優秀ですからね、私も話していてとても楽しいですよ」
「・・・え?」
不意に割り込んできた馴染みの女性の声に、ルルーシュがきょとんと目を瞬き後ろを振り向くと、噂をすればなんとやら、話題の人物が愉快そうに口元を綻ばせて背後から歩み寄ってきた。
「コゥ姉上!」
軍人らしい、規則正しい足音を立てて近づいてくるコーネリアの姿に、ルルーシュは顔をパッと輝かせ、シュナイゼルに一礼し、義姉を迎えるため数歩、もと来た道を戻る。
そして、コーネリアの女性にしては武骨だが美しい手を取り、紳士の礼をとった。
「こんにちは、コーネリア姉上」
「ああ、元気そうで何よりだ、ルルーシュ。・・・今日もユフィがこちらに世話になっていると・・・」
「お世話だなんて。ユフィはナナリーのとてもいい話し相手になってくれていますよ」
今も中庭で仲良く遊んでいます。
シュナイゼルが佇む位置へ導きながら微笑むと、取られていた手を逆に握りながら、コーネリアがゆるりと髪を揺らし訊ねた。
「二人でか?」
「ご心配なく。ジェレミア卿にお願いしてあります」
「そうか・・・なら、安心だ、な」
「はい」
姉としての当然の懸念にも抜かりなく応え、先に佇むシュナイゼルに追いつき、三人でルルーシュの部屋へ向かう。
部屋に入り、お茶の用意を、と席を立とうとするルルーシュを遮って、コーネリアは控えていた侍女を呼び、自身は妹たちが遊ぶ中庭へ降りて行った。
凛とした彼女の背中を見送り、ルルーシュはポットの中とカップの温度を確認し、侍女に礼を言って下がらせた。
「シュナイゼル兄上は、次はエリア9へ向かうそうですね?」
カップを手に取り、上目遣いに兄を見ると、彼は既に一口目を含んで満足げに口元を緩ませていた。それを見取ってからルルーシュも紅茶の香りと味を楽しむ。
「ああ、政変後の内部分裂が激しくてね、新政府樹立後にエリア化したら――」
「旧政府の内乱が激しくなり、植民地化に反感を持っていた民衆と国軍が一斉蜂起した?」
「残念だけどね」
さりげなく、義兄の次の仕事に興味を見せ、軽い仕草で肩をすくめるシュナイゼルに小さく頷く。
このひとならば、殺気走った反乱軍も愛国心に燃える旧政府陣も上手く収めて平定してくるだろう。
ただ、懸念といえば――
「エリア9は確か、中華とも近かったと思いますが――」
「ああ、中華へはお前も連れて行く約束だからね、ただ、エリア9はまだ危険だから、可能な限り早く帰って、改めて中華へ行くことにするよ。・・・供をしてくれるね?」
「もちろんです、ありがとうございます、兄上!」
懸念を解消する、願ってもない誘いに目を輝かせ頷き、ルルーシュは空になったカップを置いて立ち上がる。
ポットに残ったお茶をシュナイゼルのカップに注ぎ、侍女を呼んでおかわりを頼んだ。
「シュナイゼル兄上、チェスにお付き合いくださいませんか?」
「いいよ、エリア9へ行く前に一戦しようか」
「――はい、ありがとうございます。・・・すぐ用意しますね!」
最近シュナイゼルが来た時の習慣となっているチェスの誘いを受けてもらい、ルルーシュは嬉々としてチェス盤を取りに部屋を出た。
チェス盤を取って戻ると、出て行ったときよりも一人増えていた。一つ年下の義妹と二番目の兄、二番目の姉の来訪は予想していたが、その人物の訪れは予想しておらず、一瞬思考を凍らせた後、足早に彼らに近寄った。
ルルーシュの気配を察したのか、件の人物が愛用のスケッチブックを手に振り返る。
「やぁ、ルルーシュ」
「クロヴィス兄上!いつこちらへ・・・」
「今さっきだよ。シュナイゼル兄上がお帰りになったと聞いてね、きっとここだろうと思って来てみたんだ」
「あ・・・シュナイゼル兄上にご用事だったのですか?でしたら、チェスはまた・・・」
次の機会に、とルルーシュは肩を落とす。
いくらこちらが先約とはいえ、目上の者の用事を妨げてはならない。再度チェス盤を部屋まで持ち帰ろうとケースを抱えなおしたが、
「いやいや!気にしないでくれ、ルルーシュ!私は君と兄上がチェスを打つところを拝見しに来ただけなんだから」
踵を返そうとしたルルーシュは、しかし慌てた様子のクロヴィスに止められた。
「それで、スケッチに?」
「ええ、今日こそ美しいオーラまで描き上げて見せますよ、私のことはお気になさらず、お二人で楽しんでください」
シュナイゼルに指されたスケッチブックを小さく掲げて見せたクロヴィスは、意気込んでテーブルセットに横付けしたソファに腰掛け、ルルーシュにも席を勧めた。
鼻歌まで歌いだしそうなほど上機嫌な様子の兄に、どうしようかと目線だけで伺ったもう一人の兄は、いつものことだよと肩をすくめ、彼もまた自分の向かいのソファへ促す。
ルルーシュは一つ息を吐いて、テーブルにボードを広げる。そして、静かにソファに腰掛け、対戦者に微笑んだ。
「僕が黒でもよろしいですか?」
「いいよ。・・・後手になるのに、ルルーシュは黒が好きだね」
「はい!・・・僕の好きな色ですから」
いつもの願いを快諾してもらい、二人はゆっくりと駒を配置していく。
新しいお茶――きっかり3人分用意してあった――の用意も整った所で、極和やかな雰囲気の中、チェスは始まった。
静けさの満たす室内、カンバスを滑る木炭の音、駒を動かす音の他に、時折中庭から少女たちの笑い声が聞こえてくる。穏やかな午後、花の息吹が香る、春待ちの一日であった。
緑のにおいが強くなってきたある日、薄いカーテンを引いて適度に日差しを遮り、窓辺で昼寝をしているナナリーの愛らしい寝顔を眺めながら読書をしていたルルーシュは、ふと時計を見上げて音を立てずに立ち上がる。
そして愛妹が熟睡していることを見て取り、小さな体を覆うブランケットをそっと掛けなおして部屋を出ると、足早に玄関へ向かった。
エリア9から戻って間もなくしてアリエスの離宮に訪れたシュナイゼルは、宮の正面玄関の前に佇む小さな影に口元を綻ばせた。
常備搭載型の仮面笑顔とは明らかに異なる柔らかな笑みに、同行者から「うげぇっ」と心底気色悪そうな声が発されたが、愛しい異母弟の元へ一直線に向かうシュナイゼルには届かない。否、聞こえてはいるが聞いていない。
「ルルーシュ!」
「こんにちは、シュナイゼル兄上。お待ちしておりました」
「今日私が来ると良く解ったね?伝えていたよりも少し早かったはずだが・・・」
「エリア9平定の報はこちらにも届いていましたから。お疲れ様です、兄上」
足早にシュナイゼルが向かった先にいたのは、大きな玄関扉の前で背筋をピンと伸ばして佇む小さな子供・・・会話から察するに、シュナイゼルの数いる異母弟の一人だった。
のんびりと彼ら二人に近づき、その顔立ちがはっきりするにつれ、へぇと内心感嘆の声を漏らす。
初夏の熱い風にふわりと揺れる艶やかな黒髪、幼いながら紳士の礼をとる所作は洗練されており、異母兄を見上げる目は――
「・・・ロイヤル・パープル・・・」
掠れた声が、無意識の内に零れ出る。指先がぴりりと震え、思わず止まりそうになった足を進めた。気だるくゆったりとした足取りから、急ぎ足に変えて。
そんな男に気づいたのか、一瞬子供は不審の色を目に宿したが、何のリアクションも示さない――それはそれで腹立たしい――シュナイゼルの姿を見てすぐに消し去った。
「兄上、お連れの方ですか?」
「――ああ、忘れるところだった。私の学友であり、KMFの研究者でもある男だよ」
「ロイド・アスプルンドと申しますぅ〜一応軍人で、次期伯爵のKMF研究者。どうぞ末永くよろしくお願いしますねぇ、殿下♪」
この男の学友であることよりも、科学者としての自分の方が重要なのだと殊更強調し、偽りなき本音を告げて右手を差し伸べると、子供はきょとんと大きな眼を更に見開いて、その手とロイドの顔へ交互に視線をやり、ふわりとまとう空気を緩めるように微笑んだ。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアです。こちらこそよろしくお願いしますね、ロイド・・・さん」
自らも小さな手を差し伸べると、最上ではなくともロイドが望む答えと共に、そっと差し出した手を握り返したのだった。