
第十二夜 なぜ、愛してると言ってくれないの。
こんな言葉を背に受けて、「堪忍してください」と雪の中に消えていきたいもんである。
最近の若い人は知らないが、愛してると言った事がある人はどれくらいいるだろうか。好きだ、惚れたは言えても、愛してるはちょっと言えない。特に関西以西ではほとんど言わないのではないだろうか。
まぁ、わたしらの世代では「好きやねん」が精一杯である。間違って「愛してるよ」などと言おうもんなら、関西圏在住の女はその場で笑い転げて腸閉塞に陥る事間違いなしである。
なぜ愛してるが言えないのだろうか。べつに嫌いならそれでいいのだが、どうも言いにくいのはなぜだろう。
実は、愛という言葉は元々そういうニュアンスでは存在していなかった言葉なのだ。一説によると坪内逍遥あたりが明治に入って作ったそうである。同じように「社会」とか色々な言葉が、西洋から入ってきた時に翻訳として言葉を作らなければならなかったからである。
つまり、人造語なので、ニュアンスとしてはキリスト教の博愛精神がないとしっくりこないのである。
その証拠に「好き」や「恋」は「好いてる」「恋しい」となるが、「愛」は「あいしい」とはならず「いとしい」と変わってしまうのは無意識に「あいしい」ではおかしいから拒否してるのではないかと思う。
大阪で「イヤン、好かんタコ」と言われてお尻でもギュッとつねられたら、それは「好き」という意味ですが、
もう絶滅したかもしれません。松竹新喜劇あたりではまだ聞ける言葉かもしれませんが。
とまぁ、長々と書いたのは、言葉は記号だということを言いたかったからです。世の中のほとんどと言っていいくらい、表現されてるものはすべて記号です。記号と言うと、○とか×とか卍とかだと思いがちですがそうではありません。
言葉は思いを表現する手段ですが、狭い世界では生まれた時からその中にいますので、微妙なニュアンスも共有されているので違和感がありません。だから、言葉を積み重ねても伝えきれない事があるという事がわからなくなったりします。
例えば、500年くらい昔、交通手段も発達していない時代にアフリカの一部族のところに行っても「雪」という言葉は存在しません。無い物は表現する必要がないからです。その人たちに「雪」を説明することは不可能です。「雪」という現象がない以上それを補完する言葉がないのですから。
ここでまたアナログとデジタルが出てくるのですが、音階を考えた場合、ドレミと分けた時点でデジタルな表現となります。ドレミを物差しに例えると、ドを0、レを1p、ミを2cmとしたらレを半音上げたら1.5cmですね。ミリに単位を替えると0、10o、15o、20oとなります。
では12oの場所の音は無いのでしょうか。実際には音は無段階に存在しますから、表現手段が無いというだけのことですね。ピアノなんかは音階通りにしか弾けませんので、典型的なものですが、ギターはチョーキングといって弦を引き伸ばすことにより、無段階に表現できます。つまり、楽譜上表現できないものも表現できたりするわけです。
ここで、言いたいことは表現されている物と物のあいだにある物。それが切り口(つまり表現の方法という意味ですが)一つで違う姿になり得るということです。
競馬をやり始めたころは、新聞の◎と○という記号しか見てませんでした。で、やはり優劣がついてるような錯覚に陥ってたんですね。1強という時と5頭くらいの上位拮抗という場合では◎と○の距離は50oと1oほど違ってたかも知れません。しかし、この記号を使った時から、無意識に◎を上位に見てしまうという世界に入ってるわけです。5頭拮抗してるときでも◎は切れませんよね。でも違う表現で捉えたとき、その◎は5番目に来てる可能性もあるわけです。もちろん、それが結果として正解かどうかは別ですが。
同じように脚質という分類があります。当たり前のように差しだマクリだ先行だと言ってますが、これにしたって先行馬と大きくくくるには少し幅があるんじゃないかと思ったりします。
データーというのは積み重ねになるので、いきなり脚質の分類を変えたりしたら、一からデーターを整理し直さなければならなくなったりして非現実的かもしれませんが、そのあたりを一つ考えて見るのも面白いんじゃないでしょうか。
例えば脚質の分類は今まで通りとして、開催中の連帯率を単に%で累計していくのではなく、8日間のグラフにして連帯の推移を出して見れば面白いかもしれません。6回中山なら6回中山の過去10年をグラフにして、推移パターンにある傾向が出ていれば次回の中山に使えるかもしれません。
全開催を出したときに垂直に比較すればはっきりとパターン化する競馬場あるいは開催何回目というのが出るかも知れません。 こういうデーターは出して見ると案外えっという事があったりします。
師匠の出馬表を使っていてもジレンマに陥るときがあります。たまにですが、A馬を切ろうと思うときがあります。やはり、A馬やRT馬を切ったりするのは勇気が要りますし、そこから買わないのなら出馬表使う意味が無いと思ったりもしますが、エイッと切ってしまいます。たいがいは涙する事になるんですが、AやBも記号なんで、やはりここはそんなに差が無いCならおいしいと思ったりするわけです。
ですから、自分の基本にどれだけの比重で違う切り口も入れていくかというのも1つの課題にはなります。
そんなこんなをだらだら考えてる今日この頃です。
人間だから、分かり合える事もあるし、分かり合えない事もあります。どっから捻ったらこんな論法になるねんというようなクレームの客でも、同じ姿形、日本人やと思うから腹立つのであって、これがターバン巻いたインド人が文句言いにきたら、分かってないのんかなと腹立ちも半減します。
新しい職場で、1日5回アラーの神に御祈り捧げたら、明日から来んでええ言われるかもしれませんが、イスラム教徒と知って雇えば御祈りの時間も取らなあかんと思うでしょ。姿形が一緒でも中身が全然違う場合もあるのです。
一夫多妻のアラブ人から見たら浮気なんかそんな罪悪感ないでしょう。たぶん、
ヨメハンにはわたしをアラブ人やと思えと言うてるんですが、いまだに理解できんようですわ。