雪解け
〜Kanonより〜
私、笑っていられましたか?
ずっと、ずっと、笑っていることが、できましたか?
もし、奇跡が起こるのなら、
私は、もう一度あなたのまえで
……笑うことができるでしょうか?
SCENE T [美坂 栞]
窓の外を見ると、雪が降っていた。
昨日の夜から降り始めた雪は、いまもまだ止む気配を見せない。
真っ白で汚れのない、綺麗な雪。降り積もって出来た白い世界は、心の奥の不安な色も、まっさらに塗り替えてくれるかもしれない。
冬。
私は、冬が好きだった。
大好きな人との思い出が、たくさん詰まった季節だから。
そして、私が生まれた季節だから。
2月1日。
今日は私の誕生日。
日付けが変わった瞬間に、大好きな人からプレゼントをもらった。
そして、大好きな人ともお別れをした日……。
残された時間は、あと僅か。
私は重い病気で、この世界とももうすぐお別れをしなければいけない。
たくさんのおクスリを飲んでも、たくさんの注射をしても治らない病気。
本当なら、今日の誕生日までは生きられないだろうとも言われていた。
でも、どうにか誕生日だけは迎えることができた。きっと、自分にとっての最後の誕生日を。
大好きな人とお別れをするのは辛かった。
けれど、これ以上会い続けるのは、お互いにとって悲しい思いを残すだけ。
だから私たちは一週間という時間を決め、別れのこの日が来るまで精一杯恋人であり続けた。
祐一さんは願い通り、最後まで私を、普通の女の子として扱ってくれた。
『…………とても嬉しかったです』
たくさん感謝しても足りないほどの気持ち。
私は、そんな祐一さんのために……。
……ずっと、ずっと、笑っていることが、できましたか?
自分のこと。ほんの昨夜の出来事なのに、思い出すことができない。
雪の中。祐一さんに祝ってもらった誕生日。
笑顔でお別れする筈だったのに、うまくできたのか判らない。
……でも、それはきっと嘘。
思い出すことができないのではなく、思い出すのが辛いだけ。
もう、終わったこと。
「……………………」
外に降り積もる雪を見つめる。白い世界を、部屋の中から黙って見つめる。
心の奥の不安な色は、決して塗り変わることはなかった。
だって……。
雪の世界には、たくさんの思い出を残してしまったから……。
SCENE U [美坂香里]
2月1日。
今日は妹の誕生日。
この日までは生きられないだろうと言われていた、栞の誕生日。
明日、あの子は病院に戻る。
病院に戻って、おそらく最後の時を静かに過ごす。
あの子がこの家にいられるのも、今日で終わりになるかもしれないのだ。
それなのに。
それなのに…………。
……あたしは一体、何をしているのだろう?
栞が病気で助からないことを知ったとき、あたしはあの子を拒んだ。
妹なんて、いなければよかった。そう思って、あの子の存在を自分の心の中から消そうとした。
頑なに拒み続け、すべてを無かったものにしようとして……でも、そんなことは無理だと思い知らされて。
今、あたしは妹を受け入れている。たった一人の妹であり、大切な家族の一人だから。
でも、正直、どこまで受け入れられるかは、自信もなかった。
少しでも先の未来を考えると、すぐにめげそうにもなる。
“あの子……なんのために、生まれてきたの……?”
何度もよぎる疑問。
あたしはあの子が大好きなのに。あの子もあたしのことを慕ってくれているのに。
どうして、別れ離れにならなければいけないの?
辛い。苦しい。栞のことが好きであればあるほどに、あの子との思い出があたしをいためつける。
あの子だって苦しいはずなのに、あたしは自分のことばかり。
本当に、何をしているのだろう?
あたしは、しばらく考えてから自室を出た。そして、妹の部屋の前までやってくる。
何故ここに来たのかは判らない。あの子を一人にしておけなかっただけかもしれないし、あたし自身、一人でいるのが辛くなったからかもしれない。
栞の部屋のドアを、遠慮がちにノックする。
すると、返事はすぐにあった。
「誰?」
「…………あたしよ、栞。入ってもいいかしら」
「あ、お姉ちゃん。……う、うん。いいよ。空いているから…入って」
許可がおりたので部屋に入る。
妹はベッドに腰をかけながら、あたしの方を見ていた。
「どう、栞? 体調のほうは」
「一晩眠ったら、少しは良くなったよ」
「そう」
「それよりも……お姉ちゃん、昨夜はありがとう。庇ってくれて」
昨夜、栞は遅くに帰ってきた。
日付が変わるほどの深夜、高い熱を出して辛そうに帰ってきたのだ。
両親は心配し、妹を叱った。でも、あたしは栞を庇った。
この子が、遅くに帰ってきた理由を知っているから。
好きだった人との最後の時間を終え、お別れを済ませて帰ってきた妹。それがどれほど辛いかは、あたしにだって嫌と言うほど想像がつく。
でも、ここでそのことに触れるのも何なので、
「……別にいいわよ。両親の機嫌が悪いままだと、あたしだって嫌な気分だし」
そう軽口を叩いておく。
「ごめんね、お姉ちゃん」
「謝らなくていいわよ。悪いと思っているのなら、これからは心配なんてかけないでよ」
栞が返事をするまで、少し間があいた。
心配をかけるななんて、酷な言い方であっただろうか?
妹はこれから先、沢山の心配をあたしたちにかける。それは栞自身も、痛いほど判っていること。
でも、今の言葉に後悔は無かった。
栞はまだ生きているのだ。生きているのなら、生きている間にできることをやらせるまで。
甘やかせるだけでは、いけないのだと思う。
それでもし、この子が困っていることがあれば、その時は助けてあげればいい。姉として手を差し伸べることで。
…………それが、栞という妹を受け入れた、あたしなりの答え。
そう思わないと壊れてしまいそうな、弱いあたしの答え。
「うん。わかった。できるだけ、心配はかけないようにするね」
時間はかかったけれど、栞は笑顔でそう言った。
笑顔の奥にはどんな思いが秘められているか判らない。それでも、こうやって笑える栞は、あたしなんかよりもずっと強い子。
この子が笑うたび、胸が苦しくなる。この子の笑顔が見れなくなる時がくると思うと、やるせない気持ちで一杯になる。
逃げたかった。泣き叫びたかった。
でも、現実から目をそむけることはできなかった。特にあたしたちは、家族なのだから。
「お姉ちゃん、一生のお願いがあるんだけど」
次の言葉が見つからなかったあたしに、栞のほうが喋りかけてきた。
「何よ、急に改まって。それに栞の一生のお願いって、これで何回目かしら」
「……そんなこと言うお姉ちゃん……嫌い」
拗ねたように頬を膨らます。
「とりあえず、言ってご覧なさい」
「うん。お願いと言うのはね、お姉ちゃんに絵のモデルになってほしいの」
「却下」
「わ。ひどいよ、お姉ちゃん。しかも、一秒で」
「だって、栞の絵って下手だもの。モデルになるだけの甲斐がないわ」
「そんなにはっきりと言わなくても……。それに今日の絵は大丈夫だよ。祐一さんから、素敵な絵の道具をプレゼントされたから」
「ふうん。相沢君からのプレゼントね。でも、いくら道具が良くても、栞が使うとね……」
苦笑しながらも憎まれ口を叩く。
妹は、更にぷぅっと膨れる。
何気ない姉妹のやりとり。いつのまにか自然に馴染んでいる自分がいる。
けれど、それはとても心地よくて……。
「…………ま、いいわ。今日は栞の誕生日だものね。特別に犠牲になってあげるわ」
「とても引っかかる言い方だけど……とりあえず、お姉ちゃん、ありがとう」
ありがとう、か。
そう言いたいのは、本当ならあたしの方だ。
いつだってあの子は、あたしを気にかけてくれるんだから……。
やがて、栞の準備は整い、絵を描きはじめた。
相沢君にプレゼントされたという道具を手に、一生懸命に。
お互いに言葉は無かった。
栞は真剣な表情であたしを描く。まるで、すべてを心に刻むほどに真剣な顔。
あたしも、モデルであることに専念すると同時に、あの子の生きる姿を心に刻んでゆく。
大切な妹だから。大好きな妹だから。
どんなに否定したくても……忘れることなんて、できない妹だから。
あたしにできることは、こんなことぐらいしかないけれど、栞が喜んでくれるなら嬉しいと思う。
頑張って生きている栞を、否定することなんてできないのだから。
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