第二十六夜    わかったような、わからないような、相対性理論



  相対性理論といえば、アインシュタイン。アインシュタインといえばアカンベーのおじさんと、誰もが知ってる有名な方です。
  わたしは、別に物理や数学を勉強したとかいう訳ではなく、むしろ数学なんぞはこの世から消滅してくれと思っていたような人間です。とにかくきらいでしょうがなかったですね。
  ところが、生物とか進化とかに興味があったもので、手当たり次第に読み物として読んでいると、分子生物学というところに行きついてしまう訳です。名前は難しいですが、遺伝子とかの極小の話しです。こうなると分子や素粒子の極微の世界と宇宙の極大の話しともリンクしてくる訳です。

   話しが小難しくなってしまうので、はしょりますが、いろいろな世界が、いままでの専門だけでは進まなくなって、物理の人も、数学の人も、生物の人も、宇宙の人も、結局同じところの問題に行き当たるようなことになっている訳です。
  で、まあまあ、聞きかじり程度にいろいろと読んでいますと、これはもう宗教というか、哲学的な宗教心という意味ですが、そういうことと重なる部分もあるなぁと思ったりもします。
  
  ここからは、難しいことを大雑把にくだいて言いますので、細かい事は無視してくださいね。相対性理論の中で有名な話しは、時間も相対的なものであるということです。

  例えば長さが60万kmの乗り物があるとします。乗り物は目的地に高速で向かって走っています。そこで、乗り物の中央で光を発すると、光は秒速30万kmなので、1秒後に乗り物の先頭と最後尾に同時刻に到達するはずです。

  その乗り物を別の場所から観測している人がいるとします。その人の目には、光は同時刻に先頭と最後尾に到達していないということが起こります。観測者の慣性系だと、乗り物は進行方向に運動しているので当然、最後尾に早く到着します。
  ということは、同じ出来事が違う時刻に起きる。つまり慣性系にはそれぞれの時間があるということになります。乗り物は運動していたため、観測者より光が到着するのが遅れたということです。運動する物体は時間が遅れるということになります。時間の遅れは光速に近ければ近いほど大きくなります。

  ながながと書きましたが、この内容はわかってもわからなくても、どうでもいいのです。他にもいろいろとありますが、要は通常レベルの感覚では、時間が違ったり、空間が歪んでいたりと感知できないようでも、この世界の成り立ちとして物事が相対的であるということです。
  つまり、絶対的な視点というものが存在しないということです。先の思考実験のように、観測者と乗り物の中にいる人では時間の流れ方が違えば、違う2つの結果が存在する事になります。ただし、今言ったような絶対的な視点、それこそ神の視点を持って観測しないと、2つの違う結果が存在する事も感じることはできません。当人にとっては、当たり前の時間が、当たり前に進んでいるだけですから。

  日常的なレベルの生活では、人によって物差しが収縮したり、時間が違って流れたりというような物理的なことはありませんが、生きていく上では、すべからく物事は相対的なのではないでしょうか。わたしは、相対性という言葉を知ることで、初めて相対の意味がわかりました。なにか知らないうちに、世の中の尺度というか、そういうものが絶対的な価値を持っているような錯覚に陥ることがあります。
  この世の中の成り立ちの部分で、絶対というものが存在していない以上、やはり相対的な関係の中で解決していくというか、決めて行かなければいけないように思います。

  例えば、幸福ということで言えば、これは自分が無意識に持っている基準の上か下かということで感じることだと思います。つまり、個人によって変わるので相対的であるといえます。
  よく日記にも書きますが、子供を持っていろいろと楽しい幸せな時間を過ごせたとします。同時に、子供を持った瞬間から、子供を持った喜びと同時に、事故で死ぬのか病気で死ぬのかわかりませんが、子供を失うという恐れ、心配を内包しているわけです。なくさないかもしれません。でも、子供を持ったがために経験する悲しみ苦しみというものが裏表として存在しているように思えます。
  もちろん、ここの受け取り方が人によって変ってくるので、相対的だということです。

  仕事でもそうです。クリエイティヴな仕事でバリバリやっているのが良いという人もいるでしょうし、収入は低くとも、自由になる時間が多いので、趣味の時間が取れるからという理由で選んでいる人もいます。
  このコラムは、基本的に賭け事をテーマに書いています。何を長々と書きやがってとお思いかも知れませんが、賭け事こそ本質は相対的で私的なものの最たるものです。

  このコラムの初めの方でも書きましたが、勝つという事とはどういうことでしょうか。いつの時点で勝っていれば勝ったことになるんでしょうか。
   何にどう勝つか、基準こそが相対的ではないでしょうか。

  最近、あちこちのサイトで、いろいろな人の書きこみを見ていると、どうも2つの点であいまいな事が多いんじゃないかと感じます。

    1つは、賭けるという事。よくサイコロの話しを例にしますが、いちばん分かりやすいと思うで繰り返しますが、サイコロが振られて、丁か半かに賭けるとき、なにを拠り所にするのか。丁が続いているから流れに乗るのか、あるいは逆張りか。どっちにしても、説明のつくほどの根拠はありません。ある意味、自分がセンサーとなって感じたままを、なにがしかのもので投げ出すという事だけです。

  競馬の場合、いろいろな尺度と解釈があるので、理詰めで最後までいけそうな錯覚に陥ります。出た結果に対して、アレがどうだったとかこうだったとか言うのは、賭けた行為に対して少しどうかと思います。
  なぜなら、1つの勝負に対して、そこに含んでくるのは完全に自分と勝負の相対的な関係でしかないからです。相手すら、勝負の一要素にすぎないはずです。
   例えて言うと、複勝130円の勝負に1000円賭けるのと100万賭けるのでは、おのずと含んでくる物が違ってきます。出た結果にあれこれ言う人は、結局そこの要素に引っ張られて、大きな勝負になればなるほど自分を失うことになります。

  コロガシで金額が大きくなると判断が狂ったり、行ききれないというのは、最後になにか絶対的な尺度を求めているんじゃないかと思います。競馬であっても、最後のところはサイコロに賭けるのと同じで、ポンと踏み出せるというか、投げ出せる感覚だけのことになるんじゃないでしょうか。

  2つ目は、絶対的な尺度が無い以上、自分で作らなければならないということです。

  これも最初の方で書きましたが、いくら勝ちたいのかということです。どうなったら勝ちかということと、いくら勝つかということはとても大事なことです。

  例えば、モデルとして、わたしがコロガシをはじめるならどういう事を決めるかを書いてみます。もちろん冷静に自分の実力を判断して手が届きそうなところを考えます。

 1 どうなれば勝ちなのか。  月の収支がプラスなら勝ち。
 2 いくら勝ちたいのか。    月あたり10万前後。
 3 コロガシのルール
   1日の全レースの中から4レースをピックアップする。
   オッズは130円以上。
   最初の投入資金は20,000円
   ドボンしたら、その時点でその日は終了。仮に最初のレースでドボンすれば、後の3レースは見送り。
   4回転がすまでに300%を超えた時点で終了。

   紙の上では、4回転がしても130円なら285%ほどにしかなりませんが、実際130円ばっかり4回というようなことはありません。逆に、実際は3コロでほとんど300%越えると思います。

  月に8回あるとして、半分の4回は成功するという勘定です。4回の純益が16万円。失敗の4回の損失が8万円。差し引き8万円のプラスです。


  実際に始めてる訳ではありませんが、机上の空論ということでもないと思います。わたしならまずはじめに自分に対しての尺度として決め事をはっきりさせるという事です。
  始めにコロガシありきでやられてる方が多いようですが、一つには、いつまで転がすのかがあいまいな人が多いんじゃないでしょうか。あるいは、転がせないところを目標にしている方。

  わたしの場合は4つ転がすのも難しいと実感しています。だから、月のうちに半分は失敗すると設定しているわけです。それ以上失敗するなら基本的な実力不足という事になると思います。

  複勝だから転がしてせめて500%とくらいは欲しいという気持もわかりますが、500%1000%と行こうと思えば、片手間で競馬やってる人間ではなかなか難しいと思うんですが、どうでしょう、自分がセンス無さ過ぎなのかもしれませんが。

  まぁ、これは一例ですが、馬連中心ならそれはそれで、現在も自分の中の決め事に沿ってやっているわけです。同じような設定で、馬連なら、300%を越えたレースを一つ取ればそこで終了すれば良いだけの話しになります。
  つまり、勝つために、いくら勝つためには、なにか決め事をしないとなかなか難しいんじゃないでしょうか。

  もちろん決め事を作るということは、その条件で勝ち続けられれば、大きな自信にもなりますし、負けが込んできたときの拠り所になります。
 
  博打は馬鹿ではできませんが、利口では勝てません。

 第二十七夜