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続・卒業

ローズマリーの赤ちゃん(後)


投稿者名:居辺
投稿日時:04/ 1/20

5.
 投げ出された指先に何かが触れ、ローズマリーは我に帰った。
 冷たくて固いもの。
 指先がまだ感触を覚えている。
 銃だ。

 どういう訳か、銃は少しずつ押されてくる。
 何が銃を返してくれるのか。
 ローズマリーはひとまず疑問を棚上げにして、銃を拾うことに集中した。
 手のひらを上にしたままで、銃を拾い上げるのはとても難しい。
 もし爪が短かったら、とても無理だったろう。

 爪に引っ掛けるようにして、銃を少しずつ持ち上げ、ようやく握りしめる。
 だが普通に握っても、ビリーを狙うことはできない。
 親指をトリガーにかけて、握り直さなければならない。
 この握り方で撃てるのは多分一発だけ。
 一発でビリーの動きを止めなければならない。

 握り直そうとした拍子に、引き金にかかった親指にうっかり力を込めてしまった。
 ただ一つ残されたチャンスをふいにしてしまったかと、胸の奥で冷たいものが走る。
 だが、引き金は動かなかった。
 思い出した。セイフティを解除してなかったんだ。
 ビリーのやつ、それであんなに余裕しゃくしゃくだったのか。
 再び握り直してセイフティの解除を試みる。
 銃を握った指に温かなものが触れた。

 その丸い感触。すぐに赤ん坊だとわかった。
 それで一つ腑に落ちた。
 赤ん坊が額で銃を押してきたのだ。
 どうしてそんなことができたのか、わからない。
 ローズマリーが戸惑っていると、ふいに銃に重みが加わった。
 赤ん坊が銃身に手でも置いたのだろうか。
 邪魔しないでッ!!
 ローズマリーは必死に念じた。

 その思いが伝わったのだろうか、すぐに銃は元の重さを取り戻した。
 急いでセイフティレバーを探ると解除されている。
 赤ん坊がセイフティを解除した?
 ローズマリーの脳裏に疑問が渦巻いた。

 浮かせた手の甲に、赤ん坊の手が添えられるのがわかった。
 その瞬間、数々の疑問は解決されないまま消えた。
 力が湧いてくるような気がする。
 いいわ。二人でこいつを倒しましょう。
 ローズマリーはハイヒールを蹴るようにして飛ばした。
 胸に顔を埋めていたビリーが、背後の物音に気づいて顔を上げる。
 その瞬間乾いた破裂音が鳴り響いた。

 ビリーがうめき声を上げる。
 両手に巻き付いた触手がゆるむのを引きはがして、ビリーの体を突き飛ばす。
 できた隙間に脚を入れ、思い切り突っ張る。
 突き飛ばされたビリーが、頭から転がって機材にぶつかって止まった。
 触手が床を力なく打った。

 膝立ちになったローズマリーは、あらためて銃口をビリーに向け引き金を引いた。
 弾が当たるたびにビリーの体が痙攣する。
 触手は一本一本がそれぞれ、別の生き物のようにウネウネと蠢いている。
 全弾撃ち尽くした後もその動きは止まらなかった。

 赤ん坊が泣き声をあげた。
 我に帰ったローズマリーが立ち上がろうとすると、右の足首に違和感を感じる。
 ビリーを蹴飛ばしたときに捻ったらしい。
 痛みをこらえて赤ん坊を抱え上げ、廊下に飛び出した。
「ロー‥ジー、酷い‥よ」
 ビリーが途切れ途切れにつぶやくのが聞こえる。

 叩き付けるようにしてドアを閉め、ローズマリーは駆け出した。
 背後で実験室のドアを、何か湿ったものが叩く音がする。
 その音は次第に激しさを増し、ローズマリーをパニックへと誘う。
 ローズマリーが自室にたどり着いた頃、その音は衝撃音と化して唐突に終わった。
「戻‥て‥こい、ロー‥ジー」
 地の底からささやくような声だった。

 一瞬躊躇したが、車のキーが必要だ。
 自室に飛び込むと、バッグをつかんで廊下へ飛び出す。
 足首の痛みは、まだ我慢できないほどではない。
 実験室の方を見ると、廊下にうずくまった影が見えた。
 ズルズルと引きずる音が聞こえる。

「許さ‥ない。許さ‥ない‥ぞ、ロージー」
 ビリーが繰り返すつぶやきは、次第にヒステリックな色合いを帯びつつあった。
 赤ん坊が落ち着かなげに身じろぎした。
 ローズマリーは赤ん坊を抱える手に力を込め、右足を引きずって駆け出した。

6.
 ビリーの変異はメドーサにとっても予想外だった。
 魔界からの追っ手かと覚悟したメドーサだったが、むしろローズマリーに執着を示したのには驚いた。
 最初は確かにメドーサを渡せと言っていたのだ。
 にもかかわらず、ローズマリーに言いくるめられそうになったとたん、それを忘れてしまった。
 これではあまりに程度が低すぎる。

 あれはむしろ使い魔。背後にもっと大物がいるはずだ。
 であれば、ビリーにかまっている必要は無かった。
 この後ビリーを操る魔族が接触してくるはずだ。
 ビリー程度は軽くあしらっておかなければ、その後の交渉を有利にまとめることはできない。
 たとえ今のメドーサにとって、ビリーがどれほどの強敵であっても。
 味方はローズマリーただ一人であっても。

 足がもつれる。
 赤ん坊を取り落としそうになって、踏ん張ったおかげで右足の痛みが酷くなってしまった。
 背後のズルズルいう音はむしろ近くなっていて、それがローズマリーを焦らせる。
 振り返ると、数本の触手が鞭のように飛んでくるところだった。
 触手は次から次へと飛んできて、本体であるビリーの体を引きずり寄せている。

「ロー‥ジー、お前‥は‥俺‥のも‥だ」
 老人のようにかすれたビリーの声。
 痰が絡んだような、ゴロゴロという音が混じっている。
 ”死”そのものに追いかけられているような気がした。
 ローズマリーはエレベータをあきらめ、階段を駆け下りた。

 踊り場から見上げると、ちょうどビリーが顔を出したところだ。
 生気の無い目でニヤリと笑っている。
 触手が伸びて壁を叩いた。
 ローズマリーは飛ぶようにして階段を駆け下りた。
 鼓動に合わせて、右足がずきずきと痛む。
 確かめる暇はないが、腫れてきてるようで足首が曲がらなくなってきた。

 後ろで重たいものが壁に当たる音がする。
 壁に張り付かせた触手に引き寄せられるようにして、ビリーが踊り場まで移動したのだ。
 階段の残り4段を思い切って飛び降りる。
 着地した途端、思わず右足首をかばおうとしてバランスを崩す。
 赤ん坊をしっかりと抱え、転がって壁に激突する。
 全身が痛みを訴えるのを無視して、ローズマリーはすぐに立ち上がった。

 走り出そうとする背中を触手がかすめる。
 不思議と怖くなかった。
 赤ん坊を抱えているだけで勇気がわいてくる気がする。
 見下ろすと赤ん坊が静かな目で見返してくる。
 外へと続く守衛室のドアまで後少し。

 すぐそこに赤いランプが点灯している。
 非常ベルだ。
 迷わずボタンを押す。
 非常ベルが大音響で鳴り始めた。
 守衛室で人が動く気配がするのを見届ける。
 あと、確かここにあれがあったはず。

 ボンベを引っ張りだし、安全ピンを外す。
 赤ん坊を傍らに置いて、ホースを構えた。
 ビリーの体が階段を飛び降りてくる。
 壁にぶつかる気持ちの悪い音。
 ビリーのねじれた首。頭が転げ落ちそうになっている。
 ローズマリーは消化器のレバーを引いた。

 真っ白な粉が吹き出して、ビリーの体に降り掛かる。
 触手は縮み上がり痙攣を始めた。
 ビリーが悲鳴のように吠える。
 目つぶし程度でも。そう思ってやったことだったが、思った以上に効果があるようだ。
 闇雲に触手を振り回すが、さっきまでのスピードも力強さも無い。
 消火剤がなくなるまで吹きかけると、やがて力なく床に垂れ下がっていった。
 ビリーの悲鳴も、もう聞こえない。
 ローズマリーは赤ん坊を抱え上げると立ち上がった。

「そこで何をしている!?」
 背後からかけられた声に、ローズマリーは天にも昇る気持ちだった。
「そこにいるのは誰だ!?」
 守衛の持った懐中電灯の光の輪が、ローズマリーの背中を照らしている。
「撃たないで!!」
 ローズマリーはゆっくりと振り返った。
「赤ちゃんを抱えているのよ!」
 ビリーに背中は見せたくない。
 半身の体勢で、いつビリーが動き出してもいいように身構えながら、用心深く守衛の方を向いた。

「後ろのそれはいったい何だ?」
 守衛が息をのんだ。
「説明できないわ。でも危険なの、とても」
 じりじりと守衛に近づいていく。
「危険? 軍隊を呼んだ方がいいか?」
 守衛が銃の狙いをつけながら言った。
「そうして」
 ようやく守衛のところまでたどり着き、ローズマリーはひとまず安堵した。
 守衛に伴われて、ゆっくりとビリーから遠ざかる。
 ビリーは動く様子を見せない。

 守衛が襟元の通信機に向かって報告を始めている。
「現場を確認した。現場は一階廊下、守衛室から40ヤード地点。
 現場にて正体不明の物体を発見。女性と赤ん坊それぞれ一名を保護した。
 現在女性と赤ん坊を伴って、現場から離脱を試みている。
 正体不明の物体は現在動きを見せてはいないが、確保した女性の証言によればかなり危険な存在らしい。
 至急応援を‥‥。あれ?」
 守衛が耳元に手をやる。
「なんだ? 急に切れちまった」
 不安げに顔を見合わせたとき、突然非常ベルが途切れた。
 不気味な静寂の中、ぶつぶつ何か言う声が聞こえる。

 ビリーだ。
「ど‥し‥て、わか‥て‥くれ‥ない‥だよ」
 確かにそう聞こえた。
 すすり泣くような言い方。
 ぞっとして、思わず振り返る。
 垂れ下がった粉まみれの顔。
 もはやビリーと触手と、どちらが本体かわからない。

 のそりと、ビリーが動いた。
「せっか‥く」
 触手が一本伸びて床を叩いた。
「邪魔‥な‥アンディ‥も」
 次の一本が床を叩く。
「赤ん‥坊‥も」
 次の一本が。
「片付け‥たっ‥言う‥の‥に」

 ローズマリーは射すくめられたように動けなかった。
 夫を殺した? 赤ちゃんも?
 ローズマリーの腕を守衛がとった。
 そうだ、逃げなければ。
 守衛の肩を借りて、出口に向かって必死に走る。
 ビリーがつぶやきながら、次々と触手を伸ばしてくる。
 出口まで、あと十数ヤード。

 触手が床を打つたびに、ビリーの声は近づいてくる。
 ガラス扉まであと数歩。誰だろう? 扉の向こうに人影が見える。
 警告しようにも、叫ぶことさえできなかった。
「ど‥して‥俺を‥愛し‥て‥くれ‥ない‥だ」
 触手がローズマリーと守衛の頭上を飛んで、ガラス扉を突き破った。

7.
 ガラスの破片から、赤ん坊を守ろうとして体をひねる。
 ビリーは背後に迫っていた。
 目が合うと、逆さまになったビリーの唇が、ニヤリと笑った形のまま裂けていく。
 そのまま下顎を残して、ビリーの頭が床に落ちた。
 ころころと転がって、こちらを向いたその濁った瞳はまだ笑っている。
 守衛が撃った弾丸が、ビリーの残骸の胸に当たって小さな穴が開けた。
 穴から汚い色の粘液が少し垂れただけ。
 守衛は続けて何発か打ち込んだが、それ以上の効果はなかった。

「何発打ち込んでも無駄よ!」
 鮮烈な声が響いた。
 声のする先を見ると、女性が割れたガラス扉から入ってくるところだった。
 東洋系らしいその小柄な女性は、まだ若く十代ぐらいにしか見えない。
 その服装はまるで、繁華街に立つコールガールのそれだ。
 長い赤毛の髪を留めたウロコ模様のヘアバンドが、微妙な違和感を醸し出している。
「こっから先は専門家に任せてもらうわ」

 ビリーがうなり声をあげている。
 襲いかかろうか迷っているみたいだ。
「フ〜ン、あんたみたいな馬鹿でも私の強さはわかるの?
 生憎だったわね。私があんたみたいなザコを相手にするわけないでしょ。
 シロ、タマモ! ここは任せるわ!!」
 言うが早いか、二つの白い風が脇を通り抜けた。
「メドーサ!! 往生際が悪いわよ!
 さっさと姿を現しなさい!」

「今のうちにこちらへ」
 誰かがローズマリーの袖を引いた。
 振り返ると、キモノを身に着けた黒髪の少女だ。
 少女はローズマリーの腕の中を見て顔色を変える。
「大変! 赤ちゃん傷だらけじゃないですか!」
 赤ん坊が居心地悪そうに身をよじる。

「オキヌちゃんはこの人達を、安全なところへ連れて行ってあげてよ。
 ここは俺たちだけで、とりあえず大丈夫みたいだから」
 少女の後ろに立つ、ヒョロッとした頼り無さそうな少年が声をかけた。
 ヒマラヤ登山にでも行くかのような、巨大なリュックを背負っている。
 そう言えば、この少年もウロコ模様のヘアバンドをしている。
 お揃いのユニフォームなのだろうか。

 少年がニヤニヤ笑ってる視線の先には、破れたブラウスの胸元があった。
 はっとして視線から逃れると、いつの間にか少年が回り込んできている。
 少年がローズマリーの肩に手をかけた。
「奥さん、大変でしたね。
 でももう大丈夫。我々が来たからには‥‥って、痛〜〜〜〜ッ!!!」
 横から手が伸びて、少年の耳をつまんで引っ張っていく。
 赤毛の女性だ。

「なるべく早く戻りますから」
 黒髪の少女が苦笑いして、赤毛の女性に声をかけた。
 ローズマリーは少女に案内されるままにその場を離れた。

「横島、見鬼君で見て」
 美神が後ろ向きのまま、横島に指示した。
「絶対に近くにいるはずよ」
 横島はリュックのポケットから、見鬼君の入った箱を取り出した。
「変スね、メドーサだったら、向こうから突っかけてくると思ってたんスけど」
「弱ってンのよ!
 だから、あんな出来損ないを使って時間稼ぎしてんのね」
「ってことは、メドーサは逃げようとしてるってことっスか?」
 横島は見鬼君のスイッチを入れた。

 見鬼君は横島の手の中でゆっくりと回って、目の前の怪物を指差した。
「だめっス、こいつが邪魔で他の霊気を探れないみたいっス」
「メドーサのやつ、相当弱ってるわね。
 あんなのの霊気に隠れちゃうんだから」
「もう近くには居なかったりして」
 横島がボソリとつぶやくように言った。

「シロ! タマモ! さっさと片付けちゃいなさい!!」
 美神が叫んだ。
 二人は意外に苦戦していた。
 斬っても焼いても、新しい触手が生えてくる。
「見てないで手伝えーーッ!!」
 タマモが叫ぶなり、足下に転がるビリーの頭を、美神に向かって蹴った。
 美神がさっと避けると、ビリーの頭は外の暗がりへと消えていった。

8.
 少女に案内された先は敷地内にある駐車場だった。
 アスファルト舗装された駐車場に、水銀灯の冷たい光が投げかけられている。
 少女は乱暴に留められた一台に向かって、まっすぐに歩いていく。
「ちょっと待ててくださいね」
 オープンカーの後部座席に乗せた荷物から何かを探し始めた。
 冬の近づいたこの時期、夜の風は冷たい。
 ローズマリーは赤ん坊のことが心配になってきた。

 遠くから車の近づいている音が聞こえた。
 音のする方を見るとヘッドランプが煌めいて、車が敷地に入ってきた。
 駐車場に入ってきた車のライトが、ローズマリーたちを照らし出す。
 車はまっすぐに走り寄ると、ローズマリーの目の前で止まった。
 中から軍服姿の男が飛び出てきた。

「あの女はどこだッ!!?」
 中年の男は喘ぐように言った。
 さっきの東洋系の女性のことだろうか。
「あっちです」
 黒髪の少女が指差したとき、その夜間通用口から強烈な光が漏れた。
 一瞬遅れて煙が吹き出してくる。
「あそこかッ!!?」
「今近づくと危ないですよ!」
 少女の忠告を無視して、男は走っていった。

 男を見送ってため息すると、少女は再び車の中を探り始める。
 今度はすぐに見つかったようだ。
 黒髪の少女がニコニコして、ローズマリーに向かってタオルを広げた。
「ちょっと、赤ちゃんを抱かせてもらえませんか」
 言われるまま渡そうとすると、赤ん坊が泣き出した。
 一時でも離れたくないとでも言うように。
 ローズマリーははっとした。
 いつのまにか彼女自身も、この赤ん坊を手放すつもりが無くなっていたから。

 光の加減で蒼白に見える赤ん坊の肌を、少女がなでさすっていく。
 最初は嫌がっていた赤ん坊は、少女がくれたタオルに包まれて、今は気持ち良さそうに目を閉じている。
 ローズマリーは赤ん坊を早く返してほしかった。
 我慢できなくなって声をかけようとしたとき、少女の手が止まった。
「はい、終わりました。
 さ、ママのところに帰りましょうね」
 少女が赤ん坊の頬をくすぐって、ローズマリーに差し出した。
「次はお母さん、あなたです」

 ローズマリーの足首を治療すると、黒髪の少女は戻っていった。
 赤ん坊を胸に抱いたローズマリーは、少女の後ろ姿を見送った。
「おかしな連中だな」
 守衛がぽつりと漏らした。
「応援にしては来るのが早すぎるし、どうなってんだ?」
 不安げにそう言って、辺りを見回す。
「とにかく正面ゲートへ行こう。そこの詰め所に行けば何かわかるかもしれない」
 ローズマリーとしては、すぐさま車に乗って帰りたかった。
 だが、勝手に帰ることもできず守衛の後を追った。

 正面ゲートは、駐車場を出てすぐのところにある。
 立ち木の陰をまわって見ると、正面ゲートは盛大に破壊されていた。
 ロケット弾でも打ち込まれたのか、鉄製のゲートがねじ曲がり、うっすらと煙が立ち上っていた。
 すぐそばにある詰め所は、全壊はまぬがれていたが、窓ガラスが全部吹っ飛んでいる。
 守衛はローズマリーにここで待っているように言い含めて、一人様子をうかがいに近づいていった。
 不安げに守衛を見送ったローズマリー。
 不意に冷たい視線を感じた。

 いつの間にかローズマリーの後ろに男が一人立っていた。
 年月によって萎びてしまったかのような顔面の深い皺。
 老人だ。
 今時これは無いだろうと言うような、黒いローブ。
 腰のところを金色の紐で結んでいる。
 裾を引きずっている様は、ハロウィーンの仮装のつもりだろうか。
 見るからに疲れきった様子なのに、目だけが爛々と光っていた。

「ビリーを案内にやったはずだったのだが、どうしたのかね?」
 しわがれた、奇妙に甲高い声だ。
 老人の声はローズマリーに不吉なものを感じさせた。
「どうした、だんまりかね?
 迎えにきたのがワシで不満かねメドーサ?」

「メドーサなんて人、知りません!」
 ローズマリーは足を一歩引いた。
 さっき乱入してきた東洋系の女性も、たしかその名を呼んでた。
 どうして古い邪神の名前を呼ぶのだろう。
 抱いた赤ん坊が重く感じられた。
 まさか、この子なの?

 突然赤ん坊が激しく泣き声をあげた。
 ローズマリーは我に帰った。
「この子をどうにかするつもりなの!?」
 老人は戸惑ったように虚ろに笑う。
「ビリーに何かしたのはあなたね!?
 そんな人にこの子は渡せないわ!!」
 言うなり、ローズマリーは全力で車まで走ると飛び乗った。
 老人はただ見守るばかりだ。

 ローズマリーと赤ん坊を乗せた車は、老人を大きく迂回して駐車場を出て行く。
 車の音を聞きつけた守衛が、詰め所から飛び出してきた。
 だが、車はスピードを上げてゲートを通過していった。
「ああも弱っていてわな」
 老人はつぶやいて、走り去る車を見送った。
「ふむ、あっちはしばらく様子を見ればよかろう。
 今はこっちの始末をつけなければならんな。
 ビリー、来なさい」

 カサカサと音を立てて、千切れ落ちたビリーの頭が水銀灯の光の輪に入ってきた。
 失った下顎の代わりに蜘蛛の脚が無数に生えている。
 おびえた表情で足下に来たビリーの頭に、老人は脚を乗せた。
「せっかく力をくれてやったというに、無様なまねしおって」
 カサカサと言い訳するように蜘蛛の脚が動くのを無視して、老人が脚に力を込める。
 ビリーの頭はクシャッと言う軽い音を立てて潰れた。
 蜘蛛の脚が痙攣して動かなくなるのを、見届けずにさっさと歩き出す。
 老人の姿は暗闇に吸い込まれるように見えなくなった。

9.
「何だったんだあれは‥‥」
 軍服姿の男が誰にとも無くつぶやいた。

「結局見つかりませんでしたね」
 オキヌは苦笑いして言った。
「せっかくNASAのサーバーにハッキングかけて見つけたのに‥‥」
 美神がやっと吐き出すように言った。
 美神を始め全員が、くたびれ果てて座り込んでいる。
 横島は夜目にもわかるほど蒼ざめた顔でうずくまっていた。
 まだしゃべる余裕は無いようだ。

 放心状態のシロは両足を投げ出して座ったまま、肩で息をしている。
「どうしてくれんのよ、これ」
 タマモが泣きそうな顔で自分を指差した。
 シロもそうだが、全身に汚い粘液が付いている。
 服はあきらめてもいいが、髪に付いた分は取るのが大変そうだ。

 あれから、全員で怪物を倒したものの、とうとうメドーサは見つからなかった。
 念のために実験室まで行ってみたが、見つかったのはボロボロになった皮だけ。
 分解し始めた皮の具合から行って、メドーサはついさっきまでここに居たことは間違いない。
 研究所に入る前に検知した妖気は、夜間通用口近くのここにしかなかった。
 と言うことは美神たちが突入したとき、メドーサは確かに近くに居たことになる。

 問題はあの怪物だった。
 メドーサなら眷属、ビッグ・イーターを呼び出す方が自然だ。
 あの怪物は場違いというほか無かった。
 あれをメドーサが呼び出したとは考えづらい。
 では、どうしてそこに場違いな怪物が居たのか。
 そこにメドーサに協力する、第三者が介在したとしか思えない。
 新たな魔族が活動を始めたのだろうか。
 どうであれ、ここから先は想像するしか無い。
 美神は頭を振った。

「美神さん、もしかしたらですけど、あの女の人がメドーサだったんじゃないですか?」
 横島がようやく言った。
「それは無いですよ」
 横からおキヌが割り込んだ。
「あの人がメドーサさんなら、わざわざ赤ちゃんを抱えたりしないと思います」
「じゃ、あの赤ん坊がメドーサ」
 横島は真剣な顔で言った。

「んなわけないでしょ。わざわざ身動きのとれない赤ちゃんになってどうすんのよ」
 美神が横島の頭にツッコミを入れる。
「いや、メドーサの意思とは関係なく、赤ちゃんになっちゃったとしたら?」
 横島はめげなかった。
「自分は動けなかったんで、あの女の人を操って運んでもらってたんですよ」
 得意満面と言った横島。
「操られてたらそれとわかるわよ。あんたそんなこともわかんないの?」
 美神がため息をついた。

「それじゃいったい‥‥」
 横島は顎に手を当ててうなった。
 美神がはっとして口を開いた。
 横島もひらめいたらしく、顔を見合わせて同時に叫んだ。
「小さくなってた!?」
「小さく?」
 タマモが何だそれはと首を突っ込んできた。
「あったのよ、小竜姫やジークたちが魔界や神界からの、エネルギー供給を立たれて小さくなったってのが」
 美神が勢い込んで言った。

「えっと、ヒャクメ様が小学生くらいになったあれですか?」
 おキヌが不思議そうに言った。
「いや、もっと小さいんだ。
 人形サイズ。リエちゃんの半分くらい」
 横島が両手で大きさを示す。
「人形サイズだったら、見落としたかもしれないわね」
 美神が闇の中を見やりながら言った。

 メドーサがどうやったにせよ、もはや手遅れだ。
 見鬼君の探知能力の及ばないところまで、逃げられてしまったのは間違いない。
 いったん戻って体勢を整えるしか無いだろう。
「帰るわよ」
 美神はそう言って立ち上がった。

「美神さん‥‥」
 おキヌが美神の腕を引いてそっと指差した。
 指の先には、軍服姿の男がイライラした顔で待っている。
 ここで何があったか説明してくれるのを、今か今かと待ち構えていたらしい。
 説明するまでは絶対返さないといった顔だ。
「とりあえず今夜はもう遅いから、夜が開けてからあらためてってことじゃだめ?」
 美神の愛想笑いは通用しそうになかった。
 一同がベッドにたどり付くまでは、まだ長い時間がかかりそうだ。

10.
 エンチャンター。
 老人は自らをこう名乗った。
 本名は誰も知らない。

 助手席から天井を見上げ、メドーサは思い出していた。
 エンチャンターと出会ったのは、かなり前のことになる。
 とある遺伝子研究グループと接触して、魔界や神界の生物サンプルを売り込んだことがあった。
 グループの指導者だったのが彼、エンチャンターだ。
 彼は当時すでに、遺伝子操作によって新種の奇怪な生命を、誕生させることに成功していた。
「人は既に神になる資格を持っている」
 自ら生み出した新生物を前に、彼はそううそぶいたものだ。
 営業用のスマイルを浮かべながらも、内心不愉快な気分になったことを覚えている。

 その後エンチャンターと彼の新生物が、どんな運命を辿ったかメドーサは知らない。
 だがビリーの辿った運命を見ると、彼の技術が格段の進歩を遂げているのは間違いなさそうだ。
 そのエンチャンターがあらためてメドーサに、接触しようとした理由はなんだろう。
 新しいサンプルが欲しかっただけだろうか。

 ローズマリーは途方に暮れていた。
 どこに行ったらいいのだろう。
 自宅に帰れば、誰かが待ち構えている気がする。
 それがビリーのような化け物だったら、もはやローズマリーには対処できない。
 今はとにかく逃げることだ。

 州境を越えた、国道沿いのコンビニエンスストアで、食料を手に入れまた走り出す。
 脇道に車を止めて、赤ん坊にミルクを与えながら思った。
 銀行の残高が尽きるまで、逃げることはできる。
 できたら、この子の出生証明を、手に入れたいんだけど、どうしたものか。
 お腹がいっぱいになったのか、赤ん坊が寝息を立て始めた。
 ローズマリーは満ち足りた気分に浸り、赤ん坊の寝息をいつまでも聞いていた。

 ローズマリーの腕に抱えられたメドーサはご機嫌だった。
 美神たちがあっさりと、自分を見逃してしまったのがおかしかった。
 本当ならあいつら全員を血祭りに上げてやるところだが、今日のところは仕方ない。
 見逃してやるよ。
 胸の内でそううそぶく。

 それにしても、どうしてこの女に抱かれていると、こんなにも眠くなるのだろう。
 メドーサは最後の抵抗を試みながら、ぼんやりと考えた。
 暖かすぎると思っていた彼女の体温も、今ではなぜか心地いい。
 このまま、この女の子供になってしまうのもいいかもしれない。
 多分そうはいかないだろうが。
 今日は見逃してくれたらしいが、エンチャンターは必ずまた現れるはずだ。
 それでもいい。
 今だけでも眠りたい。
 母の胸の中で。

 夜明けが近づいてきた。
 ローズマリーと赤ん坊を乗せた車は、白み始めた空を背に受けて走っていった。

終.
 ローズマリーと赤ん坊を乗せた車から遥か離れた路上を、白い球体がゆっくりと這っていた。
 よく見るとそれは一個の眼球で、後ろに神経繊維をひきずっている。
 下から生えた不揃いな蜘蛛の脚が、よろよろと眼球を運んでいた。

 眼球には考える力さえ残っていないが、求めるものがあった。
 網膜に彼女の姿がまだ残っている。
 どれくらい彼女から離れているか、眼球は気にしなかった。
 歩いていれば彼女に近づいていくはずだから。
 そして、いつか彼女を‥‥。

 感動に打ち震える眼球は、上空から舞い降りるカラスの姿にまだ気づいていない。


おしまい


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