
第二夜 見えるものしか見えない。
中島らもが好きなのだが、この人の新刊などは本屋で迂闊に立ち読みができない。なぜなら声にだして笑ってしまうからである。あのしゃべりと同じように、普通に読み進んでいくと、急におもしろい行にぶち当たるという感じだ。
そのときはすでに手遅れで、パタンと本を閉じてダッシュで本屋を出る。そのためにミズテンで本を買って電車で帰るときなどは大変である。ああっ読みたい。今度はどんなおもしろいことが書いてあるのか気になる。ちょっとぐらいやったらだいじょうぶやろ。おもろなりかけた手前でやめたらええねん。と自分にいいきかせるが、後の祭りである。
おもしろい行の字が目に入った瞬間。肩は震え、腹筋は震度7で動き出すのだ。結果、満員電車の中でグツグツ、ゲタゲタと涙を流しながら笑う変なおっさんの一丁あがりである。
そんな話の中にこういうのがあった。
水戸黄門か大岡越前のような時代劇を見ていたときのことである。お代官に捕まったおとっつぁんを助けたいがため、その娘が代官にいうのである。
「お代官さま!どうか、お目こぼしを!お目こぼしを!」
賢明な方はもうわかったと思うが、中島らもの耳には、「お目・こぼし」が「おめこ・干し」に聞こえたのである。その瞬間天気のいい日に、若い村娘が股をひろげておめこを干しているイメージが湧いたそうである。当然、わたしは電車の中で変なおっさんと化していた。
これと同じようなことが、トラックのバック音である。「バックします」が「ガッツ石松」に聞こえると聞いた瞬間から、遠くでトラックのバック音が聞こえてきても、もう「ガッツ石松」以外には聞こえないのである。
残念ながらまだ時代劇で「お目こぼし」のシーンに出会ったことはないが、おそらく「おめこ干し」と聞こえるだろう。どなたかそのようなビデオをお持ちなら、ぜひダビングさせてもらいたいものである。
恐ろしく長い前置きになったが、見えるということも同じである。おそらく、物の見方が違うというように、何通りかの解釈があれば、脳はその一つを選んだらその他のものは遮断してしまうのではないかと思う。
「探し物は、その物を探すことをやめたときに見つかる」というのがあるが、まったくそのとおりだと思う。
これは何かを探しているときというのは、当然その物がありそうな所を探しているわけで、脳はありそうな所関連のことだけをフル回転で考えているのである。ありそうな所にあればすぐ見つかるわけで、ないから探しているという矛盾につきあたり、脳は自力では見つけられないのである。
例えば、ものすごい悲しいラブストーリーがあって、100人が100人とも泣き崩れるというような映画を、やっとくどいてデートにさそった彼女と見ていても、主演の松嶋菜々子のセリフに「どうかおめこぼしを」とあったら、あなた1人がおそらく爆笑の渦にのみこまれるだろう。それですべては終わりである。
実はこのメカニズムがあなたをも襲っているのである。
「よっしゃ〜!3−4ゲェェェット。えっ2−4になってるやん(T_T)」
「6番は買えんわな。誕生日の奴くらいちゃう?えっ、5走前に本線の馬に先着してる?うっそぉぉぉ、どこどこ、ガクッ」
「なぁ、言うたやろ。押えとかなあかんね。見てみ、俺なんか3千・・・300円しか押さえてないやん。ドテッ、ゴツン、プスン」
人間とは所詮こんなものである。毎日香、毎日香と言いながら歩いていても、水溜まりを飛び越えただけで忘れてしまうんである。
アル中でもシャブ中でもいい、例えば自分が座っているテーブルの上に小さな大名行列が現れたらどうだろう。幻覚だというのは簡単だが、実際に問題なのは、それが見えるということである。
幽霊ならそんな物は見えないという人は多いだろうが、アル中患者が大名行列を見たと言ったら、幻覚だとわかっていても、その人が見たことについては否定しないだろう。
つまり、見える、見えているということと、あるかないかは一致しないのである。
いつもなら見ているはずのコース実績をたまたま見ていなかったために、その馬を買わなかったとか。はたして本当に見ていなかったのか?いつもと同じように目を通していたのに見えてなかっただけではないのか?
はたしてギャンブラーにとってこの恐ろしい現象を防ぐ方法はあるのか?
第三夜を待て。 つづく