
第二十七夜 あちらを立てれば、こちらが立たず
前回、相対性理論だなんだと小難しい事を書きましたが、別の事でも考えた事があって、今回も少しおつきあい願います。
進化というとわたしの好きな分野なんですが、なにかほっておくと、すべては良い方に向かって進んでいるかのように思いがちですが、ただ単に適応しているだけかもしれず、進化はけっしてよい方だけではなく、その結果として絶滅をまねくような事もあります。
人間が進化して持ち得た能力に、思考するということがあります。その結果、道具を作り、機械を作り、それまで何億年とかけて獲得してきた動物の能力をはるかに超える力を得たわけです。
例えば、鳥のように飛ぶために飛行機を、魚のように海を潜るために潜水艦を、速く走るために自動車をといった具合です。あえていえば、自らの肉体を変化させて獲得した力は、一昔前のPCみたいなもので、ワープロのソフトを入れてしまえばワープロ専用機でしかなく、今のようにプラットフォームとして色々なソフトを使い分ける事はできません。
このように人間は、アタッチメントを替えるように色々な能力を使えるようになったわけですが、一面ではその能力は身についたようには必ずしも行かないということです。
われわれ凡人は、身の丈でしか物事をとらえられないというか、考えられない事が多いです。いくら望遠鏡があるからといっても、望遠鏡で覗いた遠くの景色は、やはりレンズの向こう側という感覚が残ります。自分が獲得した能力で、20倍の視力があれば、自分が見たという実感があると思います。
電波というものが見えないために、現実としてあると分かっていても、いまひとつ実感として理解できている人は少ないんじゃないでしょうか。テレビが写るのは目に見えるので分かるが、それが電波を利用していることがイメージできる人は少ないと思います。
最先端の優秀な科学者や物理学者などは思考実験というものをします。読んで字のごとく、思考の中で実験するわけです。現実の装置や観測のレベルがついてこないため、思考の中でしか実験する事ができないような事柄という意味です。
アインシュタインが行った思考実験にこういう事があります。重力というのは空間の歪みである。質量が重ければ重いほど空間は歪むので、質量の大きな星のそばを通る光は曲る。
この実験は、後日観測のレベルが上がったので、太陽のそばを通る光がわずかに曲げられてるのが観測されて実証されました。
この、空間が歪むというのは、空間が曲っているということなんですが、イメージできませんよね。書かれているのを読むと、なんとなくわかったような気になりますが、わたしは無理でした。別の平面で表したモデルを見てわかりましたが、それでも空間がというのは今でもイメージはできません。と言うより、イメージできないようになっているわけです。
人間が持っている、肌で感じる感覚や尺度に、空間が曲るというようなことを取りこめる物差しはありません。よく、わかりやすいように図で示してくれている本でも、平面に移し変えたりして、例えて説明してあるわけです。本でもなんでも、空間の歪みを目に見える形では表せませんから。
ニュートンはこれを引力とよんで引っ張る力と説明しました。これの方が分かりやすいですね。地球に引っ張られてるから立っていられると思う方がまだスッキリします。
例えば飛行機で真っ直ぐ飛んでいると思っていても、実際には曲って飛んでいるというような感覚でしょうか。
いつも極端な例の方が分かりやすいかと思い、このようなことを書いてますが、実は、分かっているがなかなかできないと言うような事は、こういうようなことの幅の狭い事柄なんじゃないかと思ったりします。
理性と本能という言い方は正しいかどうか分かりませんが、人間は思考するという道具を手にしたときから、この二つの間をゆれ続けることになったじゃないでしょうか。
動物なら、もちろんこれは何だとか、危険か危険でないかといような本質的な思考というようなことはあるかもしれませんが、信用して何かするとか、良い悪いなどという道徳もありません。
信用すると言う事は、裏を返せば裏切るんじゃないかという事があるわけです。だから、抑止としての道徳が必要になるという堂々巡りにおちいるわけですが。
メンタルというものの仕組みがここにあるあるわけです。
人間が本来持っているものとしては、好きだ、嫌いだとか、うれしい、悲しい、恐い、楽しいなどの感情があります。そこに、後から取って付けたような道徳律があります。この間をいったりきたりしているわけです。
第一印象は生理的に嫌い!絶対ダメ、受けつけない。というような人に会っても、いや、実は人間は中身だ外見で判断しちゃいけない。とか 好感を持っている人に対しては、キツイ事を言われても、あの人は口は悪いが、根は良い人だからと思ったり。 タバコは体にわるいからなぁ、やめようと思ってるんだが、つい。とか
分かっているけどつい・・・という場合は、本当に分かっているんでしょうか。まぁ、本当に分かっているという事自体キチンとイメージできないんですけどね。それぐらい、日常なにげなく過ごしている事の中に、しっかりイメージしてやっていることって実は少ないんです。
そろそろこのへんで競馬の方に話は移るんですが、久々に尾馬 勝泰蔵さん(第九夜に登場)に出ていただきます。
ターゲットも導入し、そこそこ良い成績も上げられるようになった尾馬さんですが、どうも勝負レースになると勝ちきれない。当然、勝負レースですから、投入金額も大きくなります。すると、いつもは気にしていない馬体重に目が行ったりします。しかもプラス10キロ以上ならやめるが、中途半端なプラス8キロ。う〜んと考えていると、雨が・・・・いつもなら馬場の事なんか考えた事の無い尾馬さん、重なら差しもあるなぁ、軸馬にする予定馬はプラス体重やし、3番手評価のこの馬は差しも届きそうやからということで、この馬から行ってドボンてなことが繰り返されます。
結局、いつもは考えもしないファクターに目が行って自分のスタイルでは無くなってしまうという事ですね。どういうことかというと、資金が大きくなった分、尾馬さんは大事に行かなければとまず思うでしょう。裏を返せば、この資金が大きくなった時点で負けたくない、無くしたくないという気持が大きくなるわけです。その不安を消す為にこんどは材料を探し出すことになるわけです。
そんなことは百も承知と尾馬さんは言うかもしれません。ただ、分かっているができないんだと。そんなことがすっとできるくらいなら誰も苦労せんよと言うかもしれません。
その通りでしょう。百選練磨のプロでも、グリーン場で急に痺れてパットが打てなくなったりするんですから。じゃあ、どうしたらいいんでしょうか。
先ほど、キチンとイメージできてないという風に言いましたが、イメージできるようになればいいんです。重力というのは空間が歪んでいるんだということが、肌身に沁みてわかるぐらいに。
わたしはよく、身についた銭ということを言いますが、はっきりと説明したことはありません。例えば1レースに10万入れるとして、月に100万使える人と10万しか使えない人ではおのずと10万の重みが違ってきます。そういう事だけで言えば、10万しか使えない人は、1レースに10万は身についてない銭になるというのは一面では合っています。でも、身についたつかないというのは本質的には違っています。
勝負レースに10万を入れると安心を買ってしまう、転がして10万になると次に行けない、などというのは感情としての恐れが勝ってしまっている状態です。ではその人達が1レース1万なら平常心で勝負できるのなら、恐れを取り除くことです。
方法は簡単です。10万のレースをどんどんやること。負けて負けて、魂が抜けてしまうような状態になるまで勝負してみることです。勝っても負けても10万という金に麻痺してきます。運がよければ踏みとどまって身の破滅までは至らないでしょう。 うまくいけば、もう競馬やめようと思うかもしれません。あるいは代償として家族がいなくなっているかもしれません。
一目に一万単位で馬券を買っていると、払い戻しのときにチャリチャリと硬貨の音が絶対しません。バラバラバラという札の
数える音だけです。それがカッコイイと、そういう買い方をしているときは、やっぱり抜けるとものすごいダメージがあります。
そのダメージが作ってくれるのか、麻痺させてくれるのかわかりませんが、そういう過程がないと、理屈が下まで降りてきてくれません。
モルヒネも少量なら役に立ちますが、使いすぎは中毒になります。同じように博打で身を持ち崩す人は、この部分で麻痺して行くからです。
血を流してはじめて理屈が身についてくるんです。仮に10万というレートが身についたなら、普段のレースは1万でやるくらいの方がいいんじゃないかと思います。見切り千両。勝負レースでスパッとと言うのが理想ですね。
わたしは気が小さいので、1レース10万の勝負をどんどんやるなんてとても無理です。じゃどうしたらいいんでしょうか。これはどうしょうもないです。
勝負事というものの本質がそうであるように、ヘタしたら身を破滅に追い込むくらいの気概がないと勝ちきれないのが本当の姿だからです。
楽しく、ワイワイ競馬するなら、いま身についてる銭でやるのが一番だと思います。なにも無理して上を望まなくても、加減を知るのも、キチンとイメージできたことになるのですから。でないと上を見たら一勝負何億というバカラをするビッグホエールと呼ばれる人達だっているんですから。どこまでいくねんという話しになります。
もうひとつ、メンタル面でよく言われることで、負けるとカーっとなって、いらんレースまで買って暴走してしまう。あるいは、手当たり次第にレースを買ってしまう。我慢できないというやつです。
これはねぇ、ぶっちゃけて言えば、向いてないかもしれない。熱くなるというのが勝負事では最大の欠点になるからです。例えばボクシング、当然闘志というか、向こう意気が強くないと基本的にだめですがで、殴られたから、挑発されたからカーっとなってたんでは勝てません。麻雀でもそうです、結局負けるのは熱くなったやつです。
もっとなんていうか、冷たい怒りというか、そんな感じの冷静さがないと負けてしまいますよね。
脅迫神経症というのがありますが、どういうのか簡単にといいますと、もしこうなったらどうしよう、もしあんなことになったらどうしようと思ってしまうことです。
例えば、バスの運転手が、運転中に、もし事故でも起こしてしまったらどうしようと思い出してひどくなると、このどうしようと不安に思っている時間に耐えられなくなって、自分でぶつけて事故を起こしてしまうんです。つまり中途半端な宙ぶらりんの不安な時間から、事故が起きてもいいから、ハッキリさせて欲しくなるわけです。おかしいですよね、事故が起きたらどうしようと恐れているのに、自分で起こしてしまうなんて。
負けると暴走するのも、似たようなもんです。負けている自分というものが耐えられないんですね。というか受け入れられないのか。だから、当たりが出るまでカードをめくるようにレースを買いつづけることになるわけです。
正直言って、楽しみや娯楽で競馬をやっているんでなければ、そのあたりの自制心がないと、長くは持たないか、あたりさわりのない金で負けつづけるかのどっちかではないかと思います。
行け行けで破滅する典型的なパターンです。何人も見てきました。カーっとなる闘志がなければ勝負はできないし、あまりに
冷静ではいつまでたっても勝負にならないし・・・あちらを立てれば、こちらが立たず。ほんに博打は難しい・・・
第二十八夜