5.
投げ出された指先に何かが触れ、ローズマリーは我に帰った。
冷たくて固いもの。
指先がまだ感触を覚えている。
銃だ。
どういう訳か、銃は少しずつ押されてくる。
何が銃を返してくれるのか。
ローズマリーはひとまず疑問を棚上げにして、銃を拾うことに集中した。
手のひらを上にしたままで、銃を拾い上げるのはとても難しい。
もし爪が短かったら、とても無理だったろう。
爪に引っ掛けるようにして、銃を少しずつ持ち上げ、ようやく握りしめる。
だが普通に握っても、ビリーを狙うことはできない。
親指をトリガーにかけて、握り直さなければならない。
この握り方で撃てるのは多分一発だけ。
一発でビリーの動きを止めなければならない。
握り直そうとした拍子に、引き金にかかった親指にうっかり力を込めてしまった。
ただ一つ残されたチャンスをふいにしてしまったかと、胸の奥で冷たいものが走る。
だが、引き金は動かなかった。
思い出した。セイフティを解除してなかったんだ。
ビリーのやつ、それであんなに余裕しゃくしゃくだったのか。
再び握り直してセイフティの解除を試みる。
銃を握った指に温かなものが触れた。
その丸い感触。すぐに赤ん坊だとわかった。
それで一つ腑に落ちた。
赤ん坊が額で銃を押してきたのだ。
どうしてそんなことができたのか、わからない。
ローズマリーが戸惑っていると、ふいに銃に重みが加わった。
赤ん坊が銃身に手でも置いたのだろうか。
邪魔しないでッ!!
ローズマリーは必死に念じた。
その思いが伝わったのだろうか、すぐに銃は元の重さを取り戻した。
急いでセイフティレバーを探ると解除されている。
赤ん坊がセイフティを解除した?
ローズマリーの脳裏に疑問が渦巻いた。
浮かせた手の甲に、赤ん坊の手が添えられるのがわかった。
その瞬間、数々の疑問は解決されないまま消えた。
力が湧いてくるような気がする。
いいわ。二人でこいつを倒しましょう。
ローズマリーはハイヒールを蹴るようにして飛ばした。
胸に顔を埋めていたビリーが、背後の物音に気づいて顔を上げる。
その瞬間乾いた破裂音が鳴り響いた。
ビリーがうめき声を上げる。
両手に巻き付いた触手がゆるむのを引きはがして、ビリーの体を突き飛ばす。
できた隙間に脚を入れ、思い切り突っ張る。
突き飛ばされたビリーが、頭から転がって機材にぶつかって止まった。
触手が床を力なく打った。
膝立ちになったローズマリーは、あらためて銃口をビリーに向け引き金を引いた。
弾が当たるたびにビリーの体が痙攣する。
触手は一本一本がそれぞれ、別の生き物のようにウネウネと蠢いている。
全弾撃ち尽くした後もその動きは止まらなかった。
赤ん坊が泣き声をあげた。
我に帰ったローズマリーが立ち上がろうとすると、右の足首に違和感を感じる。
ビリーを蹴飛ばしたときに捻ったらしい。
痛みをこらえて赤ん坊を抱え上げ、廊下に飛び出した。
「ロー‥ジー、酷い‥よ」
ビリーが途切れ途切れにつぶやくのが聞こえる。
叩き付けるようにしてドアを閉め、ローズマリーは駆け出した。
背後で実験室のドアを、何か湿ったものが叩く音がする。
その音は次第に激しさを増し、ローズマリーをパニックへと誘う。
ローズマリーが自室にたどり着いた頃、その音は衝撃音と化して唐突に終わった。
「戻‥て‥こい、ロー‥ジー」
地の底からささやくような声だった。
一瞬躊躇したが、車のキーが必要だ。
自室に飛び込むと、バッグをつかんで廊下へ飛び出す。
足首の痛みは、まだ我慢できないほどではない。
実験室の方を見ると、廊下にうずくまった影が見えた。
ズルズルと引きずる音が聞こえる。
「許さ‥ない。許さ‥ない‥ぞ、ロージー」
ビリーが繰り返すつぶやきは、次第にヒステリックな色合いを帯びつつあった。
赤ん坊が落ち着かなげに身じろぎした。
ローズマリーは赤ん坊を抱える手に力を込め、右足を引きずって駆け出した。
6.
ビリーの変異はメドーサにとっても予想外だった。
魔界からの追っ手かと覚悟したメドーサだったが、むしろローズマリーに執着を示したのには驚いた。
最初は確かにメドーサを渡せと言っていたのだ。
にもかかわらず、ローズマリーに言いくるめられそうになったとたん、それを忘れてしまった。
これではあまりに程度が低すぎる。
あれはむしろ使い魔。背後にもっと大物がいるはずだ。
であれば、ビリーにかまっている必要は無かった。
この後ビリーを操る魔族が接触してくるはずだ。
ビリー程度は軽くあしらっておかなければ、その後の交渉を有利にまとめることはできない。
たとえ今のメドーサにとって、ビリーがどれほどの強敵であっても。
味方はローズマリーただ一人であっても。
足がもつれる。
赤ん坊を取り落としそうになって、踏ん張ったおかげで右足の痛みが酷くなってしまった。
背後のズルズルいう音はむしろ近くなっていて、それがローズマリーを焦らせる。
振り返ると、数本の触手が鞭のように飛んでくるところだった。
触手は次から次へと飛んできて、本体であるビリーの体を引きずり寄せている。
「ロー‥ジー、お前‥は‥俺‥のも‥だ」
老人のようにかすれたビリーの声。
痰が絡んだような、ゴロゴロという音が混じっている。
”死”そのものに追いかけられているような気がした。
ローズマリーはエレベータをあきらめ、階段を駆け下りた。
踊り場から見上げると、ちょうどビリーが顔を出したところだ。
生気の無い目でニヤリと笑っている。
触手が伸びて壁を叩いた。
ローズマリーは飛ぶようにして階段を駆け下りた。
鼓動に合わせて、右足がずきずきと痛む。
確かめる暇はないが、腫れてきてるようで足首が曲がらなくなってきた。
後ろで重たいものが壁に当たる音がする。
壁に張り付かせた触手に引き寄せられるようにして、ビリーが踊り場まで移動したのだ。
階段の残り4段を思い切って飛び降りる。
着地した途端、思わず右足首をかばおうとしてバランスを崩す。
赤ん坊をしっかりと抱え、転がって壁に激突する。
全身が痛みを訴えるのを無視して、ローズマリーはすぐに立ち上がった。
走り出そうとする背中を触手がかすめる。
不思議と怖くなかった。
赤ん坊を抱えているだけで勇気がわいてくる気がする。
見下ろすと赤ん坊が静かな目で見返してくる。
外へと続く守衛室のドアまで後少し。
すぐそこに赤いランプが点灯している。
非常ベルだ。
迷わずボタンを押す。
非常ベルが大音響で鳴り始めた。
守衛室で人が動く気配がするのを見届ける。
あと、確かここにあれがあったはず。
ボンベを引っ張りだし、安全ピンを外す。
赤ん坊を傍らに置いて、ホースを構えた。
ビリーの体が階段を飛び降りてくる。
壁にぶつかる気持ちの悪い音。
ビリーのねじれた首。頭が転げ落ちそうになっている。
ローズマリーは消化器のレバーを引いた。
真っ白な粉が吹き出して、ビリーの体に降り掛かる。
触手は縮み上がり痙攣を始めた。
ビリーが悲鳴のように吠える。
目つぶし程度でも。そう思ってやったことだったが、思った以上に効果があるようだ。
闇雲に触手を振り回すが、さっきまでのスピードも力強さも無い。
消火剤がなくなるまで吹きかけると、やがて力なく床に垂れ下がっていった。
ビリーの悲鳴も、もう聞こえない。
ローズマリーは赤ん坊を抱え上げると立ち上がった。
「そこで何をしている!?」
背後からかけられた声に、ローズマリーは天にも昇る気持ちだった。
「そこにいるのは誰だ!?」
守衛の持った懐中電灯の光の輪が、ローズマリーの背中を照らしている。
「撃たないで!!」
ローズマリーはゆっくりと振り返った。
「赤ちゃんを抱えているのよ!」
ビリーに背中は見せたくない。
半身の体勢で、いつビリーが動き出してもいいように身構えながら、用心深く守衛の方を向いた。
「後ろのそれはいったい何だ?」
守衛が息をのんだ。
「説明できないわ。でも危険なの、とても」
じりじりと守衛に近づいていく。
「危険? 軍隊を呼んだ方がいいか?」
守衛が銃の狙いをつけながら言った。
「そうして」
ようやく守衛のところまでたどり着き、ローズマリーはひとまず安堵した。
守衛に伴われて、ゆっくりとビリーから遠ざかる。
ビリーは動く様子を見せない。
守衛が襟元の通信機に向かって報告を始めている。
「現場を確認した。現場は一階廊下、守衛室から40ヤード地点。
現場にて正体不明の物体を発見。女性と赤ん坊それぞれ一名を保護した。
現在女性と赤ん坊を伴って、現場から離脱を試みている。
正体不明の物体は現在動きを見せてはいないが、確保した女性の証言によればかなり危険な存在らしい。
至急応援を‥‥。あれ?」
守衛が耳元に手をやる。
「なんだ? 急に切れちまった」
不安げに顔を見合わせたとき、突然非常ベルが途切れた。
不気味な静寂の中、ぶつぶつ何か言う声が聞こえる。
ビリーだ。
「ど‥し‥て、わか‥て‥くれ‥ない‥だよ」
確かにそう聞こえた。
すすり泣くような言い方。
ぞっとして、思わず振り返る。
垂れ下がった粉まみれの顔。
もはやビリーと触手と、どちらが本体かわからない。
のそりと、ビリーが動いた。
「せっか‥く」
触手が一本伸びて床を叩いた。
「邪魔‥な‥アンディ‥も」
次の一本が床を叩く。
「赤ん‥坊‥も」
次の一本が。
「片付け‥たっ‥言う‥の‥に」
ローズマリーは射すくめられたように動けなかった。
夫を殺した? 赤ちゃんも?
ローズマリーの腕を守衛がとった。
そうだ、逃げなければ。
守衛の肩を借りて、出口に向かって必死に走る。
ビリーがつぶやきながら、次々と触手を伸ばしてくる。
出口まで、あと十数ヤード。
触手が床を打つたびに、ビリーの声は近づいてくる。
ガラス扉まであと数歩。誰だろう? 扉の向こうに人影が見える。
警告しようにも、叫ぶことさえできなかった。
「ど‥して‥俺を‥愛し‥て‥くれ‥ない‥だ」
触手がローズマリーと守衛の頭上を飛んで、ガラス扉を突き破った。
7.
ガラスの破片から、赤ん坊を守ろうとして体をひねる。
ビリーは背後に迫っていた。
目が合うと、逆さまになったビリーの唇が、ニヤリと笑った形のまま裂けていく。
そのまま下顎を残して、ビリーの頭が床に落ちた。
ころころと転がって、こちらを向いたその濁った瞳はまだ笑っている。
守衛が撃った弾丸が、ビリーの残骸の胸に当たって小さな穴が開けた。
穴から汚い色の粘液が少し垂れただけ。
守衛は続けて何発か打ち込んだが、それ以上の効果はなかった。
「何発打ち込んでも無駄よ!」
鮮烈な声が響いた。
声のする先を見ると、女性が割れたガラス扉から入ってくるところだった。
東洋系らしいその小柄な女性は、まだ若く十代ぐらいにしか見えない。
その服装はまるで、繁華街に立つコールガールのそれだ。
長い赤毛の髪を留めたウロコ模様のヘアバンドが、微妙な違和感を醸し出している。
「こっから先は専門家に任せてもらうわ」
ビリーがうなり声をあげている。
襲いかかろうか迷っているみたいだ。
「フ〜ン、あんたみたいな馬鹿でも私の強さはわかるの?
生憎だったわね。私があんたみたいなザコを相手にするわけないでしょ。
シロ、タマモ! ここは任せるわ!!」
言うが早いか、二つの白い風が脇を通り抜けた。
「メドーサ!! 往生際が悪いわよ!
さっさと姿を現しなさい!」
「今のうちにこちらへ」
誰かがローズマリーの袖を引いた。
振り返ると、キモノを身に着けた黒髪の少女だ。
少女はローズマリーの腕の中を見て顔色を変える。
「大変! 赤ちゃん傷だらけじゃないですか!」
赤ん坊が居心地悪そうに身をよじる。
「オキヌちゃんはこの人達を、安全なところへ連れて行ってあげてよ。
ここは俺たちだけで、とりあえず大丈夫みたいだから」
少女の後ろに立つ、ヒョロッとした頼り無さそうな少年が声をかけた。
ヒマラヤ登山にでも行くかのような、巨大なリュックを背負っている。
そう言えば、この少年もウロコ模様のヘアバンドをしている。
お揃いのユニフォームなのだろうか。
少年がニヤニヤ笑ってる視線の先には、破れたブラウスの胸元があった。
はっとして視線から逃れると、いつの間にか少年が回り込んできている。
少年がローズマリーの肩に手をかけた。
「奥さん、大変でしたね。
でももう大丈夫。我々が来たからには‥‥って、痛〜〜〜〜ッ!!!」
横から手が伸びて、少年の耳をつまんで引っ張っていく。
赤毛の女性だ。
「なるべく早く戻りますから」
黒髪の少女が苦笑いして、赤毛の女性に声をかけた。
ローズマリーは少女に案内されるままにその場を離れた。
「横島、見鬼君で見て」
美神が後ろ向きのまま、横島に指示した。
「絶対に近くにいるはずよ」
横島はリュックのポケットから、見鬼君の入った箱を取り出した。
「変スね、メドーサだったら、向こうから突っかけてくると思ってたんスけど」
「弱ってンのよ!
だから、あんな出来損ないを使って時間稼ぎしてんのね」
「ってことは、メドーサは逃げようとしてるってことっスか?」
横島は見鬼君のスイッチを入れた。
見鬼君は横島の手の中でゆっくりと回って、目の前の怪物を指差した。
「だめっス、こいつが邪魔で他の霊気を探れないみたいっス」
「メドーサのやつ、相当弱ってるわね。
あんなのの霊気に隠れちゃうんだから」
「もう近くには居なかったりして」
横島がボソリとつぶやくように言った。
「シロ! タマモ! さっさと片付けちゃいなさい!!」
美神が叫んだ。
二人は意外に苦戦していた。
斬っても焼いても、新しい触手が生えてくる。
「見てないで手伝えーーッ!!」
タマモが叫ぶなり、足下に転がるビリーの頭を、美神に向かって蹴った。
美神がさっと避けると、ビリーの頭は外の暗がりへと消えていった。
8.
少女に案内された先は敷地内にある駐車場だった。
アスファルト舗装された駐車場に、水銀灯の冷たい光が投げかけられている。
少女は乱暴に留められた一台に向かって、まっすぐに歩いていく。
「ちょっと待ててくださいね」
オープンカーの後部座席に乗せた荷物から何かを探し始めた。
冬の近づいたこの時期、夜の風は冷たい。
ローズマリーは赤ん坊のことが心配になってきた。
遠くから車の近づいている音が聞こえた。
音のする方を見るとヘッドランプが煌めいて、車が敷地に入ってきた。
駐車場に入ってきた車のライトが、ローズマリーたちを照らし出す。
車はまっすぐに走り寄ると、ローズマリーの目の前で止まった。
中から軍服姿の男が飛び出てきた。
「あの女はどこだッ!!?」
中年の男は喘ぐように言った。
さっきの東洋系の女性のことだろうか。
「あっちです」
黒髪の少女が指差したとき、その夜間通用口から強烈な光が漏れた。
一瞬遅れて煙が吹き出してくる。
「あそこかッ!!?」
「今近づくと危ないですよ!」
少女の忠告を無視して、男は走っていった。
男を見送ってため息すると、少女は再び車の中を探り始める。
今度はすぐに見つかったようだ。
黒髪の少女がニコニコして、ローズマリーに向かってタオルを広げた。
「ちょっと、赤ちゃんを抱かせてもらえませんか」
言われるまま渡そうとすると、赤ん坊が泣き出した。
一時でも離れたくないとでも言うように。
ローズマリーははっとした。
いつのまにか彼女自身も、この赤ん坊を手放すつもりが無くなっていたから。
光の加減で蒼白に見える赤ん坊の肌を、少女がなでさすっていく。
最初は嫌がっていた赤ん坊は、少女がくれたタオルに包まれて、今は気持ち良さそうに目を閉じている。
ローズマリーは赤ん坊を早く返してほしかった。
我慢できなくなって声をかけようとしたとき、少女の手が止まった。
「はい、終わりました。
さ、ママのところに帰りましょうね」
少女が赤ん坊の頬をくすぐって、ローズマリーに差し出した。
「次はお母さん、あなたです」
ローズマリーの足首を治療すると、黒髪の少女は戻っていった。
赤ん坊を胸に抱いたローズマリーは、少女の後ろ姿を見送った。
「おかしな連中だな」
守衛がぽつりと漏らした。
「応援にしては来るのが早すぎるし、どうなってんだ?」
不安げにそう言って、辺りを見回す。
「とにかく正面ゲートへ行こう。そこの詰め所に行けば何かわかるかもしれない」
ローズマリーとしては、すぐさま車に乗って帰りたかった。
だが、勝手に帰ることもできず守衛の後を追った。
正面ゲートは、駐車場を出てすぐのところにある。
立ち木の陰をまわって見ると、正面ゲートは盛大に破壊されていた。
ロケット弾でも打ち込まれたのか、鉄製のゲートがねじ曲がり、うっすらと煙が立ち上っていた。
すぐそばにある詰め所は、全壊はまぬがれていたが、窓ガラスが全部吹っ飛んでいる。
守衛はローズマリーにここで待っているように言い含めて、一人様子をうかがいに近づいていった。
不安げに守衛を見送ったローズマリー。
不意に冷たい視線を感じた。
いつの間にかローズマリーの後ろに男が一人立っていた。
年月によって萎びてしまったかのような顔面の深い皺。
老人だ。
今時これは無いだろうと言うような、黒いローブ。
腰のところを金色の紐で結んでいる。
裾を引きずっている様は、ハロウィーンの仮装のつもりだろうか。
見るからに疲れきった様子なのに、目だけが爛々と光っていた。
「ビリーを案内にやったはずだったのだが、どうしたのかね?」
しわがれた、奇妙に甲高い声だ。
老人の声はローズマリーに不吉なものを感じさせた。
「どうした、だんまりかね?
迎えにきたのがワシで不満かねメドーサ?」
「メドーサなんて人、知りません!」
ローズマリーは足を一歩引いた。
さっき乱入してきた東洋系の女性も、たしかその名を呼んでた。
どうして古い邪神の名前を呼ぶのだろう。
抱いた赤ん坊が重く感じられた。
まさか、この子なの?
突然赤ん坊が激しく泣き声をあげた。
ローズマリーは我に帰った。
「この子をどうにかするつもりなの!?」
老人は戸惑ったように虚ろに笑う。
「ビリーに何かしたのはあなたね!?
そんな人にこの子は渡せないわ!!」
言うなり、ローズマリーは全力で車まで走ると飛び乗った。
老人はただ見守るばかりだ。
ローズマリーと赤ん坊を乗せた車は、老人を大きく迂回して駐車場を出て行く。
車の音を聞きつけた守衛が、詰め所から飛び出してきた。
だが、車はスピードを上げてゲートを通過していった。
「ああも弱っていてわな」
老人はつぶやいて、走り去る車を見送った。
「ふむ、あっちはしばらく様子を見ればよかろう。
今はこっちの始末をつけなければならんな。
ビリー、来なさい」
カサカサと音を立てて、千切れ落ちたビリーの頭が水銀灯の光の輪に入ってきた。
失った下顎の代わりに蜘蛛の脚が無数に生えている。
おびえた表情で足下に来たビリーの頭に、老人は脚を乗せた。
「せっかく力をくれてやったというに、無様なまねしおって」
カサカサと言い訳するように蜘蛛の脚が動くのを無視して、老人が脚に力を込める。
ビリーの頭はクシャッと言う軽い音を立てて潰れた。
蜘蛛の脚が痙攣して動かなくなるのを、見届けずにさっさと歩き出す。
老人の姿は暗闇に吸い込まれるように見えなくなった。
9.
「何だったんだあれは‥‥」
軍服姿の男が誰にとも無くつぶやいた。
「結局見つかりませんでしたね」
オキヌは苦笑いして言った。
「せっかくNASAのサーバーにハッキングかけて見つけたのに‥‥」
美神がやっと吐き出すように言った。
美神を始め全員が、くたびれ果てて座り込んでいる。
横島は夜目にもわかるほど蒼ざめた顔でうずくまっていた。
まだしゃべる余裕は無いようだ。
放心状態のシロは両足を投げ出して座ったまま、肩で息をしている。
「どうしてくれんのよ、これ」
タマモが泣きそうな顔で自分を指差した。
シロもそうだが、全身に汚い粘液が付いている。
服はあきらめてもいいが、髪に付いた分は取るのが大変そうだ。
あれから、全員で怪物を倒したものの、とうとうメドーサは見つからなかった。
念のために実験室まで行ってみたが、見つかったのはボロボロになった皮だけ。
分解し始めた皮の具合から行って、メドーサはついさっきまでここに居たことは間違いない。
研究所に入る前に検知した妖気は、夜間通用口近くのここにしかなかった。
と言うことは美神たちが突入したとき、メドーサは確かに近くに居たことになる。
問題はあの怪物だった。
メドーサなら眷属、ビッグ・イーターを呼び出す方が自然だ。
あの怪物は場違いというほか無かった。
あれをメドーサが呼び出したとは考えづらい。
では、どうしてそこに場違いな怪物が居たのか。
そこにメドーサに協力する、第三者が介在したとしか思えない。
新たな魔族が活動を始めたのだろうか。
どうであれ、ここから先は想像するしか無い。
美神は頭を振った。
「美神さん、もしかしたらですけど、あの女の人がメドーサだったんじゃないですか?」
横島がようやく言った。
「それは無いですよ」
横からおキヌが割り込んだ。
「あの人がメドーサさんなら、わざわざ赤ちゃんを抱えたりしないと思います」
「じゃ、あの赤ん坊がメドーサ」
横島は真剣な顔で言った。
「んなわけないでしょ。わざわざ身動きのとれない赤ちゃんになってどうすんのよ」
美神が横島の頭にツッコミを入れる。
「いや、メドーサの意思とは関係なく、赤ちゃんになっちゃったとしたら?」
横島はめげなかった。
「自分は動けなかったんで、あの女の人を操って運んでもらってたんですよ」
得意満面と言った横島。
「操られてたらそれとわかるわよ。あんたそんなこともわかんないの?」
美神がため息をついた。
「それじゃいったい‥‥」
横島は顎に手を当ててうなった。
美神がはっとして口を開いた。
横島もひらめいたらしく、顔を見合わせて同時に叫んだ。
「小さくなってた!?」
「小さく?」
タマモが何だそれはと首を突っ込んできた。
「あったのよ、小竜姫やジークたちが魔界や神界からの、エネルギー供給を立たれて小さくなったってのが」
美神が勢い込んで言った。
「えっと、ヒャクメ様が小学生くらいになったあれですか?」
おキヌが不思議そうに言った。
「いや、もっと小さいんだ。
人形サイズ。リエちゃんの半分くらい」
横島が両手で大きさを示す。
「人形サイズだったら、見落としたかもしれないわね」
美神が闇の中を見やりながら言った。
メドーサがどうやったにせよ、もはや手遅れだ。
見鬼君の探知能力の及ばないところまで、逃げられてしまったのは間違いない。
いったん戻って体勢を整えるしか無いだろう。
「帰るわよ」
美神はそう言って立ち上がった。
「美神さん‥‥」
おキヌが美神の腕を引いてそっと指差した。
指の先には、軍服姿の男がイライラした顔で待っている。
ここで何があったか説明してくれるのを、今か今かと待ち構えていたらしい。
説明するまでは絶対返さないといった顔だ。
「とりあえず今夜はもう遅いから、夜が開けてからあらためてってことじゃだめ?」
美神の愛想笑いは通用しそうになかった。
一同がベッドにたどり付くまでは、まだ長い時間がかかりそうだ。
10.
エンチャンター。
老人は自らをこう名乗った。
本名は誰も知らない。
助手席から天井を見上げ、メドーサは思い出していた。
エンチャンターと出会ったのは、かなり前のことになる。
とある遺伝子研究グループと接触して、魔界や神界の生物サンプルを売り込んだことがあった。
グループの指導者だったのが彼、エンチャンターだ。
彼は当時すでに、遺伝子操作によって新種の奇怪な生命を、誕生させることに成功していた。
「人は既に神になる資格を持っている」
自ら生み出した新生物を前に、彼はそううそぶいたものだ。
営業用のスマイルを浮かべながらも、内心不愉快な気分になったことを覚えている。
その後エンチャンターと彼の新生物が、どんな運命を辿ったかメドーサは知らない。
だがビリーの辿った運命を見ると、彼の技術が格段の進歩を遂げているのは間違いなさそうだ。
そのエンチャンターがあらためてメドーサに、接触しようとした理由はなんだろう。
新しいサンプルが欲しかっただけだろうか。
ローズマリーは途方に暮れていた。
どこに行ったらいいのだろう。
自宅に帰れば、誰かが待ち構えている気がする。
それがビリーのような化け物だったら、もはやローズマリーには対処できない。
今はとにかく逃げることだ。
州境を越えた、国道沿いのコンビニエンスストアで、食料を手に入れまた走り出す。
脇道に車を止めて、赤ん坊にミルクを与えながら思った。
銀行の残高が尽きるまで、逃げることはできる。
できたら、この子の出生証明を、手に入れたいんだけど、どうしたものか。
お腹がいっぱいになったのか、赤ん坊が寝息を立て始めた。
ローズマリーは満ち足りた気分に浸り、赤ん坊の寝息をいつまでも聞いていた。
ローズマリーの腕に抱えられたメドーサはご機嫌だった。
美神たちがあっさりと、自分を見逃してしまったのがおかしかった。
本当ならあいつら全員を血祭りに上げてやるところだが、今日のところは仕方ない。
見逃してやるよ。
胸の内でそううそぶく。
それにしても、どうしてこの女に抱かれていると、こんなにも眠くなるのだろう。
メドーサは最後の抵抗を試みながら、ぼんやりと考えた。
暖かすぎると思っていた彼女の体温も、今ではなぜか心地いい。
このまま、この女の子供になってしまうのもいいかもしれない。
多分そうはいかないだろうが。
今日は見逃してくれたらしいが、エンチャンターは必ずまた現れるはずだ。
それでもいい。
今だけでも眠りたい。
母の胸の中で。
夜明けが近づいてきた。
ローズマリーと赤ん坊を乗せた車は、白み始めた空を背に受けて走っていった。
終.
ローズマリーと赤ん坊を乗せた車から遥か離れた路上を、白い球体がゆっくりと這っていた。
よく見るとそれは一個の眼球で、後ろに神経繊維をひきずっている。
下から生えた不揃いな蜘蛛の脚が、よろよろと眼球を運んでいた。
眼球には考える力さえ残っていないが、求めるものがあった。
網膜に彼女の姿がまだ残っている。
どれくらい彼女から離れているか、眼球は気にしなかった。
歩いていれば彼女に近づいていくはずだから。
そして、いつか彼女を‥‥。
感動に打ち震える眼球は、上空から舞い降りるカラスの姿にまだ気づいていない。
おしまい
幸い誰も赤ん坊にした人はいないみたいだし。
序章の部分は以前発表したものを手直しして使いました。 (居辺)
タイトルは同名の映画からいただいております。 (居辺)
ところどころアメリカン・ホラーのような趣味の悪い描写がありましたが、
(私が個人的にそういうの嫌いなだけですので気になさらないでくださいね)
ローズマリーがどうなることかとドキドキしながら読ませていただきました。
まだまだ騒動が続くんですよね。
ローズマリーとメドーサの関係がこれからどういうものになっていくのか、楽しみです。 (U. Woodfield)
オリジナル要素が強すぎる(て言うかほとんどオリジナル)ので辛いかなと思ってたので、うれしい驚きです。
コメントいただけるといろいろ参考になってありがたいのですが、強制できるものではありませんし、読んでもらえてると言うだけでとてもうれしいです。
ただ、気になることなどあればコメントを残してもらえると助かります。
話べたな上に筆無精な作者が、すぐにとは行きませんが、必ず返させていただきますので。
U. Woodfieldさんへ
趣味悪かったですね。舞台をアメリカ(一言も書いてませんけどね)にしたので、そんな感じにしたかったのです。
多分あの程度ではナマヌルイと思ってる方もいるでしょうね。
作者としてはスプラッタを見て笑う人の、気持ちを少し分かった気がしました。
グロくなればなるほど面白くなってしまって。
ヤリすぎまでは行ってないと思うのですがどうでしょうね。
この話の続きなんですが、直接つながる話は今のところ考えてません。
今はまた趣向を変えたものを考えてますので、書き上がったらお目にかけたいと思います。 (居辺)