天国のカケラ。
− side C −

俺にとってのアイツは、まるで波のようだった。
それなりに近づき、それなりに離れている。
たまにものすごく接近してくるくせに、たまに遠く、手の届かないところへ飛んでいく。
そんな関係が、心地よかった。
前の彼女は近かった。
近くにいすぎて、いろんなものを見失った。
近くにいないと見つけられないものもたくさんあるけれど、
それはこれから見つけていけばいい。
俺達は、足並みを思いっきり合わせるでもなく、ただ、近づくスピードだけ、
ゆっくり近づけばいい。
長い人生、きっとこのまま続いていける。
そして、じいちゃんとか、ばあちゃんとか、そのくらいになっても、
お互いの知らないことはいっぱいある。
生きてる限り、ゆっくり見つけていけばいい。
ゆっくり知って、いつも新鮮な気持ちでいられる方が、ずっといい。

そう思ってた。
少なからずとも、俺は未来を望んでいた。
しかし、小波のようだった彼女が、ある日突然津波に変化した。

 


どうせ今日も連絡ないんだろうな。
別にいいけどさ。
お互いやることは結構あるし、
会いたい時に会えればいっか、みたいなとこあるし。
「暇っすねーマジで。テスト勉強していいですか?」
同僚が声をかける。
「いいよ。」
「明日テストなんっすよ。助かります。」
彼が教科書を取りに行く間、
シフト表に目がいった。
「なぁ。」
「はい?」
「井ノ原くん明日なんかあんの?」
表には井ノ原くんのふざけたマークが書かれてある。
一応入れないってことらしいけど。
「ああなんか、この前実習行ってたじゃないですか。」
「専門学校?」
「ハイ。そのレポートが終わらないらしいですよ。」
「レポートくらいここでもできんのにな。」
「いやいや、それ言ったら元も子もないです。」
「まぁな。」
実習か。
大学勉強しなかったと言う割りには、
いつの間にかあの人は専門学校へ行き、
カウンセラーの資格を取ろうとしてるらしい。
俺にはわからない世界だけど、
健のことを引きずったままのあの時に比べれば、
断然いい方向に向かってる。
ここ1年であの人は変わった。
俺はどうだろう。
変えてくれた人は確かにいる。
でも、最近会ってないな。
つーかあいつが来てねぇんじゃん。
そんなに大学忙しいのかよ。
ああ、委員会入ってんだっけ。
俺の大学生活なんてバイトばっかだったのに。
「何イライラしてんっすか?」
「してねーよ。」
「あ、ちゃん最近来てないからですか?」
「してねーって。」
あーやば、怒鳴っちまったよ。
「森田さんってさ、わかりやすいよね。マジで。」
何がだよ。
「・・・客。」
「あ、はい。いらっしゃいませ。」
わかりやすいねぇ。
わかりやすいかなぁ。

「彼女とメールしてる時の森田さん、幸せそうですよね。」

出会った時の彼女はそう言った。
誰かのことを思うと、こんなに感情が出るなんて思ってもいなかった。
やべぇな。
考え出すと止まらなくて。
会いたいと願うとホントに会いたくなってしまう。
明日は一緒に入ってるから会えるけど、
待てないかもしれない。
井ノ原くんが酔って2人で送り届けたあの日。
あれ以来かよこと付き合いだしたわけだけど、
これといって進歩はない。
進んでみたい気持ちはずっとある。
けど、アイツは言わないだけで、元彼との思い出を精算できたとは考えにくいし、
あれだけ好きだったと思える人はいないと言い切っていた。
別れた時の様子を知ってるだけに、辛い。
悩んでるんだよ、すごく。
年下と付き合うのは初めてだから。
妹みたいな存在だけど、
きっと兄のような存在だけど。
いつかそれだけじゃダメな日がくる。
俺はもうぎりぎりまできてる。
かもしれない、じゃなくて、
待てない。
だから、帰り道にメールをしたのは、ホントに気まぐれで、
それはある意味、賭けだった。

「今日そっち泊ってもいい?」
って。

 

「おい、見ろよ。」
「なになに?」
「えっちぃ写真。」
「もう、剛くん!」
1枚の写真を押しつけるように渡すと軽く肩を叩かれた。
「時間間に合ってないんだから早くやってよ!」
「わかってるよ。だーいじょうぶだって。」
出会ったのはバイト先だった。
当時オレは21歳で、ストレートに大学でるまではよかったんだけど、就職浪人になった。
ま、特にやりたいこともなかったし、フリーターでもいっかなんて、結構のん気だった。
親の反対もあったけど、うざったくて家をでた。
たまたま大学の時からしていた写真屋のバイト。
俺の卒業と同時にやめるフリーターがいたから、俺はその枠に入った。
代わりに空いた学生の枠にが来た。
出会ったときの彼女は大学生になったばかりで、キラキラしていた。
第一印象はめちゃめちゃ恐かったと批判する彼女。
年上がタイプ、年下なんて論外と言い切った俺。
今となっては恋人同士だなんて世の中何が起こるかわからない。
最初にスキだと言ったのは俺で、
あのときはまだ、こんなにはまるなんて思ってなかった。
当時彼女には高校の時から付き合ってる彼氏がいたし、
俺にも破滅寸前ではあったけど、一応彼女がいた。
いつも自分のフィルムを持ってきては、ラブラブな話をさんざん聞いてたから、
恋愛対象として見たこともなければ、
こんな未来を考えたこともまずなかった。
「電話なってんぞ。でれば?今暇だし。」
「いいよ、バイト中だし。」
なんて、一気に暗い顔するもんだから、
「俺代わりにでてやろうか?」
って、ちょっとからかってみた。
「い、いいっ。」
って全力拒否。
「冗談に決まってんだろ。」
「なんか。」
「あ?」
「なーんかね。・・・ケンカしちゃって。」
「へぇー。」
「ケンカなんてしないと思ってたのに。」
「なんで。恋人にケンカはつきものだろ。」
「だってうちの親はケンカしないから。夢なんだもん、あの二人が。」
・・・。
「お前とことんガキだな。」
「・・・なによー。」
「どーこで比べてんだよ。愛にはいろんな形があるんだから一緒なんて無理に決まってんだろ。」
「そうだけど。」
「俺んとこだって、親はケンカしねーけど、俺たちは喧嘩ばっかだし。」
「そうなの?聞いたことないそれ。」
「言ったことないもん。ほら、片付けんべ。お前もう時間だろ?あがれば?」
「あ。」
「こんな暇なのに長居したら店長が狂うしな。」
「キモイってか痛いそれ。」
退勤を押してバックルームで着替え始めた彼女に、
「ちゃんと考えてやれよ。ソイツのこと。」
壁ごしに伝えた。
柄にもなく兄貴ぶったもんだから、
「こんな時だけお兄ちゃんみたいなこと言わないで。」
って、笑った顔が切なくて胸が傷んだ。
電話しても居留守を使われるほどつらいことはないと思う。
たぶん彼女もわかってるはずだ。
かわいい妹みたいだったが、
いつのまにか心ん中でいっぱいになっていた。
表では上手く笑うくせに、中身では全然違うことを考えてる。
それはどこかじぶんと似ている部分があったのかもしれない。
もしかしたら俺は、自分の気持ちを、彼女と重ねていたのかもしれない。

 

事の発端はこう。
「飲むのつきあえ。」
井ノ原くんがあの表情で彼女を巻き込んだのが始まりだった。
「こんばんわっ。」
閉店ぎりぎりに現れた客は、だった。
「どした?」
お金の管理も全部終えたところだったから、
一瞬かなり焦ったけど、客じゃなくてよかった。
切実に。
「参考書忘れちゃって。来週小テストだから慌てちゃった。」
えへって笑う彼女。
そういえば昨日、わけのわからん専門書読んでたなぁ。
「あー、井ノ原くん寝てるからついでに起こしといてくんない?」
「なんでいるんですか?」
今日のラストは俺1人。
1時間前には井ノ原くんは上がってたはずなんだけど、
「飲むのつきあえ。」
って散々言ってきかず、とりあえず後ろで寝てるから。
って、勝手に俺を待っている。
「帰りたくなかったんじゃない?」
たまに、そんな顔をする彼。
数ヵ月前、彼の元から同居人が消えた。
「飲むのつきあえ。」
あの落ち込んだ時と同じ誘い方をした彼。
今日もまたなんか思い出したんだろうなって思う。
俺しか事情の分かる人間がいないらしく、全く持っていい迷惑。
それでも、井ノ原くんらしいとも思う。
は少し考えてから、
「ありますよね、そういう日。」
と、ふわっと笑った。
「起こしてきます。」
彼女は足早にバックルームへと向かう。
なら、井ノ原くんの荒んだ心を癒す事ができるのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
時計を見るとまだ閉店5分前。
「お邪魔しまーす。」
軽くそんな声が聞こえて笑ってしまう。
「あった。」
とか、
「よかった。」
とか、丸聞こえなんだよ。お前。
ついこの間。最近。
ずっと好きで好きで好きな人に、
俺は別れを告げた。
気付かないうちに縛りすぎていた俺の気持ち。
相手のことを、考える余裕さえないような恋をしていた。
辛いと泣いた彼女を見て、やっと気が付いた。
だから、俺という呪縛から開放したんだ。
時間が経てばたつほど彼女の大事さを身に染みて痛感した。
やり直すことができたなら、どれだけよかっただろう。
けど、一昨日、久しぶりに大学メンバーで飲んだ時、幸せそうな彼女の姿を見た。
そういえば、付き合い始めた頃はあんなに笑っていたのに、
いつの間にかその笑顔を俺は奪っていた。
だから、彼女が今幸せなら、もういいかなって。
それでいいじゃん。
言い聞かせた。
の笑顔を見たら、そんなことを思い出した。
俺は訳もわからず涙が出そうになった。

ドンっ。

あ?なんだよ。
でかい何かがぶつかる音と本が落ちる音がする。
「い、いのはらくんっ?」
少し大きいめの彼女の声。
なに。どしたの。
「入るよー。なんかえらい音したけど、なんかあっ・・・」
んー、なんだろうこの状況。
お楽しみ中とかじゃないよね?
何抱き合ってんの?コイツら。
「わりぃ。」
とりあえず出ようとした俺に、
「ち、ちがうの。井ノ原くんが急に。」
必死の弁解の声が聞こえる。
別に否定しなくてもいいんだけどさ。
「助けてくださいよー。」
やっぱり必死な声。
あー。
なるほどね。
「おらおっさん。起きろよ。誰と間違えてんだよ。」
そう言って頭をぺしってはたいた。
「あー?え、あ、わぁっ、ええ!」
一通りびびった後、彼女をつきとばさん勢いで手放した。
「お、おれなんっ、ちゃん、何してんの?」
「何してんのじゃねーよ。どうせアンタが抱き付いたんだろうが。」
状況からしてそう決め付けていうと、彼女が俯いて「ハイ。」って答えた。
「うぇぇ?ご、ごめん。」
罰の悪そうな顔と、キマヅイ空気。
参ったな。
「じゃ井ノ原くん、入金行って来て。頭冷やしてきなよ。」
「あ、えと、じゃそうする。」
マジで行くのかよ。
普通働かされるんだから否定するとこだろそこは。
よっぽど罪悪感でも感じたなこりゃ。
「ほんっとごめん。ちょっと行ってくるわ。」
逃げるように店から去って行く彼。
「大丈夫?」
とりあえず聞いてみると、少し放心状態。
井ノ原くん。
あんたコイツに最初バイト辞めんなって言ったくせに、
あんたが辞めさせるような原因作ってどうするよ。
「だ、だいじょうぶですぅ。」
いや、大丈夫じゃないからそれは。
「あんのー、ちょっとさ。寂しがりらしいからさ。」
うわぁ。フォローらしいフォローになってねぇよ俺。
「いえ、ホントに大丈夫ですから。」
顔を赤くした彼女が必死で胸のあたりで拳をつくる。
・・・彼氏・・・いたよな?
これってなんか、恋する乙女の図じゃん。
「・・・井ノ原くんのこと好きなわけ?」
「ええ?」
泣きそうな真っ赤な顔が急にこっちに向けられる。
「あ、ごめん。聞くタイミング間違えた。まぁ座ってなよ。レジ閉めてくる。」
慌てて俺はバックルームから出た。
というより、逃げた。
やべぇ。
何ドキドキしてんだよ俺。
しかも何聞いてんだよ。
あーもー井ノ原っ。
あんたのせいだよ。
わけわかんねーのは全部井ノ原くんのせいだ。
「戻った。」
「ああ。」
「なんか言ってた?ちゃん。」
この妙な気持ちは全部アンタのせいだ。
「変態って嘆いてたぜ。」
「えぇぇ?マジで?」
「だからゲイだから身の危険はないよって言っといた。」
「お前っ、まだそんなこと言ってたのかよ。」
「違うの?」
「違うに決まってんだろ?」
「うっそ。」
「は?」
「うそに決まってんだろ?」
「・・・お前が言うと嘘に聞こえねぇよ。」
どういう意味だよそれ。
「行ってくれば?まだ中入るよ?」
「何て言えばいいかな。」
「自分で考えろよ。」
そうだよなー。
って、小声で言いながらバックルームへ向かって行く。
背中が一層老けて見えるのは気のせいかな。
「ほんとにごめんっ。」
・・・。
「あ、すいません。いろいろあって。」
隣りの店の従業員のお姉さんがびっくりした顔をしてこっちを見た。
「何かクレーム?」
「いえもう全然。従業員同士の揉め事です。おつかれっす。」
でけぇ声で謝ればいいってもんじゃねーし。
わかってんのかなぁ。
「井ノ原くん、飲みに行くんだろ?準備するからどいてくんない?」
バックルームの出入り口を思いっきり塞いでる彼に声をかけ、追い出し、閉める。
「お前閉めんなよー!ちゃんマジごめんなー!」
「うるせぇなぁ、でけぇ声出しゃいいってもんじゃねーんだよ。」
「なっ・・・」
あ、勝った。
そんなやりとりを隣りで少し笑いながら見ていた彼女。
「あんな感じだから許してやってよ。」
「仲いいんですね。」
「仲よかねぇよ、あんな奴。」
咄嗟に言ってしまった。
エプロンを外して荷物をまとめると、
「ハイ。知ってます。」
って答えた。
「何が?」
「森田さんは仲良くても良くないって言うこと。」
そうだっけ?
「彼女のこと聞いた時もそう答えてましたよ。」
・・・そうだっけ。
「そ。」
ドキドキした胸の高鳴りは何だろう。
足下が落ち着かないのは何でだろう。
「出て。着替える。」
「はいっ。」
幸せを求めていた。
俺も、井ノ原くんも。
ただ、それだけだった。

 

階段が少し憂鬱。
相変わらず返事はこないし。
なんとなくビデオレンタルに寄って、
この前アイツが見たいって言ってたビデオを借りてみた。
見てたら結局帰れなくなったとか、
言い訳を必死で考える自分に呆れてしまう。
別に、普通に考えたらいいと思うんだって。
マジで。
今までの俺だったら考えられねーし。
同じバイト先なだけに、揉めると厄介だよなーとか思うのが少し。
生活かかってるし。
前の彼氏が忘れられないかもってのが少し。
でも、拒否されるのが怖いってのが本音。
どれだけはまってんだよ、俺。
「・・・?」
アイツ何してんの?
ああ、星。
まぁ、それなりには出てるよな。
そんなロマンチストか?コイツ。
なんで?と聞かれても、答えは用意していない。
ただ。
「ごめん、会いたかった。」
ただ、それだけだったんだ。
まさか、泣かれるなんて思わなかった。
別れを切り出されるなんて思ってもみなかった。
泣いて訴える彼女を見て、
そういや、アイツも泣きながら大嫌いと言ったっけ。
涙を見ると、何も言えなくなる。
ある意味トラウマかもしれない。
ただ、この状況に耐えられなくて部屋から逃げ出した。
外は静かだった。
月だけが目の前に見えて、腹が立った。
俺たちは、終わってしまった。
こんな簡単に。

 

思い出されるのはあの日の彼女。
酔った井ノ原くんを2人で送り届けたあの日。
「あーもーすっごい散らかってる。男の人の1人暮らしってこんなもんなの?」
優しい目で井ノ原の部屋を片付ける。
「助けてくれるような彼女いないのかなぁ。」
軽く笑う彼女に、胸を焦がすような衝動がよぎった。
考えてしまうと、それ、はとまらなくなって、
笑顔で散らかった服を畳む彼女の手を引き、唇を重ねた。
案の定びっくりした目をする彼女。
そして、離れた後の第一声が、
「お前井ノ原くんのこと好きだろ?」
だった。
思い出すだけで笑いが止まらなかったけど、
不安だった。
「好きだ。」
渡さない。
心に誓った一瞬は、
「順序・・・逆じゃないですか?お兄さん。」
と、赤い顔で告げられた。


あの日の彼女の。
あの愛しさは鮮明で。
絶対に手放さないと。
誓った。
誓ったはずだった。