第十八夜 あなたはどっち

   わたしが、ターゲットという物を知り、PCを使い始めた時は、同じようにPCを使って競馬をしている人達というのは、現在がどういう状態であれ、最終的には勝つという事に向っていると思っていたのだが、どうもそうではないらしい。いろいろなスタンスの人がいるようだ。
  いいような言い方をすれば、楽しみでやっていると言う人達。その最右翼はロマン派というのか、わたしにはよく分からないが、馬のファンであったり、騎手のファンであるとかいう人で、好きあるいは応援しているというだけで馬券を買ったりしてしまう人である。好き好きであるから、その事にとやかくいうつもりはない。

  他にも楽しみでやっている人達がいる。例えば、月に飲み代を5万円なら5万円使う人と同じように、馬券代を使う人である。もちろん勝とうとしているんだろうが、どちらかというと趣味性の方が勝ってしまって、馬券を買うまでのプロセスや、競馬場での飲み食い、仲間と一緒にウダウダ言う、はずれてはブチブチ言う、こういうのがワンセットで楽しみとしてやっている人達である。これもわたしごときが文句を言う筋合いのもんでもないし、おのれの金を好きに使こてどこが悪いんじゃいというもんである。
    馬券で5万円もするねんやったら、高級ソープにでも行った方が・・・というのは大きなお世話である。

   じゃあ何も言う事はないじゃないかとなるわけだが、ここまではっきりしていればいいのだが、微妙にスタンスが違うというか、わたしからすればハッキリ違うと思うのだが、本人が自覚していない為いろいろとあつれきが出てくる場合がある。
    例えば、スタンスが違うという似たような事で言うと、何かの専門誌があって、競馬でも釣りでも車でも何でも良いのだが、それを読んでいる読者というのは、ほんとに何も知らない初心者から、何十年と読んでいるベテランまでいるわけだ。

    初心者はほんの基本的な事柄でも知らないのは当たり前なので、そいうことの記事も乗せて欲しいと思う。ベテランはベテランでもっと突っ込んだ記事がと思うわけである。こうなると、本代を払ってるのに読むところが少ないとかいろいろ不満が出てくるわけである。
    商業誌であれば、できるだけ満遍なく期待に応えなければならないし、またそうやって新しい読者も増やさなければならないのである。
  人間と言うものは勝手なもので、常に自分の立っているところが正しいように思うのである。わたしもそうである。でなければこんなにえらそうな事は書けない。ただし、隣り近所を見やる余裕は持ち合わせているつもりなので、最低限のマナーは守っているつもりだ。

   競馬の場合、以前に賭け事としての側面が見えにくいという事を、シンプルな博打というものを通して解体して、少しは示せたと思うのだが、そういう面が作用して、同じ競馬をしながらでもまったくスタンスが違うということがある。
    自分がどこに立っているか知ってて言う場合は正面切った話しもできるが、自分が立ってる場所を思い違いしてる人に、「あんたはそう言うが、あんたの立ってる場所は違いまっせ」といったところで話しはかみ合わないのである。

 これからいうスタンスの違いとは、ロマン派であるとか、別にそんなに勝たなくとも楽しめたらええねんというような人達は除きます。少なくとも勝ちに行こうとしている人達の中での話しです。

 ゲーム性のある賭博と賭博性のあるゲーム

    競馬の場合は同じ事をしているようで、どちらかにスタンスを置いてやっているようだ。
    まず、ゲーム性とはどういうことかというと、技術によってある程度まで場をコントロールできる、あるいは支配できる度合いが大きいということである。つまり、プレイヤーの技量が関係してくるという事だ。

   例えば、玉突き、ゴルフ、囲碁、将棋などでプレイヤー自身が賭ける場合、実力がまったく互角以外はハンディを振る事になるが、長い目で見た場合ハンディを出す方が必ず勝つ。厳密に言えば技量の差が勝ちまでつながっているので公平な賭けが成立しないのである。
   こう言う場合、トップレベルのオープンな対戦、例えば名人戦とかマスターズで誰が勝つかと言った外部の賭けが例外的に成立するだけである。
 ゲーム性のある賭博と賭博性のあるゲームの境界上にあるのが麻雀である。これも技量が上のものが長い目でみれば勝つが、短期の場合は逆転もありうる。

 賭博性というのは簡単だ。結果がハッキリして、その結果に対価が付いてくるという事だ。
   ゲーム性が全くないと言うものは分かりやすい。丁か半か、赤黒、裏表、どれも技量の入る余地がない。ましてそれが勝ちに結びつくこともない。

    競馬におけるゲーム性とはどう言う事だろうか。これも以前に書いたが、最後の買い目を決める直前までに絞り込むプロセスに個々の技量が関与してくるのだ。
    そこには、データーがあり、指数があり、馬場読みがあり、血統があり、というように無数のファクターを取捨し組み合わせて買い目を決定する。ここまでの話しである。

   丁半なら2つに1つ。いつも賭けるのはどちらか1つである。決めるまでの技術的なプロセスが一切無い。メンタルな折り合いだけだ。

    賭博性のあるゲームをしている人とはどういう状態であるのか。
    1つには報酬無き喜びに満足できる人である。例えばTVゲームをクリアすることに多大な時間を費やす事は報酬無き喜びである。
    似たようなことでいえば、G1に固執する、あるいは1日の馬券収支はマイナスでもG1をとれた事の方が喜びが大きいというようなこと。当然買い目期待値など関係無くG1だから、あるいはメインレースだからと買ってしまう。つまりG1やメインレースをクリアすることにベクトルが向いているのである。

    もう1つはやはり賭けるという行為が分かっていないということ。
   典型的な例でいうと、あるレースで自分の馬券がはずれた時、騎手の追いが甘かっただの、馬込みにいれただのと言ったり、急に馬場状態が変わったからなどと、何か別のファクターのせいにしている人である。

    例えば馬の故障も含めて負のファクターなど数え上げたらキリがない。
    賭けるという行為はおおげさに言えば、そういった予測できない事が起こりうる可能性もすべて含んで、1度、我が身をすべて預けるという事であるはずだ。
    なぜなら、わかりやすいのでいつも例に出すが、サイコロという賭ける行為しかないシンプルな博打で考えれば分かるはずだ。丁半どっちの目が出ても、騎手が、馬場がというのに相当するものがない。

    どちらかに賭けた結果を正面切って身に受け止めなければならないのだ。

    師匠がよく言う「たまたま違う馬が入ってきただけ、もう1回やったら自分の馬が入ってくる」というのが端的に表してると思う。これは結果を受け止めた上で目が違ったと言っているわけだ。
    ここが分からないと同じように言っていると思ってしまうのだが、たまたま半の目が出たが、もう1回振ったら丁が出るといってることと同じなのである。
    博打をしているかゲームをしているかの違いである。
    サイコロでもコインでも良い、そこには賭けるという行為と結果しかないのである。わたしはこの部分を大事にしたい。

    もう1点、賭博性のあるゲームをしているというスタンスの人でも、勝っている人はいると思う。ただし、ゲームである以上、またそういうスタンスである以上、ぎりぎりのところでやっているということは無いはずである。

    誤解の無いように言っておくと、わたしは何も賭け金の多寡や、勝ちに行こうとしてる人が、純粋に競馬を楽しんでいたりする人よりえらいとかどうとか言うつもりは無いのである。最近の掲示板の書きこみや、質問の内容なんかを見ていると、どうも立っている場所を間違えたまま、違う事をしているような人を多く見かけるのである。

    勝ちに行きたかったら、博打をしたらどうですかということだ。
    異論反論はあると思う。

    わたしはこう思うのだ。勝つ。少なくとも自分が思っている金額を手にするということを最終目標とするなら、それを山の頂上とする。どこから登ろうと自由である。あえて険しいルートをまっすぐ最短距離を目指す人もいれば、ジグザグに緩やかに登って行く人もいると思う。
    指数を主体にしてる人が東から登る人なら、血統を主体にする人は西から登っているということだ。
    ただ、頂上目指して登るというスタンスがなければ、上に行ったり、下にいったりで、結局うろうろしてばかりという人もいると思う。
    ちょっと、考えて見てはどうでしょうか。

    ゲーム性のある賭博という切り口でもう少し考えて見たいと思います。  つづく。

第十九夜