前にお前、自分がいなくなったらどうするって聞いたよな?
うん、聞いたよ?
じゃあ・・・俺がいなくなったらお前はどうすんだ?絶対に手の届かない場所に行ってしまったら・・・俺が今の場所から逃げ出してしまったら・・・
そんなの、追いかけるに決まってんじゃん。
・・・快斗・・・?
手の届かないところに行っても、新一が逃げ出して俺の手から離れようとしても、絶対に俺は離す気なんかないよ。
・・・それでも届かなくなったら?
・・・・・・新一が死んだら、俺も死ぬよ。
・・・・・・快斗。
当然だろ?もう俺は新一ナシなんかじゃあ生きられないんだ。
Can you find to blindfold a secret?
―17―
日はとっくに暮れていて、昼白色の明りに照らされた書斎は、暖房も付けずに肌が凍り付くような冷え切った空気で満たされていた。
ほんの少し動くだけで、ナイフで体が切られてしまいそうな位にピンと張った空気の中、快斗はぴくりとも動かずに手元の手紙を読んでいた。
熱く湧き起こってくる、冷え切った空気をものともしない熱情を必死で押し殺しながら。
『 遺書。
快斗へ。こんな形で告げることになったのについて、許して欲しいとは思わない。何だったらこの手紙を破いてくれても構わないし、燃やしてくれても良い。
俺はお前に嘘を吐いたこともお前を騙したこともなかったけど、ずっと、隠していたことがあった。俺の・・・早まった死期について。 』
手紙の冒頭で綴られた言葉。確信していたことではあったけれど、脳に、心に浸透してくる「新一が死んだ」という実感に、快斗は身を震わせた。
冷えた静寂の中、一言も発さずに快斗は一心に手紙を読んだ。読んで・・・読み切って、もう一度読んで。
「っ・・・しんいちぃ・・・っ!」
噛み殺せなかった声を絞り出し、白い紙束を強く胸に抱き締め――吹き出す熱に、静かに鳴咽した。
ピンと張った糸が切れた気配に、志保はふと目を開けた。時計を見るともう夕方になっていて、暖房も付けなかった室内の温度は更に低くなっていた。吐く息が白い。しんと静まり返って閑散としたこの場所に、微細の孤独を感じた。
この場所には何もないのだ。
家主がこの世を去った今、この場所、この家にあるべき何かがぽっかりと抜け落ちてしまった。
余りにも早くそうさせたのは、自分の作った薬が原因なのだけど。
浮かんだ考えを振り切るように、志保は緩慢な仕草で立ち上がった。悩む暇も後悔する時間もとうに過ぎてしまったのだ。自分が今やるべき事は、マイナスの感情に取り付かれずに彼の遺言を果たすこと。
『嫌な役・・・頼んじまったな・・・』
白いベッドに横たわり、ごめん、と謝ってくる彼が今でも鮮やかに思い浮かんだ。どうせなら笑っていて欲しかった。ごめんではなく、ありがとうと言って欲しかった。この程度の面倒なんて、自分の罪を償うには安過ぎるものなのだから。
謝ってなど欲しくなかった。ただ、許してとは口が裂けても言わないから、最後まで安らかであって欲しかったのだ。
(私も、結構我侭よね・・・)
自分に苦笑する。しかし、それはもう過ぎ去ったことだ。今は、今のこと。そう思い直し、一つ息を吐いて書斎の扉を開けた。
「新一・・・しんいち・・・」
返って来ない囁き。それは解っていても、言葉にせずにはいられない名前。彼の遺言を何度も頭の中で思い返しながら、快斗は止まらない・・・止められない涙を流し続けた。
『な〜に泣いてんだよ、バ快斗』
そう言って揶揄う新一の声が聞えるようだった。しかし、そう言ってくれる彼はいない。
かさり、と紙が擦れる音をさせて、鼻をすすりながら快斗はもう一度涙でぐしゃぐしゃによれてしまった紙束を開いた。
『 俺の早まった死期の原因は、全部俺にあったんだ。抑えようともしなかった好奇心とか、全部解いて・・・全てを知ろうとした傲慢な心とか、抑えられた筈の欲求を敢えて抑えようとしなかったところとか・・・自業自得のことだ。だから、俺が死ぬってことで、誰かが責められるのは絶対に不本意なんだ 』
長い、長い告白文のなかには彼の沢山の感情と、本音。後悔。
『 ・・・俺は隠していたことを後悔していない。寧ろ・・・俺の死に目なんか見せて、快斗が俺を忘れられなくなるのは絶対に避けたかったんだ。だから、これで良かったと思ってる。お前が、俺と一緒にいた時間を幻みたいに思って・・・自分を振ったやつなんかって呆れて・・・
その内、忘れてくれたらいいって思ったんだ 』
そして・・・一つの願い。
生きて欲しい。そう綴られた言葉がこんなにも辛かったことはなかった。今すぐにでも、何もかも忘れて新一の所に逝きたいと思っているのに、彼の言葉がそれを頑なに遮って快斗を生かそうとする。
「・・・俺は・・・最後まで一緒にいたかったよ・・・」
呟きと共に、また涙が眦からポロリと零れた。死に目にも会えなかった。それどころか、彼の体がそこまで悪くなっていたなんて、気づきもしなかったのだ。・・・彼は、本当に何事もなかった様に普通に振る舞っていたから。
一緒に寝て、起きて、ご飯を食べて、一緒に買い物に行って、時々電話で答えていたけれど一課からの要請にも赴いて・・・彼は健康とは言い難くても、快斗にはとても元気なように見えたのだ。
記憶の中の彼はとても元気で、良く笑って・・・楽しそうにしていた。よく風邪で寝込みはしたけれど、いなくなるような兆しは全くなかったのに。
「なんで・・・死んじゃったんだよぉ・・・」
原因なんて解り過ぎるくらい解っている。あの薬の所為なのだ。彼を工藤新一から江戸川コナンへと変えた劇薬。APTX4869。
しかし、責められるものはない。唯一その対象となる黒の組織は、去年の冬に崩壊した。激情をぶつけられるものはない。だから、快斗はただ涙を流すしかないのだ。
我ながら女々しいと思う。自分は確かに新一に「振られた」のに、今でもこんなに彼を思っている。新一は確かに逝ってしまったのに、彼の死に目を見ていない所為か、それとも思い出が余りにも甘美すぎるのか、彼の死に実感が持てない。
・・・否、わざとそこから目を逸らそうとしているのかもしれない。
『 お前がこれを読んでいる時、俺はもうこの世にはいない。この世のどこにもいないんだ。残像を虚しく追い求めるんじゃなくて、目の前の実物を追い続けろよ。目を逸らすな。でないと、お前はお前じゃなくて、単なる抜け殻になっちまう。お願いだから・・・俺のことなんか忘れてくれ。そして、生きてくれよ 』
忘れてくれ。生きてくれ――言葉が頭の中で何度も木霊する。繰り返される言葉に、胸がしくしく痛んだ。――彼という実物のないこの世に、生きる価値なんてあるんだろうか?
「・・・ない、よなぁ・・・・・・」
深く、息を吐く。浮かぶのは自嘲の笑み。どさり、と体中の力が抜けきったように、深くソファに身を沈ませた。・・・その時。
「何が、ないの?」
冷たく問い掛けられる言葉に振り返ってみれば、そこには先程見たのと同じ、疲れた顔をした志保が立っていた。
全く気配を感じていなかった自分に失笑し、
「新一がいないこの世で俺が生きている理由、だよ」
と快斗は志保に答えた。そういう間彼女は快斗に近づいてきて、彼が座る正面に立った。
「死にたい、なんて思っているの?それともまだ目を逸らせているの?・・・だったら容赦しないけど」
「・・・でもね、志保ちゃん。実感が湧かないんだよ。確かにこの屋敷には新一はいないし、こうして遺書も貰ったのに・・・新一が死んだ、なんて・・・」
だって、彼の死に目を見ていないから。言い訳なのは解っている。もし死に目に会ったとしても、今度はその彼の死が自分の心に焼き付いて、一生何があっても離れないだろうから。もしかしたら、本当に壊れていたかもしれない。
「結局のところ、それはあなたの逃げなのよ。工藤君はこの世にはいないし、もう二度とあなたの前に現れることはないわ」
冷ややかに・・・表向きは限りなく冷静に見えるように話す彼女に、快斗は項垂れて再び遺書を抱き締めた。彼女は新一の死に目に会ったのだと思うと、馬鹿らしい嫉妬が胸に灯ってしまう。
新一は、どうして彼の死に目を志保に見せることを許したのか。・・・それはもう本人しか知らないし、自分には知りようもないことだった。
「うん・・・知ってる」
項垂れたまま、快斗は沈んだ態度で頷いた。
書斎に忍び込んで、快斗の様子を限りなく客観的に見ていた志保は、新一の願いの一つを叶えることは本当はかなり危ういのではないかと思った。
「あのさ、宮野・・・」
遺書を渡されたあの日、付けられた願いには志保は驚かずにはいられなかった。
「それを快斗に渡した後・・・頃合いを見計らって、捨ててくれないか?できれば、燃やして」
躊躇いがちにもそういったのだ、彼は。躊躇っていたのは、それがどれほど大変なことなのかが解っていたのだろう。彼自身に躊躇いはなかった。実際、願いを告げる彼の目には何の迷いも見当たらなかったのだ。
ただ、その難しさを知っているだけ。
「・・・・・・どうして?」
彼の唯一の形見になるであろう遺書までも、快斗の手から引き離そうと思ったのか。それが不思議でならなかった。そんなことをしたら、余計彼の死に実感が持てないのではないかと思う。
「・・・それは当ってるかもしれないけど・・・でも、俺はなるべく快斗の周りに俺の痕跡を残したくないんだよ」
自分という存在を忘れさせたい・・・彼は快斗が嫌いなのではない。その逆だからこそ、過去となる自分を振り返らず、前を向いていて欲しいのだ、と新一は言った。あの時。
しかし、志保は逆効果になるのではないだろうか、と思った。逆どころか、今は踏みとどまっているものの、いつ壊れてもおかしくない、普段見てきた快斗とは違い過ぎるその様子に、手紙を取り上げかねていた。
快斗が壊れるのは、新一の本意ではないのだから。
「新一・・・しんいち・・・」
繰り返し囁かれる名前。それによって、なんとか快斗はこの衝撃に耐えているように見えた。・・・今にも均衡を崩してしまいそうな、足元の覚束ない体で細い糸の上に佇んでいるような危うさが滲み出ていたのだ。
今にも壊れそうな・・・どこか闇の奥深くへ墜ちてしまいそうだ。
――それだけは、避けなければならない。
幾つかの言葉を交わして、志保は確信した。手紙を取り上げてはならない・・・と。取り上げてしまったら、本当に何が起こるのか解らないのだ。何しろ、相手はIQ
400もある、腐っても天才で気障な怪盗なのだ。
(・・・破っちゃ、だめかしら)
いいわよね、と自分で結論づける。これ一つとっても、新一にとっては大事なことなのかもしれないが、彼の最大の望みは快斗を生かすことにあるはずなのだ。そのためならば。
・・・でも、その前に。
「・・・あのね、黒羽君」
「何?」
「その手紙、返してくれない?
――処分するから」
喧嘩を売ってみることにした。
一度も言ってもらったことのない言葉があった。
一度で良いから聞きたかったのに、
もうそれを尋ねることも叶わなくなった。
その言葉に君は俺が縛られると思ったの?
だから言ってくれなかったの?
俺は君に縛られても構わなかったのに。
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