金木犀
風邪を引いた。
連日の事件で疲れていた所為か、快斗の制止も押し切って無理をし続けていた所為か、生来の体質の所為か、この前犯人を捕まえようとして寒い雨の中走って追いかけっこをしたのが原因なのか、結構高い熱が出て、不覚にも
3日間熱に魘され寝込んでしまった。
大事を見て、ということで哀に自宅謹慎を言い渡されて一週間。
既に4日も前に熱も引いて体調も回復していたのだが、新一は特に文句を言うこともなく、哀の指示に従っていた。
しかし、やっと一週間目の今日、もう家の中で閉じ篭っている必要もないと言うもので、流石に出不精の新一でも、外の空気が吸いたくなってきた。
快斗に付きっ切りで看病してもらって、面白いくらいに過保護にされたこの一週間。こんなことを本人に言っては泣かれてしまいそうだが、正直寝転がってイロイロと尽くされているだけ、というのに飽きたのだ。
というわけで、新一は取り敢えず、やはり疲れていたのか、ソファでうたた寝している快斗に毛布を掛けてやり、しっかり防寒してから、久しぶりにのんびりとした散歩に出た。
――しかし、流石というか、既に宿命というか。新一が風邪で倒れたとどこからか聞き及び、連日見舞いの品を持参して快斗に容赦無く叩き出されていた某黒い人・・・もとい服部平次に「偶々」家を出る姿を目撃され、後を尾行けられることとなった。
やはり、普段の人気所以だろう。
そのことも知らないで、新一は初冬に入ったのに珍しく適度に涼しい空気の中を、上機嫌でのんびりと歩いていく。時折、頬を掠め髪を嬲る風の心地よさに、思わず微笑みを浮かべて通行人を無意識に悩殺しながら。
ついでに言うならば、その時の彼を尾行して電柱の影に隠れている怪しい人物H氏の心境はというと・・・。
(は〜今日も工藤はキレイやなぁ〜しかしつい昨日までは外出禁止になってた(←哀から聞き出した)筈やから、今日はやっとそれが解けたんかな?はッッ!それとももしかしたら黒羽に飽きて逃げ出してきたとかか!?いやいや、ひょっとすると俺に会いに・・・!!?)
勘違いも甚だしいが、本人には真に幸福なことに、その妄想一直線の思考にストップを掛ける者は今の所いない。
因みに、このH氏のいでたちはというと、トレードマークのキャップに格好つけてかけたつもりの黒いサングラス、そして風邪を引いたため母親の静華に押し付けられたマスク・・・という、本人気づいていないが、今にも警察に通報されかねない、怪しい格好であった。
しかし、どうして米花町近辺を彷徨っている彼に自分に会おうとしているという方向に考えが持っていけるというのか、正に生物の思考回路の神秘である。
自分の思考と吹き荒れる妄想の嵐に一人悶々としていると、はっと気がついた時には服部の視界から新一の姿は消えていて・・・。
「く、工藤〜〜〜!?」
人目も憚らず、電柱の影から異彩を放っていた服部は清々しいほど天気の良い初冬の空の下、一人虚しく絶叫することとなった。
長年住んできた町の中、たった一本だけ、未だに入ったことの無い道があった。
新一はついでに探検だとばかりに、通い慣れた道を辿ればある、のんびりとどこか違う世界に続いていそうな壁と樹々に挟まれた細い道に入っていく。
あまり入りたくはない場所ではあった。細い道や、空気が溜まってしまう場所は妙な気配が多いから。
ただでさえ、この体質の所為で事件に遭っては良く現場から彼等を家に持ち帰ってしまうというのに、病み上がりの体で自らそういう場所に入る、ということは、ある意味挑戦でもあったのだが。
――・・・この道は大丈夫だ、という確信が何故か新一にはあった。
じっくりと周囲を見聞しながら奥へ奥へと進んでいく。別に行きつく先が行き止まりでも構わなかった。ただ、この先の何かに誘われているような気もした。
(・・・・・ヤバイかな?)
生まれついた「霊感」と呼ばれるらしい体質の所為で、ずっとオツキアイしてきた存在達の気配は今のところしないのだが。誘われている、という時点で既に危ないのかもしれない。
というか、確実に危ないのだろう。
(・・・快斗とか志保が知られたら目一杯怒られそうだな・・・)
などと呑気なことを苦笑しながら考えていると、ふと鼻先を掠めた甘い匂いに辺りを見回した。視覚からではなく、嗅覚から先に捉えることの出来る秋の香り・・・この甘い匂いには覚えがあって、視界の端にあった木に、微笑みを浮かべる。
小さな橙の花を一杯咲かせた金木犀が、背が低いとも言えぬ塀の向こうで、緩やかな風にその淡い花と甘い香りを散らせていたのだ。
そして、塀の上には、いつの間にやら小さな少女が楽し気に座っている。
(・・・・・・害はなさそうだよな・・・)
と彼女をぱっと観察して、じっとこちらを見ている少女に微笑みかける。すると、彼女はニッコリと至極嬉しそうに笑って、前方少し行った所にある木戸を指した。
「・・・・・・招待してくれるのか?」
聞いてみると、彼女は何も言わず、くすくすと笑ったまま塀の向こうに消えた。
(・・・つまり、入って来いってことか・・・)
やっぱりまた引き当てちまったなと己に苦笑しながら、新一はのんびりその古めかしい木戸に近づいて、キィ、と小さく音を立てる戸を潜って、少なくとも自分の身長よりは高い塀の内側に入っていった。
正気に返った追跡者もといストーカーは、腐っても探偵根性で愛しの名探偵を探し出し、細い小道に入って行く彼の後を追って、自分も中に入って行った。
そして、そこに入った途端、何かのいい匂いに包まれていることに気づく。
(これ・・・なんやろ?甘い・・・いい匂いや・・・)
思考がぼんやりと霞んで行くのを感じながら、半ばふらふらと危ない足取りで服部は新一を追っていると、ふいに、新一はとある行き止まりの地点で立ち止まった。
(何や?工藤のやつ、何見とんのや?)
と疑問に思っていると、一瞬、ザァッと強い風が吹いて、一際甘い匂いが鼻先を掠め――彼から気を逸らした一瞬の隙に・・・彼はいなくなっていた。
慌てて周囲を見回してみるが、どこを見ても新一の姿はない。この道を出るにしても、彼がいたところは行き止まりだし、それ以前にここは人一人丁度通れるくらいの幅しかなく、すれ違うにしても、いくら細い新一の体でも道のど真ん中に経っていた服部にぶつからずに通り過ぎるのはおおよそのところ不可能といえた。
つまり、彼は一体どこに消えたというのか?
思考が霞む。風が強い。甘い匂いがする。軽やかな・・・笑い声が聞えた気がした。
そして・・・
『ねえ、あそばない?』
と、笑いを含んだ声を掛けられ・・・
「かッ・・・・・・!!!」
(神隠しや〜〜〜〜〜!!!!)
と喉が張り付いたようで声には出ない声で叫び、粟立つ肌に、這い上がる悪感に、思わず服部はその場を駆け出した。
静かに、静かに漂う空気の中、快斗はリビングのソファでのんびりと眠っていた。
つい先ほどまでは熟睡していたのだが、それが漸く覚めつつある、というカンジだ。深い眠りの奥からゆっくりと浅い眠りへ、そして現実へと、極ゆっくりと立ち戻っていく微睡みの状態で、自分の回りに意識を向け始め・・・。
やっと、しっかりと覚醒しようとして、スッキリと覚めた頭に認識され、聴覚が最初に捉えたのは愛しい恋人の声ではなく、お邪魔虫黒版のけたたましい声だった。
「黒羽ァ―――――!!!開けんかい!居るんはわかっとんねんぞ〜〜〜!!!」
まるで取りたての金融業者のようだ、と思うのもきっと自分だけではないだろうなぁ、なんて考えながら、快斗は喧しくも近所迷惑な自称・新一の親友である服部を出迎えるべく、寝起きであることをさっぱりと表面上から消して、ソファから起き上がった。
「・・・・・・で?」
明らかに不機嫌です、といった快斗の目の前の一人掛けのソファには、間違えようもなく玄関に立っていた服部がいる。
その雰囲気に多少気圧されながら、それでも負けじと服部は声を上げた。ちなみに、当然ながら服部の前にコーヒーは置かれていない。快斗曰く、「無駄」だから。
「く、工藤が大変なんやで!?か、かかか神隠しにあったんや!!」
「・・・・・・はぁ?」
如何にも呆れてます、といった表情で快斗は目の前に座る男を眺めた。
勿論、快斗は随分前に新一が家から出たことを知っている。ソファで寝ていた自分に優しく毛布を掛けてくれたのが、新一であることも知っている。外へ出たのも、ずっと家から出ていなかったから気晴らしに、とふらりと散歩に行ってしまったのだと見当がついた。
だが・・・神隠し?
神隠し:子供などが不意に行方不明になり、探しても容易に見つからなかったり、茫然自失の状態で発見されたとき、それを天狗・迷わし神・隠し神など超自然的なものに隠されたと考えたもの。
(三省堂・国語辞典より)
辞書にあった言葉を思い出し、もう一度頭を捻る。
新一が、神隠し?
「根拠は?」
攫われてり誘拐されたりするのは容易に想像できるが、どうしてそこに来て神隠しになるのか。第一、新一は「そういうの」に引っ掛かるほどドジでも甘くもない。
夏にあった出来事。死後の幽霊にとり憑かれて昏睡状態に陥り、それでもケロリとして現実に舞い戻ってきた彼を目の当たりにしているので、そういう面に対しては、全く見えない自分よりも新一の方が余程頼りになるのだ。
もっとも、本人は「こんな力無い方がマシ」と言いきっていたが。・・・確かに、普段でも死に直面している彼にとってはそうなのかもしれない。
「見たんや!この目で確かに!!」
そう意気込んで言う服部に、何を?と目を向けると、
「工藤が消えるのをや!!」
と断言してくる。
「・・・単に見失っただけじゃねえの?」
「一人しか通れんような細い通路やったんやで!?俺は一瞬しか工藤から目ぇ離してなかったし、工藤の向こうは行き止まりやった!それやのに目ぇ離した一瞬で消えるなんて有り得んやんか!!」
捲し立ててくる服部に、次第に向ける目が冷たくなるのが分かる。一人しか通れない様な細い通路。そこに新一がいたというのは本当だろう。しかし、一瞬しか目を離さなかったということと、新一の向こうは既に行き止まりだった・・・ということは。
「お前さぁ、また新一をストーカーしてたワケ?」
「ストーカーやない!ちょっと声かけようと思っただけや!」
必死で否定してくるが、ストーカーの上にナンパとは良い度胸してるじゃねえか、と完全に快斗は脅迫モードに入った。隣に住む彼女も同様だが、新一に近づく害虫を容赦しようとは空中の塵ほども思わないのだ。
「なあ、服部・・・言ったよな?俺。新一に近づいたら容赦しねえぞって」
ギクリ、と体を強張らせる服部に、快斗はニヤリと笑う。反射的に後退ろうとしたようだが、ソファに座っていればそれもできたものじゃない。
「ストーカーも法律に引っ掛かるの知ってるか?お前は新一の自由の時間も奪いたい訳?・・・度も過ぎると俺がただじゃ置かないっていつも言ってるの・・・本気じゃないとでも思ってるのか?」
凍りつくような雰囲気と、絶妙な響きを伴ってわざわざ語尾を上げて恐怖心を煽る快斗の言葉に、服部は凄まじい恐怖を覚えた。目の前の男が本気なのだということがありありと伝わってくるのだ。
しかし、反論しない訳にはいかない。自分の気持ちも半端じゃないことを今こそ表す時だと思ったのだ。かなりの勇気が要ったが。
「俺は工藤に本気で惚れとるんや!お前に言われる筋言い合いないわ!そ、それに、工藤がそんなこと許す筈がないやんけ!!」
「・・・どうかな?」
ニヤリ、と確信のような笑みを浮かべる快斗に、服部は本気で逃げ出したくなったのを意地だけでググッと堪えた。
「・・・俺は、新一を守るためならなんでもするぜ?・・・新一でも暴けないような完全犯罪もな」
凍り付くような目の奥にある赤を見つけて、服部は思わず震え上がり・・・
「コンクリ詰めで池の中と、石灰と一緒に樽に詰めて海の中とどっちがいい?」
選ばせてやるよ、と本気の目で言われた時には、服部は真っ青になって逃げ出した。
慌ただしく逃げ出し、乱暴に玄関の扉が閉められた音を聞いて、快斗はぶっ!と吹き出した。
(俺が新一を哀しませるようなことするわけないじゃん)
馬鹿な奴。
そう考えながらも笑う快斗は物凄く楽しそうで、恐慌状態に陥った服部がそんな彼を見れば、余計に縮み上がるであろうことが予測できて、快斗は外に出る用意をしながら更に笑った。
確かに。新一のためならば完全犯罪だってやってのける快斗だが、そんなことをすれば新一は哀しむし、快斗から離れて行ってしまうかもしれない。そうしない様に鎖に繋いでおくこともできるが、それは快斗の本意ではないのだ。
第一、快斗は完全犯罪など、自分の頭脳を持ってしても叶うことはないのではないだろうかと思っている。だって、新一の慧眼を潜り抜けるような不可能に近い犯罪を考える暇があるのなら、新一のことを考えていたい、と快斗の心情だからだ。
つまり、服部に言ったことは丸っきり嘘、という訳ではないのだが、快斗がそんな気を起こさない限りは絶対に有り得ないので、殆ど単なる脅しなのだ。新一に危害が加わった時には、どんなことをしてでも見つけ出して半殺しくらいにはするつもりだが。
「さて、新一探しに行くかな」
しっかりと上着を着て戸締まりをした快斗は、玄関にて靴を履く。
完全に信じているわけではないが、服部の発言からして新一に何かあったらしいことは確かなのだし、今の季節には随分と遅い・・・不似合いな甘い香りが服部に染み付いていたのだ。
それに、いくらもう完治したからって余り外にいたら体が冷えてしまうし、下手をしたらまた風邪を引くから。
(ま、そうしたらまた俺が看病するからいいんだけどさ)
ふ、と微笑んで、快斗がさあ行こうかと立ち上がると同時に・・・目の前の扉が開いた。
そこにいたのは、今探しに行こうとしていて、神隠しにあったと言われた新一がいた。
「あれっ!?新一、無事だったの?」
こんな発言が出ても不思議じゃないだろう。しかし、当の本人は「茫然自失」とは程遠い様子できょとんとこちらを見、
「無事・・・ってどういうことだ?」
と言って首を傾げる。彼の仕草にくらくらしながら、快斗はいつまでも外に立っている新一に中に入るように促し、取り敢えずリビングで待っているように言った。
すれ違い様に、甘い香りをさせる新一に、一瞬目を細めながら。
新一には暖かいコーヒー、自分にはカフェオレを入れた快斗は大人しくリビングで座っている新一の隣に座り、熱いからと一言注意して彼にカップを渡した。
「で、なんだったんだ?俺が「無事」って」
また何かあったのか?とでも言うような顔をして、コーヒーを啜りながら聞いてくる新一に、服部が騒いでいったことのみ説明した。それを聞いた新一の反応は、
「ふ〜ん・・・俺が「神隠し」ねぇ・・・」
と何故かやけに楽しそうで、ポケットから常備を義務づけられている――モチロン哀に、だ――携帯を取り出し、短縮を押してどこかにかける。
「・・・新一?」
新一の行動の意図が掴めない快斗は、どこかに微笑んでいる新一をじっと見つめ・・・思い当たることがあって、ギクリと周囲を見回したが、自分では意味が無いことだったので、結局は諦めた。
もしかしたら、と思ったのだ。もしかしたら、また新一が霊を連れて帰ってきたんではないだろうか、と。確認出来ればいいのだが、生憎、快斗には一切霊感は無かった。
「あ、灰原?」
そんな快斗の様子を楽し気に眺めていた新一は、電話に出た相手に話しかける。なんだぁ、哀ちゃんか・・・と安心しかけ、快斗は再びギクリと体を強張らせた。今更なのだが、哀も「見える」ということを忘れていたのだ。
「うん、いや、怪我なんかしてねえって。風邪も治ったし。・・・ん?ああ、違う違う。ちょっとこっち来て欲しいんだけどさ、急がなくて良いぜ。・・・はいはい、サンキュ」
ピッと携帯を切る新一。どうやら今から哀が来るらしい。・・・自分への説明はないのだろうか、とコーヒーを美味しそうに飲んでいる新一を眺めていると、玄関の扉が開く音がした。
「・・・コーヒー煎れて来る」
・・・本当は、新一から香る甘い匂いについても言及したいところなのだが。
哀ちゃん来たし、と快斗は未練タラタラで腰を上げようとしたが、それを新一の手が阻んだ。
「新一?」
「まぁ座ってろって」
そういう彼の顔には、楽しいと書かれているのがありありと分かって、快斗は逆らわずにソファに座り直して、自分で煎れてきたカフェオレを飲んだ。気温の所為か、もう温くなっている。そろそろエアコンが欲しい時期だ。
「新一、聞きたいんだけどさ」
「んー?」
近づいてくる軽い足音を聞きながら、快斗は一応聞いてみることにした。
「新一に染み付いてるこの甘い香りって・・・」
「ああ・・・これな」
新一はニヤリと笑って、自分の袖の匂いをすう、と吸い込んで言う。
「金木犀だよ」
「・・・金木犀?」
返ってきた答えに、快斗が驚くのは無理も無いことだ。今は11月で、秋の半ばに咲く金木犀が咲くには遅すぎる。特に今年は気候が不安定で、急速に下がった気温に金木犀が散るのも早かった。
しかし・・・確かに、何かの香水にも似ているこの匂いは、金木犀の香りだ。
「・・・なんでこの時期に金木犀?」
聞いてみるが、答えは返ってこない。新一が答える前に、哀が入って来たのだ。
しかし、たったさっき呼び出されて速攻でやってきた彼女は、リビングに入らずに、ビタリと立ち止まり、新一が見ているソファに視線を向けたまま暫し硬直し、はぁ〜と溜め息を吐くと、手招きした新一に従って疲れたような表情で入ってきて、指定席に腰を下ろした。
「・・・工藤君。犬や猫じゃないんだから、他所から拾ってくるのは止めなさいって前にも言った筈だけど?」
頭が痛い、とでも言うように頭を押さえる哀に、やっぱりもしかして、と快斗は新一を見ると、彼は極々楽しそうに笑って言った。
「快斗、実はさ、座敷童拾ってきたんだ♪」
ざしき-わらし【座敷童】:岩手県を中心とした東北地方でいわれる家の精霊、およびそれに関する俗信。童形で顔が赤く、おかっぱ頭をしているという。旧家の奥座敷に出現し、家の繁栄を守護するといわれる。ざしきぼっこ。くらわらし。
三省堂・国語辞典より)
すってーん。とでも効果音がつきそうなくらい、見事にソファの上ですっ転んだ快斗は、引き攣った笑いを浮かべながら、隣で優雅に足を組みつつコーヒーを飲んでいる新一を半泣きの状態で見た。
「・・・ま、マジ・・・?」
「マジ」
「嘘じゃないわ。黒羽君には見えないでしょうけど、確かに「いる」もの、着物の女の子が。ただし、おかっぱじゃないけどね」
座敷童よ、と極冷静な表情に戻った哀がにべもなくお墨を付けた。ひ、否定して欲しかったのに・・・とイジケようとした快斗だったが、哀は
「事実よ、諦めなさい。・・・それと、喉が渇いたんだけど」
と簡単に切り捨て、更に自分の要求まで言い渡す。それに逆らう術も無く、快斗は飲み干した自分と新一のカップを持ってキッチンへと向かった。
その姿を見送って、哀は新一に視線を向けた。・・・彼女の隣のソファには、実のところさっきからずっと幼い少女が座っているのだ。
「・・・で?貴方はこの子をここに連れて返って来て、どうするつもりなの?」
言いながら、哀は赤い着物を着た座敷童の、真っ直ぐに背に流されて切り揃えられた髪を手櫛で梳いている。・・・気に入ったらしい。
「とりあえず、うちで暮らすのもいいかなって思ってさ」
「もしいなくなったら厄介よ?」
座敷童は、家の繁栄を守護するが、そこからいなくなってしまえばその家は衰退し、最終的には崩壊にまで至るという。
勿論、そのことは新一も知っていて、心配そうに新一を見る哀にニコヤカに笑いかけた。
「大丈夫だって。だって、遊んでるうちに仲良くなっただけだし。それにそいつの憑いてた家、今度取り壊しになっちまうんだよな。だから、工事の人に迷惑かけるくらいならうちで引き取った方が安全だしさ」
哀に撫でられている幼女はにこにこと上機嫌に笑っている。構ってもらえるのが嬉しい様だった。・・・ずっと、新一があの木戸を見つけるまで、あの古い家の最後の一人になった老人が死んでからたった一人でいたのだ、と座敷童は新一に言った。
金木犀のある家。咲き始めの秋から、最後の一人である老人が亡くなった冬まで、ずっと寒さにも負けずに咲き続ける金木犀の花は、寂しそうで、放っては置けなかった。
「でも、貴方の身に危険でもあったら・・・」
「考え過ぎだって」
な〜?と笑いかけると、ニコーvと笑い返し、とてとてと軽い感じで座敷童は近づいて来た。
「それに、こいつ座敷童だけど遊び相手が欲しかったらしくてさ、繁栄なんか要らないからまた遊んでやるよって言ったら憑いてきたんだよな」
軽く撫でてやると、幽霊にしては中々リアルな感触があった。随分年期があって力が強いらしい。姿はしっかり子供のままだが。
その楽しそうな新一の様子に、哀もまぁいいか、という気になったらしく、大人しく撫でられている座敷童を眺めている。すると、そこに
「新一〜〜哀ちゃん〜〜コーヒー入ったよ〜」
やたらと間延びした声で言いながら、快斗が盆に湯気の立つカップを三つ置いて運んできた。
コーヒーのいい香りがリビングに漂った。
「・・・で?本当にその座敷童をこの家におくの?」
定位置に座り直した快斗は、カップを配ってから新一に聞いた。ちなみに、勿論そのカップの中身は他の二人の物と違ってかなり色が薄い代物だ。
姿は全く見えていないけれど、快斗はすっかりその座敷童の存在は受け入れてしまった。・・・というより、先程から空中で動いている新一の手と、すっかり和んでしまっている哀の表情を見てしまえば受け入れるしかないだろう。
「そう。あ〜〜名前つけなきゃなあ〜」
頷いた新一は、相変わらず手で空中を撫でるような仕草をしながらのんびりと言った。
「元の名前とかなかったの?」
と聞くと、
「前の家の老人が死んだ時に忘れちまったんだとさ」
という新一の答え。
何かいい名前はないかなぁ、と姿は見えないが取り敢えず考えてみる。すると、不意に甘い香りが鼻先を付いた。・・・確か、金木犀の花言葉は・・・
「瑠璃、なんてどう?」
「瑠璃?」
不思議そうにした哀が聞き返してくる。新一は合点がいったらしく、「いいんじゃねえ?」と嬉しそうに言ってくれた。
「ほら、この子金木犀の匂いするでしょ?金木犀の花言葉は「真実」・・・瑠璃の宝石言葉と一緒なんだよね」
「ついでに、「高貴」って意味も一緒だな」
「だね」
付け足しで説明する新一ににっこりと微笑みかけると、彼も上機嫌で笑いかけてくれた。どうやら座敷童も喜んでいるらしい。
「じゃ、瑠璃で決まりね?」
哀は年上のお姉さんのような眼差しで自分達を眺めながら言った。
『ありがと、おにいちゃん♪』
「いや、どういたしまして・・・って、え!?」
不意に聞えた声に、快斗はびっくりして周囲を見回すが、新一と哀以外は誰もいない。・・・が、確かに、幼い声がした。
「へ〜〜声は聞えるんだ。良かったな、瑠璃」
「その内、瑠璃なら見えるようになるかもしれないわね?」
楽しみだわ、からかい甲斐があるもの。と本当に楽しそうに哀は笑う。その彼女の様子には中々怖いものがあったが、反面、楽しみでもあった。瑠璃だけかもしれないとはいえ、彼等が見ているものが見えるようになるかもしれないのだ。
・・・霊感ゼロの快斗が、何故「見えるようになる」と言えるのかは不思議ではあったが。
「ヨロシクな、瑠璃♪」
新一が見ている向きから考えて、瑠璃がいそうなところを見当付けて声をかけると、ふわりと暖かい空気に包まれたような気がした。
『ヨロシクね、おにいちゃん!』
とまた声が聞えたが、快斗は今度は驚かなかった。人間慣れも大事なのだ。
とある寒い日。ここは冬のひんやりとした空気の中で金木犀の香り、という少しおかしな空間になっている。
こうして、工藤邸に一人の座敷童、瑠璃が住み憑くことになったのである。
めでたしめでたし?
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