
第二十八夜 欲と馬との二人連れ
最近なにかと話題になることが多い騎手についてですが、まぁ、見方や捉え方によってずいぶん認識が変わってくるんじゃないかと思います。
単純に騎手について言えば、うまいかヘタかどっちが良いと聞かれれば、全員ヘタな方が良いに決まってます。それこそ馬の首に捕まって一周してきてくれるような騎手ばっかりだと、騎手というファクターをごっそり切れますからね。
実際には、ウマヘタ混じってややこしいことになってるんですがね。良い例がワールドジョッキーシリーズですか。世界一難しいレースやと思います。あのレースだけは絶対に買いません。ある意味騎手のすばらしい技術を見るためのレースですね。
騎手についてよく言われることに、地方の騎手は中央に比べてうまい、あるいはよく追える。
これも一概には言えないでしょう。ひとつには、地方から参戦している騎手は、その競馬場で1か2の人でしょう。どんな世界でもそうですが、ひとつの場所でトップを維持するにはそれなりの技術と見識がなければつとまりません。簡単に言えば、イチローがメジャーに行って首位打者になったり、野茂がノーヒットノーランをしたりしても、決して日本の野球選手がメジャーよりうまいということにならないのと同じです。
安勝や小牧が上手いのは百も承知です。ただし、それは安勝が上手いのであって、決して笠松の騎手が上手いわけではありません。もちろん笠松や園田の二線級と中央の二線級では比べてないのでわかりませんが、そもそも、地方と中央というようなくくり方で見ている時点でどうかなと思います。
少なくとも、安勝はどうだとか小牧はどうだとかという視点で見ないと、オッズと騎手に左右されることになります。
追い方が足りないとか、わけのわからんコース取りをするとかで、騎手は馬券を買っているファンの事を考えているのか。という声をよく聞きますが、はっきり言って、小指の先ほども考えてないでしょう。
丁度、豊がデビューする少し前くらいから女性も巻き込んだブームが来ました。あれからこっち、なにやらスポーツライクな味付けで変わってしまったことが多いんですが、そこから入った人や、やはりゲームから流れてきた人の中には、前提としてのファンという考え方があるので、少しズレがあるんじゃないかと思います。
競馬の中での力関係とか金の流れとかを考えてみるとよく分かります。騎手は、所属の決まっている騎手と、フリーも含めて、騎乗の依頼というのは調教師から受けます。フリーの騎手にしたところで、もとはどこかの所属なわけです。これは師弟関係というか、徒弟制度ですね。
調教師はどうかというと、もちろん馬を預かってなんぼということですが、お客さんは馬主です。馬主に良い馬を買わせて、預かって、勝たせて賞金を稼ぐというのがたてまえです。しかし、ほんとのところは馬喰のピンハネするか、自らが馬喰になって馬を売って手数料稼いだりしているのも現実です。
馬主も、社台に代表されるような事業として確立された形のものもありますが、一昔前の馬主といえば、道楽、御大尽の遊び的な側面の方が強く、これだけで儲けるなんてことはありませんでした。
この縦の関係は相撲部屋の制度にそっくりです。調教師の総数も決まっていて、誰かが引退して空きがでないとなれないのも相撲の年寄株とまったく同じです。そして、馬主と谷町も。この関係は自己完結しています。
じゃ、JRAとの関係はどうなるかといえば、これは、興業主と一座の関係です。つまり、一般の馬券を買うお客というのは、興業主が客の入りを心配しても、興業の出し物自体を1本いくらで売っている一座には関係無いわけです。
もちろん、極端な例えですから、一座がお客に受けないと、客は入らず、一座の売値も落ちる事になります。ただし、これは芸を売っての話しですが、競馬はギャンブルのステージ自体を提供しているわけです。
彼らの目が一体どこを向いてるのかは、それぞれの関係を考えれば明らかです。少なくとも一般の馬券を買っている人間には向いていないことは確かです。
ここまでの話しを前提にすると、当然騎手の話しをする場合、ヤリ、ヤラズのことは避けて通れません。まったく同じシステムの相撲の注射と同じです。
徒弟制度というのは、基本的に一門一統ができます。流れとか筋といわれるもんです。多少名前や形は変わっても、学閥や門閥といった名前で、どこの世界にもあります。医者、弁護士、学者など外部参入がしにくくなるほどきつくなるように思えます。
相撲や調教師のような閉鎖的な社会では当たり前のことだし、少し前までは、一般の人も暗黙の了解というものがあったと思います。ま、これを八百長というなら八百長でしょう。ただし、むかしの、そもそもの成り立ちを考えた場合、八百長が必ずしもいけないものであったという認識かどうかということがあります。
いまでこそJRAのピンハネ分は莫大で、その分賞金もゴッソリ出せるようになりましたが、地方競馬の賞金の安さを見ればわかるように、本来の競馬は、賭け金の一部を賞金に回せるほどの興業じゃなかったんですね。じゃ、賞金はどうしていたかと言うと、 馬主がそれぞれ出し合って、勝った者が取るというシステムでした。
現在、レースの登録料として払っている金がそうです。いまはもう名残のような形になってしまっていますが、本来は登録料を順位に応じて分配していたんですね。
とうぜん、このシステムの中で何が起こるかというと、たまにはウチの馬主の玉庭 勝泰蔵さんにも花もたせたってくれや。というようなことが起きます。馬主は強い馬を探して、勝てそうだから走らせるという遊びをしているわけです。それが毎度毎度負けるわ、今度の馬はよろしいでといわれて買ったのにまた負けるでは、調教師の顔もたちません。
調教師には一門一統の筋があります。相撲でいう、千秋楽の七勝七敗の状態です。調教師には馬主さんに上手に遊んでもらって、また金を落としてもらわなアカンわけです。当然、メンバーの薄い、一門の筋が多いレースでも選んで出ます。また、着を落として人気薄にして勝たせるというようなこともあったでしょう。
ただし、競馬は相撲と違って1対1の勝負ではないのと、厳密に言うと、勝ちに行く八百長はなかなかやりにくい。良い馬なら、黙ってても勝つわけですから、頼まなくてもいいわけです。必然的に、勝たない八百長、俗に言う片八百長みたいな形になります。
この勝負、勝ちにいかないから、お宅が勝てたらそれでよし、もし負けてもそれはお宅の責任ですというようなパターンです。
必然的に、勝たないためには、出遅れ、馬群に突っ込む、馬場の悪い所通す、かかったままいく、あるいはむかしだったら大逃げを打つなんていうこともあったときいてます。
いま流行の言葉の顧客満足度で言うと、馬主が顧客であれば、ヤリ、ヤラズも顧客サービスのうちのひとつだということです。このシステムに賭け手のお客はくみ込まれていないわけですから。
相撲取りが裸芸者といわれるのも、古くはお抱えの大名や、最近の谷町に呼ばれて酒席にでも出れば、歌も歌えば隠し芸のひとつもするというのが当たり前の世界です。巡業に出るのも一門単位。巡業の相撲が真剣勝負じゃないのは百も承知です。じゃ、文句が出るかといえばそう言う事はないわけです。見る側も承知しているからです。
騎手の事を書くと、一面では、この問題を避けては通れないから、あえて書きましたが、じゃ、馬券買って賭けてる者はそれをどうとらえたらいいのかという問題が出ます。
じつは、いつも書いてます競馬は理詰めだけでは取れないというひとつの理由がこれです。わたしは、今現在でもヤリ・ヤラズはあると思っていますし、無くなる事もないと思っています。
ただ、じゃそれは何時あって、どこで、誰が、何をやろうとしてるのか、なんてことを気にしだしたらきりがありませんし、例え確かな情報がてに入ったとしても、それ自体が100%上手くいくとも限らない賭けみたいなものですから、あえてファクターとしては入れません。
うっすらでもクサイなと思ったレースは手を出さない程度でいいんじゃないでしょうか。調教代わりにレースを使った場合とヤラズにどれほどの違いがあるのかということです。
わたしが言いたいのは、騎手にしたってそんなにフェアなもんじゃないんで、レース終わってからあんまり騎手に腹立ててもしょうがないんじゃないかということです。あ〜やられたな、程度でいいんじゃないんでしょうか。ほんとにヘタ騎手もいれば、手を抜かれた場合もあるんだし。
騎手の悪い面ばかり書きましたが、やはりそうは言っても、競争社会ですから、みんな上を向いてがんばっているわけです。さきほどの流れで、相撲の例えになりますが、注射はあってもガチンコもあるわけですから、技術がなければ上にはいけません。
わかりやすいところで、森厩舎が外人や地方騎手を多用するのはガチンコが多いということでしょうね。
騎手を技術面から見たらどうでしょう。それこそむかしは、逃げる騎手は極端に言えばどんな馬に乗っても逃げたり、追い込み一辺倒の騎手は逃げ馬に乗った時点で消されたりしました。得意技というのか、持ち味というのか、あるいは個性というのか、そう言う感じでした。
今でも多少はそういうところはあるんじゃないでしょうか、やはり逃げ馬に乗せた方がいい騎手。後ろから行った方がいい騎手。 また相撲の話になりますが、先日亡くなった陸奥嵐というお相撲さんがいました。わたしの少年時代に活躍した方ですが、この人がとにかく吊り出しが持ち味で、100戦したら100回吊りにいくという、なにがなんでも吊るというのが看板になっていたお相撲さんです。
同じような時代、なにがなんでも逃げる。逃げ馬にしか乗らんという騎手がいました。いまは調教師をされていますが、この人あるレースで自分より若い騎手にハナを奪われて激怒しました。生意気やというわけです。
次の大レースで、その若い騎手はまた逃げ馬に騎乗することになり、今度はその騎手は逃げ馬ではないが一番人気の馬に乗っていました。その騎手はなにがなんでもハナ切って、若い騎手にはハナ切らさないと新聞でコメントしました。
その一番人気の馬が無理やりハナ切ったらどうなるかは、きのう競馬はじめたもんでも分かる事でした。きっちり惨敗でしたが、その騎手はうれしそうにしていました。ハンデ頭が64キロ背負ったり、フルゲートで24頭走ったりしたころの話です。今思うとすべてがむちゃくちゃなような気がしますが、そういう時代だったんでしょう。
さきほど大統領のHPのJTのところをのぞいていたら、BTということで岡部騎手が出ていました。わたしの世代は騎手でいうと岡部を抜きにして語る事はできません。
いまの岡部は若い人にどういう風にみえているんでしょうかね。おそらく晩年の金田のような感じじゃないかなと思うんですが。晩年の金田いうても、分かりにくさでは全然たとえになってないですが。
わたしが小学校のころ、巨人の金田は名前は大きいが、いつ出てきても打たれてるようなイメージがありました。400勝投手といわれながらも実際にリアルタイムで衰えた晩年しか見ていないと、聞いてる情報とのギャップが大きすぎて、変な違和感があります。
それこそ、岡部の全盛期に、岡部を押えにも買わないなんてことは、いまでいう邪道の極地みたいなものでした。それぐらいイメージとしては勝っていました。とりあえず、好位につけて差すという必勝パターンを確立したのは岡部ですから。もちろん野平という人があっての岡部ですが、岡部位後と以前ではまったく競馬の騎乗スタイルが変わりましたから、影響力の点では競馬界一ではないでしょうか。
野球でもゴルフでもそうですが、騎手をプレイヤーとして見た場合、いつが全盛期で、完成されたスタイルなのか、あるいは今が発展途上なのか、その見極めは難しいと思います。
岡部もアメリカに行って、そこで学んだものを日本でフィードバックさせるまでは苦労もありました。おなじように、それぞれの騎手がそれぞれのレベルで悩み、思考錯誤しているんじゃないかと思います。
ここでは何が言いたいかというと、予想のファクターとして騎手のことを考える時、その騎手がワンランク上のステージに上がろうと思考錯誤している場合、取りこぼしも増えるんじゃないかということです。
プロゴルファーがスイングのスタイルを改造したら急に勝てなくなりますよね。しかし、そこを通らないとより多くは勝てないと思うからやるわけです。毎回の騎乗ぶりだけを見てぼやくなら、騎手としての成長度みたいなものも、少し考えてみたらどうでしょう。
わたしが今一番気にかかるのは蛯名です。一時は豊の最大のライバルと言われ、才能も高く評価されていましたが、最近の不調ぶりというか、わけのわからんレースぶりにお怒りの方も多いと思います。
ここからは感覚の話になりますので、適当に聞き流してください。わたしは蛯名は異能の人だと思います。どういうことかと言うと放っておいてもいい人というか、自分で見つけてくる人。例えば、中央より地方でもまれて、安勝のように中央に来た方がいいような感じを受けます。
蛯名はいまなんとかしようと躍起になってると思います。わたしが気がついたのは、どうもアメリカに行ってからおかしくなったように思います。こればっかりはなんとも言えませんが、彼は何かを見つけに行ってはいけないタイプというか、岡部のようにそこで見た事をフィードバックできないように思います。
漠然とした話で申し訳ありませんが、出遅れ、落馬の多さ、かとおもえば向こうではや仕掛けのように捲ってくることもあります。 何か、馬の力を100%だすために、フワッと出そうとか、やる気をそがず行く気になった時にうまくエンジンあげてやるとか、そんな考えで乗ってるように思えます。例え、それが見当違いの考えであっても、彼が目指しているものへの思考錯誤であったり、また、それだけで終わってしまうかも知れません。結果論として、大騎手になったときに、その過程としてそういう時代があったなと言うことになるかもしれません。
蛯名にかかわらず、騎手というものをファクターに入れる場合、極端に言えば人間である以上、恋人に振られた、身内に不幸があった、朝から下痢で力が入らん、など毎回がベストでやれないのは当たり前の話しですね。同じような勘違いで、医者は常に手術などはベストを尽くしていると受ける側は勝手に思いこんでいますが、そんなことは全然ありません。鬱陶しいなと思いながら切ったり縫うたりしています。
岡部のことでは余談になりますが、新馬戦で岡部の乗った素質馬は買うなの法則があります。馬の将来性を見据えて、廻って来るだけということがあるからです。これは本人も認めていますし、特に藤沢の有力馬なんかのときに多かったですね。藤沢自信も、岡部にはこういう風に乗ってくれと伝えても、新馬のときは自分の考えでのるからと言っているのを聞いたことがあります。
レースとしたらこういう事はどう捉えるべきなんでしょう。調教代りにレースを使うのと、ヤラズでレースをするのと、どうなんでしょう。目先の1勝に向って必ず全力で戦うべきだというべきなのでしょうか。
極端にいえば、ダービーのために皐月賞を叩くという感覚だってあるかもしれません。
騎手について考えていったら、きりが有りませんし、それがわかったところでどうということはありません。無い事にしておけば存在しないことですから、せいぜい、前で競馬した方がうまいとか、最近乗れてるから押さえとかなあかんとか、その程度にして過剰な期待や、負けレースを騎手のせいにしないで忘れることです。
馬についても疑問に思う事がたくさん有ります。もちろん騎手も馬と切り離しては考えられません。馬のことは次回に。
第二十九夜