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かくて魔神は律に叛き

届かぬ日々に手を伸ばす


投稿者名:詠夢
投稿日時:05/ 7/28


あれは、いつの事だったか─。

大切なものは、全てこの手を零れ落ちてしまった。

もう、どれほどの怨嗟を吐いただろう。

もう、どれほどの悲嘆に暮れただろう。

破滅を望み、破壊を揮い。

戻れぬ道をひた走りながらも、時折ふと思う。

こんな私を、君は笑うだろうか─。








《 かくて魔神は律に叛き 〜届かぬ日々に手を伸ばす〜 》








乾いた大地に叩きつけられ、その衝撃に息が詰まる。

うつ伏せに倒れたため、口の中にじゃりっとした砂の感覚が広がる。


「ぐ…ッ!!」


苦痛と屈辱に小さく呻きながらも、なんとか体を起こす。

目の前の、自分を這いつくばらせた相手が、こちらを見下ろして佇んでいた。


「また私の勝ちだな、アシュタル。」

「くッ…まだだ! まだ俺は負けていないぞ、バァル!!」


赤みのある乱れた長髪を振り乱して叫ぶも、バァルはわずかに苦笑するだけ。

またか。

褐色の肌を持ち、蜂蜜色の髪を後ろで結いあげた目の前の男に、どうしようもない苛立ちを覚える。

この男に、何度挑みいなされたことか。

もはや数えるのも馬鹿らしい。


「なぁ…もう、止めにしないか?」

「ふざけるな!! 俺が貴様を倒し、王となるまでは決して諦めんぞ!!」


そう、目の前の男こそ我々諸神を束ねる神々の王。

豊穣と多産と繁栄を司り、嵐や雷を自在とする「強き者」バァル。

こいつさえ倒せば、神の玉座を手に入れられるのだ。


「君では私には勝てんよ。そのくらいはわかるだろう?」

「ぐ…ッ! そ、それでも俺は諦めん!! 諦めてたまるか!!」


言われずとも、力の差がどれほどのものかはわかっている。

だが、自分とて「恐るべき者」と謳われた男だ。それなりの矜持がある。

獅子を思わす精悍なる体躯と面立ち。

そして、それに見合う膂力と、研鑽磨き上げてきた武技。

それらに支えられた自信が、志半ばで折れることを許さない。

だが、その執念を込めた視線を受けても、バァルは嘆息して頭を振るばかりだった。


「…君が諦められないのは私の地位でなく、私の妻だろう。」

「なッ!?」

「アンタたち、いい加減にしなさいよ。」


ふいに女性の声がして、はっとしてそちらを向く。

そこには、まさに寝起きだったのだろう麗しき美女が、柱に寄りかかるようにして立っていた。

そちらを見たバァルの表情が、傍目でわかるほど輝く。


「ああ…起こしてしまったかね、アスタルテ。」


バァルが、愛しげに彼女の名を呼ぶ。

銀色に輝く美しい髪を背中に流し、その間から三日月形の角を覗かせた女神。

豊満にして均整のとれた肢体は、まさに神が──我らも神だが──心血注いでつくりあげた美貌。

彼女は薄いベールを羽織っただけの、艶やかな出で立ちのままこちらに歩いてくる。


「さっきからドタバタと…眠れやしないじゃない。」


ここはバァルの館の中庭であり、当然ながら彼の配偶神たるアスタルテもいる。

どうやら、さきほどまでの諍いは、彼女の安眠を邪魔してしまったらしい。


「まったく…アンタも懲りないわね、アシュタル。」

「…当然だ。神の玉座は俺にこそ相応しいのだからな。」


立ち上がり、土を払いながらそう返す。

だが、その声音が拗ねているようだと気付き、ますます不愉快になってしまった。

それが顔に出てしまっていたのか、彼女はくすくすと小さく笑い出す。


「そう言って、いつもうちの人に負けてるじゃない。」

「ッ…そ、そのうち勝ってみせる!!」


痛いところを突かれて思わず声を荒げるが、彼女は「はいはい。」と言ってまともに取り合わない。

負けるたびに同じ事を言ってきたのだ。まったく信用していないのだろう。


「さて…我が妻も起きてきたことだし、お茶でも飲むかね?」

「あら、あなたが淹れてくれるの? じゃあ、そうしましょうか。」


バァルの言葉に、ころっと態度を変えて嬉しそうに笑うアスタルテ。

そんな彼女を見ていると、ますます苛立ちが募る。


「ほら。なに不機嫌そうにしてんのよ? アンタも来るの。」

「…俺はいい!」


アスタルテの誘いも、苛立ちを消しはしない。

むしろ、倍加した。


「どうした? 何を拗ねているんだ、君は。」

「……お前たちにあてられるのはうんざりなんだ、こっちは!!」


叫んだのは失敗だったか。

アスタルテの顔が、からかうような笑みに変わっていく。


「アンタ…嫉妬してる? やきもち焼いてんの?」

「ばッ…馬鹿を言うな!!」

「まあ、私の美貌に魅せられるのは仕方ないわよ。うん。」


こちらの言い分を聞こうともせず、アスタルテは心底楽しそうに冷やかしてくる。

それでも、可愛らしく思えてしまうのは反則だ。


「おいおい…彼女は私の妻だぞ。手は出さんでくれよ?」

「出さん!! 俺は帰る!!」


バァルにまで冷やかされてたまるかと、踵を返して戸口に向かう。

アスタルテが「この程度で逃げ出すから、アンタは勝てないのよ。」ととどめの言葉を投げてきた。

ぴたりと足を止め、振り返る。


「いつか…いつか俺が王になったら、思い知らせてやる!!」

「期待しないで待ってるわ。」


「いつかね、いつか。」と彼女が笑う声を聞きながら、今度こそ振り返らず出て行く。

次こそはと、さらなる決意を固めながら。










私はただの叛逆者だ。

私はただの愚か者だ。

かつての、満ち溢れていた日々を想いながら、私は自らを嘲り笑う。

この魔神は、その身を闇よりなお深き奈落に沈めても、なお救われることを願っている。

これは、私が─。

この魔神『アシュタロス』が、そんな愚者へと成果てる、その顛末だ─。


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