彼女は幽霊である。名前はまだ無い。
とはいうものの、幽霊としての正式な名前――死者におくられる戒名――が『無い』だけであり、ちゃんと生前は名前があった。
普通の人間だった頃……彼女は、おキヌと呼ばれていた。
『山の彼方の空遠く幽霊住むと人のいう』
どこでどう死んだのか、彼女自身にも、とんと見当がつかぬ。なんでも、山の噴火を鎮める儀式で人柱になったらしい……ということだけは記憶しているが、どうも曖昧である。
それもそのはず。実は、単純な『山の噴火』ではないのである。普通の『人柱』ではないのである。『儀式』自体も、途中で邪魔が入って大変だったのである。
わかりやすく漫画で説明しても三十ページ近く費やすほど、ややこしい話なのだが……。当の彼女は、ケロッと忘れていた。
ただただ単純に、
『私のような霊は、
普通は地方の神様になるはずなのに。
才能なくて、成仏できないし、
神様にもなれないし……』
と思い込んでいたのである。
そして、彼女自身の認識が微妙に間違っているとしても、おキヌが山から離れられないことだけは確実であった。
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緑広がる草原の中、ポツンと佇む小さな湖。
そのほとりに腰を下ろし、おキヌは、ボウッと湖面を眺めていた。
山に括られた霊ではあるが、一点に縛りつけられているわけではない。人間が暮らす辺りまで降りて行くことも可能であった。だが、いたずらに生者を驚かすことは、おキヌの本意ではない。
そんなわけで、こうして大自然を満喫するのが、彼女の日常であった。
『あれは……確か……』
左手に見える堤防の近くには、秋に花を咲かせる野草が生えている。どうやら、気の早いものも居るようだ。まだ夏も終わらないのに、青紫色の可憐な花が、既にチラホラと開き始めていた。
『……リンドウの花?』
小首を傾げながら、つぶやくおキヌ。
悲しんでいるあなたを愛する、それがリンドウの花言葉だ。しかし彼女は、江戸時代の幽霊である。当然、花言葉など知る由もなかった。
『きれい……』
と、素朴な感想を口にするだけである。
そんな彼女に、背後から話しかける者があった。
『お嬢ちゃん……一人かね?』
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幽霊に話しかけるとは、なんとも豪気なものである。
そんな考えをチラッと頭に浮かべながら、振り向いたおキヌ。だが、彼女の目に入ってきた姿は、人間のものではなかった。
全身が毛むくじゃらの、四つ脚の生き物。目鼻口の位置はおかしくないが、耳は顔の横ではなく、むしろ上の方にある。髭も異様に長く、ピンと両横へ突き出していた。
(これって……)
おキヌの心中を察したかのように、それは自己紹介を始める。
『吾輩はネコである』
……あれ?
(猫……?)
おキヌは不思議に思う。
この『ネコ』は、鼻先を突き出したような顔つきをしており、半開きの口から覗く前歯は、中央の二本だけが強く自己主張している。顔の部品で同様に目立つのは瞳であり、丸く小さく黒一色に輝いていた。
可愛らしい生き物ではあるのだが、おキヌの記憶にある猫というものとは、どこか異なる気がするのだ。
とはいえ、おキヌが生きていたのは、ずいぶん昔の話である。永い時の流れの中で、猫がこのような進化を遂げたのかもしれない……?
そんな疑問が、表情に出たのであろう。
『……違うぞ、お嬢ちゃん。
名前が「ネコ」なのだ。
種族は……』
ああ、なるほど。
ネズミなのか。
子(ね)の子(こ)だから、ネコと名付けられたのか。
あまりに単純な命名法であるが、おキヌにも理解できる話であった。
……だが。そんな思惑は、続く言葉で打ち消される。
『……生きていた頃の種族は、ハムスター。
これでも吾輩は、
誇り高きゴールデンハムスターの端くれである』
エッヘンと胸をはるネコであった。
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彼女がハムスターというものを見たのは、これが初めてである。しかもあとで聞くところによると、ゴールデンハムスターとはハムスターの中で最もよく知られる種族であったそうだ。このゴールデンハムスターというのは昔々に母親一匹と子供たちが捕獲されて、そこから繁殖した子孫がペットとして広まったという話である。
しかし、この時は、そこまで知らなかったから別段かわいそうとも思わなかった。
ただ、
(言われてみれば……
体の毛の色が、ネズミっぽくないかな。
むしろ……三毛猫みたい?)
と感じたばかりである。
そんなことより、もっと大切なことがあった。
(ああ、そうか。
ネコさんも……幽霊だったんだ)
ネコの『生きていた頃の種族は』という言葉で、ようやく気付いたのである。
なるほど、よくよく考えてみれば、動物が人語で話しかけてきた時点で不思議に思うべきであった。お互いに幽霊だからこそ会話が成り立ったのだろうと、おキヌは納得する。
ともかく。相手が名乗った以上、こちらも名前を告げるのが礼儀である。
『私はキヌといって、三百年前に……』
と、彼女は語り始めた。
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『……というわけなんです』
『なるほど。
それでは……ずっと
この山で暮らしてきたわけか』
生前の記憶などボンヤリな、おキヌである。彼女の身の上話は、あっというまに終わった。
『人間の一生はハムスターより長い……。
それくらいは我輩も知っていたが、
お嬢ちゃんの場合は特別だな。
……死んでからの方が、
はるかに長いのだから』
おキヌの隣に座り込んだネコ。背中を丸めた姿勢は一見だらしない格好であるが、何か考え込むかのような表情は、まるで哲学者のようでもある。
『……ふむ。
こうして聞いてみると、
他人の幽霊事情というのも
なかなか興味深い……。
では、吾輩も語るとするか』
そうして、話の始めに、いたずらっぽく笑ってみせた。
『実はな……吾輩も、
ここで幽霊になったのだ。
……ある意味、お嬢ちゃんとは同郷だな』
『えっ……?
ネコさんも……この山で!?』
『うむ。
もちろん、時代は全く異なるが。
この山……しかも、まさに、この場所だ』
ネコは、チラッと周囲を見渡す。在りし日を思い出しているのだろうか。
それから山の彼方の空へと視線を向けて、遠い目のまま、説明を続けた。
『吾輩の飼い主は、まだまだ幼い少女でな。
気の優しい、いい子だった。
しかし可哀想なことに……』
ネコの話によると。
その少女は、生まれながらにして病弱だった。遺伝だったようで、ネコが貰われてきた時には、既に両親も他界していた。
他の子供のように、外で活発に遊ぶこともできない。なかなか友達も作れず、また、もともと兄弟姉妹もいなかった。
親戚の屋敷の一室で、年の離れた召使いに世話されながら、一人寂しく暮らしていたらしい。
『……ある意味、吾輩が
初めての友人だったのかもしれん。
そんな状態だったから、
吾輩のことも大切に大切に……
まるで人間であるかのように扱ってくれた』
体が弱いので外出することなど滅多に無い少女だったが、たまの機会には、いつもネコを伴っていた。
この湖畔にも、何度か訪れた。ひとけの少ない場所なのをいいことに、ネコをカゴから出して、広い野原で遊ばせていたのだ。
『吾輩が駆けずり回るのを、
本当に幸せそうに眺めておった。
……自分が激しい運動できない分、
吾輩に自己を投影していたのだろうな』
ネコ自身も、体を動かすことを好ましく感じていた。飼育カゴの回し車からも明らかなように、そもそもハムスターとは、そういう生き物である。
『……だがな、彼女は知らなかったのだ。
吾輩の一族は太陽が苦手だ……ということを』
元来、ハムスターは夜行性。進化の過程で、視力も低下している程である。
直射日光にも弱いのだが、ネコ自身、理解していなかった。だから、日光浴も、少女と一緒になって楽しんでいた。それが死へのカウントダウンだとも気付かずに。
『あの日も、いつもと同じだった。
しばらく遊び回った後、
彼女の方を見たら、合図が出ていてな……』
ニッコリ笑いながら、自分の膝の上をポンポンと叩く少女。
彼女の意図を理解して、ネコは、指定の場所に跳び乗った。
『二人でボウッとお日様にあたる……。
これも、いつもどおりのことだった。
……少し苦しくなる時もあるのだが、
遊び疲れただけだと思っておった。
ただ、その日は……いつもより酷かった』
次第に体が重たくなる。眼のふちがピリッとする。耳が痺れる。子守歌を唄いたくなる。夢の中で踊りたくなる。ワタシマケマシタワと云う気になる。いろいろになる。どうも変だ。
『陶然とはこんな事をいうのだろうと思いながら、
目を閉じて……そのまま永遠の眠りに落ちた』
___________
ここでネコは、いったん言葉を区切った。
一瞬の沈黙が、場を支配する。
おキヌの表情が曇り、それに気付いたネコが、前脚を器用に振ってみせた。
『いやいや、そんな顔をする必要はないぞ。
お嬢ちゃんも知ってのとおり、
死は終わりを意味するものではない。
むしろ……。
不可思議な太平の、その始まりなのだから』
最初は、ネコにもわからなかった。
苦しいのだかありがたいのだか、何が何だか見当がつかない。湖畔の草原にいるのだか、少女の部屋にいるのだか、判然としない。
ただラクである。いや、ラクという感覚すら無かった。
『あえて言葉にするならば……太平だな。
ここで……ようやく、
ああ吾輩は死んだのか、と理解した』
死んでこの太平を得た。太平は死ななければ得られなかった。ありがたいありがたい。
『……となると、
何も慌てて成仏することもない。
さて、これから何をしようか、と考えて……。
吾輩は、彼女を見守ることにしたのだ』
つまり、少女の守護霊になったのである。
とはいえ、何か特別なことをするわけでも出来るわけでもなかった。
まあケガや病気から守れば良いのだろうが、そもそも部屋に閉じ篭って暮らす少女である。交通事故に遭う心配など、まず無い。病気に関しては、先天的に体が弱いのを治せたら良かったのだが……。そのような能力など、おしかけ守護霊のネコには皆無だった。
『そんなわけで、な。
ただただ彼女のそばに居る。
……それが全てだった』
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(守護霊……か。
考えようによっては、私も……)
ネコの話を聞きながら、おキヌは、ふと思う。
自分は、この山の神様になるはずだった。山の守り神……つまり、山を守護する者。これも、一種の守護霊と言えるのではないだろうか。
(『神』じゃなくて『霊』だけど、でも。
この辺り一帯をきちんと守っていけたら、
……それはそれで、いいのかな?)
自分が幽霊になって以来、この地方に、何か大きな災いがあっただろうか?
とりあえず、地震も噴火も無い……はずだ。ただし、おキヌが覚えているかぎりの範囲の話である。
(……でも私の記憶、曖昧だからなあ。
何か大切なことを忘れてるような、
そんな気もするんだけど……)
やっぱり、少し心配になる。
だが、今、それ以上おキヌが深く考えることはなかった。ネコの話が、再び佳境に差し掛かったからである。
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『……我輩が死んでから、
半年ほど経った頃だったかな。
彼女の具合が、急に悪くなったのだ』
もはや少女は、ベッドから出ることも難しい状態となった。朝から晩まで横になっている日も、多くなってきた。
『ハムスターにしては賢いと自負しているが
……さすがの我輩でも、
人間の医学のことはよくわからん。
霊や魔物の仕業なら、それこそ守護霊として
我輩が立ち向かうつもりだったが……』
別に悪霊に取り憑かれたわけでもないし、死神が訪れるようになったわけでもない。ネコに出来ることは、何も無かったのである。
『……だがな。
皮肉なことに……彼らには、
それがわからなかったようだ』
ある日。
いつもの医者とは違う人間が、少女の部屋へ連れられてきた。
大抵、医者というものは白い衣をまとっている。だが、その男が着ていた服は、逆に真っ黒だった。
『何か先の尖った道具で、
部屋中を調べていたようだ。
それから……そいつは、なんと
我輩の方を指し示して叫んだのだ。
「ここにネズミの悪霊が居ます」と!』
ネコとしては、守護霊のつもりだったのに……!
どうやら、病気を悪化させるような、悪い幽霊だと誤解されたらしい。
『……ひどい話ですね』
ここまで黙って聞いていたおキヌも、思わず口を挟んだ。
だが。
『お嬢ちゃんも、そう思うだろう?
……本当に、けしからん話だ。
今思い出しても、腹が立つ!
よりにもよって……我輩を
ネズミごときと同一視するとは!!』
ネコが憤慨するポイントは、ネズミ扱いの方だったようだ。これには、おキヌも内心で苦笑し謝罪する。何しろ、彼女も最初は――ハムスターを知らなかったとはいえ――同じように勘違いしたのだから。
そんな彼女の心の中などつゆ知らず、ネコの話は続く。
『それから、そいつは……』
ここで、ネコの態度がガラリと変わった。
たった今までは、プンプンしていたのだが……。
『……彼女の部屋にペタペタと、
オフダというものを貼ってな。
我輩を閉め出してしまったのだ』
哀しそうに言葉を吐き出し、ショボンと肩を落とすのであった。
___________
(ああ、そうか……。
そういう事情だったんですね)
大好きな飼い主の守護霊を務めていたネコである。それが、こんなところで独りでフラフラしていたのだ。
よくよく考えてみれば……。何かあって別れさせられたのだという結末くらい、容易に推測できただろう。
『フッフッ……お嬢ちゃんまで、
そんな哀しそうな顔をする必要はないぞ。
強制的に祓われなかっただけ、
まだ運が良かったと思えばいい。
それに……』
カラ元気を見せたネコだが、それが再び消える。
『あの部屋に我輩が居続けたところで、
……何の役にも立たなかったからな』
短命な家系であるというなら、少女の体が良くならないのも悪くなったのも、ある意味仕方のないことである。
それでも、ネコは、守護霊として何も出来なかった自分を責めている……いや、責めたいのかもしれない。
『どうせ彼女の様子を見に行けないなら、
もう成仏してしまおうか……とも思ったが。
心残りがあると、それも出来ないものだな。
今頃、どうしていることやら……』
と、空を見上げてつぶやいた時。
ネコの背中に、言葉が投げかけられた。
『……やっぱり!
ここだったのね!!』
___________
ネコと共に、おキヌも振り返った。
そこに居たのは、麦わら帽子を頭に乗せた少女。おキヌより少し若いくらいだろうか。わずかに青みがかった黒髪を、三つ編みにして垂らしている。清楚なワンピースは青紫色で、ちょうどリンドウの花と同じだった。
『おお、ナツネ!!
……元気になったのか!?』
ネコが、喜々として声をかける。
だが、おキヌは気付いてしまった。
(あ!
この子も……)
どう見ても幽霊です。
『……ありがとうございました。
ネコと、遊んでくれてたんでしょう?』
と、笑顔を見せる少女。死んでいるとは思えぬくらい朗らかに、ペコリとお辞儀する。
『はじめまして!
私は、高関(こうせき)菜津音(なつね)。
……ネコの一番の友だちです!!』
『ナツネ……お前は……』
一方、ネコは複雑な表情を見せていた。
ネコも菜津音が幽霊であると気付いて、落胆したのだろう。同時に、彼女が『飼い主』ではなく『一番の友だち』と自己紹介したのを聞いて、嬉しくも思ったのだ。
そんなネコに、菜津音が手を伸ばす。
『迎えに来たのよ、ネコ!
私たちは、ずうっと一緒。
今までも、そしてこれからも!
だから……一緒に逝きましょう?』
『おっ……おぅ』
右腕でネコを抱きかかえた彼女は、空いている方の手を、おキヌへと差し出した。
『あなたも、一緒に逝く?』
成仏の同行のお誘いである。
もちろん、おキヌは首を横に振った。二人の邪魔をしたら悪いから……なんて気を利かせたわけではない。ここに地縛されているから、おキヌには無理なのだ。
そんなおキヌの姿を見て、
『このお嬢ちゃんは……』
ネコが菜津音に耳打ちしている。おキヌの事情を説明しているのだろう。
『そう……。
じゃあ、私たちだけで逝くわ。
……会ったばかりなのに、
なんだかバタバタしちゃってゴメンね!』
『おいナツネ、もう行くのか!?』
『そうよ!
だって……天国では、
お父さまとお母さまも待ってるはずだから!』
言葉を交わしながら、フワッと浮かび上がる菜津音たち。
二人に対して、おキヌは手を振った。
『ネコさん、菜津音さん!
さよ〜〜なら〜〜』
『あなたも……元気でね!』
『達者で暮らせよ、お嬢ちゃん』
二つの魂が、今、天へ昇っていく。
(あっというまに、あんなに高く……)
地上のおキヌから見たら、もう、豆粒のように小さい。
まだ二人の声は聞こえていたが……。
『そうだ!
ここから離れたいなら……
誰かと入れ替わればいいんじゃないかしら?』
『それは名案だな、ナツネ!
世の中は広いのだから、
替わってくれる人も居るはず……』
それが、おキヌの耳に届いた最後の会話だった。
___________
(誰かと……入れ替わる?)
ひとりぼっちで、青空を見上げながら。
おキヌは、二人の言葉を反芻していた。
(そんなこと、出来るのかな?)
山に括られてはいるが山の神にはなれなかった……と認識しているおキヌである。この地を守る者として自分が最適だという考えは、全く頭にない。むしろ、誰でもいいから替わってもらったほうが良いとさえ、思ってしまう。
(ようし……)
せっかく二人が提案してくれた方法である。しかも、それが二人の最後の言葉……ある意味『遺言』なのだ。遺言を実行しないのは、不義理である。
(ネコさん、菜津音さん!
……見ててくださいね。
私も、いつか……
そちらへ行きますから!!)
と、心に誓ったわけだが……。
___________
___________
「どうだい、
ボクの新しいフェラーリは?」
「ステキよっ!
もっと飛ばしてっ!
感じちゃう〜〜っ!!」
山道とは思えぬスピードで疾走する車。
男は、自身の運転技術を見せつけることしか頭にない。助手席の女も、ひたすら男を煽るばかり。
二人して「安全運転なにそれ美味しいの?」という状態であった。
ドドドォ……キュルッ……ブオオォ。
危険なカーブも、たいして速度を落とさぬまま曲がりきる。
なるほど、男の腕前は見事なのかもしれない。だが、周囲への注意は散漫であり、少し先にある道路標識も、全く目に入っていなかった。
『落石注意』
それは、落ちてくる岩に気をつけろという意味ではない。道に岩が落ちてるかもしれないから気をつけろという意味だ。
実際、次のカーブの死角には、大きな岩が鎮座している。このままでは、二人の車は衝突することになるのだが……。
ズッ……ズズズッ……。
突然、動き出す大岩。
まるでポルターガイスト現象だ!
道路の端へ、山肌のくぼみへと移動する。
「どうだい、
ボクの華麗な走りは?」
「ステキよっ!
このまま飛ばしてっ!
ますます感じちゃう〜〜っ!!」
車が問題の箇所を抜ける頃には、障害は完全になくなっていた。
かろうじて助かったことにも気付かぬまま、二人は、走り去って行く。
___________
『ああ……また失敗……。
死んでいただくどころか、
むしろ……』
元々おキヌは悪霊ではない。性根の優しい幽霊である。成仏できないのも未練や名残りがあるからではなく、特殊な事情ゆえなのだ。
そんな彼女であるから、身替わりを用意するために他人を故殺するなど、しょせん無理であった。せっかく目標を定めても、イザとなると躊躇してしまう。
本人は『また失敗』などと言っているが、なかなか具体的な行動すら起こせないのだから、失敗以前の話である。それどころか、逆に命を救ってしまうことも多かった。
今回の一件なども、放っておけば自滅する二人だったのに、それをワザワザ助けてしまったのだ。ここでは命拾いした二人だが、あんな暴走を続けていたら、どうせ後々どこかで――首都高速あたりで――天罰が下るだろうに……。
『……気持ちを切り替えて。
次こそは……がんばろう!』
おキヌは、簡単には諦めない。
そして……。
___________
___________
山道を歩く、一組の男女。
「若いんだから、がんばって」
さわやかな笑顔で、女が男を励ましている。
だが、しかし。
「先に行くわねーっ」
「……あんた、俺の命を
へとも思ってないでしょ」
なぜか女は、その場に男を放置して、一人でサッサと歩いていく。
「い……いかん!
女っ気がなくなって
ますます意識がモーローと……」
何か呟きながら、立ち上がる男。ゼーッゼーッと荒い息を吐きながら、彼も再び歩き出した……。
___________
……そんな一幕を、木の陰から――実体を見せずに――忍び見る白い影!
誰だ誰だ誰だ、と問うまでもない。
おキヌである。
『あの人……あの人がいいわ……。
ようし……』
ボオーッと姿を現した彼女は、固く決意する。
今度こそ、今度こそ。
だいたい、あそこまでコキ使われて平気な人なら喜んで替わってくれるはず。
そう、この人こそ、私の身替わりとして最適な……私の運命の人!
そうやって自分を納得させてから。
クワッと目を見開いて、彼女は飛び出した。
『えいっ!!』
___________
こうして、今。
おキヌの新たな物語が始まろうとしていた。
結論から言えば、今回も殺せないのだが……。それでも、この出会いが、不可思議な幸福に通じるのである。ありがたいありがたい。
『山の彼方の空遠く幽霊住むと人のいう』 完
いくつか構想してみた中で、最初に書き上がったのが、この作品です。原作第一話で横島を襲ったおキヌが『また失敗』と言っていますが、それまではどんな感じだったのか……と空想したら、こんな物語になりました。いかがだったでしょうか。
では、今後もよろしくお願いします。 (あらすじキミヒコ)
おキヌちゃんらしい…
横島を狙う前に、本当にありそうな見事な短編でした。
もう幾つか他の失敗?エピソードも読んでみたかった。 (もと)