『リメンバー・ミー』:2010、アメリカ

1991年、ニューヨークのブルックリン。11歳のアリー・クレイグは、母親と夜の駅に立っていた。電車を待っているところへ2人組の強盗が現れ、アリーの目の前で母親が撃ち殺された。警官が現場検証を行っているところへ、アリーの父親である刑事のニールがやって来た。妻の死体を確認した彼は、落ちていた結婚指輪を拾い上げた。ニールは駆け寄るアリーを抱き上げ、無言のまま駅を立ち去った。
10年後。タイラー・ホーキンスは11歳になる妹のキャロラインから電話を受け、墓地へ赴く。兄であるマイケルの墓参りだ。母のダイアンは弁護士である父のチャールズと離婚し、レスという男性と再婚している。マイケルの墓参りには、チャールズも来ている。墓参りの後、ダイアンは「マイケルのおかげで家族が繋がっている」と話す。彼女はタイラーに、キャロラインが絵の才能を認められてニューヨーク大学の芸術講座に推薦されたことを話した。キャロラインが嬉しそうに話しているのにチャールズが口を挟んで邪魔したため、タイラーは腹を立てて立ち去った。
タイラーは書店でアルバイトをしながら、ニューヨーク大学に聴講生として通っている。ルームメイトのエイダンに誘われてバーへ赴いた彼は、マイアミ出身の女性2人組と知り合った。外に出た4人が歩いていると、近くで道路を横切ろうとした2人のミュージシャンが車に乗っていた連中に因縁を付けられた。タイラーはは喧嘩の現場に突っ込み、車の連中に殴り掛かった。通報を受けたニールは、相棒のレオたちと共に現場へ赴いた。
警察がミュージシャン2人を連行しようとするので、タイラーはニールに「彼らは悪くない。車の連中が仕掛けた」と抗議する。ニールは「余計な口出しをするな」と無視し、さらに抗議しようとするタイラーを逮捕した。一緒に留置されたエイダンは「なぜ警官に逆らった?お前は聴講生だから構わないかもしれないが、俺はちゃんと卒業したい」とタイラーを責めた。エイダンがチャールズに電話したため、2人はすぐに釈放された。
タイラーは保釈金を支払うため、ホーキンス法律事務所を訪れた。秘書のジャニーンに案内され、彼はチャールズの部屋に行く。「弁護されたのに不服なのか」とチャールズが言うと、タイラーは「別に」と告げ、「請求書を送ってくれ」と述べて立ち去った。タイラーはキャロラインを学校まで迎えに行き、「急ぎの用があるんだ」と告げる。同級生たちが笑っているので「なぜだ?」と彼が尋ねると、「私がボンヤリしているから変だって。フランス語の先生に注意された」とキャロラインは告げた。
エイダンはアリーを学校まで車で送り届けるニールの姿を発見し、タイラーに「あの警官に娘がいた。娘と知り合ってデートに誘うんだ。上手く手懐けてから、酷い目に遭わせてやれ」と持ち掛ける。タイラーは「仕返しなんてゴメンだ」と相手にしなかったが、エイダンが執拗に「娘と会え」と迫るので、仕方なく承諾した。タイラーはアリーを同じクラスで何度か見掛けたことがあった。タイラーは社会学の実験と称してアリーに声を掛け、謝礼の代わりとしてデートに誘った。
デートに行くつもりが無かったアリーだが、タイラーから電話が掛かって来ると「今から出るところだった」と告げた。慌てて支度を整え、彼女はインド料理の店でタイラーと夕食を取る。食事の後、2人はカーニバルへ出掛け、タイラーはパンダのヌイグルミをプレゼントした。「駅まで送るよ」と彼が言うと、アリーは「タクシーを使うわ。地下鉄には乗らないの」と告げた。タクシー乗り場で別れる時、タイラーとアリーはキスを交わした。
卒業したキャロラインは、迎えに来たタイラーに「芸術講座に通うわ」と告げる。「私の絵が展覧会に出るんだけど、来てくれる?」と言われたタイラーは、「もちろん行くよ」と答えた。タイラーはアリーを部屋に呼び、自作の料理を振る舞った。ふざけ合った流れで、タイラーはアリーを浴室へ連れ込んだ。アリーはシャワーの水をタイラーに浴びせて笑った。濡れた服を着替えるタイラーの胸には、「マイケル」というタトゥーが彫られていた。タイラーはアリーに、兄が22歳の誕生日に自殺したことを明かした。
エイダンが来て「パーティーをやってるんだ」と誘うので、タイラーとアリーは会場へ行く。しかし酒を飲んだアリーが嘔吐し、タイラーに「パパを呼んでほしいの」と頼む。エイダンは反対するが、タイラーは「分かった」と告げる。しかし携帯が電池切れになっており、番号を訊こうとしてもアリーは酔い潰れて眠ってしまった。仕方なくタイラーは、ベッドで彼女を休ませた。アリーが連絡もせずに帰宅しないので、ニールはレオに電話を掛けて捜索を命じた。
翌朝、目を覚ましたアリーが急いで帰宅すると、ニールは腹を立てて待ち受けていた。ニールはアリーの居場所を探るため、勝手に彼女の日記を読んでいた。そのことをアリーが責めると、ニールは「子供のくせに、どういうつもりだ」と告げる。「もう干渉するのはやめて」とアリーは声を荒らげ、「ママを救えなかったから怖いんでしょ」と口にする。ニールはカッとなって、アリーを殴り付けた。すぐに娘を心配して「大丈夫か」と声を掛けたニールだが、アリーは「触らないで」と拒絶した。
家出したアリーは、タイラーの部屋に転がり込んだ。タイラーは「彼女を泊めていいか?」とエイダンに確認を取り、アリーを受け入れることにした。そしてタイラーとアリーは、肉体関係を持った。翌朝、タイラーはウォール街のカフェへ出掛け、パンを買って帰宅した。わざわざウォール街まで行ったことについてアリーから訊かれたタイラーは、「思い出の店なんだ。兄貴と良く行った。自殺した日の朝も一緒に出掛けた」と話す。
アリーはタイラーに、「ママは10年前に殺された。パパは面倒見のいい人だし、悪い人じゃないのよ」と話した。レオはニールに、アリーから「友達といるから心配しないで」という電話があったことを伝える。しかしニールは納得せず、激しい苛立ちを示した。タイラーの誕生日、アリーとエイダン、ダイアン、キャロラインが祝福してくれた。ダイアンが「キャロラインの展覧会に、彼女の父親は来てくれるしから」と心配するので、タイラーは「俺が親父に言うよ」と告げた。
タイラーが電話を掛けると、チャールズは仕事中だった。タイラーが「展覧会の前に食事をしたい」と言うと、チャールズは「レストランを予約しよう。何人だ」と尋ねる。タイラーはアリーの姿を眺め、「3人」と答えた。チャールズはタイラーの22歳の誕生日だと覚えており、「おめでとう」と告げた。タイラーはアリーを連れて高級レストランへ赴き、チャールズと会う。タイラーは父への反感を剥き出しにするが、アリーはチャールズに好感を持った様子だった。
アリーはチャールズから両親のことを問われ、「母は私が11歳の時に目の前で殺されました」と明かした。「苦境を乗り越えたんだね」とチャールズが言うと、アリーは「何とか」と口にした。チャールズが仕事に戻ると決めたので、タイラーは「展覧会は9時までだ。それでも父親か」と腹を立てた。タイラーは展覧会の会場へ行き、寂しそうなキャロラインの姿を目にした。タイラーはキャロラインが描いたチャールズの絵を持ち去り、「バカな真似しないで」というアリーの制止を振り切って法律事務所へ向かった。
会議の場に乗り込んだタイラーは、「父親の絵を描いたのに来なかった。アンタの娘は父親に嫌われてると思い込んでる」とチャールズを非難した。さらに彼が「話そうとしているのに、なぜ耳を傾けようとしない?なぜ無関心でいられる?」と言うと、チャールズは「あの子は分かってる。あの子を愛してる。口に出しても分からんのか。あの子にもお前にも、全て与えた」と反論する。「金だけ与えれば済むと思ってるのか」とタイラーが言うと、「責任も負わずにブラブラしてるガキのくせに。辛いのはお前だけか?お前のある感情が、私には無いとでも思っているのか」と彼は告げる。
タイラーは感情を抑制できず、「兄さんの遺体を見つけたのは俺だ。アンタの目は雲ってる。子供が全員、自殺すれば分かるのか」と抗議する。チャールズが激怒して掴み掛かろうとすると、役員たちが制止した。家に戻ったタイラーは、アリーに求められて激しく抱き合った。アリーは自宅の留守電に、「元気でやってるわ。その内、パパとゆっくり話したい」とメッセージを吹き込んだ。ある日、タイラーが帰宅すると、アリーの居場所を突き止めたニールが待ち受けていた。アリーを捨てるつもりだろうと言うニールに、「俺は逃げない」とタイラーは告げる。嫌味っぽい言葉で責めるニールに、タイラーは「アンタは何も分かってない。大切な人間を放り出したのを俺のせいにしてる」と言い放った…。

監督はアレン・コールター、脚本はウィリアム・フェッターズ、製作はニコラス・オズボーン&トレヴァー・エンゲルソン、製作協力はマイケル・ラナン、製作総指揮はキャロル・カディー&ロバート・パティンソン、撮影はジョナサン・フリーマン、編集はアンドリュー・モンドシェイン、美術はスコット・P・マーフィー、衣装はスーザン・ライアル、音楽はマーセロ・ザーヴォス、音楽監修はアレクサンドラ・パットサヴァス。
出演はロバート・パティンソン、エミリー・デ・レイヴィン、クリス・クーパー、ピアース・ブロスナン、レナ・オリン、テイト・エリントン、ルビー・ジェリンズ、ケイト・バートン、グレゴリー・ジュバラ、クリス・マッキニー、オルガ・メレディス、エミリー・ウィッカーシャム、ケリー・バーレット、ケヴィン・マッカーシー、デヴィッド・デブリンジャー、パトリシア・パオルッチオ、アンドレア・ナヴェド、モイセス・アセベイド、ノエル・ロドリゲス、メーガン・マークル、ジョン・トロスキー、ドリュー・リアリー他。


『ハリウッドランド』のアレン・コールターが監督を務めた作品。
脚本のウィリアム・フェッターズは、これがデビュー作。
タイラーを演じたロバート・パティンソンがフェッターズの脚本を気に入り、自ら製作総指揮を務めて映画化している。
アリーをエミリー・デ・レイヴィン、ニールをクリス・クーパー、チャールズをピアース・ブロスナン、ダイアンをレナ・オリン、エイダンをテイト・エリントン、キャロラインをルビー・ジェリンズ、をケイト・バートン、をグレゴリー・ジュバラが演じている。
アンクレジットだが、アリーの母親を演じているのはマーサ・プリンプトン。

タイラーとアリーが出会ってから恋に落ちるまでが早すぎるという部分が、まず気になる。
どっちかが一目惚れってことならともかく、そういう雰囲気は無い。むしろアリーはタイラーを追い払おうとしたり、デートをドタキャンしようと考えたりしていたぐらいだ。
それが最初のデートでいい雰囲気になり、別れる時には自らキスするほどになる。
タイラー側が積極的にアプローチするのはともかく、アリーの尻が軽すぎやしないかと感じる。
そりゃあタイラーは不愉快な奴ではないし、女の心を惹き付ける能力は高いように見える。
ただ、そこは「だってロバート・パティンソンだから、女も惚れるでしょ」というところに説得力を頼っているように感じる。

オチの部分を除外して、そこまでの内容だけを捉えると、どうやら「悲しみからの再出発」をテーマにした人間ドラマを描こうとしているようだ。
しかし、あまり上手く行っているようには思えない。
まずタイラーは、兄を自殺で失い、父親の愛を感じられず、人生の何事も決めない虚無的な生活を送っている。そんな彼がアリーと出会い、彼女が母を殺されていると知る。
「身内を理不尽な死で失った」という共通項を持つアリーとの出会いが、タイラーの心情を変化させ、前向きに生きようと考えるようになるのかと思ったのだが、むしろ彼にとって重要なのは「父からの愛が欠如している」という部分なのだ。
そして、それに関しては、アリーは何の手助けにもならない。
終盤、チャールズが子供たち撮った写真を大切にしていることを知ったことで、タイラーは再生への一歩目を踏み出せるのだ。

一方のアリーは母親を目の前で殺されているが、そこから何とか立ち直っている。
地下鉄に乗ることは避けているし、完全に吹っ切れているわけではないのだろうが、その出来事を忘れられないのは当然だし、それでも前向きに頑張ろうと努めている。悲しみを引きずり、そのせいで虚無的な生き方をしている、というようなことは無い。
ただ、ホントはアリーの方も「心の傷を抱えていて、タイラーと触れ合う中で立ち直って行く」というドラマになるべきじゃないかと思う。
そういうのが、この映画からはあまり見えて来ない。

「悲しみからの再出発」というドラマとは別に「キャロラインがイジメを受けている」という要素があって、ここはマイケルの自殺と何の関係も無い。
イジメの原因は「キャロラインはボンヤリすることが多いから」ということであり、ボンヤリすることが多いのはマイケルの自殺が関連しているのかもしれないが、そこは映画を見ていても言及されていない。
そこは「チャールズがイジメに憤慨し、キャロラインのために学校の理事会と掛け合うことを決める」という風に、親子の愛情を描く上では活用されている。「家族の再生」という意味では関連性があるが、「マイケルの自殺」という要素との関連性が薄いので、ちょっと欲張り過ぎているかなあという印象を受ける。
ただし、この映画が抱えている重大な問題は、そういった部分には無い。
諸悪の根源は、オチの部分にある。

本国の北米では多くの批評家から酷評を浴び、興行的にも失敗に終わった。
ロバート・パティンソンが脚本を気に入った理由も、大勢の批評家から酷評された理由も、たぶん同じ部分にあるのだと思う。
それは終盤に待ち受けているオチの部分だ。
ハッキリ言ってしまえば、この映画は「まずオチありき」で作られており、それどころか「そのオチだけで勝負している」と言ってもいいような作品なのだ。

批評に必要だから完全ネタバレを書いてしまうが、この映画の終盤には2001年9月11日のシーンが用意されている。それはアメリカで同時多発テロが発生した日だ。
つまり、「色んなことがあったけど、最終的にタイラーは同時多発テロに巻き込まれて死にました」というのが、この映画のオチだ。
通常、意外なオチやドンデン返しを用意した脚本の場合、そこに向けた伏線が張り巡らされているべきだ。それが無いのは、脚本として粗いとか、質が低いという評価になる。
しかし本作品の場合、伏線が張り巡らされていなくても、それが質の低さとイコールでは結ばれない。
なぜなら、同時多発テロは何の前触れも無く起きた悲劇だからだ。
CIAは事前にテロ情報を掴んでいたらしいが、一般人にとっては唐突に発生した出来事だから、そこに向けた予兆や伏線など、あろうはずがない。

しかし映画としては、「何の伏線も無いまま、いきなり意外なオチが待ち受けている」ってのは、ただ唐突なだけだ。
後になって「実は、あの描写はオチに向けた伏線だった」ってのも当然のことながら無いわけだが、そこを「でも同時多発テロだから、伏線が無くても仕方がないよね」と受け入れることは難しい。
それを受け入れるのは寛容さではなく、ただ無頓着なだけだ。
むしろ、「同時多発テロという、特にアメリカ人にとっては心に深い傷を残す悲劇を、ものすごく安易に利用している」と感じる。

ようやくタイラーが悲しみから立ち直り、前を向いて歩き始めようとしたところで、さらに大きな悲劇を本作品は与える。
それは、とても悪趣味で不愉快な行為にしか思えない。
フィクションとして、物語を盛り上げるための行為としても、かなり悪質なモノに感じる。
この映画にとって、果たして同時多発テロという要素は本当に必要なのか。
「意外な展開」という衝撃の大きさを与えようとする狙いだけで、軽々しく使っているようにしか思えないぞ。そこにデリケートな感覚が見えない。

ごく一部のカルト映画ファンには有名な、『宇宙からのツタンカーメン』というZ級映画がある。唐突すぎるオチが有名な作品だ。
古代遺跡から発掘されたミイラが人々を殺しまくる話が描かれるが、最後の最後で「実はミイラの正体は宇宙人だった」ということが明らかにされ、その宇宙人が教授を拉致して宇宙へ飛び去るというエンディングになっている。
あまりにも唐突過ぎるラストが、観客を唖然とさせる作品だ。
この『リメンバー・ミー』は、深みのある人間ドラマのように進行しておきながら、最後になって『宇宙からのツタンカーメン』と同じような類の映画になってしまうのだ。

これが最初から「チープなB級映画」として作られているのなら、ある意味では楽しめるオチと言えるかもしれない。
しかし、この映画で、ただ唖然とさせるだけのオチは全く歓迎できない。
そのオチによってカルト映画として後世に名を遺す可能性もゼロだし、ただ無意味で邪魔なだけである。
オチが描かれた時に、そこまでの物語がキレイに昇華されるのではなく、「全てを台無しにしている」と感じるのだ。
タイラーやアリーたちに、そこまでの悲劇を与えなきゃならない理由がどこにあるのかと。

そりゃあ同時多発テロだって、あまりにも理不尽すぎる悲劇だった。
しかし、それをフィクションの中で、タイラーたちにまで与える必要は無いだろう。そんなことをやって誰が得をするのかと。
この映画は、もはや悲劇ですらない。
なぜなら、悲しみなんかよりも怒りが強く込み上げて来るからだ。

(観賞日:2014年11月14日)


第31回ゴールデン・ラズベリー賞(2010年)

ノミネート:最低主演男優賞[ロバート・パティンソン]
<*『リメンバー・ミー』『エクリプス/トワイライト・サーガ』の2作でのノミネート>

 

*ポンコツ映画愛護協会