あれは、いつの事だったか─。
大切なものは、全てこの手を零れ落ちてしまった。
もう、どれほどの怨嗟を吐いただろう。
もう、どれほどの悲嘆に暮れただろう。
破滅を望み、破壊を揮い。
戻れぬ道をひた走りながらも、時折ふと思う。
こんな私を、君は笑うだろうか─。
《 かくて魔神は律に叛き 〜届かぬ日々に手を伸ばす〜 》
乾いた大地に叩きつけられ、その衝撃に息が詰まる。
うつ伏せに倒れたため、口の中にじゃりっとした砂の感覚が広がる。
「ぐ…ッ!!」
苦痛と屈辱に小さく呻きながらも、なんとか体を起こす。
目の前の、自分を這いつくばらせた相手が、こちらを見下ろして佇んでいた。
「また私の勝ちだな、アシュタル。」
「くッ…まだだ! まだ俺は負けていないぞ、バァル!!」
赤みのある乱れた長髪を振り乱して叫ぶも、バァルはわずかに苦笑するだけ。
またか。
褐色の肌を持ち、蜂蜜色の髪を後ろで結いあげた目の前の男に、どうしようもない苛立ちを覚える。
この男に、何度挑みいなされたことか。
もはや数えるのも馬鹿らしい。
「なぁ…もう、止めにしないか?」
「ふざけるな!! 俺が貴様を倒し、王となるまでは決して諦めんぞ!!」
そう、目の前の男こそ我々諸神を束ねる神々の王。
豊穣と多産と繁栄を司り、嵐や雷を自在とする「強き者」バァル。
こいつさえ倒せば、神の玉座を手に入れられるのだ。
「君では私には勝てんよ。そのくらいはわかるだろう?」
「ぐ…ッ! そ、それでも俺は諦めん!! 諦めてたまるか!!」
言われずとも、力の差がどれほどのものかはわかっている。
だが、自分とて「恐るべき者」と謳われた男だ。それなりの矜持がある。
獅子を思わす精悍なる体躯と面立ち。
そして、それに見合う膂力と、研鑽磨き上げてきた武技。
それらに支えられた自信が、志半ばで折れることを許さない。
だが、その執念を込めた視線を受けても、バァルは嘆息して頭を振るばかりだった。
「…君が諦められないのは私の地位でなく、私の妻だろう。」
「なッ!?」
「アンタたち、いい加減にしなさいよ。」
ふいに女性の声がして、はっとしてそちらを向く。
そこには、まさに寝起きだったのだろう麗しき美女が、柱に寄りかかるようにして立っていた。
そちらを見たバァルの表情が、傍目でわかるほど輝く。
「ああ…起こしてしまったかね、アスタルテ。」
バァルが、愛しげに彼女の名を呼ぶ。
銀色に輝く美しい髪を背中に流し、その間から三日月形の角を覗かせた女神。
豊満にして均整のとれた肢体は、まさに神が──我らも神だが──心血注いでつくりあげた美貌。
彼女は薄いベールを羽織っただけの、艶やかな出で立ちのままこちらに歩いてくる。
「さっきからドタバタと…眠れやしないじゃない。」
ここはバァルの館の中庭であり、当然ながら彼の配偶神たるアスタルテもいる。
どうやら、さきほどまでの諍いは、彼女の安眠を邪魔してしまったらしい。
「まったく…アンタも懲りないわね、アシュタル。」
「…当然だ。神の玉座は俺にこそ相応しいのだからな。」
立ち上がり、土を払いながらそう返す。
だが、その声音が拗ねているようだと気付き、ますます不愉快になってしまった。
それが顔に出てしまっていたのか、彼女はくすくすと小さく笑い出す。
「そう言って、いつもうちの人に負けてるじゃない。」
「ッ…そ、そのうち勝ってみせる!!」
痛いところを突かれて思わず声を荒げるが、彼女は「はいはい。」と言ってまともに取り合わない。
負けるたびに同じ事を言ってきたのだ。まったく信用していないのだろう。
「さて…我が妻も起きてきたことだし、お茶でも飲むかね?」
「あら、あなたが淹れてくれるの? じゃあ、そうしましょうか。」
バァルの言葉に、ころっと態度を変えて嬉しそうに笑うアスタルテ。
そんな彼女を見ていると、ますます苛立ちが募る。
「ほら。なに不機嫌そうにしてんのよ? アンタも来るの。」
「…俺はいい!」
アスタルテの誘いも、苛立ちを消しはしない。
むしろ、倍加した。
「どうした? 何を拗ねているんだ、君は。」
「……お前たちにあてられるのはうんざりなんだ、こっちは!!」
叫んだのは失敗だったか。
アスタルテの顔が、からかうような笑みに変わっていく。
「アンタ…嫉妬してる? やきもち焼いてんの?」
「ばッ…馬鹿を言うな!!」
「まあ、私の美貌に魅せられるのは仕方ないわよ。うん。」
こちらの言い分を聞こうともせず、アスタルテは心底楽しそうに冷やかしてくる。
それでも、可愛らしく思えてしまうのは反則だ。
「おいおい…彼女は私の妻だぞ。手は出さんでくれよ?」
「出さん!! 俺は帰る!!」
バァルにまで冷やかされてたまるかと、踵を返して戸口に向かう。
アスタルテが「この程度で逃げ出すから、アンタは勝てないのよ。」ととどめの言葉を投げてきた。
ぴたりと足を止め、振り返る。
「いつか…いつか俺が王になったら、思い知らせてやる!!」
「期待しないで待ってるわ。」
「いつかね、いつか。」と彼女が笑う声を聞きながら、今度こそ振り返らず出て行く。
次こそはと、さらなる決意を固めながら。
私はただの叛逆者だ。
私はただの愚か者だ。
かつての、満ち溢れていた日々を想いながら、私は自らを嘲り笑う。
この魔神は、その身を闇よりなお深き奈落に沈めても、なお救われることを願っている。
これは、私が─。
この魔神『アシュタロス』が、そんな愚者へと成果てる、その顛末だ─。
まだ、『アルカナ大作戦』も完結していないのに、新規投稿という暴挙に出てしまいました。
本来、この作品は『アルカナ』が完結した後に書く予定だったのです。
なぜなら、『アルカナ』から派生した同時間軸、つまり原作を挟んで過去に位置する作品だからです。
それを、何故ここで発表したのかといいますと…
え〜、私の堪え性の無さと、『アルカナ』を呼んでもらえてるのか不安になってしまった私の小心者ぶりの発露といいますか…(滝汗)
と、とにかく、楽しんでいただければ真に幸いであります!!(強引)
全3話の構成で、すでに完結した形で原稿は出来ていますので、一日ごとに更新していくつもりです。
読まれた方はお分かりでしょうが、アシュ様の過去バナです。
展開予測と二次創作、どちらに投稿しようか迷いましたが、登場人物がほぼオリキャラということで、こちらへ寄せさせていただきました。
では、長くなりましたが、この辺で失礼いたします。 (詠夢)